今川義元のすべてを徹底解説!家紋や首の行方・墓の場所など完全網羅

皆さんは「今川義元(いまがわ よしもと)」を、ご存知でしょうか?

 

実は「今川義元」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「今川義元について【家紋】や【討ち取られた首のゆくえ】【お墓の場所】など」をそれぞれ、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「今川義元」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「今川義元」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「今川義元」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「今川義元(いまがわ よしもと)」とは、【1560年】に「桶狭間の戦い」で、「織田信長」によって討ち取られた戦国武将。義元は「東海道」を制圧して、大勢力をひきいていた

 

2,「今川義元」が使っていた家紋は「今川赤鳥(いまがわあかどり)」というもの。「女性用の髪をとかす櫛(くし)」、その「櫛」の汚れを取りのぞくための道具を形どった家紋。

 

3,今川義元の首は、「愛知県西尾市」の「東向寺」にある「義元公の首塚」へ埋葬された

【今川義元】とは何者なのか?何をした人かを解説

今川義元とは、【1560年】に現在の「愛知県名古屋市緑区」または「愛知県豊明市」で行われた「桶狭間の戦い」で、「織田信長」に討ち取られた戦国武将のことです。

 

このとき、「今川義元」がひきいた軍団は、諸説あるものの「4万人」。

 

対して「織田信長」は「3千人」と言われています。

 

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

「今川義元」は、現在の伊豆半島を除く「静岡県」、すなわち「駿河」「遠江」と、現在の「愛知県西部」にあたる「三河」、合計3カ国を領有していました。

 

義元は当時、日本有数の大勢力を率いていたのです。


スポンサーリンク


今川義元の【家紋】とその意味

「今川義元」が使っていた家紋は「今川赤鳥(いまがわあかとり)」という家紋です。

 

これは「女性用の髪をとかす櫛(くし)」、その「櫛」の汚れをのぞくための道具を形どった家紋なのです。

 

「赤鳥」とは、すなわち「垢取り」なのだとか・・・。

 

または「女性が馬に乗った際に、その女性の衣服が汚れないように、馬にかぶせる布製の敷物」を形どったものとも言われています。

《今川氏家紋》
【赤鳥紋】
「引用元ウィキペディアより」

 

今川家は「赤鳥紋」だけではなく、本家である「足利家」の家紋「二つ引き両」という家紋も使用していたようです。

「足利家が絶えたら吉良家が、吉良家が絶えたら今川が征夷大将軍の地位を継ぐ」

と言われた名家「今川家」。

 

「二つ引つ両」とは「龍」を意味しているといわれています。

 

櫛の道具を形どった「赤鳥紋」と龍の「二つ引き両」、この二つが名門「今川家」の家紋であり、旗印であったと言われています。


スポンサーリンク


今川義元の【首の行方】と【お墓】

今川義元の首は、「愛知県西尾市」の「東向寺」にある「義元公の首塚」へ埋葬されたと考えられています。

 

義元の首は、織田信長に討ち取られたものの、今川家の猛将「岡部元信」が奪還に成功。

 

岡部元信の手で、義元の本拠地「駿府」へかえったと言われています。

 

しかし、愛知県西尾市の「東向寺」には、「今川義元の首塚」が残されているのですが・・・。

 

駿府へ戻ったはずの首ですが、なぜ愛知県に首塚があるのでしょうか?

 

おそらく、首が腐敗したので、急いで埋葬し、遺髪のみを持って駿府へ帰還したのでしょうね。

 

今川義元の墓所は、現在の「静岡市葵区」にある今川家の菩提寺「臨済寺」にもあります。

 

「今川義元」の「首のゆくえ」と「墓の場所」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。

今川義元の首は桶狭間の後どこへ行った?なぜ義元は敗北したのか』の記事はコチラ

スポンサーリンク


今川義元の【居城】や【ゆかりの地】

今川義元は、現在の「静岡県静岡市」に位置していた「駿府城」を居城としていました。

 

義元は、この駿府という地で誕生したと考えられています。

 

幼名「芳菊丸(ほうぎくまる)」と名付けられた義元は、富士郡にあった「善徳寺」というお寺に修行に出され、そこで「太原雪斎」と出会います。

 

この「駿府城」で、育った「松平竹千代」は、のちに「江戸城」からこの「駿府城」へと移り住み、隠居生活を送っています。

 

それだけ「駿府」は、居心地がよかったのでしょうね。

 

ちなみに、「今川義元」が育った「善徳寺」は、のちに「今川義元」「武田信玄」「北条氏康」の3名が「善徳寺の会盟」と呼ばれる会談をし、「三国同盟」を締結した地としても有名です。

 

 

駿府を中心として、義元は「遠江」と「三河」、そして「尾張南部・知多半島」にまで領地を拡大していたと考えられます。

 

この「3カ国」の石高は、およそ「70万石」ほど。(1599年時点)

 

この石高からしても、最大動員兵力は、重税を課したなら約「4万人」・・・。

 

税が軽かったとしても「2万人弱」の軍を集めることができたはずです。

 

 

義元ゆかりの地としては、「臨済寺」が有名です。

 

このお寺は、今川義元の菩提寺であり、その師「太原雪斎」のお寺です。

 

この寺で、「松平竹千代」は「太原雪斎」から教えを受けたと言われています。

 

「松平竹千代」は、のちに「江戸幕府」を開き「264年」もの天下泰平を実現する基礎を、この「臨済寺」で「雪斎」から身につけたのでしょう。

 

 

最後に、今川義元ゆかりの地といえば、やはり「桶狭間の戦い」が行われた場所でしょう。

 

「桶狭間の戦い」が行われた場所は、現在「桶狭間古戦場公園」として整備されています。

 

公園の場所は、「愛知県名古屋市緑区桶狭間北3」

この公園には、「織田信長」と「今川義元」の銅像が建てられています


スポンサーリンク


今川義元の【肖像画】や【画像】

今川義元の肖像画は、現在のところ、発見されていないようです。

 

その代わり浮世絵は、数多く残されていますね。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

上の浮世絵の作者は、「歌川国芳(うたがわ くによし)」【1798~1861年

 

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

こちらの浮世絵の作者は、「落合芳幾(おちあい よしいく)」【1833~1904年

 

歴史的偉人の肖像画は、突然発見されることもあります。

 

もしかすると今後「今川義元」の肖像画が発見されるかもしれません。


スポンサーリンク


今川義元の【愛刀と鎧兜】

義元の愛刀「左文字」

今川義元の愛刀「左文字」が、現存しています。

 

今は「織田信長」をまつった京都市の「建勲神社」に、「左文字」という「今川義元」の愛刀がおさめられているのです。

 

織田信長は、義元を尊敬していたらしく、義元の刀「左文字」を、常に身につけていました。

 

この「左文字」は、のちに「義元左文字」と名付けられ、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」「徳川歴代将軍」「明治天皇」へと、受け継がれていくこととなります。

 

実はこの「左文字」・・・・かなり多くの武将の手を転々としているのですが、その人たちには共通点があると言われています。

 

「左文字は、天下を狙うものの手に渡る」

 

という因縁が噂されているのです。

義元の【兜】

今川義元の兜が現存しているようです。

 

義元の首は、「桶狭間の戦い」の後、「岡部元信」が行った交渉によって、尾張国南部の「鳴海城」と交換されました。

 

鳴海城を明け渡した岡部元信は、代わりに今川義元の首を受け取り、駿府城へ帰還します。

 

そのとき、今川義元の首とともに、兜が岡部元信に引き渡されました。

 

その兜が、代々「岡部家」につたえられ、現在は「大阪府岸和田市」にある「三の丸神社」におさめられているのです。


スポンサーリンク


今川義元と【桶狭間の戦い】について、カンタン解説

今川義元は、桶狭間の戦いにおいて、油断して奇襲を受け、大敗したと言われています。

 

しかし、「奇襲ではなかった」という説もあるのです。

 

信長は、不利な戦局を打開しようと、敵部隊の正面から突っ込んだところ、それがたまたま「義元の本陣」で、たまたま義元を討ち果たした・・・という説が唱えられています。

 

明智光秀の子孫として有名な作家「明智憲三郎」さんは、この「桶狭間の戦い」について、「全ては信長の作戦通りだった」という説を主張しておられます。

 

「明智憲三郎」さんが言うには、「孫子の兵法」「呉子の兵法」という、当時一流の兵法書を知り尽くしていた織田信長は、その兵法書の教えに忠実に従い、「狭い道に布陣した今川軍に、雨の中で、大声を上げて突っ込んだ」ため、勝利することができた」とのことです。

 

確かに「孫子」「呉子」の兵法の教えを見てみると、信長はそれに忠実にしたがって「奇襲」をしかけて、戦っているとも考えられます。

 

「今川義元は、油断した」・・・と言われています。

 

しかし義元は、決して愚かな武将ではありません。

 

「明智憲三郎」さんの説が正しいとするならば、あまりにも「信長の戦術」が見事だったために「義元」は敗れたと言えます。

 

義元は不運だった・・・とも言えるかもしれません。

 

今川義元の【家臣団】一覧

今川義元の家臣団を一覧で紹介いたします。

以下のとおりです。

 

  • 太原雪斎(今川義元・徳川家康を育て上げた師であり、天才軍師)
  • 朝比奈泰能
  • 朝比奈泰朝(泰能の息子。最後まで今川家に仕えた忠臣)
  • 朝比奈元長
  • 朝比奈元智
  • 安部元真
  • 天野景貫
  • 飯尾連竜
  • 庵原元政(または「之政」)
  • 鵜殿長持(今川義元の義弟。義元の妹を妻としている)
  • 鵜殿長照(長持の息子。今川義元の妹の息子にあたる。義元の甥)
  • 鵜殿氏長(長照の息子。徳川家の旗本)
  • 岡部元信(今川義元の首を取り戻し、のちに「高天神城」で徳川家康を苦しめた猛将)
  • 岡部正綱(岡部元信の一族)
  • 孕石元泰
  • 久野宗能
  • 菅沼定盈
  • 関口氏純(「氏広」または「親永」とも名乗っている。徳川家康の正室「築山殿」の父親)
  • 松平元康(のちの徳川家康)
  • 松井宗信

 


スポンサーリンク


今川義元の【子孫と家系図】

今川義元の子孫は、義元の嫡男「今川氏真」と、その妻「早川殿」を通じて、後世に伝えられています。

 

氏真と早川殿には、娘がおり、その娘が、今川家の本家にあたる「吉良家」へと嫁いでいるのです。

「《今川義元の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

氏真の娘婿「吉良義定」は、徳川家康に仕えて「高家」と呼ばれる格式高い名家ととして、その家系は後世へとつながっていきます。

 

この「吉良家」を通じて、氏真の末裔は、あの有名な「吉良上野介」へとつながります。

 

そして「吉良上野介」を通じて、「軍神の名家」である「上杉家」へとつながることになるのです。


スポンサーリンク


今川義元の【息子や父母】について

今川義元の父は「今川氏親」。

 

母は「寿桂尼」という女性です。

 

父「氏親」は、駿河の大名として、その地位を確立した武将。

 

しかし父「氏親」は、不可解な急死を遂げています。

 

氏親は、息子で後継者だったといわれている「彦五郎」と同じ日に急死。

 

そのため、「暗殺された」とも言われています。

 

「氏親」の死後、今川家の家督は、今川義元の兄「今川氏輝」が継承。

 

その「氏輝」も亡くなったため、出家していた「今川義元」は、母「寿桂尼」と師「太原雪斎」の支援を得て、兄「玄広恵探(げんこうえたん)」と激しく家督争いをします。(花倉の乱)

 

「家督争い」に勝利した今川義元は、今川家当主に就任。

 

その優れた能力を駆使して、東海道を制圧していくのです。

 

ちなみに「寿桂尼」は、女性ながらに圧倒的なカリスマ性を発揮して、息子「義元」が「桶狭間の戦い」で敗死したあとの今川家を、「武田信玄」「北条氏康」「徳川家康」から守り抜くのです。

 

今川義元には「氏真(うじざね)」という息子がいました。

 

しかしこの「氏真」は、相当に出来の悪い息子だったようです。

 

寿桂尼は、孫の「氏真」を協力に補佐し、今川家を守り続けたのです。

 

寿桂尼の死後、最強の戦国大名「今川家」は、衰退していくことになります。


スポンサーリンク


今川義元と【周辺人物】の関係

織田信長

今川義元と「織田信長」は、宿敵と言われているが、当初「今川義元」は、「織田信長」など眼中になかったと考えられています。

 

当時の「織田信長」は、「うつけ」と呼ばれていたため、義元は油断していたのかもしれません。

 

信長からすれば、「今川義元」は、すぐとなりに位置する「強敵」です。

 

信長は、「今川義元」を恐れ、そして強く警戒していたはずです。

徳川家康

「徳川家康」は、三河国の国主「松平清康」の孫であり、義元は「徳川家康」をのちの今川家の重鎮にしようと、英才教育を施したと言われています。

 

徳川家康こと「竹千代」は、もともと「三河国」の国主の若殿でした。

 

ところが父「松平広忠」の代には「松平家」は衰退し、隣りの「今川家」のチカラを借りなくては、生き残れない状況に陥っていたのです。

 

そのため、「今川家」からチカラを借りる代わりに、広忠は息子「竹千代」を人質として義元に差し出したのでした。

 

この「竹千代」がかなり優秀だったため、義元は自らの師匠である「太原雪斎」に、「竹千代」を教育させます。

 

竹千代は後に、義元から一字をもらって「松平元康」と名乗り、「徳川家康」と名前を改めていきます。

 

今川義元にとって、「徳川家康」は、人質以上に、目をかけたかわいい教え子のようなものだったのかもしれません。

武田信玄

「今川義元」と「武田信玄」は、義理の兄弟です。

 

信玄の姉が名刀「左文字」を持って、「今川義元」に嫁いでいます。

 

それだけではありません。

 

「今川義元」の娘が、「武田信玄」の嫡男「義信」の妻となっているのです。

 

義信夫婦の仲は、かなり良かったらしく、「今川家」と敵対しようとする「武田信玄」を、息子の「義信」は必死に止めたと言われています。

 

「武田信玄」は、「今川義元」を最後まで恐れていました。

 

そんな「今川義元」が「桶狭間の戦い」で、まさかの敗死を遂げたため、一気に駿河を奪い取ってしまおうと考えたのです。

井伊直虎

今川義元と「井伊直虎」は、主従関係にあると言って良い関係です。

 

一説には、義元の側室である「井伊直平の娘」は、「井伊直虎」の大叔母、つまり「直虎」の祖父の妹にあたると言われています。

 

「井伊直虎」は、今川義元が生きている間は、今川家に仕えていました。

 

しかし義元が死ぬと、「徳川家康」に仕えて、ともに「今川家」に対して、侵攻を開始しています。

 

直虎は義元に、心から臣従していなかったということですね。

豊臣秀吉

「今川義元」と「豊臣秀吉」にも、若干のつながりがあります。

 

「豊臣秀吉」は、まだ「織田信長」に仕える以前の若い頃、「松下之綱」という武将に仕えていました。

 

つまり「秀吉」はもともと「今川義元」の家臣の「松下之綱」の、そのまた家臣だったということです。

 

秀吉は、このときの恩を忘れておらず、「松下之綱」を大名に取り立てています。

 

余談ですが、「松下之綱」の娘「おりん」は、剣豪大名「柳生宗矩」の妻であり、「柳生十兵衛三厳」の母です。


スポンサーリンク


今川義元公【生誕500年】

今川義元は、【1519年】に誕生しているため、【2019年】は「今川義元公・生誕500年記念祭」が盛大に行われたようです。

 

特に「今川家」の菩提寺である「静岡市葵区」の「臨済寺」では、生誕500年を記念して、新しく造りかえられ、義元公の霊をまつる「今川神廟」という廟がつくられました。

 

1560年6月12日(永禄3年5月19日)】に亡くなった「今川義元」。

 

すでに亡くなってから、460年もの月日が経過。

 

最近になって、ようやく「海道一の弓取り」と呼ばれた「今川義元」の再評価がされるようになってきました。


スポンサーリンク


今川義元の天才軍師【太原雪斎】

今川義元には、「太原雪斎(たいげん せっさい)」という天才軍師がついていました。

 

雪斎は、「豊臣秀吉」の参謀「竹中半兵衛重治」や「黒田官兵衛孝高」に比べると、あまり有名ではありません。

 

しかし、筆者はこの「太原雪斎」こそ、戦国でも屈指の名参謀であると思っています。

 

「太原雪斎」は、今川義元の参謀・軍師であり、同時に幼い義元を育てた「師」でもありました。

 

雪斎は、今川家の宿敵であった「北条氏康」との関係を修復。

 

また、同盟者であった「武田信玄」も巻き込んで「三国同盟」を締結します。

 

じつはこの「三国同盟」、「武田信玄」と「北条氏康」にとって、とても利益のある同盟・・・・に見えますが、今川家がもっとも特をした同盟だったのです。

 

三国同盟があったおかげで、今川家は「義元」が「桶狭間の戦い」で亡くなったあとも、即座に滅亡することなく存続したと考えられます。

 

雪斎は、「桶狭間の戦い」の前に急死していますが、死してなお今川家を守ったのではないでしょうか。

 

ちなみに「雪斎」は、戦争もかなり上手だったらしく、織田信長の父「織田信秀」を、戦で何度も打ち破っています。


スポンサーリンク


今川義元は【上洛】して【天下統一】するつもりだったのか?

義元は、「織田信長」を「桶狭間の戦い」で倒して、そのまま京都へ進軍し、天下を取るつもりだったのでしょうか?

 

そもそも「天下統一」なんて、一気に出来るものだったのでしょうか?

 

筆者は、「不可能」だと思っています。

 

そもそも義元は、「織田信長」を倒してそのまま京都へ向かうつもりなどなかったと思っています。

 

京都へ向かうには、「美濃」の「斎藤義龍」や、「近江」の「浅井久政」「六角氏」を倒さなくてはいけません。

 

それを一度で倒し切るのは不可能でしょう。

 

今川義元は、京都を支配すること(すなわち上洛)を目指してはいたものの、「桶狭間の戦い」での目的は、「京都への向かうこと・上洛」ではなく、「信長討伐」だったと考えられます。

 

今川義元は、のちの織田信長ほど、「兵農分離」がうまくできていたとはいえません。

 

京都を長く支配するような長期遠征は、今川義元にはできなかったと思います。


スポンサーリンク


今川義元の【評価】

愚将とされている今川義元ですが、筆者は「今川義元は名将だった」と思っています。

 

そもそも、愚将であれば「武田信玄」「北条氏康」「織田信長」などの猛者を相手に、東海道を制圧出来るはずがありません。

 

とくに「武田信玄」は、「今川義元」が率いていた「今川家」を極端に恐れ、気を使っています。

 

「義元」の娘を、信玄は息子「義信」の妻にもらっていますが、それも「今川家」を恐れていたため、人質を貰い受けた・・・ということでしょう。

 

また、織田信長も、「今川義元」を恐れ、尊敬していたようです。

 

信長は、今川義元から奪った名刀「左文字」を「義元左文字」と呼んで愛刀とし、その刀に「義元を討ったとき、その身につけていた刀」と刻ませています。

 

おそらく信長は、義元を討ったという功績を、ずっと誇らしく思っていたのでしょう。

 

評価の低い「今川義元」ですが、内政にもチカラを発揮しています。


スポンサーリンク


今川義元の【エピソード】

義元といえば、「当代記」という資料に、面白いエピソードが残っています。

 

「花倉の乱」で討ち果たした兄「玄広恵探」が、ある日、義元の夢に出てきたのです。

「出陣してはならん」

 

叫ぶ兄「玄広恵探」に対して、義元は怒鳴りつけます。

「私の兄とはいえ、敵である貴様に、そのようなことを言われる筋合いはない!」

 

すると「玄広恵探」は、こう返します。

「お前のために言っているのではない。

我が今川一族の滅亡が近い・・・。

だから言っているのだ」

目を覚ました今川義元は、軍を進めている途中で、死んだはずの「玄広恵探」の姿を発見し、刀を握ったのでした。

 

義元ひきいる「今川軍4万」は、その直後に、尾張の国「桶狭間」へと到着したのです・・・。


スポンサーリンク


今川義元は【公家】かぶれで【顔にお化粧】をしていた

今川義元といえば、お歯黒で化粧をしていたというイメージが一般的です。

 

しかしこれは、後世の創作とも言われています。

 

この時代からさらに400年ほど前の「奥州平泉」。

 

「藤原氏」が栄華を極めたこの「平泉」では貴族たちが、自らの栄華を誇るために、「京都の言葉」をマネして、化粧にお歯黒もしていたとのこと。

 

義元や「駿府城」の人々が、もしも化粧・お歯黒をしていたとしても、それは決して軟弱という意味ではなく、京都をマネて、その栄華を誇っていたのでしょう。

 

それは、「公家かぶれ」と言えばそれまでですが、「今川家」のチカラを誇示する狙いもあったのだと思います。

 

余談ですが、もともと「お歯黒」は、虫歯だらけだった「天皇」が目立たないようにするため、公家全員が歯を黒く塗ったことが始まりなのだという説があります。


スポンサーリンク


その他

今川義元の【性格】

非常に冷徹で、しかも合理的な性格であったことがうかがえます。

 

義元は、「三国同盟」を締結し、長年の宿敵「北条氏康」との敵対行為を解消しています。

 

この「三国同盟」、最も得をしたのは「今川義元」です。

 

義元は、背後の「武田」「北条」という強敵を封じ込めることに成功し、全力で「京都」へ向けてすすめるようになったのです。

 

戦争も、ある程度は上手だった今川義元。

 

駿河の国を「今川仮名目録追加」などの法律で、合理的に治めた今川義元。

 

非常に合理的で、それでいて冷静沈着な性格であったと考えられます。

今川義元の【年表】

1519年】(今川義元1歳)

「今川義元」こと「芳菊丸」誕生

 

1529年】(11歳)

「太原雪斎」と出会う

 

1536年】(18歳)

京都から駿河に戻ると、兄「今川氏輝」が急死する

「花倉の乱」勃発

兄「玄広恵探」を倒して、今川家の家督を継承

 

1541年】(23歳)

三河国へ侵攻

 

1548年】(30歳)

「第二次小豆坂の戦い」

「織田信秀」を撃破

 

1554年】(36歳)

「武田信玄」「北条氏康」と「三国同盟」締結

 

1560年】(42歳)

「桶狭間の戦い」で戦死。

享年42歳

義元の「プロフィール」

今川義元のプロフィールを簡単に解説いたしますと、以下のとおりです。

 

  • 生年【1519年】
  • 没年【1560年6月12日(永禄3年5月19日)】
  • 出身地「駿河国・駿府」(現在の静岡県静岡市)
  • 幼名「芳菊丸(ほうぎくまる)」
  • あだ名「海道一の弓取り」
  • 父「今川氏親」
  • 母「寿桂尼」
  • 兄「今川氏輝」
  • 兄「玄広恵探」
  • 妻「武田信玄の姉」
  • 子「今川氏真」

 

名優「成田三樹夫」さんが演じた「今川義元」の名言「むごい教育」

悪役として有名な名俳優「成田三樹夫」さんをご存知でしょうか?

 

その「成田三樹夫」さんが、大河ドラマ「徳川家康」で、「今川義元」を演じておられました。

 

このとき名優「成田三樹夫」さんが演じた「今川義元」は、「名将」として再評価された「名将・今川義元」のイメージに、最もピッタリなのではないでしょうか。

 

「強い今川義元」を、「成田三樹夫」さんは見事に演じてみせたのです。

 

そんな「成田三樹夫」さんが演じる「今川義元」が、幼い「竹千代」こと「徳川家康」の教育方針について、こんなことを言っていました。

若くから女色を覚えさせ「龍じゃ虎じゃ」と褒めそやす

これこそがもっとも「むごい教育」だとは思わぬか

大河ドラマ「徳川家康」で今川義元は、幼い「竹千代」を警戒し、名将として育てるのではなく、「むごい教育」をして、愚将に育てようとしたのです。

 

ところが、今川義元の師「太原雪斎」は、「竹千代」の才能を見抜き、「竹千代」を育てることを楽しみ始めます。

 

そして太原雪斎は、「竹千代」のことを、愛弟子「今川義元」以上に目をかけて育てるのでした。

 

雪斎は「竹千代」に秘められた可能性を見抜いたのです。

 

今川義元の「むごい教育」、それを太原雪斎にさせなかった竹千代の勝利でした。

今川義元と「今川焼き」の関係

「今川焼き」と呼ばれる和菓子をご存知でしょう。

 

「今川焼き」は、「今川義元」と何か関連があるのでしょうか?

 

結論から言えば、「関係ある説が唱えられている」のです。

 

「今川焼き」というものが、「今川義元」が使用した家紋「二つ引き両」の形をマネてつくられたものだという説です。

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」

 

「二つ引き両」はもともと「足利家」の家紋なので、それでいうなら「足利焼き」でもよかった気もしますが・・・。

 

江戸時代の中期【1772~1781年】に、江戸の「今川善右衛門」というお金持ちが、「今川橋」の近くで、誰もが知っている「桶狭間の戦い」を宣伝に利用して、「今川焼き」という名前のお菓子を売ったことが始まり、という説もあるようです。


スポンサーリンク


もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」に勝利していたら、歴史はどうなっていた?

もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」に勝利していたら、歴史はどうなっていたのでしょうか?

 

おそらく「織田信長」は、今川義元に臣従していたでしょう。信長が殺されることはなかったと思います。

 

その後の信長の猛烈な快進撃は、なかったと考えられます。

 

とはいえ、今川義元の天下が訪れたか?というと、それも難しいと思います。

 

京都への道には、まだ「美濃・斎藤家」「北近江・浅井家」「南近江・六角家」などがいます。

 

これらを屈服させるには、「今川義元」には、不安要素が多すぎます。

 

もっとも大きな不安要素は2つ

 

  1. 「義元自身の寿命」
  2. 「後継者・今川氏真の能力不足」

 

義元は「桶狭間の戦い」のとき「42歳」。

 

人生を50年と考えると、残り10年足らずで、天下を取るのは難しいでしょう。

 

また、後継者であった嫡子「氏真」は、真の愚将として有名です。

 

これだけの不安要素があったら、今川家の天下は難しいでしょう。

 

義元亡き後は、「織田信長」「徳川家康」「武田信玄」らに、良いようにされていたと思われます。

「義元が、桶狭間の戦いで勝利していたら、信長を屈服させて、さらに勢力を拡大させたものの、天下には届かず、義元の死後に今川家が衰退することは、避けられなかった」

と、筆者は予想します。


スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川義元は、【1560年】に「桶狭間の戦い」で、「織田信長」に討ち取られた武将。義元は「東海道」を制圧していた

 

2,「義元」が使っていた家紋は「今川赤鳥(いまがわあかどり)」。「櫛(くし)」の汚れを取りのぞくための道具を形どった家紋。

 

3,義元の首は、「愛知県西尾市」にある「義元公の首塚」へ埋葬された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

関連記事

よろしければ、以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。

明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』の記事はコチラ
織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます』の記事はコチラ
斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅』の記事はコチラ

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

2020年4月
« 3月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930  
ページ上部へ戻る