この記事では「織田信長が、あれほどまでに強かった理由」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長がなぜ強かったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「実はそれほど強くはなかった」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」が強かった理由は何?
信長は、圧倒的な資金力で、大軍団を組織し、「鉄砲」などの最新兵器を数多く導入することができた
2,「信長」は、戦争に弱かったというのは、本当か?
信長は弱かった。「上杉謙信」や「武田信玄」に比べると、戦績が極端に悪い。さらに「謙信」からも「弱い」と酷評されていた
3,「織田信長」が、あれほどまでに勢力拡大できた理由とは?
「信長」は、「商業振興策」を次々と実行して、莫大な資金を手に入れ、その資金力で、各地を侵略していった
織田信長が、あれほど強かった理由は何?
織田信長が「天下統一」目前まで出来たその「強さ」の秘密は、「経済力」にあります。
信長は「商業」を発展させて、自らも「海運業」などの商売をおこない、そこから得られる「お金」をうまく利用したのです。
「莫大なお金」を使い、敵よりも多くの兵士を雇いいれて、最新兵器「鉄砲」を誰よりも多く買い集め、戦国最大の軍団をつくりあげたのです。
「武田信玄」や「上杉謙信」など、後世に名を残した名将たちよりも、「織田信長」は領地を大きくすることに成功しています。
その理由は、信長が「鉄砲」や「鉄甲船」などの最新兵器を使った「最先端の軍団」かつ「巨大な軍団」を持っていたためです。
信長は、「戦争はそれほど強くなかった」ものの、それら「最新兵器」と「圧倒的な数の兵士」を駆使して、次々と敵の領地を奪い取っていったわけです。
「上杉謙信」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長は戦争に、めちゃくちゃ弱かった!
実は織田信長、「戦争が弱い」ことで有名な武将でした。
「桶狭間の戦い」で、「今川義元」がひきいた「4万」の大軍団を、わずか「3千」で撃破したため、「信長は戦争に強い」と思われがちです。
しかし信長、実はそれほど強くないのです。
「武田信玄」や「上杉謙信」は、その生涯戦績をみてみると、ほぼ無敗です。
両者とも、それぞれ2~3回しか敗けていません。(上杉謙信にいたっては、敗北と言っていいのかどうかわからないものすら敗北にカウントしている)
それに対して、織田信長は生涯「20回」も敗北しているのです。
【1570年】、「金ヶ崎の退き口」では大敗して、一目散に撤退。
【1582年】、最期は「本能寺の変」で「明智光秀」にあっけなく敗北し、亡くなっています。
戦場ではなく、病死した「武田信玄」や「上杉謙信」に比べると、信長という武将は「常勝不敗」の名将軍ではないことがわかります。
実は「上杉謙信」も、信長とは直接対決をしていないものの、「手取川の戦い」で撃破した織田軍に対して、「弱い」と酷評していたのです。
「織田信長」や「武田信玄」「上杉謙信」の《戦績》について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」が、「信玄」や「謙信」よりも勢力拡大できた理由は「お金の力」によるものだった
そんな弱い織田信長が、「武田信玄」や「上杉謙信」よりも、遥かに強大な地域を支配し、勢力を拡大できた理由は、何か?
それは信長が、「資金力を重視したから」です。
「織田信長」は、「金儲け」がとても上手な人でした。
信長の父「織田信秀」も、「金儲け」がとても上手な人だったのですが、信長は父から「金儲け」の才能を引き継いだのだと考えられます。
信長は「楽市楽座」や「関所撤廃」などの「商業振興策」を次々と実行することで、商業をとにかく発展させたのでした。
そうすることで莫大な資金を手に入れ、その金で大軍団を雇い、鉄砲などの最新兵器を次々と購入したのです。
それだけではありません。
金があれば、いくらでも復活することが可能なのです。
敗北しても敗北しても、次から次へと新しい軍団を、いくらでも「金」で用意できたのですから。
つまり、織田軍は「いくら敗けても即座に復活できた」、いわば「不死身の軍団」というわけです。
信長は、「いくら敗けても、お金の力で即座に大きな軍団を復活させることができる、しぶとい武将だった」ということです
それに対して、ライバル「武田信玄」は、それほどお金持ちではありませんでした。
つまり武田信玄は信長とは違い、「一度の敗北が命取りとなる軍団」だったのです。
織田信長は、「敗けても即復活できる」ため、とにかくスピード重視で、次から次へと敵に戦いを挑んでいきました。
「失敗」しても、すぐに復活できるため、またやり直せばいいだけだからです。
しかし「武田信玄」は、「失敗」や「敗北」をすれば、即座に滅亡してしまいかねないほどに、土台・地盤が弱く脆かったのです。
信玄は、一度の敗北もできないため、戦いもとにかく慎重に開始し、慎重に勝利を重ねていったのでした。
信長が勢力拡大できた理由は、「失敗しても即座に復活できたから」です。
それに対して「武田信玄」は、ミスが許されないため、勢力拡大が遅い・・・。
信玄や謙信が、信長ほど勢力拡大できなかった秘密、それは「経済力・資金力」にあったといえるのです。
ちなみに「上杉謙信」も勢力拡大が遅かったのですが、理由は「貧乏」だったからではなく、「領土侵略」を全然しなかったからです。
「武田信玄」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
織田信長は、かなりの「臆病者」だった
魔王とも呼ばれた武将「織田信長」ですが、実は意外にも「臆病」な性格でした。
【1572年】、宿敵「武田信玄」が「西上作戦」と呼ばれる戦いを開始して、信長を倒そうと出撃してくると、信長はとにかく怯えて、同盟者「徳川家康」に任せっきりだったのです。
【1575年】、武田信玄の息子「武田勝頼」との「長篠の戦い」でも、信長は敵軍の「2倍以上の兵士」を用意して、大軍団で戦っています。
挙句の果てに、信長は「勝頼」よりも軍の数が多いにも関わらず、「砦」をつくって武田軍を迎撃するという用心深さです。
【1582年】、「甲州征伐」でも、息子「織田信忠」に任せきりで、自分は「武田勝頼」が滅びたあとで最前線に到着している始末です。
【1577年】、「手取川の戦い」が勃発したとき、「織田信長」は、相手が軍神「上杉謙信」だとわかると、まったく出撃しませんでした。あろうことか、家来の「柴田勝家」に任せっきりにします。
「信長」の家来「羽柴秀吉」も、「謙信」の恐ろしさを知っていたらしく、最前線から理由をつけて逃げ帰っています。
「信長」は、とにかく徹底的に「上杉謙信」を恐れていたのです。
「武田信玄・勝頼」と「上杉謙信」が亡くなると、信長は怖いものなしの状態となりました。
そこで、一気に油断したのでしょうね。
【1582年】、信長は「京都・本能寺」へ、「わずか100名」という、ありえないほどの少人数で宿泊する「暴挙」に出ました。
そこを「明智光秀」に襲撃されて、あっけなく死んでしますのです。
歴史家「磯田道史」さんは、この「信長」の油断を酷評しています。
「あんな少人数で、本能寺に宿泊するなんて、不用心すぎる!
織田信長は、たいしたことない!」
と、あろうことか魔王「織田信長」にたいして、磯田先生は「たいしたことない」とまでおっしゃられたのです。
臆病だった信長ですが、「武田信玄」と「上杉謙信」という、これまで絶対に逆らえなかった強敵がいなくなってくれたことで、一気に態度がでかくなったのでしょう。
あろうことか、「武田勝頼」の首に対して、「足蹴にする」というメチャクチャなことをやらかしているのです。(徳川家康はこれにドン引きしたらしく、勝頼の首に慰めの言葉をかけた)
当時は、敵将の首といえども、礼を尽くすのが、当時の「しきたり」だったのに、信長はその「しきたり」を無視したのです。
歴史家「小和田哲男」さんは、この「信長の暴挙」が、「明智光秀」を怒らせ、「本能寺の変」のきっかけになった、とおっしゃっておられます。
きっと信長は、「だれも自分には逆らえない」と思っていたのでしょうね。
思い上がって油断していたところを、もっとも信頼した「明智光秀」に襲われて、あっけなく討たれてしまうのです。
余談かもしれませんが、織田信長の居城「安土城」は、「上杉謙信を迎撃するためにつくったお城」だと言われています。
「安土城」は「上杉謙信」が攻め込んできたときに、その侵攻ルート上につくられているのです。
豪華絢爛で巨大な城をつくらなくてはいけないほど、信長は謙信を恐れていたのです。
「織田信長が魔王と呼ばれた理由」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」が強かった理由は、圧倒的な資金力で、大軍団を組織し、「鉄砲」などの最新兵器を数多く導入することができたから
2,織田信長は弱かった。「上杉謙信」や「武田信玄」に比べると、戦績が極端に悪い。「謙信」からも「弱い」と酷評されていた
3,「織田信長」が、あれほどまでに勢力拡大できた理由は、「商業振興策」を次々と実行して、莫大な資金を手に入れ、その資金力で、各地を侵略していったから
以上となります。
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ありがとうございました。
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