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織田信長の死因と最後の様子とは?最後の言葉にかくされた死の真相

織田信長の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません

 

実は筆者も、「織田信長」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「織田信長の死因・最後」については答えられませんでした

 

この記事では「織田信長」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました

 

「織田信長」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです

 

これを読んで、信長についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,織田信長の『死因』は?

「死因」はハッキリとはわかっておらず、2つの説がある

  • 「切腹」
  • 「焼死」

だが、正確にはわかっていないため、「不明」とする意見もある

 

2,織田信長の『没年月日』は?

旧暦・天正10年6月2日

新暦・1582年6月21日

享年

「49歳」(数え年)

「48歳」(満年齢)

 

3,織田信長の『最後の様子』は?

1582年6月2日未明】、重臣の「明智光秀」が、「織田信長」を本能寺で襲撃。

わずかな軍しかひきいていなかった信長は、自ら弓や槍を手に奮闘。

しかし、圧倒的な数をほこる明智軍にはかなわず、最期は信長みずから本能寺へ火をかけ、燃え盛る炎の中で、自害。

 

4,織田信長の『最後の言葉』は?

  • 「余は余自ら死をまねいたな」
  • 「是非におよばず」
  • 「女はくるしからず、急ぎまかり出よ」
  • 「人間(じんかん)五十年 化天(げてん)の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者の あるべきか」

織田信長の『死因』は何?

「織田信長」の死因は、2つの説がある

 

  • 「切腹」
  • 「焼死」

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

または「イエズス会」の記録「イエズス会日本年報」によれば、織田信長の死因は「不明」となっている

 

信長の「死因」については、この「イエズス会日本年報」、または「大田牛一」が記した「信長公記」に記録が残っている



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「信長公記」による死因

「織田信長」やその小姓衆(こしょうしゅう)は、【6月2日夜明け前】に、本能寺の周りで起こった騒がしさが、最初は下々の者の喧嘩だと思っていた。

 

しかし、しばらくすると明智軍「1万3千人」は、ときの声を上げて、本能寺の御殿にむけて、一斉に鉄砲を撃ち込んできた。

 

明智軍が四方より攻め込んできたので、御堂につめていた御番衆も御殿の小姓衆と合流。一団となって応戦した。

 

織田信長は初め、みずから弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦(げん)が切れたので、次に槍を取って戦うも「(右の)肘に槍傷を受けて」、本能寺のなかへと退いた。(このとき信長を槍で刺したのが、明智三羽烏の一人「安田国継」と言われている)

《安田国継》
「引用元ウィキペディアより」

信長は、それまで付き従っていた女房衆にたいして

「女はくるしからず、急罷出よ(いそぎまかりいでよ)」

(女たちはかまわないから、急いで逃げろ)

と逃げるよう指示した。

 

『当代記』によれば、信長は女性たちに対して三度も警告し、避難をうながした。

 

すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいたが、信長は本能寺の奥深くにこもり、「内側から納戸を締めて切腹した」。



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「イエズス会日本年報」による死因

本能寺の南側から約254メートル離れた場所に、南蛮寺(イエズス会の教会)があったので、イエズス会宣教師達が「本能寺の変」の一部始終を見ていた。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

この日、「フランシスコ・カリオン」司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達があわてて駆け込んできて

「(早朝ミサは)危ないから中止するように」

とすすめた。

 

その後、銃声がして、火の手が上がった。

 

また別の者が駆け込んで来て、

「この騒ぎは喧嘩などではなく、明智(光秀)が織田信長にそむいて(本能寺を)包囲したものだ」

という報せが届いた。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

信長たちは、謀叛(むほん)をまったく予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれること無く、本能寺へと侵入した。

 

信長は、起床して顔や手をあらっていたところを、明智の兵は「背後から弓矢を放って、信長の背中に命中させた」。

 

信長は矢をぬくと、薙刀(なぎなた)という鎌のような武器をふりまわして「腕に銃弾が当たるまで奮戦した」が、奥の部屋に入り、戸を閉じた。

 

ある人は、信長は日本の大名にならい「割腹して死んだ」といい、またある人は、「御殿に放火して生きながら焼死した」という。

 

だが火事が大きかったので、「どのように死んだかはわかっていない」。

 

いずれにしろ

「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人(織田信長)が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」

としめている



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信長を「一番槍」で負傷させた武将「安田国継」

「明智光秀」の家臣で「三羽烏」と呼ばれた「安田国継」が一番槍、つまり「織田信長を槍で最初に負傷させた」という逸話が残っている。

 

この「安田国継(別名・天野源右衛門)」は、信長の側近「森蘭丸」を討ち取ったことで有名。

《森蘭丸》
「引用元ウィキペディアより」



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織田信長の『没年月日』と『最後の様子』

「没年月日」と「享年」

旧暦・天正10年6月2日

新暦・1582年6月21日

 

享年

「49歳」(数え年)

「48歳」(満年齢)



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「最後の様子」

織田信長は、四国の武将「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」を攻撃することを決定。

《長宗我部元親》
「引用元ウィキペディアより」

三男の「織田信孝」、重臣の「丹羽長秀」「蜂屋頼隆」「津田信澄」の軍団を派遣する準備を進めた。

 

このとき、「織田信孝」は名目上、「長宗我部元親」のライバルで阿波国(徳島県)に勢力を有する「三好康長」の養子となる予定だった。

 

そして、「長宗我部元親」を討伐した後に、讃岐国は「織田信孝」に、阿波国は「三好康長」に与えることを計画。

 

また、伊予国(愛媛県)と土佐国(高知県)については、信長が淡路国(兵庫県・淡路島)までおもむいて、この残り2カ国を誰にあたえるのかを決定する予定であった。

 

「織田信孝」の四国侵攻開始は【1582年6月2日】に予定されていた。

《織田信孝》
「引用元ウィキペディアより」

もともと「長宗我部元親」は、「織田信長」と同盟関係にあり、信長の後ろ盾を得て、四国を統一するために戦っていた武将だった。

 

信長による突然の「四国遠征」は、長宗我部元親からすると、突然裏切られたようなものだった。

 

それまで「長宗我部元親」との交渉は、「明智光秀」が担当してきた。

 

そして「長宗我部元親」と敵対していた「三好康長」には、光秀のライバル「羽柴秀吉」が協力していたため、この「長宗我部元親」に対する四国政策の変更は、「羽柴秀吉」と「光秀」の派閥争いの結果であり、その派閥争いに敗北した明智光秀の立場を危うくするものであった。



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5月15日】、「武田勝頼」ひきいる名門「武田家」を滅ぼしたのち、その領地であった駿河国を与えられた礼のため、「徳川家康」が安土城を訪問。

《武田勝頼》
「引用元ウィキペディアより」

そこで信長は、「明智光秀」に対して、家康の接待役を命じる。

 

光秀は【5月15日~5月17日】にわたって、家康を手厚くもてなした。

 

信長の光秀に対する信頼は、かなり深かった。

 

しかし一方で、この接待のときに、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、

「信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にした」

と伝えている。

 

家康への接待が続く中で信長は、備中高松城を攻撃している「羽柴秀吉」の使者から、援軍の要請を受けた。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

信長は光秀に対して、秀吉への援軍に向かうようにと命令。

 

5月29日】、信長はいまだに抵抗を続ける「毛利輝元」ら毛利氏に対する中国遠征へと自ら出陣するため、護衛の軍をつれずに、小姓衆数十名のみをひきいて、安土城から京都へ移動し、本能寺に滞在。

 

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍「1万3千人」が、丹波亀山城から出陣し、中国方面ではなく、その逆方向である京都へ突然進軍。



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1582年6月2日未明】、「明智光秀」は「織田信長」を本能寺で襲撃。

 

この際に光秀は、標的が主君「織田信長」であることを、自分の部下たちに対して秘密にしていたことが『本城惣右衛門覚書』からわかる。

 

明智軍の兵士だった「本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)」は

「徳川家康を討つと思っていた」

と覚書に記している。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

わずかな軍しかひきいていなかった信長だったが、光秀に襲撃されて、はじめは自ら奮闘。

 

しかし、圧倒的多数の明智軍にはかなわず、信長は自ら本能寺に火をはなち、燃え盛る炎の中で、自害。

 

戦後、明智軍は「織田信長」の遺体をしばらく探したが、見つからなかった。

 

信長の遺体は発見されなかったが、その理由は「焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったため」と考えられている。

 

「本能寺の変」から4ヶ月後、「羽柴秀吉」の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた

《大徳寺》
「引用元ウィキペディアより」



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織田信長の『最後の言葉』と『死の真相』

信長の「最後の言葉」

「余は余自ら死を招いたな」

私は自分自身で死を招いてしまったな・・・。

 

これは信長の側近だった黒人武将「弥助」が証言したものだった。

 

「弥助」は「明智光秀」に見逃されて、生き延びた



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「是非におよばず」

仕方のないことだ。是か非かを確認する必要はない

 

明智光秀に周囲をかためられたことを知り、あきらめの言葉を口にした・・。

 

信長は光秀がどれほど緻密な人物であるのかを知っていたため、「光秀が謀反を起こした」と聞いて、即座にあきらめた。

 

「女はくるしからず、急罷(いそぎまかり)出よ(いでよ)」

女たちは気にすることはないから、急いで避難せよ

 

これは、本能寺にいた女性たちに対して口にしたセリフ。

 

信長は光秀が「女性を死なせるような武将ではない」ということも、よく知っていたため、彼女らが生き残れることを知っていた。

 

ともに死を覚悟していた女性たちは、信長から三度に渡って避難を命令されて、初めて逃げたという。



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「人間(じんかん)五十年 化天(げてん)の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者の あるべきか」

人間世界の50年間は、天界における1日でしかない。

 

人間の一生などは、まるで夢か幻のような、儚く一瞬で終わるものなのだ。

 

一度この世に生まれ出て、滅びないものなど、ありはしないのだ。

 

 

信長が好んで舞ったという「敦盛(あつもり)」の一節。

 

この歌の冒頭部分、「人間五十年」は、よく「人の寿命は五十年」と勘違いされているが、正確には「人間世界の五十年は、天界における一日にあたる」という意味。

 

また、信長が好んでいたのは「能の敦盛」ではなく、「幸若舞の敦盛」。

 

重々しく「人間五十年~」と歌っていたわけではなく、まるで民謡のように、「能」よりもリズミカルに明るめに歌い舞われた、と考えられる。



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信長の死の真相

「余は余自ら死を招いた」

弥助の証言に、信長の死の真相が隠されていると、著書「本能寺の変 431年目の真実」でも有名な明智光秀の子孫「明智憲三郎」さんは言っている。


光秀の家来「本城惣右衛門」は、「家康を討つと思っていた」と記録を残しているが、信長は光秀に対して

「本能寺に家康をおびきよせて、光秀の軍で家康を襲撃し、暗殺せよ」

と命令していたのだとか。

 

光秀は、信長が「天下統一後は、海外侵略戦争をするつもりである」と知って、それを止めるために、家康を討つ計画を逆に利用し、「本能寺で無防備だった信長を討った」のだ・・・と「明智憲三郎」さんは主張している。

 

信長が少数の部隊のみで本能寺に宿泊したのは、家康を討つにあたり、正当性を主張するため

「家康の部隊に、襲撃を受けたため、返り討ちにした」

という状況をつくるためだったのだとか。

 

「家康に襲撃された」という説に信ぴょう性をもたせるためにも、家康がひきいていた部隊よりも、はるかに少ない人数で本能寺に泊まる必要があった。(家康はこのとき、「本多忠勝」「井伊直政」ら側近のみをつれて「堺」に滞在。後日、信長のいる京都を訪れる予定だった)

本多忠勝
「引用元ウィキペディアより」

ところが、それが裏目に出て、光秀に討たれてしまった。

 

そのため、「余は余自ら死を招いたな」といったのである。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,織田信長の『死因』は?

「死因」はハッキリとはわかっておらず、2つの説がある

  • 「切腹」
  • 「焼死」

だが、正確にはわかっていないため、「不明」とする意見もある

 

2,織田信長の『没年月日』は?

旧暦・天正10年6月2日

新暦・1582年6月21日

享年

「49歳」(数え年)

「48歳」(満年齢)

 

3,織田信長の『最後の様子』は?

1582年6月2日未明】、重臣の「明智光秀」が、「織田信長」を本能寺で襲撃。

わずかな軍しかひきいていなかった信長は、自ら弓や槍を手に奮闘。

しかし、圧倒的な数をほこる明智軍にはかなわず、最期は信長みずから本能寺へ火をかけ、燃え盛る炎の中で、自害。

 

4,織田信長の『最後の言葉』は?

  • 「余は余自ら死をまねいたな」
  • 「是非におよばず」
  • 「女はくるしからず、急ぎまかり出よ」
  • 「人間(じんかん)五十年 化天(げてん)の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者の あるべきか」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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