濃姫(帰蝶)の全てを徹底解説!織田信長との関係や家系図を完全網羅

皆さんは「濃姫(のうひめ)」こと「帰蝶(きちょう)姫」を、ご存知でしょうか?

 

実は「帰蝶の詳細」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「帰蝶の家系図や最期」を、わかりやすく、可能な限りみじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「濃姫(帰蝶)」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「帰蝶」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「織田信長の正妻・帰蝶」への疑問や謎を、スッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「帰蝶(きちょう)」・・・別名「濃姫」または「鷺山殿」は、「織田信長」の正妻・正室であり、戦国大名「斎藤道三」の娘であり、さらには「斎藤義龍」の異母妹にあたる

 

2,「帰蝶」とは、あくまでも江戸時代の資料によるもので、本当に「帰蝶」という名前だったかどうか、はっきりしていない。「濃姫」とは「美濃国から来たお姫様」という意味で、「鷺山殿」とは、斎藤道三が隠居していた「鷺山城」から嫁いできた姫という意味。

 

3,「帰蝶」がどのような最期をむかえたのかは、わかっていない。ただ、夫「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた30年後に亡くなった、という説がもっとも有力なのではないか

 

4,「帰蝶」と「織田信長」・・・2人が仲睦まじい関係であった可能性は、残念ながら、極めて低いと考えられる・・・。

 

帰蝶(濃姫)とは何者なのか!「織田信長」とどういう関係?

「帰蝶」・・・別名「濃姫」とは、「織田信長」の正妻・正室です。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

また、戦国大名「斎藤道三」の娘であり、「斎藤義龍」の異母妹にもあたります。

 

この「帰蝶」という女性は、のちに数奇な運命をたどることになります。

 

実は、帰蝶が織田信長と結婚した数年後、父「斎藤道三」が、帰蝶の異母兄「斎藤義龍」に討たれているのです。

 

そのため帰蝶は、実家である「美濃国」を支配した異母兄「斎藤義龍」を、父の仇として激しく敵対することになります。

 

信長は、帰蝶を通じて「斎藤道三」の義理の息子という立場を最大限に活用します。

 

なんと信長は、美濃国の支配権は、「斎藤義龍」ではなくて、道三の義理の息子である自分にあると主張したのです。

 

信長は、義父「斎藤道三」が亡くなった11年後の【1567年】に、美濃国の侵略に成功。

 

妻「帰蝶」の故郷を取り返すことに成功しているのです。


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「濃姫」という名前の「読み方と意味」を解説

帰蝶と呼ばれる「織田信長の正室」について、実は正式名称はわかっていません。

 

「帰蝶」という名前も、本当にそのような名前であったのか、はっきりしていないのです。

 

「濃姫」と呼ばれたということですが、それは彼女が「美濃国から嫁いできた」という意味で、「美濃」の「濃」の一字をとって「濃姫」と呼んだに過ぎません。

 

日本では、「その人が住んでいる地名」で呼ぶ風習があります。

 

「鎌倉」という地に住んでいた「源頼朝」を「鎌倉殿」と呼び、中央のお館に住んでいた「織田信長」「武田信玄」を「お館様」と呼んでいたようなものです。

 

とはいえ、やはり「帰蝶」という名前が正式名称なのかどうか、わかりません。

 

「蝶となって帰る」・・・・とても素敵なお名前なので、正式名称であってほしいと思います。


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帰蝶(濃姫)はかわいいの?美人だったのかどうかを考察

帰蝶は美しい女性だったのでしょうか?

 

残念なお知らせがあります・・・。

 

あくまでも推測でしかありませんが、現実的に考えて、美女であった可能性は低いのではないでしょうか。

 

あとで解説しますが、信長と帰蝶の関係は、それほど良かったとは思えません。

 

美しい人ならば、信長の寵愛を受けていたはず。

 

「戦国一の美女」と呼ばれた織田信長の妹「お市の方」は、夫「浅井長政」から深く愛されました。

 

「お市の方」の娘で、母の美しさを受け継いだであろう長女「茶々」と、三女「江」は、それぞれ「豊臣秀吉」と「徳川秀忠」という最高権力者に、とても愛されました。(次女「初」は、夫「京極高次」との間に子供ができませんでした。もしかすると、「初」は父「浅井長政」に似たのかもしれません。)

 

「帰蝶」・・・・それほど美女ではなかった・・・のではないでしょうか。


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帰蝶の最後とは?その死は謎に包まれていた

帰蝶の最期は、ハッキリとはわかっていません。

  • 若くして亡くなった
  • 「本能寺の変」で信長とともに亡くなった
  • 信長の死後30年目に亡くなった

など諸説あります。

 

まず、「若くして亡くなった」という説についてです。

これは【1567年】に、信長が「美濃国」を攻め落とす前に、病死したという説です。

 

次に、「本能寺の変」で信長とともに亡くなった、という説。

これは、歴史資料には一つたりとも、そのことを記した物がなく、あくまで民間伝承なので、信憑性が乏しいです。

 

最期に「信長の死後、30年目にあたる【1612年】に亡くなった」という説です。

これは、記録に残っている「安土殿」と呼ばれた女性が、「帰蝶」のことなのではないか・・・というもの。

この「安土殿」が帰蝶なら、彼女は「78歳」まで生きたことになります。

 

「帰蝶」に関しては、あまりにも謎が多く、名前もハッキリしていません。

 

「帰蝶」「濃姫」「鷺山殿」などなど。

 

どれが彼女のことを指しているのか、それすらもハッキリわかっていない状況です。

 

なんと、「信長から離婚されてしまった」なんて説もあるほどです。

 

筆者個人の意見としては、「1612年まで生きていた説」が、もっとも可能性が高いのではないか、と思っています。


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「本能寺の変」のあと、その後「帰蝶」はどうなった?

「本能寺の変」のあとも、帰蝶が生きていたと仮定するなら、彼女はどのように過ごしていたのでしょうか?

 

「安土殿」と呼ばれた女性を「帰蝶」と考えるなら、帰蝶は信長の次男「織田信雄」のもとで生活していたようです。

 

豊臣秀吉は、「織田信長」の三男「信孝」を死に追いやっています。

 

信長の嫡男で帰蝶の養子になったと言われている「信忠」は、「本能寺の変」で亡くなっています。

 

そのため、世話になれるのは「信雄」しかいなかったのでしょう。

 

彼女は【1587年】の時点で、「織田信雄」の家族の中でも、「信長の生母・土田御前」より高い待遇を受けています。

 

おそらく信雄のもとで、夫「信長」の供養を続ける、穏やかな生活をしていたのでしょう。


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信長の死後、帰蝶が「再婚」した可能性を考察

信長の死後、帰蝶が再婚した可能性はあるのでしょうか?

 

可能性はゼロではありませんが、おそらく再婚はしていないでしょう。

 

剃髪して出家し、信長の供養をしていたと考えられます。

 

信長が亡くなったとき、帰蝶は「48歳」です。

 

信長の妹「お市の方」は、夫「浅井長政」が亡くなったあと、「柴田勝家」と再婚しています。

 

しかしその時「お市の方」は、「36~37」であったと考えられます。

 

さすがに50歳手前で再婚するというのは、可能性が低いと思います。

 

「帰蝶は、信長の死後、再婚しなかった」のではないでしょうか。


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帰蝶(濃姫)と「明智光秀」は、どういう関係だったのか?

帰蝶と明智光秀は、親同士が兄妹で「いとこ」同士であったと言われています。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

しかし、明智光秀については、その出自がハッキリしていないため、この説も正しいとは言い切れません。

 

実は「赤の他人」なんて可能性もあるのです。

 

ただ、通説によると、主君の「斎藤道三」が亡くなったあと、「明智光秀」は居城「明智城」を「斎藤義龍」に攻められて、美濃国から脱出。

 

そのあと光秀は、越前国で「足利義昭」「細川藤孝」と出会い、帰蝶との関係を頼りに、「織田信長」と「足利義昭」の間を仲介。

 

信長を味方にすることに成功した光秀は、信長に「京都への進軍(上洛)」をさせて、「足利義昭」「細川藤孝」とともに京都へ。

 

そこで、「信長の家来」として、「京都支配の仕事」を任されたと考えられています。

 

光秀は、信長からとてつもない信頼を勝ち取っています。

 

信長に仕えてから、わずか3年で、織田家臣団の全員を出世レースで追い抜き「城主」になっています(このとき築城したのが坂本城)。

 

何者かの仲介があったとすれば、この「出世スピードの速さ」も納得できます。

 

明智光秀は、信長の正妻「帰蝶」という、強力な後ろ盾を持っていたのではないでしょうか。

 

帰蝶が後ろ盾となったのは、もちろん2人が「いとこ同士」だったから。


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帰蝶(濃姫)の生涯年表

帰蝶については、わかっていないことも多いので、ハッキリした年表は書けません。

しかし、「1612年」に亡くなったと仮定して、簡単な年表を書いてみたいと思います。

 

 

1535年】(帰蝶1歳)

「帰蝶」誕生。母は「明智光秀」の叔母という説のある「小見の方」

父は戦国武将「斎藤道三」

 

1548年】(14歳)

「斎藤道三」が家督を「斎藤義龍」にゆずり、隠居

 

1549年】(15歳)

「織田信長」と結婚。

 

1553年】(19歳)

「織田信長」と「斎藤道三」が「正徳寺(聖徳寺)」で会見

「斎藤道三」が、ある予言を残す

 

1556年】(22歳)

「長良川の戦い」で「斎藤道三」が「斎藤義龍」に討たれる

 

1560年】(26歳)

「桶狭間の戦い」で「今川義元」戦死

 

1561年】(27歳)

「斎藤義龍」が病死。息子「斎藤龍興」が家督を継承。

 

1567年】(33歳)

「織田信長」が「稲葉山城」攻略に成功。

「帰蝶」が18年ぶりに故郷「美濃国」へ帰還

 

1568年】(34歳)

「明智光秀」が、「足利義昭」と「織田信長」を仲介し、信長が京都へ進軍(上洛)

おそらくこのとき、「明智光秀」と「帰蝶」は再会したのだろう

 

1570年】(36歳)

「石山戦争」勃発

「姉川の戦い」

 

1573年】(39歳)

「浅井長政」戦死

 

1575年】(41歳)

「長篠の戦い」

 

1579年】(45歳)

「安土城」天主閣が完成し、織田信長がここへ移り住む

おそらく「帰蝶」もこのとき「安土城」へ移動したと考えられる

 

1580年】(46歳)

「織田信長」と」本願寺顕如」による「石山戦争」終結

 

1582年】(48歳)

「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討たれる

「山崎の戦い」で「明智光秀」が「羽柴秀吉」に敗北し、戦死

 

1583年】(49歳)

「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」と「お市の方」が死去

直後に「織田信孝」切腹

 

1590年】(56歳)

「小田原征伐」で「北条氏政」「北条氏直」「伊達政宗」が「豊臣秀吉」に降伏。

「秀吉」が天下統一

 

1592年】(58歳)

「朝鮮出兵・文禄の役」

 

1597年】(63歳)

「朝鮮出兵・慶長の役」

 

1598年】(64歳)

「豊臣秀吉」死去

 

1600年】(66歳)

「関ヶ原の戦い」

 

1603年】(69歳)

「徳川家康」が征夷大将軍に就任

「江戸幕府」が成立

 

1605年】(71歳)

「徳川秀忠」が二代将軍に就任

 

1611年】(77歳)

「豊臣秀頼」と「徳川家康」が二条城で会見

このとき、「徳川家康」と「豊臣秀頼」の主従関係が逆転した、という説がある

 

1612年】(78歳)

「帰蝶」死去。

 

こうしてみると、帰蝶は夫「信長」が亡くなったあと、織田家の衰退を間近で見続けたことになります。

その余生は、悲しいものだったのかもしれません。


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帰蝶(濃姫)の家系図

帰蝶の家系図をご用意いたしました。

 

帰蝶は、斎藤道三と、明智光秀の叔母「小見の方」の娘。

 

「斎藤義龍」の異母妹に当たります。

「《帰蝶(濃姫)の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

ご覧の通り、帰蝶には子供がいません。

 

養子とした「織田信忠」の息子「三法師」こと「織田秀信」へと、「帰蝶」の系図は続いています。


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信長と帰蝶は仲睦まじい関係・・・だったのか?

信長と帰蝶は、仲睦まじい関係だったのでしょうか?

 

その可能性は、悲しいかな、低いと言わざるを得ません。

 

理由は簡単です。

 

2人の間に子供が誕生していないから。

 

おしどり夫婦として有名な「浅井長政」と妻「お市の方」には、諸説あるものの「3人の娘」が生まれています。

 

同じく、仲の良い夫婦だった「前田利常」と、その妻「お珠」の間にも、「3男5女」もの子供が生まれています。(「お珠」は15歳から、亡くなる25歳まで、ほぼ毎年出産している)

 

それに対して、帰蝶は一人も子供がいません。

 

もちろん、帰蝶は子供が出来にくい体質だった可能性はあります。

 

信長には、側室との間に数多くの子供がいますので、信長に問題があるわけではないのです。

 

残念ですが、2人の夫婦仲について、それほど良くはなかった可能性が、極めて高いと思います。


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岐阜へと戻った帰蝶を待っていた、明智光秀との再会

帰蝶は、【1567年】に「織田信長」が「岐阜城」へ拠点を移動したのと同時に、故郷「美濃」へ帰還したことになります。

 

そこで、帰蝶は幼なじみで「いとこ」である「明智光秀」と再会を果たしたと考えられます。

 

もちろんこれは、「帰蝶」と「明智光秀」が、「いとこ」であり「幼なじみ」だった説が正しい場合・・・の話しですが。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀を想いながらも、尾張「織田信長」に嫁いでいく帰蝶。

 

この【1549年】の「輿入れ」から、「18年後」に、帰蝶は「明智光秀」と再会を果たすこととなるのです。


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帰蝶のお墓はどこにあるのか?

帰蝶のお墓は、諸説あるものの、京都市の「大徳寺・総見院」という場所にあると考えられています。

ただ、何度も申しましたように、帰蝶については、その存在のほとんどが謎なのです。

 

そのため、「大徳寺総見院」のお墓が、本当に帰蝶のお墓なのかどうか、確定的な証拠がありません。

 

実は帰蝶・・・どこに眠っているのかも、ハッキリしていないのです。

 

もしも「大徳寺・総見院」に眠っているのなら、帰蝶は「織田家の菩提寺」に葬られたことになります。

 

織田家の菩提寺に葬られたということは、「信長に離縁された説」はありえないと思います。


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帰蝶(濃姫)が使っていた家紋

帰蝶は、実家「斎藤家」の「二頭波紋」と、「織田家」の「木瓜紋」を使っていたと考えられます。

 

帰蝶の実家「斎藤家」は、元々「撫子紋」という家紋を使っていました。

《撫子紋・なでしこもん》
「引用元ウィキペディアより」

 

しかし、帰蝶の父「斎藤道三」は、自ら描いた家紋「二頭波文」を使用していたのです。

 

帰蝶も、織田家に嫁ぐまでは、この「撫子紋」と「二頭波文」を使っていたのでしょう。

 

ですが、「織田家」に嫁いだ後は、織田家の「木瓜紋」を使っていたと思います。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」で、帰蝶は「蝶の紋章」が刻まれた着物を愛用しています。

 

おそらくこの「蝶の着物」は、ドラマオリジナル・・・。史実の帰蝶が「蝶」の紋章を利用した可能性は乏しいと思います。

 

全く関係ないかもしれませんが、「平氏」一族の家紋に「揚羽蝶」というものがあります。

 

織田家は「平氏」を名乗っているので、帰蝶は信長に嫁いだあと、この「揚羽蝶」の紋をつかったかもしれませんね。

《揚羽蝶紋》
「引用元ウィキペディアより」

 


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『帰蝶(濃姫)』について「ひとこと」いいたい

帰蝶・・・。

 

その存在感は、史実においては、残念ながら薄いと言わざるを得ません。

 

しかし、その「存在価値」は、極めて高かったと言えます。

 

「帰蝶」は美濃国の支配者「斎藤道三」の愛娘です。

 

そして「斎藤道三」から家督を継承した帰蝶の義兄「斎藤義龍」は、道三の子ではなく美濃国守護「土岐頼芸(とき よりのり)」の息子であると自称していたのです。

 

美濃国の守護「土岐頼芸」の息子であることを理由に、「美濃国の支配権」を主張する「斎藤義龍」。

 

それに対して、「帰蝶」を通じて「斎藤道三」の義理の息子であることと、道三が残してくれた「美濃国を信長にゆずる」と書かれた「国譲り状」という遺言書を理由に「美濃国の支配権」を主張した「織田信長。

 

信長にとって帰蝶は、天下統一の基盤となる美濃国を支配するために、なくてはならない存在だったのです。

 

帰蝶・・・・。

 

彼女は美濃から信長に嫁いだ18年後に、故郷「美濃国」へ帰還。

 

そして「明智光秀」と再会を果たすことになります。

 

この後、美濃国の支配権は、信長から帰蝶の養子「織田信忠」へと継承されます。

 

このときも、帰蝶は「織田信忠」の養母として、「信忠による美濃国支配権」の強力な後ろ盾となったのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「帰蝶(きちょう)」こと、別名「濃姫」または「鷺山殿」は、「織田信長」の正妻。「斎藤道三」の娘であり、「斎藤義龍」の異母妹にあたる

 

2,彼女が本当に「帰蝶」という名前だったかどうか、はっきりしていない。「濃姫」とは「美濃国から来たお姫様」という意味で、「鷺山殿」とは、斎藤道三が隠居していた「鷺山城」から嫁いできた姫という意味。本名はいまだにわかっていない。

 

3,「帰蝶」の最期は、今もわかっていない。ただ、夫「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた30年後の【1612年】に亡くなった、という説が、最も可能性が高い気がする。

 

4,「帰蝶」と「織田信長」・・・2人が仲睦まじい関係であった可能性は、極めて低いと思う

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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