明智光秀の戦いを一覧ですべて解説!長良川の戦いから山崎の戦いまで

この記事では「明智光秀のすべての戦い」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「光秀が参戦した戦い」について、カンタンに理解できます。

 

「明智光秀」は、生涯におけるほとんどの戦に勝利した「歴戦の名将」だったのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,明智光秀は【1556年】の「長良川の戦い」で美濃国から逃亡し、【1568年】の「織田信長・上洛戦」に参戦して、信長とともに戦い始めた

 

2,【1571年】の「石山本願寺挙兵」や、【1575年】には「長篠の戦い」にも参戦。同時に難攻不落の山岳地帯「丹波国」の攻略を開始

 

3,【1579年】に「丹波国攻略戦」を完了。【1582年】に「本能寺の変」を起こして織田信長を殺害。同年、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」に敗北し亡くなる。

1556年「長良川の戦い」~1570年「金ヶ崎の退き口」

「明智光秀」は、【1556年】以前どこで何をしていたのか、ほとんどわかっていません。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

1556年】に「美濃国」から逃亡したと言われている「明智光秀」。

 

その【1556年】から、光秀が参戦した戦いを、年表形式でご紹介いたします。

 

ただ、光秀が参戦した戦は、まだまだ無数にあると考えられます。

 

歴史に記された有名な戦いのみをピックアップしておりますので、何卒ご理解くださいませ。

 

 

1556年

「長良川の戦い」

光秀、「斎藤義龍(高政)」に「明智城」を攻められて、「明智秀満」や妻「煕子」とともに「越前国」へ逃亡。

このとき「明智光安」戦死。

 

1568年

「織田信長・上洛戦」

「織田信長」が「足利義昭」を連れて京都へ進軍(上洛)

光秀もこれに参戦。

 

1569年

「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」

「三好長逸」「三好政康」「岩成友通」の「三好三人衆」が京都「本圀寺」にいた「足利義昭」を襲撃。

光秀は少数の軍で、防戦。「細川藤孝」「織田信長」の援軍により、勝利

 

1570年

「金ケ崎の戦い」

信長からの「上洛命令」に逆らった「朝倉義景」を攻撃し「天筒山城」「金ケ崎城」を陥落させる

「金ヶ崎の退き口」

同盟者であった「浅井長政」が裏切り、織田軍を襲撃。

光秀は「羽柴秀吉」「徳川家康」とともに、殿軍となって信長を逃がす 


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1571年「石山本願寺挙兵」~1575年「長篠の戦い」

1571年

「石山本願寺・挙兵」

「本願寺顕如」がひきいる「石山本願寺」と、四国から進軍してきた「三好三人衆」が織田信長にたいして挙兵。

光秀も出陣

 

同年

「比叡山焼き討ち」

光秀は先陣をきって比叡山を攻撃した。

この功績により「坂本」の領地5万石を与えられ、「坂本城」を築城

 

1572年

「河内国」へ出兵

 

1573年

足利義昭が信長に対して挙兵

「石山城の戦い」

「今堅田城の戦い」

「槇島城の戦い」

光秀も参戦し、「足利義昭」を京都から追放。「室町幕府」が滅亡する

 

1575年

石山本願寺との「高屋城の戦い」

武田勝頼との「長篠の戦い」

石山本願寺との「越前国一向一揆殲滅戦」

「丹波国攻略戦」開始

この「丹波国攻略戦」の初戦で「黒井城」を包囲するものの、見方だったはずの「丹波国・八上城」の城主「波多野秀治」に裏切られて、光秀が敗走する 


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1576年「天王寺の戦い」~1582年「山崎の戦い」

1576年

石山本願寺との「天王寺の戦い」

光秀が守っていた「天王寺砦」が、本願寺の軍団に包囲される。

絶体絶命の危機に、織田信長が自ら先陣をきって光秀を救出しに向かい、負傷しながらも光秀救出に成功。

 

1577年

紀州「雑賀攻め」

「信貴山城の戦い」で「松永久秀」を討伐

 

1578年

「播磨国攻略」を行っている「羽柴秀吉」へ援軍として「神吉城(かんきじょう)攻略」に参戦

この「神吉城攻略戦」には、「織田信忠」「荒木村重」も参戦していた

 

同年

「荒木村重」が突然裏切り、居城「有岡城」に籠城。

「有岡城の戦い」に光秀も参戦。

 

1579年

「丹波国攻略戦」完了

「八上城」「黒井城」が陥落したことで、4年におよんだ戦いが終わり、「丹波国」を平定。

翌年、光秀は信長から丹波国を与えられる

 

1582年

「甲州征伐」に信長とともに従軍するも、「織田信忠」が武田勝頼を討ち果たしていたため、光秀が戦うことは、ほとんどなかった。

 

同年

天正10年(1582年)6月2日

光秀が「本能寺の変」を起こし、「織田信長」と討ち取る

 

同年

天正10年(1582年)6月13日

「山崎の戦い」

羽柴秀吉の軍「4万」VS明智光秀軍「1万3千」

光秀・敗北

明智光秀、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩り」の襲撃を受けて亡くなる。


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「明智光秀」がもしも「山崎の戦い」に勝利していたら、歴史はどうなっていた?

明智光秀が敗北した「山崎の戦い」で、もしも「光秀」が「秀吉」を倒していたら、歴史はどのように変わっていたでしょうか?

 

「山崎の戦い」で光秀が勝利していたとしても、光秀の天下はそれほど長く続かなかったと思います。

 

各地には、「柴田勝家」「滝川一益」「徳川家康」らの軍団が、まだまだ残っていました。

 

「北条」や「上杉」と協力したとしても、これら「織田」と「徳川」の軍を、明智光秀が倒すのは、難しかったと考えられます。

 

光秀は「羽柴秀吉」を倒したとしても、「柴田勝家」「滝川一益」「徳川家康」のうちの誰かに討たれていたのではないでしょうか。

 

光秀を倒せる可能性がもっとも高いのは、「徳川家康」でしょう。


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「柴田勝家」は「上杉景勝」との戦いで動けませんでした。

 

「滝川一益」は「神流川の戦い」で北条軍に大敗北。

 

それに対して「徳川家康」だけは、「信長の仇討ちをする」と言って、実際に明智軍に向けて出撃しています。

 

家康が光秀を倒せなかったとしても、時間が経過すれば経過するほど、家康の味方は増えたはずです。

 

「織田信雄」が家康の味方をしたでしょうし、大和国の「筒井順慶」や「細川藤孝」も家康の味方になったはず。

 

「山崎の戦いで、光秀が秀吉に勝利していたら、徳川家康が明智光秀を討ち果たしていた」のではないでしょうか。

 

明智光秀の末裔にあたる作家「明智憲三郎」さんは、こんなことをおっしゃっておられます。

 

「徳川家康は、明智光秀と協力して、織田信長を本能寺で討ち果たした。

 

家康は、光秀に援軍を送るために、三河から出陣した」

 

もしもこの説が本当なら、「家康が光秀を討っただろう」という推測はなりたたなくなります。

 

明智憲三郎さんの説によると「細川藤孝・明智光秀・徳川家康が協力して織田信長を討った」のだそうです。

 

そして「細川藤孝」が光秀を裏切ったため、秀吉に討たれたと・・・。

 

しかし、「家康が光秀に援軍を送ろうとした」など、本当にありえるのでしょうか?

 

もしもその通りなら、これまでの歴史の常識がくつがえることになりますが・・・。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,明智光秀は【1556年】、「長良川の戦い」で「斎藤義龍」におわれ、美濃国から逃亡。【1568年】の「信長の上洛戦」に参戦

 

2,【1571年】の「石山本願寺戦」、【1575年】「長篠の戦い」に参戦。同年、「丹波国攻略戦」開始

 

3,【1579年】、「丹波国攻略」完了。【1582年】、「本能寺の変」で織田信長を殺害。その11日後、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北し「明智光秀」戦死。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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