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本能寺の変を考察!織田信長を殺した真犯人は誰?

この記事では「織田信長が最期を遂げた【本能寺の変】」について、その「謎と真相」をわかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「本能寺の変の真相」を、カンタンに理解できます。

 

「明智光秀が信長を討った動機」は「怨恨」という説がもっとも有力であると考えられます。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」が討たれた「本能寺の変」の謎とは何?
「本能寺の変」の謎とは3つ。「明智光秀の動機」、「黒幕が誰なのか」、「信長の遺体のゆくえ」

 

2,「明智光秀」の動機は何?
おそらく動機は、「織田信長への怨恨」だろう。それに付随するのが、最新説「四国説」であると考えられる

 

3,「本能寺の変」の黒幕は誰?
「黒幕」はいないと考えられる。明智光秀が「怨恨」を理由に、突発的に織田信長を討ち果たしたのだろう

まずは【織田信長】が討たれた「本能寺の変」の【謎】をざっとまとめ

天正10年(1582年)6月2日】、「本能寺の変」が勃発し、「織田信長」は「明智光秀」に討たれました。

 

この「本能寺の変」には、数々の謎が存在していますが、その「謎」とはどんなものなのかを、ざっとまとめてみます。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「本能寺の変」における謎は、主に「3つ」あります。

 

それは

  1. 「動機」
  2. 「黒幕」
  3. 「信長の首のゆくえ」

です

 

  1. なぜ明智光秀は、「織田信長」を討ったのか?
  2. 「織田信長」を明智光秀に討たせた「黒幕」は誰なのか?(そもそも「黒幕」が存在したのか?)
  3. 「本能寺の変のあと、発見されなかった織田信長の首は、どこへいったのか?」

これから、これらの謎を、最新の説で解説してまいります。



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「本能寺の変」の「動機」を解明する最新説

「本能寺の変」の動機は「怨恨」

「明智光秀」が「本能寺の変」の動機は、「織田信長への恨み」つまり「怨恨説」が有力です。

 

歴史家「磯田道史」さんがこんなことを言っていました。

「本能寺の変が起こる直前から、明智光秀は織田信長に対して、感謝の表明を異常なほどに行うようになった」

「私は、瓦礫の中から織田信長さまにお引き立ていただいた。

織田信長様には、感謝しなくてはいけない」

光秀は、「明智軍法」という自分が作った法律の中で、そのように表明しています。

 

磯田道史先生は、この「明智軍法」における光秀の感謝の言葉について言っているのでしょう。

「光秀は、《信長様には感謝しなくてはいけない》と、自分に言い聞かせていたのではないか」

そのようにもおっしゃっておられました。

 

おそらくこれが真相でしょう。



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「怨恨説」とともに、最も有力な説が「四国説」

光秀は当時、とても親しい関係にあった四国の「長宗我部元親」と交渉し、「長宗我部」を織田家の家来として従わせる役目を担当していました。

 

しかし、「織田信長」は突然「長宗我部」を滅ぼすために遠征軍の出撃を命令します。

 

このことにより、「明智光秀」がそれまで苦労して行なってきた「長宗我部元親」との交渉は、全て水の泡、徒労に終わったのです。

 

これは光秀を怒らせたはずです。

 

苦労して行なった仕事が、全て無駄になったのですから。

 

四国遠征軍の出撃予定は《6月3日》。

そして「明智光秀」が「本能寺の変」を起こしたのが《6月2日》。

 

「四国遠征軍・出撃」の一日前に「本能寺の変」を起こしたというのは、偶然なのでしょうか?

 

光秀は、「織田信長への恨み」を晴らすために「本能寺の変」を起こしたわけですが、そこには同時に「四国遠征軍の出撃を止めて、長宗我部元親を救う」という目的もあったのでしょう。

光秀の怒りをさらに増幅させた「中国地方への援軍命令」

さらに織田信長は、光秀に対して「中国地方で戦う羽柴秀吉の援軍にいけ」と命じました。

 

これは「明智光秀は、羽柴秀吉の指揮下に入れ」という意味です。

 

出世レースで、「明智光秀」の最大のライバルだったのが「羽柴秀吉」です。

 

その「羽柴秀吉の下につけ」とは、さすがの「光秀」も頭にきたはずです。



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暗闇の中の行軍!増幅した怒りによる突発的な犯行

明智光秀は、「本能寺の変」を起こす直前の《6月2日未明》、居城であった「丹波亀山城」を出撃します。

 

この時間、周囲は暗闇に包まれておりました。

 

「犯罪心理学」によると、「暗闇の中」に長時間いると、過去に経験した怒りの感情が思い起こされ、「怒りや憎しみ」の感情が増幅するのだそうです。

 

光秀は、「丹波亀山城」から出撃し、長時間「暗闇」の中を行軍してしまったことで、「信長への恨み」を徐々に募らせていきます。

 

そして光秀は、行軍の末に、1つの「分かれ道」へと差し掛かります。

 

東へ行けば「中国地方」、西へ行けば「信長がいる本能寺」。

 

ここで光秀は、「本能寺」への西の道を選択します。

 

天正10年(1582年)6月2日早朝】、「明智光秀」は「織田信長」を襲撃。

 

おそらく「明智光秀」は、暗闇の中を行軍することで、過去に信長から受けた仕打ちを思い出して、怒りが増幅したのでしょう。

 

突発的に、信長を討ち果たしてしまったと考えられます。

 

このとき、信長は警護の軍を連れていませんでした。

 

まさに「時は今」だったのです。「信長を討ち果たすチャンス」は、この時をおいて他になかったのです。

 

「光秀」はこのチャンスに、飛びついてしまいました。

 

動機は、「人使いの荒い織田信長に対する怨恨」だったと考えられます。

 

「本能寺の変の動機」について、他の説も考察しております。

よろしければ、以下のリンク記事をどうぞ



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「本能寺の変」の「黒幕」が誰なのかを考察

結論から言ってしまうと、「本能寺の変」に「黒幕」はいなかったと考えられます。

 

「本能寺の変」は、「明智光秀」による「怨恨」が動機であると考えられます。

 

となると「黒幕」など存在しないことになります。

  • 「足利義昭」
  • 「朝廷(天皇)」
  • 「近衛前久」
  • 「イエズス会」
  • 「羽柴秀吉」
  • 「徳川家康」

 

これまで「本能寺の変」の黒幕として候補にあげられた人物や組織は、数多くいます。

 

しかし、どれもこれも、それを裏付ける証拠に乏しいのです。

 

「本能寺の変」を起こしたあとの光秀は、「羽柴秀吉」による迅速な攻撃に、まったく対応できていません。

 

これは「明智光秀の準備が不足していた」ことを意味しています。

 

光秀は、用意周到な計画などなしに、「本能寺の変」を起こしたということです。

 

つまり、「織田信長を討ち果たすように」と明智光秀に指示し、ともに計画を練ったであろう「黒幕」が、そもそも存在しなかったということです。

 

「本能寺の変」に「黒幕」はいなかった。

 

これが真相であると考えられます。

 

 

「本能寺の変の黒幕」については、以下のリンク記事で、更に詳しく解説しております。



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最期の謎!織田信長の首・遺体の行方

織田信長の首・遺体は、そもそも行方不明ではなかった?

「織田信長の首」について、結論から言いますが、「そもそも行方不明ではなく、焼死体となって本能寺の焼け跡にあった」と考えられます。

 

「本能寺」は、信長が放火したことにより、焼け落ちてしまっています。

 

その中で亡くなった信長のご遺体は、間違いなく判別不能なほどに焼けていたはずです。

 

「本能寺」には、信長の部下たちの焼死体が数十体もあったと考えらます。

 

光秀は、これらの遺体のどれが「織田信長の遺体」なのか、識別できなかったのでしょう。

 

織田信長の遺体は、行方不明ではなく、どれがどれだかわからなかった。

 

それが真相であると考えられます。

 

この「信長の遺体のゆくえ」については、以下のリンク記事で、更に詳しく解説しております。



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異説「清玉上人が埋葬した」という説の「疑問」を考察

「織田信長の遺体の行方」について、異説も存在しております。

 

「織田信長とともに幼い頃に育てられた、阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょくしょうにん)」という僧侶が、「織田信長の遺体を密かに持ち出して埋葬した」というのです。

清玉上人は、「本能寺の変」の騒ぎをしると、本能寺へと急行。

そして「本能寺」の中に入ると、信長の家来たちが、信長の遺体を火葬していた。

清玉上人は信長の遺体をゆずりうけ、「本能寺」の僧侶のふりをして明智軍の包囲を脱出。

「阿弥陀寺」で荼毘に付して埋葬した。

しかしこの説には、いくつか疑問があります。

 

  • 「明智軍に包囲された本能寺へ、どのように入ることができたのか」
  • 「明智軍の襲撃を受けて乱戦状態のはずの本能寺で、なぜ信長の家来たちは、のんきに火葬などできたのか?」
  • 「明智軍に包囲された本能寺から、清玉上人はどうやって、信長の遺体を運び出したのか」

 

これらの疑問を、一つ一つ解決していきたいと思います。



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まず「明智軍に包囲された本能寺へ、清玉上人はどのように侵入したのか」についてです。

 

おそらく「清玉上人」は、「本能寺」の僧侶のフリをして侵入したのでしょう。

 

明智軍は、本能寺で「関係のない女性や僧侶、外国人など」を助けた形跡があります。

 

清玉上人は、「本能寺」の住職のふりをして、たとえば「中にいる僧侶たちを連れ出したい」とでも言って、中に侵入したのでしょう。

 

 

次に「乱戦状態のはずの本能寺で、信長の家来たちは、なぜのんきに火葬などできたのか」です。

 

実は明智軍は、「本能寺」を包囲したあと、即座に襲撃していません。

 

なんと「朝になるまで待ってから襲撃した」のです。

 

暗闇のなかで、どさくさ紛れに信長が逃げ出さないように、と用心深く「夜明け」を待ってから襲撃したのです。

 

そのため、「明智軍」に包囲されてから、夜明けまでの間、信長には時間がありました。

 

信長は、明智軍が襲いかかってくる前に自害し、その遺体を部下たちに「火葬」させたのでしょう。

 

清玉上人は、「明智軍」が本能寺を襲撃するまえに、火葬していた信長の家来たちと遭遇。

 

そのご遺体を受け取ったのだと考えられます。



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最後に「清玉上人は、包囲された本能寺から、どうやって信長の遺体を運び出したのか」という謎についてです。

 

清玉上人は、おそらく「信長の首」のみを火葬し、その「頭の骨」を服の下に隠して、「阿弥陀寺」へと持ち出したのだと考えられます。

 

本能寺には、墓地がありましたので、おそらく大量の「投馬」があったはず。

 

信長の家来たちは、この「とば」を燃やして「信長の頭部のみ」を火葬としたのでしょう。

 

そうして清玉上人は、信長の遺骨を本能寺から持ち出すことに成功し、阿弥陀寺へ「織田信長の頭部の遺骨」を埋葬したのだと考えられます。

 

以上、「清玉上人が遺体を持ち出した」という説の謎を、筆者なりに考察してみました。

 

これが真相であるかどうかは、わかりませんが、「信長の遺体の行方」その可能性の1つではあると思います。

 

「本能寺の変」については、別の角度から真相に迫ってみた記事があります。以下のリンク記事をよろしければご参考までにお役立てくださいませ。

 

また、「明智光秀」の末裔を自称しておられる作家「明智憲三郎」さんが主張しておられる「本能寺の変の真相」を描いたマンガが人気となっています。

 

筆者も読んでみましたが、とても面白い作品でした。

 

また、これも余談ですが、信長が最後に使っていた「愛刀」についても、以下のリンク記事で詳しく解説しております。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」が討たれた「本能寺の変」の謎とは「明智光秀の動機」、「黒幕が誰なのか」、「信長の遺体のゆくえ」

 

2,「明智光秀」の動機は、「織田信長への怨恨」だろう。それに付随するのが、最新説「四国説」であると考えられる

 

3,「本能寺の変」の「黒幕」はいないと考えられる。明智光秀が「怨恨」を理由に、突発的に織田信長を討ち果たしたのだろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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