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「上杉謙信」は、戦国時代最強の武将でした。
15歳で初陣を飾り、49歳で亡くなるまでの間に合計70回の戦を行い、そのうち負けたのは2回だけと言われています。
「川中島の戦い」で5回対決した宿敵「武田信玄」は、上杉謙信のあまりの強さに恐れをなし、5回目の戦いでは野戦で決戦を挑もうとする謙信との直接対決を露骨に避けているほどです。
この記事では「なぜ上杉謙信がそこまで強かったのか」について、あまり詳しくない方のために、わかりやすく解説していきます。
これを読んで「そうだったのか、上杉謙信の強さの秘密!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 上杉謙信が強かった理由は3つ。1つは師「天室光育」による修行。2つ目が「幼い頃からジオラマで戦のシミュレーションをして遊んでいた」。3つ目が「戦闘能力に優れた越後兵の力」
- 上杉謙信は宿敵「武田信玄」と「第四次川中島の戦い」で激突。戦国最強とも呼ばれた「武田軍」を圧倒。「武田信繁」「山本勘助」ら名将を討ち取った
- 謙信はとにかく命知らずで、戦場でも最前線に立つことが頻繁にあった。「唐沢山城救出戦」や「小田原城攻め」でも、謙信は命知らずな行動を取っている。それにも関わらず謙信は戦場ではなく、畳の上で亡くなった。
上杉謙信と上杉軍は、なぜ強かったのか?その秘密を徹底分析
「上杉謙信」最強説!謙信は世界史上最強の武将?
上杉謙信と上杉軍は、戦国時代最強の軍団と言われています。
「日本経済大学」の「海上知明」教授が、著書「信玄の戦争」において
「上杉謙信は世界史上最強の武将である」
とおっしゃっておられました。
その理由は
・「100%に近い勝率(敗北扱いの戦いも、敗北からは損害の程度からして敗北として良いのかどうか疑問)」
・「戦術・戦略に型のない。戦うごとにパターンが変わるので、相手からすると動きが予測できない」
・「勝利と扱って良い戦いの相手が『武田信玄』『北条氏康』のような当時一流の名将たち」
・「戦場の最前線へ踊り出ることもしばしばあった謙信だが、49歳で病死するまで生き延びた」
などなど。
「謙信最強説」の根拠として、これらをあげておられました。
謙信の強さの秘密を調査!「上杉謙信」の生い立ち
上杉謙信は、なぜそんなに強かったのでしょう?
まずは「謙信」の生い立ちから見てみましょう。
上杉謙信は【1530年】、越後守護代「長尾為景(ながお ためかげ)」の四男として生まれました。
幼い頃の名前は、寅年に生まれたことにちなんで「虎千代」と言います。
謙信は終生、父親を尊敬していたのですが、なぜか父「為景」からは愛されませんでした。一説によると、幼い「虎千代」があまりにも乱暴だったために、嫌ったとも言われています。
【1536年】、為景は隠居。謙信の兄「晴景」に家督を譲り、まだ幼かった「虎千代」は林泉寺に預けられました。出家して僧侶となる道を定められたのです。
実は「上杉謙信」の強さの秘密は、この林泉寺に預けられていた間に培われたのです。
林泉寺6代目住職「天室光育(てんしつこういく)」に養育され、教育や兵学までも授けられた虎千代は、僧侶ながら武芸にも励み、「城の模型」・・・今でいう「ジオラマ」のようなものを使って「戦ごっこ」で遊ぶことを好みました。
「城の模型」で遊ぶことが、「どう城を攻めるか」というシミュレーションになったのでしょう。
謙信が幼い頃に遊んでいたこの1.8m四方の「城の模型」は、のちに「武田勝頼」の嫡男「武田信勝」に譲られています。(武田信勝は【1582年】に、「天目山の戦い」で父「武田勝頼」とともに自刃した)
【1542年】、父「為景」が亡くなると、元々おっとりした性格だった兄「晴景」には国をまとめる力がないと周囲から侮られることになります。さらには越後国の守護職に「上杉定実」が復帰。守護代の「長尾家」は勢いを削がれるようになりました。
父の死の翌年「虎千代」は元服(成人)。「長尾景虎(ながお かげとら)」と名乗ります。
景虎は兄「晴景」の命令を受け、栃尾城に入りました。ところがその栃尾城で戦争が勃発します。兄「晴景」を侮った越後の豪族が謀反を起こし、15歳の城主「景虎」を侮り、栃尾城に攻め込んだのです。
しかし「景虎」はこれを落ち着いて対処。少ない城の兵を二手に分け、一方の兵に敵の本陣を背後から急襲させます。
少数の兵しかもたず、しかも初陣の少年「長尾景虎」がまさか攻勢に出てくるとは思わなかった敵軍は急襲に混乱。慌てふためく敵兵に対して、景虎は城内からもう一方の別部隊を突撃させて、見事に敵を壊滅させたのです。
こうしてまだ15歳の「謙信」こと「長尾景虎」は、初陣を勝利で飾ったのでした。
「上杉謙信」の強さの秘密の源・・・それは幼い頃に預けられた「寺で授けられた教育」と、「城の模型で遊んでいたこと」と、そして謙信本人が生まれ持った「胆力と戦闘に対するセンスの高さ」にあるのですね。
【1545年】、越後守護をつとめる上杉家の家臣「黒田秀忠」が長尾家に対して謀反を起こします。(のちに上杉謙信と名乗る長尾景虎ですが、このときはまだ「上杉」という苗字を名乗ってはいません。)
秀忠は兄「晴景」の居城「春日山城」に攻め込み、晴景の弟で、景虎の兄である「長尾景康」らを殺害。春日山城に立てこもりました。
越後守護「上杉定実」は兄「晴景」ではなく、弟「景虎」に「黒田秀忠」討伐を命令。景虎は見事な采配で「黒田秀忠」を降伏させます。
しかし「黒田秀忠」は翌年、またしても長尾家に対して謀反を起こします。そのため景虎は「黒田秀忠」を滅ぼしました。
さて、元々おっとりした性格だった兄「晴景」が長尾家の当主であることに、越後の武将たちは不満を持つようになっていきます。
【1548年】になると、兄「晴景」を廃し、弟「長尾景虎」を長尾家当主にしようという動きが、ますます盛んになっていきました。
越後守護「上杉定実」の仲介で、兄「晴景」は弟「景虎」を養子として家督を譲り、景虎は春日山城城主および越後国守護代となります。
【1550年】、「上杉定実」は後継者を指名せずに亡くなったため、越後の国主である「越後守護」は空位となります。その後「景虎」は室町幕府第13代将軍「足利義輝」から「越後守護代」を命じられたため、名実ともに「越後の国主」となったのです。
こうして越後の国主となった「長尾景虎」は、その生涯を閉じる直前まで、「戦に強い武将」としてその名を轟かせ、生涯【70】の戦を戦い抜き、負けたのは2回だけ・・・という脅威の勝率を残します。
68勝2敗というのがどれだけすごいことなのか。スポーツの試合で置き換えて考えるととんでもない勝率だということがわかりやすいのではないでしょうか?
上杉軍が戦に非常に強かったのは、軍を率いる「謙信が類まれな戦闘センスを持っていたこと」と、「越後の風土気候が影響したから」でしょう。
上杉軍は「織田信長」が作った職業軍人「足軽部隊」ではなく、「越後の農民」で構成されていました。
越後の田んぼは非常に泥が深く、そういう土壌で農作業をするうち、非常に「強靭な足腰」が鍛錬され、同時に「持久力」も相当鍛えられていくのです。
そうした足腰の強い部隊が、槍を持って戦場を縦横無尽に駆け回り、敵を倒し続けていました。
さらに謙信は、その部隊を車輪のように配置し、車輪が回転するように攻撃を仕掛けていったと言われています。
この陣形は「車懸りの陣」と呼ばれ、2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』でも「第四次川中島の戦い」で描かれていましたので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。
足腰の鍛えられたスタミナのある部隊が、次から次へと波状攻撃を仕掛けてきたら、敵兵はたまったものではありませんよね。
上杉謙信の強さの秘密は、幼い頃に「林泉寺の住職から学問や兵学」を授けられ、さらに「武芸」にも励み、持って生まれた「戦闘センス」が磨かれたことにあります。
そのうえ上杉軍の強さは、元々は越後の田んぼで農作業をする農民によって構成された、足腰と持久力にありました。
「とんでもない戦闘センスのリーダー」が「足腰を鍛錬した持久力のある部隊」を率い、波状攻撃をしかけたのですから、他の武将には太刀打ちできなかったのでしょう。
「車懸りの陣」についての最新説
「車懸りの陣」については謎が多く、「車輪のように部隊を回転させた」という説に否定的な意見もあります。
日本経済大学の「海上知明」氏は、「車懸りの陣は、サッカーの『トータルフットボール』のようなものだったのではないか」と発言しておられます。
つまり、「それぞれの部隊が大将の命令・指示を待つことなく、自らの判断と意思によって戦いを展開していく」ということ。
上杉軍には優れた指揮官が数多くいたので、この「トータルフットボール」こと「車懸りの陣」も、可能だったことでしょう)
ちなみに、この「トータルフットボール」のような戦い方は、幕末において「長州藩」の軍事の天才「大村益次郎」によって採用されています。
大村は長州軍に近代的な戦い方を覚えさせようと、各隊独自の攻撃を行うことができる権限を与えます。
これにより、長州藩の部隊は近代的な「ゲリラ戦」を可能とし、強大な「幕府軍」を撃破することに成功したのです。
その強さを物語る逸話・エピソードを紹介!最強・武田軍も撃破
「第4次川中島の戦い」
先程、「車懸りの陣」についてお話しましたね。
その車懸りの陣がもっとも効果を発揮したのは、「武田信玄」と激突した「第四次川中島の戦い」でした。
「川中島の戦い」は合計5回あったとされており、そのうち「4回目の戦い」が最も戦闘が激しく、被害も甚大だったのです。
【1561年】、関東管領「上杉憲政」の要請で、「長尾景虎」は上杉家へ養子入り。名門「山内上杉家」の家督を継ぎ、室町幕府の重役「関東管領職」も受け継ぎました。上杉憲政から「政」の字を受け継いだ「長尾景虎」はこの時「上杉政虎」と改名します。
これに不快感を示したのが「武田信玄」です。
信玄と謙信は、それまでにも【1553年】に布施、【1555年】に犀川、【1557年】に上野原でと、3度戦ってきました。
信玄からすると「自分のほうが関東管領職にふさわしいのに、なぜ長尾景虎が上杉家の養子となって関東管領職になるのだ、許せん!」という気持ちがあったはずです。
信玄は終生、「上杉政虎」とは呼ばず、「長尾景虎」と呼び続けました。この時の「武田信玄」は「信濃国の守護職」・・・。関東管領の「上杉政虎」のほうが身分が上になってしまいました。
「何度戦っても決着がつかないあの憎き『長尾景虎』が関東管領職だと!?今度こそ、あやつを倒してやる!」
と信玄が思ったかどうかはわかりませんが・・・。
一方、関東制圧を目標にして、関東を実質的に支配していた「小田原北条氏」の拠点「小田原城」を攻めていた「上杉政虎(上杉謙信)」は、堅城「小田原城」の守りの堅さと名将「北条氏康」の采配に攻めあぐねました。
そうしているうちに、「北条氏康」の同盟者であった「武田信玄」が、「氏康」の援助要請を受けて「上杉政虎」の本拠地の越後を攻撃する動きを見せます。
これにより「小田原城攻略」を諦めた「上杉政虎」は、4度目の「川中島」で「武田信玄」と対立します。
政虎は敵地のど真ん中である「妻女山」に布陣。対する信玄は「茶臼山」に本陣を築きます。
しばらくの間、両者の膠着状態が続きました。
武田信玄は、参謀「山本勘助」と武田四天王の一人「馬場信房(信春)」に上杉軍を倒すための作戦を立てるよう命じます。
山本勘助は、兵を二手に分けて一方の部隊に「妻女山」の上杉本陣を攻撃させ、驚いて麓に逃げてきた上杉軍を武田本隊が迎撃。挟み撃ちで上杉軍に攻撃を加える作戦を立てました。
この戦法は「キツツキが木をくちばしで叩いて中の虫を木の逆側へ追い出して捕まえる」やり方に喩え、「キツツキ戦法」と呼びます。
四天王「高坂昌信」と「馬場信房」が率いた別働隊が妻女山に向かい、信玄の本隊は「八幡原」にて「鶴翼の陣」で迎撃体制を整えます。
「鶴翼の陣」とは、敵に対し、自軍を左右に長く構える陣のことです。陣形が「鶴の翼」を広げた姿に似ていることからそう呼ばれています。敵軍を包囲殲滅するための、古くから使われている陣形です。
しかし、謙信は武田方の「海津城」からのぼる「炊飯の煙」がいつもより多いことから、異変を察知しました。武田軍に何かしらの動きがあることを察知した「上杉政虎」は、敵の裏をかくために、物音を立てないように夜の闇に乗じて妻女山を下山。武田信玄が布陣していた「八幡原」に布陣したのです。
【1561年10月28日午前8時頃】、川中島一帯を覆っていた霧が晴れ渡ると、「武田軍本隊」の目の間に、妻女山にいるはずの「上杉軍」がいました。しかも上杉軍では、突撃の体制が完璧に整った状態でした。
上杉政虎は「車懸りの陣」で武田本隊を攻撃。戦国時代を代表するほどの大激戦となります。
武田信玄はこの戦で、名将の呼び声高い弟「武田信繁」、軍師「山本勘助」らを失い、武田本隊も壊滅に近い状態に追い込まれました。
それでも上杉軍にウラをかかれた「高坂昌信」らの別働隊が八幡原に戻るまでなんとか持ちこたえ、戦の後半は逆に上杉軍を前後から挟み撃ちにします。
武田軍に挟まれた上杉政虎は、兵を引きあげて「犀川(さいがわ)」をわたり善光寺へと退却。
信玄も深追いせず、兵を引き上げます。
「川中島の戦い」と呼ばれる謙信と信玄の激突は、歴史上5回あったのですが、この4回目の激突が一番の激戦・・・しかも戦国時代でも屈指の激戦で、上杉軍は3000人、武田軍は4000人、両軍あわせて7000人近い犠牲者が出たのでした。
戦いの前半は武田軍のウラをかいた上杉軍が、後半は別働隊が合流して戦った武田軍が優勢だったと言えるでしょう。「高坂昌信」が記させた歴史資料「甲陽軍鑑」にも「前半は上杉軍、後半は武田軍の勝利」と記されていました。
どちらが勝った・・・と簡単に言えるものではありませんが、この戦いで信玄は弟「信繁」と「山本勘助」という有能な部下を失っています。
特に、信玄にとって「信繁」を失ったのは痛かったでしょう。家臣団で唯一「武田信玄」に対してものを言える立場だった「武田信繁」が亡くなったことは、武田家臣団の結束を大きく乱すこととなります。もしも「武田信繁」が生きていたら、のちに起こる「信玄の嫡子・武田義信の自刃」は阻止できた・・・とまで言われているほどです。
「第5次川中島の戦い」
「第4次川中島の戦い」以降、信玄と謙信は直接衝突するのを避けるようになりました。
【1564年】に両軍は塩崎へと進軍。「第5次川中島の戦い」です。お互いに陣を組みますが、上杉謙信の強さを思い知らされた武田信玄は、兵を動かすことなく、双方にらみ合いに終始。
「武田信玄」もその強さを恐れるほど、「上杉謙信」と上杉軍は強かったのでした。
余談ですが、「第4次川中島の戦い」で亡くなった信玄の弟「武田信繁」。その名将ぶりに憧れた「真田昌幸」は、【1567年】に誕生した自分の次男に「信繁」と名をつけています。この「真田信繁」こそが、【1615年】「大坂夏の陣」で天下人「徳川家康」をあと一歩まで追いつめた戦国最後の名将「真田幸村」です。
上杉謙信こそが世界史最強の武将?とにかく命知らずだった!
「上杉謙信」は、前述の「海上知明」氏の著書で「世界史最強の武将」と評価されています。
上杉謙信は、常に自分で敵対する相手の陣の様子を観察し、相手に勝つための最善の策を考える軍事的能力の天才でした。
その天才的な頭脳に、とんでもない胆力、度胸が兼ね備わっていたのです。
「唐沢山城・救出の奇跡」
【1560年】、「北条氏康」が下野国(栃木県)の「唐沢山城」を攻めました。
唐沢山城城主「佐野昌綱」は何度か謙信と戦ったことがあり、そのたび謙信は城を落とせなかった(負けなかったが勝てなかった)因縁の相手です。
因縁の相手が城を落とされそうになっていたら、「放っておいて、城が落ちてから、城をかすめ取る」・・・というセコい手立ても取れますよね。
しかし謙信は、自分の私利私欲で戦うのではなく、戦に大義名分・正義を求める人物でした。
謙信は「佐野昌綱」の救援に8千の兵を率いて向かい、「自分が昌綱を救う」と言い、突然甲冑を脱ぎはじめます。
「木綿の着物」に「はちまき」だけとなった謙信は、槍を持ち、近習の者にも同じようにさせ、唐沢山城を取り囲む「北条軍」の真ん中を堂々と突っ切ったのです。
北条軍は『上杉謙信のことだから、何か策略があるに違いない・・・。手を出せば自分たちが危険かもしれない」と恐れ、ただただ呆然と城内に入っていく無防備な謙信の部隊を見つめるだけでした。
翌朝、「佐野昌綱」やその兵と合流した謙信は、ともに北条軍に襲いかかります。
城外で待機していた上杉軍も呼応して北条軍に襲いかかり、北条軍はほうほうの体で撤退したのでした。
戦場の、しかも敵の軍がひしめく中を甲冑もつけずに堂々と、総大将自ら突っ切るなんて、命知らずにもほどがありますよね。
しかしあまりにも堂々としていたので、『何か計略があるのでは?」と敵に警戒させ、攻撃をためらわせたのです。
謙信の胆力が北条軍を威圧したとも言えますが・・・・それにしてもすごい度胸ですね。
「小田原城」の盃
【1561年】、謙信が「北条氏康」の守る「小田原城」を攻めた時のことです。
小田原城の防御力と、味方の軍10万の結束力の無さにより、謙信は「北条氏康」を倒せずにいました。
ある時なにを思ったのか、謙信は突如「小田原城」の門前に座り込み、悠然と盃に酒を注ぎ、飲み始めたのです。
当初は弓・鉄砲で矢弾を降らせた北条軍でしたが、なにかに守られたかのように、謙信には当たらなかったのだとか。
「何かの罠かもしれない」と感じた北条氏康は、攻撃中止を命令。その直後、上杉軍は撤退を開始。
本拠地「越後」へ「武田信玄」が侵攻する動きを見せたために撤退したのです。
この「小田原城・門前で酒をあおった」行為は、自らの異様さを北条軍に見せつけることで、撤退する際の追撃を諦めさせた・・・という説もあります。
矢弾が当たらない・・・という神がかった様子は、北条軍を驚愕させたことでしょう。
何かしらのトリックをつかったのか、それとも偶然か・・・それはわかりませんが、こんな命知らずなことをしてもなお、謙信が戦場で死ぬことはなかったのです。
「上杉謙信」の最期
そんな命知らずの謙信ですが、【1578年】の春、遠征準備をする中、トイレで倒れ、そのまま4日後に亡くなりました。
倒れてから4日で急死していること、普段から塩辛いものを好み、飲酒量も多かったと言われていることから、恐らく『脳出血』を起こして亡くなったのだろうと言われています。
命知らずの武将は戦場で亡くなることなく、居城で突然倒れ、【49歳】で亡くなったのです。
畳の上で亡くなったことを考えると、謙信はやはり「世界史最強の武将」かもしれません。
ちなみに、「上杉二十五将」と呼ばれる謙信に仕えた武将の中でも特に評価の高い武将たちがいるのですが、彼等もまた、戦死したのは謙信の死後に3人のみなのです。それ以外はほとんど病死しています。
総大将である謙信以下、主だった武将まで病死が多いというのは、「上杉謙信」だけでなく、「上杉軍も世界史最強(地上戦)」だったのではないか・・・・・と私には思えます。
『上杉謙信』について「ひとこと」言いたい!
さて、「戦国最強の武将」であるだけではなく「世界史上最強」とも呼ばれる上杉謙信ですが
実は女性だったのではないか
という説を唱えている人がいます。
「八切止夫」という作家が提唱したのですが、スペイン内戦時に「トレドの修道院」で日本の戦国時代に書かれた「佐渡金山についての報告書」に、『上杉景勝の叔母』という言葉があるのを見つけ、その「叔母」とは「謙信のこと」だと考えました。
俗説に過ぎないと、学会では相手にされていないのですが、謙信が女だったら面白いということで、漫画やゲームにその設定が用いられていることもあります。
しかし俗説で片付けてしまうには、ちょっとおかしい記録もあるのですね。
謙信は林泉寺で教育を受け、非常に教養の深い武将だったのですが、「源氏物語」などを好み、「恋を歌った和歌」などもよく作っていたと言われます。
戦国最強と謳われる武将が好んだのが、「紫式部」が記した恋愛小説「源氏物語」というのは・・なんだか不思議な感じがしますよね。
しかも謙信は生涯不犯を貫き、一生涯女性と関係を持ったことがありません。
なぜそんな人が平安貴族の色恋を描いた「源氏物語」を好むのか、私には非常に不思議な印象があります。
また、謙信はひどい『腹痛持ち』でした。
一ヶ月の間に10日ほど、ひどい時には寝込んでしまうほどだったと言われています。あまりに腹痛がひどいからと、戦場から城に戻ったことさえあったのだとか。
謙信が女性だったのではないかと考える人は、この腹痛を「生理痛だったのではないか」と考えているのです。
実は謙信、「源氏物語が好きな女性だった」のでしょうか?
突拍子もない考えですが、筆者は別の考えを持っています。
【2014年】、中国で、ある男性がひどい腹痛に悩まされるようになりました。
お小水に血も交じるようになり、重い病気を心配した男性は、病院で精密検査を受け、その結果、思ってもいなかったことを医師から宣告されたのです。
「あなたは男性として育てられましたが、性染色体はXXですから、女性です」
「体内に子宮も卵巣も存在していて、その腹痛は生理痛です」
と・・・・。
その男性は、【インターセクシャル】だったのです。性染色体はXXですから女性なのですが、母体内にいる間に何らかの要因で、外性器が男性のような形状になり、生まれた時に男の子と判定され、そのまま育てられたのでした。
人間の性別というのは「男性と女性」だけではなく、そのどちらとも言えない「インターセクシャル」が存在するのです。
この男性とは逆に、性染色体はXYで男性なのに、外性器が女性のような形状で生まれ、女性として育てられる場合もあります。
「上杉謙信」は、なぜか父から疎まれ、僧侶になるべく林泉寺に預けられました。
父に疎まれた原因が、「生まれた時の外性器の形状が兄3人とは異なる、当時の人達からしたらなにかおかしい」と思うものだったから・・・だとしたら?
生涯不犯を貫いたのも、自分の外性器の形状が他の男性と違うのを気にしていたのだとしたら?
中国の男性と同じように、月に1度悩まされていた腹痛が、本当に「生理痛」だったとしたら?
あくまでも筆者個人の考えですが、謙信が「インターセクシャル」で、性染色体上はXX、つまり「女性」だった可能性はあるのではないか・・・・と思っています。
男性は「全体を見渡す」のを得意とし、女性は「細部を見る」のを得意とすると言われます。そのため男性は「人の話を聞くのが苦手」で、女性は「地図を見るのが苦手」とも言われています。
戦場の全体を見渡し、しかし細かな変化を見逃さなかった謙信のエピソードは、私には非常に「両性具有的」に見えるのです。
2007年の大河ドラマ『風林火山』でGACKTさんが演じた上杉謙信は、中性的な魅力を湛えていました。ご本人も「謙信女性説」を知っており、そのことを意識した役作りをしていたのだそうです。
もしかしたら、実際の謙信もそんな魅力を持った人だったのかもしれませんね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 上杉謙信が強かった理由は3つ。1つは師「天室光育」による修行。2つ目が「ジオラマで戦のシミュレーションをして遊んでいたこと」。3つ目が「屈強な越後兵の力」
- 謙信は宿敵「武田信玄」と「第四次川中島の戦い」で激突。戦国最強とも呼ばれた「武田軍」を圧倒し「武田信繁」「山本勘助」らを討ち取った
- 謙信は命知らずだった。戦場でも最前線に立つことが頻繁にあった。「唐沢山城救出戦」や「小田原城攻め」でも、謙信は命知らず行動をとっている。にも関わらず謙信は戦場ではなく、最期は畳の上で亡くなった。
この記事を短くまとめると、以下の通り
「上杉謙信」は戦国最強、いや世界史最強とも謳われる武将です。
【1530年】に生まれ、幼くして僧侶となるべく「林泉寺」に預けられましが、父の死をきっかけに武将としての人生を歩き始めました。
家督を兄「春影」から譲られ、越後の国主となり、生涯で70回の戦を戦い、負けたのはたったの「2回だけ」というとんでもない勝率を誇る武将となったのです。
その強さは「川中島」で戦った名将「武田信玄」をも恐れさせ、「第4次川中島の戦い」では信玄の作戦のウラをかき、信玄の弟「武田信繁」を討ち取る戦果をあげました。
戦場での命知らずなエピソードもある謙信ですが、最期は居城「春日山城」で倒れ、畳の上で亡くなったのです。
享年【49歳】でした。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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