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紫式部の子孫の現在とは?家系図でその末裔をわかりやすく簡単に解説

皆さんは、紫式部の子孫が誰なのかを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 現在の天皇陛下は、紫式部の子孫にあたられる
  2. 平清盛の最初の妻で、平重盛と平基盛を産んだ女性も、紫式部の子孫にあたる
  3. 織田信長は、平清盛・重盛の子孫を自称していたため、それが真実なら織田信長も紫式部の子孫だが、信ぴょう性にとぼしい

この記事では紫式部の子孫を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は紫式部の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、紫式部の子孫に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

紫式部の【現在】の子孫

紫式部の血を引く現在の子孫について解説いたします。

天皇陛下

現在の天皇陛下は、紫式部の血を引く子孫にあたられます。

紫式部の7代子孫である源在子みなもとのありこが、天皇家へ紫式部の血筋が引きつがれるきっかけを作りました。

1221年の承久の乱で、後鳥羽上皇は北条義時に敗北し、隠岐おきへ流罪となりました。

後鳥羽上皇の息子である土御門上皇もこの時に流罪となりましたが、その子がのちに即位して後嵯峨天皇となり、代々天皇家が続いたのです。

土御門上皇を産んだのが、源在子なのです。

→→→→→【紫式部の子孫一覧!天皇家に紫式部の血筋が引きつがれた理由】についてくわしくはこちら

ちなみに、この源在子の父・能円は、平清盛の再婚相手である平時子の異父弟にあたる人です。

以下にご紹介いたします家系図に記されていないのですが、紫式部の孫・藤原為家には、藤原為賢という息子がいました。

この藤原為賢という人物の「ひ孫」にあたるのが、源存子なのです。

平家の末裔たち

壇ノ浦の戦いで滅亡したはずの平家の生き残りたちが、紫式部の子孫である可能性があります。

くわしくはあとで解説いたしますが、平清盛の最初の妻が、紫式部の子孫なのです。

つまり、その清盛の最初の妻が産んだ長男・重盛と次男・基盛の子孫たちが、紫式部の子孫というわけです。

平家の棟梁だった平清盛の長男・平重盛の末っ子にあたる平宗実の子孫を自称する一族が、現在まで続いています。

この平宗実の子孫たちが、すなわち紫式部の子孫かもしれません。

平宗実は、病死したという説が一般的です。

しかし、源頼朝から命を救われ、野辺氏へ養子入りしたという説があるのです。(平宗実の孫が養子入りしたという説もある)

この野辺氏の32代目・盛雅さんが、公立学校校長をされていたのだとか。

盛雅さんのお子さん等、次の世代の方々が、今も続いていると考えられます。

平家に伝わった【盛】の一文字が、現在もつかわれているのでしょう。

もし万が一、平宗実が本当に生き残っていて、子孫が現在まで続いているのならば、それは紫式部の子孫ということになります。


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種子島氏

鉄砲が伝来した種子島の領主であった種子島氏が、紫式部の子孫であるという説があります。

その種子島氏は、現在も続いています。

平清盛の次男・平基盛の息子である平行盛は、壇ノ浦の戦いで亡くなりました。

平行盛には、信基または時信という子供がいたというのです。

その子が種子島へわたり、種子島氏の祖となったのだとか。

それが初代・種子島信基だといわれています。

種子島氏は、27代目の種子島守時さんが、昭和4年に亡くなられています。

28代目は、男爵・種子島時望という方です。

この28代目・時望さんの長女が、村川元子さん(旧姓・種子島元子さん)というお方です。

村川元子さんは、著書【種子島の女殿様・松寿院の一生】という書籍を出版しておられます。

もしかするとこの村川元子さんが、紫式部の末裔なのかもしれません。


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紫式部の家族と【家系図】

まずは、紫式部の家族の家系図をご覧ください。

紫式部むらさきしきぶ

紫式部とは、1000年近く前に執筆された長編小説【源氏物語げんじものがたり】の作者です。

紫式部
引用元Wikipediaより

紫式部は、973年頃に生まれ、1031年に亡くなったとされる女性です。

歌人として、百人一首にも選ばれた和歌を詠んだほか、長編物語『源氏物語』の作者としても知られています。

また、宮中に出仕した際に宮中の様子を記した『紫式部日記むらさきしきぶにっき』も残しています。(この紫式部日記には、ライバルだった清少納言へのグチが書かれている)

紫式部の父は、漢詩人・歌人としても活躍した藤原為時ふじわらためときです。

紫式部は、藤原宣孝に嫁ぎ、一女をもうけました。

夫の宣孝が亡くなった後、藤原道長に召し出され、道長の娘である藤原彰子に仕えるようになりました。

この間、『源氏物語』を完成させました。

紫式部は、才色兼備の女性として知られ、その生涯は多くの作品に描かれています。

一説によると、藤原道長と恋仲であったともいわれています。

藤原道長が夜に紫式部のもとへ訪れたものの、それを断ったのだとか。

ただし、本当に二人がそういう関係であったのかどうかは、不明です。

→→→→→【藤原道長の妻一覧!紫式部は愛人だった?】についてくわしくはこちら


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藤原為時ふじわらのためとき

藤原為時は、紫式部の父。

為時は平安時代中期の貴族で、歌人・漢詩人として知られる人物です。

花山天皇の即位に伴い、式部丞・六位蔵人に任ぜられました。

しかし、花山天皇の退位に伴い官職を辞任しました。

その後、996年に越前守に任ぜられました。

この際に娘の紫式部も越前(現在の福井県東部)へ同行させたとされています。

1009年に正五位下・左少弁に叙任された後、再び越後守を務めました。

息子の惟規も越後国(新潟県)に同行しましたが、その息子はまもなく現地で亡くなったと伝えられています。

1014年に越後守を辞任し、1016年に三井寺にて出家しました。

漢詩作品は『本朝麗藻』に13首。

和歌作品は『後拾遺和歌集』に3首。

さらに『新古今和歌集』に1首が採録されています。

藤原為信女ふじわらのためのぶのむすめ

藤原為信女は、紫式部の母親です。

その名の通り、藤原為信の娘として生まれました。

970年ごろ、藤原為時と結婚し、紫式部、藤原惟規ら一男二女をもうけました。

しかし、紫式部たちが幼いころに、母親の為信女は亡くなってしまいました。

為信女の死因や詳しい生涯については、はっきりとはわかっていません。

ただ、惟規を出産してその年に亡くなったとも言われています。

紫式部は、幼いころに母親を亡くしたことで、父親の為時に育てられました。

そして、優れた才能を持ちながらも、複雑な家庭環境の中で育った紫式部は、多くの悲しみや苦しみを経験しながら、やがて『源氏物語』を完成させたのです。

紫式部の母親である為信女は、紫式部の人生に大きな影響を与えた人物であると言えるでしょう。

史実では死因は不明ですが、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長の次兄・道兼によって命を奪われる設定になっています。

藤原道兼は、冷酷な人物として知られています。

兄・藤原道隆の死によって待望の関白に就任した道兼は、わずか7日で病死したため「七日関白」と呼ばれています。

この藤原道兼の次男と、紫式部の娘が、結婚することとなります。

→→→→→【藤原道兼の最期と死因】についてくわしくはこちら


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藤原為時長女ふじわらのためときのちょうじょ(名前不明)

藤原為時の長女は、紫式部の同母姉であり、971年頃に生まれました。

母親は藤原為信の娘です。

長徳2年(996年)、父の越前守任官に伴い家族で越前国へ赴きましたが、姉は同行しませんでした。

そのため、姉の死は996年以前と考えられます。

死因は天然痘が最も有力な説であるとされています。

姉の死は、母親も若くして亡くなったこともあり、紫式部の人生に大きな影響を与えたとされています。

紫式部は姉の死後、親友の筑紫の君を「姉君」と呼ぶようになりました。

おそらく紫式部は、亡くなった姉が恋しかったのでしょう。

筑紫の君も、紫式部を妹と呼んでいたと言われています。

藤原惟規ふじわらののぶのり

藤原惟規は、平安時代中期の貴族で、藤原為時の子でした。

文章生として活躍し、1011年に従五位下に叙されました。

越後守に任命された父とともに赴任しましたが、その地で亡くなりました。

幼少時、姉の紫式部と共に漢籍を学びましたが、惟規は暗誦が苦手でした。

藤原惟規の哀しい最期と子孫については、以下のリンク記事で詳しく解説しております。


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藤原信経ふじわらののぶつねの妻

藤原為時の娘の夫。

紫式部の義弟。

藤原信経は平安時代の貴族で、陸奥守・藤原為長の子でした。

従五位下・越後守の官位を持っていました。

一条朝では六位蔵人に任じられ、兵部丞や式部丞も務めました。

また、絵図面を作成したが、『枕草子』でその評価が低かったことが知られています。

後に従五位下に叙位され、河内権守として任命されました。

後に越後守として任命され、為時の三女と結婚しました。

数回の越後守への任命や辞任を繰り返しています。

藤原惟通ふじわらののぶみち

紫式部の異母弟。

蔵人所雑色や右兵衛尉を務めた人物は、寛仁3年に四位に昇進しましたが、1年後に亡くなりました。

彼の家族は京都に戻らず、常陸国に滞在しました。

彼の妻は、惟通の没後、常陸で不遇な出来事に遭いましたが、その事件は不透明な決着となりました。

定暹じょうせん

定暹は平安時代の僧侶で、紫式部の弟でもありました。

藤原為時の三男で、紫式部とは異母兄弟でした。

彼は三井寺の阿闍梨で、紫式部の一族と寺との関係は深かったようです。

長保4年には東三条院の法華八講に参加し、寛弘8年には一条帝の大葬に選ばれた百僧の一人でした。


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紫式部の子孫たち

まずは紫式部と子孫たちを結ぶ家系図をご覧くださいませ。

紫式部の子孫の家系図
【家系図の引用等ご遠慮くださいませ】

大弐三位だいにのさんみ

紫式部と藤原宣孝の娘。本名は、藤原賢子ふじわらのけんし

彼女は女流歌人として有名です。

女房三十六歌仙の一人としても知られていますし、百人一首にも選ばれた歌人です。

本名は藤原賢子ふじわらのけんしで、藤三位とうのさんみ越後弁えちごのべん弁乳母べんのめのととも呼ばれています。

長和6年(1017年)頃に母・紫式部のあとを継いで一条院の藤原彰子(上東門院)に女房としてつかえました。

大弐三位は、七日関白と呼ばれた藤原道兼の次男・兼隆と結婚し、源良宗の妻(名前不明)という女児をもうけました。(夫は兼隆ではなく、藤原公信という人だったという説もある)

藤原道兼は、藤原道長の次兄にあたる人物です。

この兼隆と大弐三位のあいだに産まれた娘は、源知房という人物を産んでいます。

大弐三位は、1025年に親仁親王(後冷泉天皇)の乳母に任じられました。

その後、高階成章と再婚し、高階為家と娘を産んでいます。

天喜2年(1054年)に後冷泉天皇の即位とともに従三位に叙せられ、夫の成章も大宰大弐に就任しました。


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藤原宣孝ふじわらのぶたか

紫式部の夫。

紫式部とは、血のつながった遠縁でもありました。

二人は年の差がある夫婦で、20歳ほどの差があったといわれています。

結婚当時、紫式部が30歳手前で、藤原宣孝が50歳くらいだったとのことです。

彼は平安時代中期の貴族であり、藤原北家高藤流の出身で、権中納言・藤原為輔の子でした。

官位は正五位下の右衛門権佐を務めていました。

彼の経歴については、円融朝末に六位蔵人兼左衛門尉として活動し、永観2年(984年)に円融天皇が花山天皇に譲位すると、院判官代に就任しましたが、その後花山天皇の蔵人になりました。

一条朝の正暦元年(990年)に筑前守に任じられ、筑紫に赴任。

その後、正暦3年(992年)ごろには大宰少弐も兼ねるようになりました。

また、右衛門権佐として京官に復帰し、長徳4年(998年)に山城守を兼ねるようになりました。

この頃に紫式部と結婚したとされています。

任官時期は明確ではありませんが、弁官の役職も担当していたようです。

ただし、蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)の役職とは同時に兼帯しておらず、三つの職を同時に務めたわけではないとされています。

長保3年(1001年)4月25日に疫病で亡くなりました。

彼の死去を受け、紫式部は『紫式部集』に

「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」

親しかった人が亡くなって煙となってしまった夕方以降、「むつまじい」という言葉と音が似た陸奥むつ国[現在の東北地方・太平洋側の四県]にある塩釜の浦の、塩焼きの煙も慕わしく思える

という和歌を詠んでいます。

実は紫式部の他にも、数多くの妻がおり、その子孫が現在も続いています。

子孫の中には、父から「叔父子おじこ」と呼ばれて怨霊になった悲劇の上皇や、源頼朝から「日本一の大天狗」と呼ばれた人など、有名人が多数います。

藤原宣孝の死因と最期そして子孫のゆくえについては、以下のリンクで解説しています

藤原兼隆ふじわらかねたか

藤原道兼の次男。藤原道長の甥。

紫式部の娘である大弐三位の夫でもあります。(兼隆には他に正室がいた)

藤原兼隆は、長兄が早世したため、家督を継ぐことになりました。

彼は正暦6年(995年)正月に直接従五位上に叙せられ、その年の4月に父・道兼が関白に就任。

しかし父・道兼は、その後わずか二週間で急逝きゅうせい。(そのため七日関白と呼ばれた)

権力は叔父・藤原道長に移り、道兼のいとこである藤原伊周・隆家たちはこれに反発。

兼隆はそのような動きを見せず、道長の側近として活動することを選びました。

あるとき兼隆は、厩舎の役人を殴殺させる事件をおこしたといいます。

またあるときは、井戸の使用に関するいさかい問題に巻き込まれました。

しかし所有権が相手型にあることが判明し、兼隆は謝罪し補償する書状を相手方に送ったといいます。

藤原兼隆は、1019年から1024年にかけて累進し、最終的に正二位にまでのぼっています。

1046年に出家。

1053年に亡くなりました。享年69歳。

ただ、一説によると大弐三位の夫は藤原兼隆ではなく、藤原公信ふじわらきみのぶという人物だったともいわれています。

→→→→→【藤原道兼の最期と死因】についてくわしくはこちら


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高階成章たかしなのなりあき

紫式部の娘・大弐三位だざいのさんみの再婚相手です。

1016年に後一条天皇が即位すると、高階成章は六位蔵人に補されて式部少丞を兼ねました。

1019年に紀伊守に任じられました。

1026年には従五位上に昇進。

この頃に、平安京の入り口にあった東寺の近くで、敦明親王(小一条院)の従者から虐待を受けたといわれています。

京都・東寺の五重塔

高階成章は当時からあった親王との因縁により暴行を受け、衣服を破られるほどの非情な仕打ちを受けたのだとか。

妻の藤原賢子(紫式部の娘・のちの大弐三位)がかつて後冷泉天皇の乳母を務めた縁で、後冷泉天皇の時代だった1051年には正四位下しょうしいのげに昇進した。

1058年の正月に正三位に昇進したが、同年に69歳で亡くなった。

高階為家たかしなためいえ

紫式部の孫であり、大宰大弐だざいのだいにの息子。

父は正三位・高階成章。

院政で絶大な権力を手にし、藤原家の隆盛を終わらせた白河上皇の近臣として活躍しました。

しかし同時に、関白・藤原師実の臣下としても活動しています。。

後冷泉天皇の時代に、従五位下・周防守に叙任。

1093年、春日大社の神人を暴行して奈良・興福寺の衆徒から告発を受けるという事件が起きます。

そのため為家は、土佐国に流罪となっています。

のちにゆるされて、1099年に丹後守に就任。

1103年、息子の高階為章ためあきが死去。

1106年に出家。最終的な官位は備中守・正四位下。

同年に69歳で亡くなりました。


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高階為章たかしなためあき

紫式部のひ孫であり、大宰大弐の孫。高階為家の息子。

ときの最高権力者・白河法皇(通称・白河院)から寵愛された人物です。

1086年、白河天皇が堀河天皇に位をゆずり、院政を開始。

白河法皇
引用元ウィキペディアより
クリックすると拡大できます

すると為章は白河上皇に仕えながら、白河法皇の院政の初め頃に、凄まじい速度で昇進を繰り返しました。

為章は白河院の寵愛を受け、自分の邸宅である二条万里小路では、白河院の行事がたびたび行われました。

特に1093年に春日神人を暴行したとして、奈良・興福寺の衆徒から告発された際、父である為家は土佐に流罪となりました。

ところが息子の為章はというと、白河院からの寵愛が厚かったため、遠い地への流罪とならず、人々を驚かせたといいます。

為章は、任地の荘園に対して、厳しい姿勢を貫く人物だったといいます。

1103年、父・為家より先に45歳で亡くなりました。

高階基章たかしなもとあき

紫式部の玄孫(孫の孫)。

平清盛の最初の正室は、この高階基章の娘です。

清盛の長男・重盛や次男・基盛の母方の祖父にあたります。

叔父・高階為章の養子となって高階の姓を名乗るようになりましたが、実父は源家実という人物です。

娘が平清盛の正室となり、1138年には長男の重盛、翌年には次男の基盛を出産しています。

清盛が大出世をする以前、基章の地位はかなり低いものでした。


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高階為泰たかしなためやす

高階基章の子。

平清盛の最初の正室の兄にあたる人物なので、平清盛の義兄にあたります。

平清盛たいらのきよもり

平家の棟梁。太政大臣。

清盛は紫式部の子孫ではありませんが、紫式部の子孫にあたる女性を最初の妻としています。(彼女の名前は不明です)

平清盛
引用元ウィキペディアより

妻を亡くしたあと、後妻として平時子(のちの二位尼にいのあま)を正室としています。

武士として初めて、太政大臣に就任。

宿敵・源義朝を平治の乱で倒すと、その子である頼朝と義経兄弟の命を救ったといいます。

頼朝が挙兵すると、平家の衰退を支えられないまま熱病で倒れてしまいます。

「供養はいらん。頼朝の首を我が墓に捧げよ」

と叫んで亡くなったといいます。

平清盛の妻(平重盛の母)

平清盛の最初の正室であり、内大臣・平重盛と、その弟である基盛の母親。紫式部の女系子孫にあたります。

名前は定かではありませんが、重盛と基盛の二人を産んだ後、若くして病死したと考えられます。


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平時子たいらのときこ

平清盛の後妻。通称・二位尼にいのあま。紫式部の子孫ではありません。

清盛とのあいだに

  • 宗盛
  • 知盛
  • 徳子(建礼門院・安徳天皇の母)
  • 重衡

を産んでいます。

1185年、壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、孫である安徳天皇を抱いて

なみの下にも都がございます」

と言って安徳天皇をなぐさめた逸話は、あまりにも有名。

安徳天皇と三種の神器の一つである「天叢雲剣あまのむらくものつるぎ」を抱いて入水し、ともに亡くなりました。

天叢雲剣はその後、必死の捜索もむなしく、発見されませんでした。

ちなみに彼女が産んだ清盛の五男・平重衡たいらのしげひらの妻・藤原輔子すけこは、紫式部の弟である藤原惟規の子孫です。

重衡と輔子の別れのシーンは、平家物語における有名なシーンのひとつです。

藤原惟規の最期と子孫ゆくえについて詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

平重盛たいらのしげもり

平清盛の長男。紫式部の女系子孫にあたる人物。

平重盛
引用元Wikipediaより

通称・小松殿、または灯籠とうろうが好きであったためか灯籠大臣と呼ばれたといいます。

保元の乱では猛将・源為朝に挑みかかったという逸話もある勇猛な武将。

平治の乱では

  • 年号は平治へいじ
  • 都は平安へいあん(京)
  • 我らは平氏へいし

平が三つ重なり縁起良し

敵をたいらげるべし

と言って味方をはげましたといいます。

戦後は、まだ幼かった源頼朝と源義経の命乞いをしており、そのため孫にあたる六代ろくだいは、のちに頼朝から命を救われています。

大変まじめな性格で、鹿ヶ谷の陰謀が発覚したあと、後白河法皇に反旗をひるがえそうとする父・清盛に対して

「忠ならんと欲すれば、孝ならず。

孝ならんと欲すれば忠ならず。

進退これ極まれり」

(主君である後白河法皇に忠実であろうとすれば、父・清盛に孝行ができず。進むことも退くこともできなくなりました。)

と言って、いさめたといいます。

優れた武将で優れた政治家であったものの、母親の身分が低かったために、平家の棟梁を父からゆずられたとはいえ、孤立を深めていきます。

1179年、父・清盛より先に病死。

父・清盛は、調整役であった重盛を失ったのち、暴走していくこととなります。


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平基盛たいらのもともり

平清盛の次男。重盛の同母弟。紫式部の子孫。

保元の乱・平治の乱に参加したといわれています。

24歳の若さで病死。

源平盛衰記では、宇治川を馬に乗って渡ろうとしたところ、保元の乱で戦死した悪左府・藤原頼長の怨霊によって溺死させられたといわれています。

この基盛の娘が、藤原季能ふじわらすえよしという人に嫁いで、藤原範実という息子を産んでいるのですが、その後は不明です。

ちなみに藤原頼長は、当然ながら藤原道長の子孫であり、同時に道長のライバル・藤原伊周の女系子孫でもあります。

藤原伊周の子孫と最期の様子について以下のリンク記事で解説しています

平維盛たいらのこれもり

平清盛の孫であり、重盛の長男。紫式部の女系子孫。

大変な美男子であり、その美しさは先祖である紫式部の傑作【源氏物語】の主人公になぞらえて【光源氏の再来】とまでいわれています。

平維盛
引用元Wikipediaより

ところが、父・重盛が亡くなり、叔父である平宗盛が棟梁となると、肩身の狭い立場に追いやられています。

富士川の戦いで、源頼朝を相手に出陣すると、水鳥の羽音に驚いて、一戦もせずに撤退したという逸話は有名です。

しかし実際には、凶作で食糧不足のため、やむを得ず撤退したのだとか。

さらには倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで、猛将・木曾義仲に惨敗。

その後、一ノ谷の戦いの前後、謎の死を遂げています。

失意のうちに入水して自ら命を絶ったともいわれているようです。


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平資盛たいらのすけもり

平清盛の孫。重盛の次男。平維盛の弟。紫式部の女系子孫。

幼い頃に摂政・藤原基房の牛車の前で馬から降りずに、乱闘騒ぎを起こしてしまった人物です。

その後、激怒した祖父・清盛が、藤原基房たちに仕返しして、平家は一気に大衆の恨みを買うのです。

壇ノ浦の戦いで、弟・有盛や、いとこの平行盛とともに入水して亡くなりました。

しかし、生存説が根強く残っているのが、この平資盛なのです。

壇ノ浦の戦いで亡くなったとき、資盛の子を身ごもった女性がいたという伝説があるのだとか。

その子は、のちに平親真と名乗り、尾張国で子孫が続いたといいます。

その子孫の一人が、戦国時代の英傑・織田信長。

織田信長
引用元ウィキペディアより
クリックすると拡大できます

信長は、平資盛の子孫を自称して、平氏を名乗っていたのです。

織田信長は平家の末裔であることを自慢に思っていたのか、平家一門のひとりである平敦盛たいらのあつもりを歌った演目【敦盛】というの舞を好んだといいます。

→→→→→【うた敦盛あつもりうたと意味】についてくわしくはこちら

であれば、織田信長も紫式部の子孫ということになります。

しかし信長が平資盛の子孫という話は信ぴょう性にとぼしいので、可能性は低いといわれています。

また、平資盛には、盛綱という息子がいたといわれています。

この盛綱は、鎌倉幕府の三代執権・北条泰時につかえ、承久の乱で最初に出撃した18騎のひとりです。

平盛綱の孫は、八代執権・北条時宗につかえた平頼綱たいらのよりつな

また、鎌倉幕府末期に、北条家すら逆らえない絶大な権力を保持した長崎円喜ながさきえんきも、平盛綱の子孫です。

こう考えると、平頼綱も長崎円喜も、平資盛の子孫ということになりますが、この話も信ぴょう性に乏しいといわれています。


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平清経たいらのきよつね

平清盛の孫。平重盛の三男。紫式部の女系子孫。

清経は、横笛の名手だったといわれています。

木曾義仲に追われ、平家は都落ちして九州・太宰府へ逃亡。

ところが太宰府から追い出されると、清経は絶望して入水し、亡くなったといいます。

大分県宇佐市には、清経の供養等が残されています。

世阿弥が、能の代表的な作品である「清経」という演目を生み出しています。

生存説があり、子孫は「緒方おがた」と名乗ったといいます。

平有盛たいらのありもり

平清盛の孫。平重盛の四男。紫式部の女系子孫。

壇ノ浦の戦いで敗れ、入水して亡くなったといわれています。

生存説があり、兄・資盛や、いとこの行盛とともに、奄美の喜界島で生活したのだとか。


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平師盛たいらのもろもり

平清盛の孫。平重盛の五男。紫式部の女系子孫。

一ノ谷の戦いで、武士の鑑と呼ばれた畠山重忠の軍団に討ち取られたといわれています。

浄土宗の開祖である法然上人の弟子の源智は、この師盛の子であるとつたえられています。

平宗実たいらのむねざね

上の家系図には記しませんでしたが平宗実は、重盛の末っ子だといわれています。

詳細は、上にて記しましたが、子孫は鹿児島で続いているという説があります。

六代ろくだい

平維盛の息子。紫式部の女系子孫。

平清盛のひ孫にあたり、清盛の祖父である平正盛から数えると、六代目のあたるため、六代と名付けられたといいます。

平高清という名前だったともいわれていますが、平六代たいらのろくだいという名前で記録があります。

平家都落ちの際に同行せず、母親とともに京都で潜伏。

のちに北条時政に捕まりますが、六代の祖父・平重盛が、頼朝の命乞いをしてくれた恩に報いるため、頼朝は六代を許したといわれています。

その後、処刑されたという説はあるものの、信ぴょう性に乏しく、最期の様子は不明。

お墓は神奈川県逗子市にあり、六代の死によって、清盛の血筋は完全に断絶することとなります。


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平行盛たいらのゆきもり

平清盛の孫。清盛の次男・基盛の息子。紫式部の女系子孫。

壇ノ浦の戦いで、いとこの資盛・有盛とともに入水して亡くなっています。

行盛には、信基または時信という息子がいたといいます。

この信基または時信の子孫が、種子島にわたって、種子島氏の祖となったのだとか。

それが、種子島氏の初代・種子島信基。

27代目の種子島守時さんは、昭和4年に亡くなられました。

28代目は種子島時望さんで、その娘である村川元子さん(旧姓・種子島元子さん)は、【種子島の女殿様 松寿院の一生】という著書を記しておられます。

もしかするとこの村川元子さんは、紫式部の子孫かもしれません。

また、14代目の種子島時尭ときたかは、鉄砲が伝来した際に、鉄砲の国産化に成功した人物です。

この種子島時尭の娘が、戦国大名・島津義久に嫁いで、亀寿という娘を産んでいます。

亀寿は後に、猛将・島津義弘の息子である島津家久に嫁いでいます。

鹿児島市立美術館にある西郷隆盛像の裏には

じめさあ

と呼ばれる石像があり、これが亀寿の像であるとの説があります。(亀寿の像ではなく、白地蔵という説が有力らしい)

もしかするとこの亀寿もまた、紫式部の子孫かもしれませんが、詳細は不明。

平行盛の生存説に信ぴょう性が乏しい為、種子島氏が紫式部の子孫という説も、可能性が低いかもしれません。

源智げんち

平清盛のひ孫。平重盛の孫。平師盛の息子。紫式部の女系子孫。

源智は浄土宗の開祖・法然ほうねん上人とともに修行し、子を作らないまま亡くなったといわれています。

平家の血を引く人物であるため、とにかく目立たないことに専念した一生だったようです。


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紫式部とは、何した人なの?

紫式部は、名作【源氏物語】という物語作品、つまりは長編小説を記した作者です。

源氏物語は、1000年以上ものあいだ読まれ続けている名作で、【光源氏ひかるげんじ】という人物を主人公にした恋愛を主題とした長編小説です。

諸説あるものの、源氏物語は【世界最古の長編小説】と呼ばれています。

天皇の子である光源氏が、母親を幼くして亡くし、その母親に瓜二つな女性・藤壺が、天皇のもとへ入内してくるのです。

光源氏は、母によく似た藤壺に恋をして過ちを犯し、その後も藤壺に似た女性(つまり母親に似た女性)と恋を繰り返す、というストーリー。

光源氏は、その輝くような美しさから【光る君】と呼ばれるようになるのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 現在の天皇陛下は、紫式部の子孫にあたられる
  2. 紫式部の子孫は、平清盛の妻となって、平重盛と平基盛を産んでいる
  3. 織田信長は、平清盛・重盛の子孫を自称していたため、それが真実なら織田信長も紫式部の子孫だが、信憑性に乏しい

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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