【足利義昭の子孫】を家系図で解説!義昭の末裔は今現在どこにいる?

「足利義昭」の「子孫」が、今も続いているのかどうか、ご存知ですか?

実は筆者も、くわしく調査してみるまで、「足利義昭の子孫」が今も続いているか、まったく知りませんでした。

この記事は「室町幕府・最後の将軍【足利義昭】の子孫」について知りたい方に、とても役立つはずです。

これを読めば「足利義昭の子孫のゆくえ」を簡単に理解できます。それだけではなく、他人に解説できるほど、くわしくなることができます。

「足利義昭」の「子孫」は、今現在も続いている可能性が高いのです。


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この記事を短く言うと

1,「足利義昭の子供たち」は、その後どうなったのか?

諸説あるものの、足利義昭には「足利義尋」「一色義喬」「永山義在」「矢島秀行」という4人の子がいたと考えられている

「足利義尋」の直系は断絶したが、残り三人の子孫が、今も続いている可能性がある

 

2,「足利義昭の子孫」は、今も続いているのか?

「義昭の子孫」は、今も続いている可能性が高い。

しかし、ハッキリとした証拠があるわけではないが、映画会社「松竹」の元社長「永山武臣」さんが、義昭の子孫かもしれない。

証拠がないので、「義昭の子孫」と断言はできない。

 

3,「足利義昭の子孫」以外に、「足利家」の子孫はいるのか?

初代将軍「足利尊氏」の子孫は、「関東足利家」と「平島公方家」という2つの系統を通じて、今も続いている

 

足利義昭の「4人」の子供達と、その「子孫」をくわしく解説

「足利義昭」の子供たち一覧

室町幕府15代将軍「足利義昭」は、「室町幕府」を開いた初代・征夷大将軍足利尊氏」の末裔です。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

「足利義昭」には、4名の子供がいたと考えられます。

  1. 足利義尋(あしかが ぎじん)
  2. 一色義喬(いっしき よしたか)
  3. 永山義在(ながやま よしあり)
  4. 矢島秀行(やじま ひでゆき)

諸説あるものの、これら「4人」は「足利義昭」の子供である可能性が高いです。

以下に「足利義昭」と、その子供たちの家系図をご用意いたしました。

「《足利義昭の家系図》
画像をクリックすると拡大できます
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

足利義昭の「4人の子供たち」は、一体どのような生涯をおくったのでしょうか。

1573年】、義昭は「織田信長」によって京都から追放され、没落しています。

そのため「義昭の子供たち」も、壮絶な人生をおくっています。


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【足利義尋(あしかが ぎじん)】と子孫

「足利義尋」は足利義昭の「嫡子(ちゃくし)」、つまり後継者として育てられた人物です。

「義尋」には「義尊」「常尊」という二人の息子がいましたが、そこで子孫は断絶しています。

本来なら「足利義尋」こそが、父「義昭」の後継者として、「室町幕府16代・征夷大将軍」となるはずのです。

1573年】、父「足利義昭」は「武田信玄」と協力して、「織田信長」に戦いを挑みます(槇島城の戦い)

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」

この戦いに敗北した「足利義昭」は、息子「義尋」を人質として「織田信長」に差し出して、京都から追放されるのです。

このとき「義尋」は、わずか1歳でした。

織田信長は「足利義昭」に対して、「京都へ戻ってほしい」と要請したものの、「足利義昭」はこれを拒絶。室町幕府は滅亡します。

「16代 征夷大将軍」としての道を閉ざされた「義尋」は、わずか1歳で奈良の「興福寺」というお寺で出家。

そこで大僧正という高い地位にまで登りつめるのです。


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ところが「義尋」は、還俗(げんぞく)します。つまり「僧侶」をやめてしまったのです。

そしてお公家さんから妻をもらい、「二人の子供」をもうけるのです。

その二人の子供とは

  • 「義尊(ぎそん)」
  • 「常尊(じょうそん)」

という名前です。

義昭の子供たちは、2人とも出家して「僧侶」となっています。

そのため「義尊」と「常尊」には子供がいません。

「足利義昭」の直系子孫は、こうして断絶したのです。

「義尋」は、33歳という若さで病死しています。

「足利義尋」は、以下にご紹介する「3人の子供たち」とは違い、唯一「足利義昭の実子」であることが明らかな人物です。

ちなみに異説ですが、「義尋」は僧侶であるにもかかわらず、「義尊」と「常尊」という子供をもうけた罪から、「興福寺」を追い出されたという説があります。


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【一色義喬(いっしき よしたか)】と子孫

「一色義喬」は、足利義昭の家臣「一色藤長」に育てられた人物です。

この「一色義喬」の子孫と考えられているのが、幕末・会津藩の「坂本義劉」です。

「義喬」についてくわしい資料が残されていないため

「一色義喬は、義昭ではなく【義尋の子供】なのではないか」

「義喬のほうが【義尋】よりも大切にされているため、義喬のほうが次期将軍と考えられていたのではないか」

などなど、数々の推測がなされています。

1614年】、「徳川家康」と「豊臣秀頼」の間で「大坂の陣」が勃発。

このとき「一色義喬」は、約500名の軍を率いて「徳川軍」として参戦しようとしました。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

しかし戦に間に合わず、大坂城は落城してしまいます。

間に合わなかった「一色義喬」ですが、出陣した心意気を「徳川家康」から評価されることとなります。

「義喬」は、京都に3万石の領地を与えられそうになりますが、「戦功がないのに褒美をもらうのは恥」と言って辞退したといわれています。


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この「一色義喬」には、「義房」という名前の息子がいました。

その「義房」が、「徳川家康の法会(ほうえ)」に参加したという記録が残っています。

「義房」の子「義邵(よしあき)」は「坂本」へと姓をかえて「坂本義邵」と名乗っています。

その後、「義邵」は会津藩につかえています。(「坂本」と姓を変えた理由は、「一色義喬」が「近江国坂本」出身だったから。「坂本」は「明智光秀」の居城があった場所)

「義邵」の孫「坂本義辰」は、江戸幕府の老中「松平定信」に対して

「自分は足利義昭の子孫である」

と主張する「由緒書」を出しています。

その後「坂本義邵」の子孫「坂本義続」が、「戊辰戦争」で負った傷により死亡。

「義続」の子「義劉」は戊辰戦争後に、会津藩から「栃木県足利」へと移動したといわれています。

「栃木県足利」は、先祖である初代将軍「足利尊氏」が生まれ育った、いわば「足利氏発祥の地」です。

「一色義喬」の子孫と考えられている「坂本義劉」。

その「坂本義劉」の子孫が、今も続いている可能性がありますが、詳しいことは不明です。

ただし、この「一色義喬」が本当に「足利義昭」の子であるかどうかは、定かではありません。

「一色義喬」に続く「坂本家」が、足利義昭の子孫であると、ハッキリとは証明されていないのです。


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【永山義在(ながやま よしあり)】と子孫

「永山義在」は、「足利義昭」が「織田信長」に京都から追放された後に生まれた子といわれています。

「永山義在」の子孫は、幕末・薩摩藩士の「永山弥一郎」と「永山武四郎」。

「永山武四郎」の孫が、「松竹」の元社長「永山武臣」さんです。

「義在」は成長したあと、父「義昭」から離れて生活したようです。

その後、薩摩藩士「永山」という人物の娘婿となり、「永山義在」と名乗ったのだとか。

「永山義在」は薩摩藩士として、息子「永山義房」、孫「永山義比」へと、その血筋をつなげていきます。

ここから話は一気に「幕末」へと飛びます。

幕末の薩摩藩、「永山義在」の子孫と考えられている人物が「2名」おりました。

永山弥一郎」と「永山武四郎です。

この二人は同姓ではあるものの、親子でも兄弟でもなく、おそらくは遠縁であると考えられます。

《永山弥一郎》
「引用元ウィキペディアより」

薩摩藩士「永山弥一郎」と男爵「永山武四郎」は、「北海道・屯田兵創設」の建白書を一緒に「岩倉具視」へ提出しています。

ですので、当然ながら「弥一郎」と「武四郎」の二人は赤の他人ではなく、面識があります。

《岩倉具視》
「引用元ウィキペディアより」


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「永山武四郎」は、薩摩藩「永山盛香」氏の娘「常子」さんと、「市来政志」の間に生まれた人物です。

この「永山武四郎」のお孫さんが、先ほど申しました映画会社「松竹」の元社長「永山武臣」さんです。

一方の「永山弥一郎」は、倒幕のために「坂本龍馬」とも面会するほど各地で活躍しています。

1877年】、「永山弥一郎」は「西南戦争」で「西郷隆盛」とともに戦死しているのです。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

さきほど「松竹の社長『永山武臣』氏は、足利義昭の子孫かもしれない」と申しました。

この「かもしれない」というあいまいな言い方をした理由は

【永山弥一郎】と【永山武四郎】、そして【永山義在】が、子孫と先祖の関係にあることを証明する証拠が、なにもない

からです。

「永山義在」から「永山弥一郎・武四郎」へとつながる家系図のような証拠は、見つかっていません。

もしかすると「幕末・永山氏」と「足利義昭」の間には、なんの接点もない可能性もあるのです。

余談ですが、俳優「西田敏行」さん主演の大河ドラマ「翔ぶが如く」において、名バイプレイヤー「遠藤憲一」さんが、「永山弥一郎」を演じておられました。

 

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【矢島秀行(やじま ひでゆき)】と子孫

「矢島秀行」は、「足利義昭」の家臣だったといわれている人物です。

しかし「矢島秀行は足利義昭の子供である」という異説が存在します。

そんな「矢島秀行」の孫娘が、「今川義元」の孫に嫁いでいます

「矢島秀行」の娘「八千子」は、猛将「立花宗茂」の継室(後妻)となっています。

『立花宗茂』
「引用元https://snappygoat.com/より」

「矢島秀行」には、「矢島重成」という息子がいました。

この「重成」の長女「奈緒」が、「今川義元」の孫「今川直房」に嫁いでいるのです。

「矢島秀行」の子孫は、その後も「立花家」に仕え続けています

しかし、その子孫の行方は不明です。

ちなみにこの「今川直房」の妹が、「忠臣蔵」で有名な悪役「吉良上野介義央」の母親です。

「今川直房」の男系直系の子孫は、明治時代に「今川範叙(のりのぶ)」とその子「淑人(よしと)」を最後に断絶しています。

 

今川義元の子孫」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

今川義元の子孫先祖を【家系図】で解説!子孫は「忠臣蔵」のあの人』の記事はコチラ

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【足利義昭の子孫】は、今現在も続いているのか?

映画会社「松竹」の元社長は「足利義昭」の子孫かもしれない

足利義昭の子孫は「今現在も続いている可能性が高い」です。

映画会社「松竹」の元社長「永山武臣(ながやま たけおみ)」さんが、「足利義昭」の子孫だと考えられます。

なぜ「可能性が高い」という、あいまいな言い方をしているのかというと

その理由は「足利義昭の子孫」の可能性がある人物が、本当に「義昭の血を引いているのか」どうか、ハッキリと証明されていないからです。

「足利義昭」の子孫と考えられる人物の中で、有名な人といえば「永山武臣さんです。

「永山武臣」さんは、映画会社「松竹」の元社長。

2006年(平成18年)」に亡くなられた実業家です。

この「永山武臣」さんは、数々の歌舞伎役者さんの「襲名披露興行」を成功に導いた人物として有名です。

  • 「12代目・市川團十郎」さん
  • 11代目・市川海老蔵」さん
  • 「18代目・中村勘三郎」さん

などなど、彼らの襲名披露興行を指揮したお人なのです。

《11代目・市川海老蔵》
「引用元ウィキペディアより」

11代目「市川海老蔵」さんは、【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」で、ナレーターを務めておられます。


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「永山武臣」さんは、「足利義昭」の子孫である可能性があります。

ちなみに「永山武臣」さんのご子息は、フジテレビの「永山耕三」さん。

「永山耕三」さんは「テレビドラマプロデューサー」として

  • 「ひとつ屋根の下」
  • 「ロングバケーション」

などの人気ドラマを演出したお方です。

この「永山耕三」さんのお嬢さんは、「Abema」の総合プロデューサーを務めておられます


足利義昭」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

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【足利家の子孫・末裔】を「家系図」でまとめて紹介

室町幕府第15代征夷大将軍「足利義昭」から数える「足利家直系」は断絶しています。

なぜなら義昭の嫡子「義尋」の息子たち「義尊と常尊」が、子供を残さず亡くなったからです。

しかし「足利家の末裔」は、それ以外の系統からも続き、現在も存続しています。

現在も続く「足利家」の家系は、2つあります。

関東足利家(喜連川家)」と「平島公方家です。(「公方(くぼう)」とは、「将軍」のことです。例えば「徳川綱吉」は「犬将軍」と呼ばれましたが「犬公方」とも呼ばれています)

そしてそれぞれに

  • 「足利浩平」さん(喜連川家)
  • 「足利義弘」さん(平島公方)

という子孫を、現代まで繋げているのです。

「《足利家の家系図》
画像をクリックすると拡大できます
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」


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「関東足利家(喜連川家)」

「関東足利家」(喜連川家)の現在の当主は、「足利浩平」さんという方です。

「関東足利家」とは、「足利尊氏」の三男「足利基氏(もとうじ)」から始まる系統です。

父「尊氏」と兄「義詮(よしあきら)」は、京都で政務を取っていました。

それに対して「基氏」は、関東・鎌倉で「鎌倉公方」という出先機関の長官をしていたのです。

その「基氏」の子孫が、代々「関東」を支配し、京都の本家「足利将軍家」と対立するようになるのです。

戦国時代になって、「足利将軍家」に敗北した「関東足利家」は、滅亡寸前に追い込まれます。

しかし天下人「豊臣秀吉」が救いの手を差し伸べます。

名門「足利家」の血筋を惜しんだ秀吉は、「喜連川(きつれがわ)」という地に領地を与えたのです。(喜連川は、現在の「栃木県さくら市喜連川」)

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」


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「徳川家康」の時代になると、「関東足利家」は「喜連川」という姓を名乗ります。

その後「喜連川家」は、わずか5千石の領地しかないのに、「10万石の大名」として扱われます。

その理由は「格式ある家柄」を、徳川家から評価されたためです。

明治維新の2年後にあたる【1870年】、「喜連川藩」は領地を明治政府へ返還して消滅。

その後は「子爵」という爵位を与えられ、「華族」という高い身分を誇っています。

これ以降、「喜連川家」は姓を「足利」に戻しています。

「足利義昭」とその子「義尋」の直系が断絶して以降、「関東足利家・喜連川家」が「足利氏」の本家としてあつかわれることとなります。

この「関東足利家・喜連川家」系統の子孫が、東海大学で学長を務めた「足利惇氏(あつうじ)」氏です。

2014年現在】の足利家当主は、「足利惇氏」さんの甥「浩平」さんです。

「足利浩平」さんは、造形美術に関係する会社の代表取締役を務めておられます。


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「平島公方家」

足利家のもう一つの系統が「平島公方(ひらしまくぼう)」と呼ばれる系統です。

「平島公方」の現代の末裔は、「足利義弘」さんというお方。

「平島公方」とは、「足利義維(よしつな)」という人物から始まる系統です。(「平島」とは「足利義維」が住んでいた場所で、現在の「徳島県阿南市那賀川町」)

「足利義維」は、11代将軍「足利義澄(よしずみ)」の次男で、12代将軍「足利義晴」の弟にあたります。(「義維」は、15代「義昭」の叔父)

この「足利義維」の息子が、のちに14代将軍となる「足利義栄(よしひで)」です。

しかし「足利義栄」は、「織田信長」が15代将軍「足利義昭」を擁立したため、京都へ入ることもできずに病死。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」


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その後「足利義栄」の弟である「足利義助」が、「平島公方」の家名を存続しています。

1608年】、阿波国の大名「蜂須賀氏」に養われていた「義助」の孫「足利義次」は、冷遇されることとなります。

姓を「足利」から「平島」へ変えられるなど冷遇されていました。

その後の「平島公方」は、「蜂須賀氏」からの冷遇に耐えかねたのか、阿波国から京都へ移住。

同時に、姓を「足利」へと戻しています。

明治維新の後、「平島公方家」は「足利将軍家」の子孫であるとして、「華族」になれるよう運動を開始。

しかし「華族」として認められないどころか、「士族(元武士)」としても認められませんでした。

その後「平島公方家」は、現在の「京都市西京区」で平民となっています。

2003年】以降の「平島公方家」の当主は「足利義弘」という方です。

「足利義弘」さんは、元「創造学園大学」の教授。「全国足利氏ゆかりの会」で特別顧問をしておられます。

 

ちなみに、13代将軍「足利義輝」の子孫も、現代に続いている可能性があります。

 

足利義輝の子孫」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

足利義輝の子孫を家系図の画像でわかりやすく解説!足利家の末裔の現在』の記事はコチラ

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『足利家の末裔』は「鎌倉幕府・北条家」の子孫でもあった!

「足利義昭」の子孫には、「鎌倉幕府」を支配していた「北条一門」の血も流れていることをご存知でしょうか?

実は「室町幕府」を開いた「足利尊氏」の妻は、「北条一族」の女性なのです。

そのため「足利義昭」やその子孫には、「源頼朝」の義父であり「北条政子」の父である「北条時政」の血が流れています。

「《北条家の家系図》
画像をクリックすると拡大できます
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

足利尊氏の妻「登子」は、北条一族「赤橋流」の血を引いているのです。

「登子」の兄「北条守時」は、鎌倉幕府・最後の執権です。

1333年】、「北条守時」は「新田義貞」と戦い、戦死。鎌倉幕府は滅亡します。

「赤橋守時・登子」兄妹の先祖は、【2022年】の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主人公「北条義時」。

「足利尊氏」と「登子」の間に生まれたのが、室町幕府2代将軍「足利義詮」です。

現代まで「足利家」の血筋をつたえる「関東足利家」の祖「足利基氏」も、「登子」が生んだ子です。

ということは「足利義昭」にも、「登子」を通じて「北条氏」の血が流れていることになります。

現代までつづく「関東足利家」の末裔にも、「北条家」の血がひきつがれているということです。

余談ですが、「守時・登子」兄妹の祖父は「北条義宗」という人物です。

闇営業】やら【オフホワイト不倫】やらで話題になった天才お笑い芸人「宮迫博之」さんが、【2001年】の大河ドラマ「北条時宗」で、この「北条義宗」を演じておられました。

 

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【足利義昭の生涯】を、カンタンに解説

室町幕府・最後の将軍「足利義昭」は、【天文6年(1537年)11月13日】に誕生しました。

ここから1597年】に亡くなるまで、波乱の人生が始まることとなります。

その幼名は「千歳丸(ちとせまる)」

父は、室町幕府12代征夷大将軍「足利義晴」。

兄は、室町幕府13代征夷大将軍「足利義輝」。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

1542年】、千歳丸は「家督争い」を未然に防ぐため、奈良の興福寺で出家させられます。

出家する際に、「覚慶(かくけい)」と改名。

1565年】、僧侶として静かに暮らしていた「覚慶」の人生を変える大事件が勃発します。

永禄の変」です。

  • 戦国大名「三好義継」
  • 三好家の有力家臣「三好三人衆」
  • 松永久秀の息子「松永久通」

この三者が協力して、征夷大将軍「足利義輝」を暗殺してしまったのです。

兄「足利義輝」を暗殺された「覚慶」は、「松永久通」たちに捕まり、興福寺に幽閉されます。

「義輝」の家来だった「三淵藤英」やその弟「細川藤孝」たちは、「覚慶」の救出に成功します。

1566年】、「覚慶」は「足利義秋」と改名。

同年、越前国の大名「朝倉義景」を頼った「足利義秋」は、この地にいた「明智光秀」と出会うこととなります。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン


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1568年】、「足利義秋」は、「秋」という文字を不吉であるといって嫌がり、「足利義昭」と改名。

同年、「明智光秀」の仲介によって、尾張・美濃を支配していた「織田信長」の元へ移ることとなります。

1568年】、「足利義昭」は兄「足利義輝」の敵討ちのため、「織田信長」や「浅井長政」の協力を得て、京都へ進軍。(上洛)

宿敵「三好三人衆」らを京都から追い出すことに成功します。

これにより「足利義昭」は、「室町幕府15代征夷大将軍」に就任。

ところが、これ以降「足利義昭」はその失政を「織田信長」に厳しく注意されるようになります。

これをきっかけに、両者の関係は、急激に悪化。

挙句の果てに「足利義昭」は「武田信玄」や「朝倉義景」に協力を要請。「織田信長」を倒そうと画策し始めるのです。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」


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1573年】、「義昭」がもっとも頼りにしていた「武田信玄」が、「織田信長」を追いつめながらも急死してしまいます。

一気に形勢不利となった「義昭」は、「織田信長」との間で繰り広げられた「槇島城の戦い」で惨敗。

この敗北により「義昭」は京都から追放されます。

この時、200年以上続いた「室町幕府」は滅亡したのです。

その後も「義昭」は、中国地方の大名「毛利輝元」の庇護を受けながら、「織田信長」に対抗しつづけます。

1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に殺害されると、「義昭」は京都への帰還を画策し始めますが、失敗。

1585年】、「豊臣秀吉」が関白・太政大臣という最高位に就任。

1587年】、「足利義昭」は「秀吉」の協力もあって、14年ぶりに京都への帰還に成功。

1588年】、「義昭」は朝廷へと参内し、「征夷大将軍」の職を辞任。名実ともに「豊臣秀吉」が天下人となります

1592~1593年】、秀吉が「文禄の役(朝鮮出兵)」を開始。

1597年】、「慶長の役」開始。

この「朝鮮出兵」の際に、「足利義昭」は秀吉から出兵を頼まれたため、200人の軍団を率いて「肥前・名護屋城」へ出陣しています。

慶長2年(1597年)8月28日】、「足利義昭」は大坂で亡くなります。

享年61歳(満年齢59歳)

死因は「腫物」。

老齢であるにもかかわらず、「豊臣秀吉」による「朝鮮出兵」に出陣した無理が祟った、といわれています。


明智光秀」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』の記事はコチラ

足利義輝と足利義昭は、どういう関係なのか?」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

『「足利義輝」と「足利義昭」はどういう関係?2人が何をした人か解説』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「足利義昭の子供たち」は、その後どうなったのか?

諸説あるものの、足利義昭には「足利義尋」「一色義喬」「永山義在」「矢島秀行」という4人の子がいたと考えられている

「足利義尋」の直系は断絶したが、残り三人の子孫が、今も続いている可能性がある

 

2,「足利義昭の子孫」は、今も続いているのか?

「義昭の子孫」は、今も続いている可能性が高い。

しかし、ハッキリとした証拠があるわけではないが、映画会社「松竹」の元社長「永山武臣」さんが、義昭の子孫かもしれない。

証拠がないので、「義昭の子孫」と断言はできない。

 

3,「足利義昭の子孫」以外に、「足利家」の子孫はいるのか?

初代将軍「足利尊氏」の子孫は、「関東足利家」と「平島公方家」という2つの系統を通じて、今も続いている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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