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今川義元のすべてを徹底解説!家紋や首の行方・墓の場所など完全網羅

皆さんは今川義元を、ご存知でしょうか?

 

実は今川義元について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では今川義元について【家紋】や【討ち取られた首のゆくえ】【お墓の場所】などをそれぞれ、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は今川義元について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、今川義元に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、今川義元の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,今川義元とは、【1560年】に桶狭間おけはざまの戦いで、織田信長によって討ち取られた戦国武将。義元は東海道を制圧して、大勢力をひきいていた

 

2,今川義元が使っていた家紋は今川赤鳥いまがわあかとりというもの。女性用の髪をとかすくし、その櫛の汚れを取りのぞくための道具を形どった家紋。

 

3,今川義元の首は、愛知県西尾市の東向寺にある義元公の首塚へ埋葬された

目次

今川義元とは何者なのか?何をした人なのかを解説

今川義元とは、【1560年】に現在の愛知県名古屋市緑区、または愛知県豊明市で行われた桶狭間の戦いで、織田信長に討ち取られた戦国武将のことです。

 

このとき、今川義元がひきいた軍団は、諸説あるものの4万人。

 

対して織田信長は3千人といわれています。

 

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

今川義元は、現在の伊豆半島を除く静岡県、すなわち駿河・遠江と、現在の愛知県西部にあたる三河の、合計3カ国を領有していました。

 

義元は当時、日本有数の大勢力を率いていたのです。


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今川義元の家紋とその意味

今川義元が使っていた家紋は今川赤鳥という家紋です。

 

これは女性用の髪をとかす櫛、その櫛の汚れをのぞくための道具を形どった家紋なのです。(または「馬の汚れ落とし」とも考えられている)

 

赤鳥とは、すなわち垢取あかとりなのだとか・・・。

 

または女性が馬に乗った際に、その女性の衣服が汚れないように、馬にかぶせる布製の敷物を形どったものとも言われています。

《今川氏家紋》
【赤鳥紋】
「引用元ウィキペディアより」

 

今川家は赤鳥紋だけではなく、本家である足利家の家紋二つ引き両ふたつひきりょうという家紋も使用していたようです。

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」

「足利家が絶えたら吉良家が、吉良家が絶えたら今川が征夷大将軍の地位を継ぐ」

といわれていた今川家は、日本の武士たちの頂点に君臨していた足利将軍家に次ぐ名家だったのです。

 

二つ引つ両とは龍を意味しているといわれています。

 

櫛の道具を形どった赤鳥紋と龍の二つ引き両、この二つが名門・今川家の家紋であり、旗印であったといわれています。

 

→→→→→【今川義元の家紋】についてくわしくはこちら


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今川義元の首のゆくえと、お墓の場所

今川義元の首は、愛知県西尾市の東向寺にある義元公の首塚へ埋葬されたと考えられています。

 

義元の首は、織田信長に討ち取られたものの、今川家の猛将・岡部元信が奪還に成功。

 

岡部元信の手で、義元の本拠地・駿府へかえったと言われています。

 

しかし愛知県西尾市の東向寺には、今川義元の首塚が残されているのですが・・・。

 

駿府へ戻ったはずの首ですが、なぜ愛知県に首塚があるのでしょうか?

 

おそらく首が腐敗したので、急いで埋葬し、遺髪のみを持って駿府へ帰還したのでしょう。

 

今川義元の墓所は、現在の静岡市葵区にある今川家の菩提寺・臨済寺にもあります。

 

→→→→→【今川義元の首は今どこに?】についてくわしくはこちら


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 今川義元の居城や、ゆかりの地

今川義元の居城

今川義元は、現在の静岡県静岡市に位置していた駿府すんぷにあった今川館を居城としていました。

 

義元は、この駿府という地で誕生したと考えられています。

 

幼名・芳菊丸ほうぎくまると名付けられた義元は、富士郡にあった善徳寺というお寺に修行に出され、そこで太原雪斎たいげんせっさいと出会います。

 

この駿府城で、育った松平竹千代まつだいらたけちよこと徳川家康は、のちに江戸城からこの駿府城へと移り住み、隠居生活を送っています。

 

徳川家康にとって駿府は、それだけ居心地がよかったのでしょうね。

 

ちなみに、今川義元が育った善徳寺は、のちに今川義元・武田信玄・北条氏康の3名が善徳寺の会盟と呼ばれる会談をし、三国同盟を締結した地としても有名です。

 

駿府を中心として、義元は遠江と三河、そして尾張南部・知多半島にまで領地を拡大していたと考えられます。

 

駿河・遠江・三河の3カ国の石高は、およそ70万石ほど。(1599年時点)

 

当時は1万石で250人の兵士を動員することが一般的でした。

 

つまり70万石ならば、70×250=17500人の兵士が動員できたというわけです。

 

しかし桶狭間の戦いで今川義元は、かなり無理をして兵士を集めていました。

 

そのときの最大動員兵力は、重税を課したなら約4万人・・・。

 

税が軽かったとしても2万人弱の軍を集めることができたはずです。

義元ゆかりの地【臨済寺】

義元ゆかりの地としては、静岡の臨済寺が有名です。

 

このお寺は、今川義元の菩提寺であり、その師・太原雪斎のお寺です。

 

この寺で、松平竹千代は太原雪斎から教えを受けたと言われています。

 

松平竹千代は、のちに江戸幕府を開き265年もの天下泰平を実現する基礎を、この臨済寺で雪斎から身につけたのでしょう。

義元ゆかりの地【桶狭間】

最後に、今川義元ゆかりの地といえば、やはり桶狭間の戦いが行われた場所でしょう。

 

桶狭間の戦いが行われた場所は、現在は桶狭間古戦場公園として整備されています。

 

公園の場所は、愛知県名古屋市緑区桶狭間北3

この公園には、織田信長と今川義元の銅像が建てられています。

 

→→→→→【今川義元のゆかりの地】についてくわしくはこちら


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今川義元の肖像画や画像

今川義元の肖像画は、現在のところ、大聖寺に所蔵されているものだけです。

 

大変恐れ入りますが、その大聖寺の肖像画を掲載できなかったので、リンクをご用意いたしました。

 

今川義元の肖像画はこちら

 

浮世絵は、数多く残されていますね。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

上の浮世絵の作者は、歌川国芳うたがわくによし【1798~1861年】

 

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

こちらの浮世絵の作者は、落合芳幾おちあいよしいく【1833~1904年】

 

→→→→→【今川義元の肖像画】についてくわしくはこちら


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今川義元の愛刀と鉄兜

義元の愛刀・左文字さもんじ

今川義元の愛刀・左文字が、現存しています。

 

今は織田信長をまつった京都市の建勲けんくん神社に、左文字という今川義元の愛刀がおさめられているのです。

 

織田信長は義元を尊敬していたらしく、義元の刀・左文字を、常に身につけていました。

 

この左文字は、のちに義元左文字と名付けられ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・徳川歴代将軍・明治天皇へと、受け継がれていくこととなります。

 

実はこの左文字・・・・かなり多くの武将の手を転々としているのですが、その人たちには共通点があると言われています。

 

左文字は、天下を狙うものの手に渡る

 

という因縁が噂されているのです。

 

→→→→→【今川義元の愛刀】についてくわしくはこちら

義元の兜

桶狭間の戦いで今川義元が頭にかぶっていた兜が、大阪府岸和田市に現存しているようです。

 

2023年の大河ドラマ【どうする家康】の第一話において、織田信長が兜をかぶったままの今川義元の首を持って、疾走するシーンがありました。

 

実際に、織田信長は今川義元の首を、かぶっていた兜ごと奪い取っていったのです。

 

義元の首は、桶狭間の戦いの後、岡部元信が行った交渉によって、尾張国南部の鳴海城と交換されました。

 

鳴海城を明け渡した岡部元信は、代わりに今川義元の首を受け取り、駿府城へ帰還します。

 

そのとき、今川義元の首とともに、義元がかぶっていた兜が岡部元信に引き渡されました。

 

その兜が、代々岡部家につたえられ、現在は大阪府岸和田市にある三の丸神社におさめられているのです。

 

→→→→→【今川義元の鉄兜】についてくわしくはこちら


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今川義元と桶狭間の戦いについて、簡単に解説

今川義元は、桶狭間の戦いにおいて、油断して奇襲を受け、大敗したといわれています。

 

しかし、奇襲ではなかったという説もあるのです。

 

信長は、不利な戦局を打開しようと、敵部隊の正面から突っ込んだところ、それがたまたま義元の本陣で、たまたま義元を討ち果たした・・・という説が唱えられています。

 

明智光秀の子孫として有名な作家・明智憲三郎さんは、この桶狭間の戦いについて、全ては信長の作戦通りだったという説を主張しておられます。

 

明智憲三郎さんが言うには、孫子の兵法・呉子の兵法という、当時一流の兵法書を知り尽くしていた織田信長は、その兵法書の教えに忠実に従い、狭い道に布陣した今川軍に、雨の中で、大声を上げて突っ込んだため、勝利することができたとのことです。

 

確かに孫子・呉子の兵法の教えを見てみると、信長はそれに忠実にしたがって奇襲をしかけて、戦っているとも考えられます。

 

今川義元は、油断した・・・といわれています。

 

しかし義元は、決して愚かな武将ではありません。

 

明智憲三郎さんの説が正しいとするならば、あまりにも信長の戦術が見事だったために義元は敗れたと言えます。

 

義元は不運だった・・・とも言えるかもしれません。

 

→→→→→【義元が桶狭間で敗北した理由】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【桶狭間の謎と疑問】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【桶狭間の戦いとは何かを簡単解説】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【桶狭間で信長がつかった戦法】についてくわしくはこちら

今川義元の家臣団一覧

今川義元の家臣団を一覧で紹介いたします。

以下のとおりです。

 

  • 太原雪斎(今川義元・徳川家康を育て上げた師であり、天才軍師)
  • 朝比奈泰能
  • 朝比奈泰朝(泰能の息子。最後まで今川家に仕えた忠臣)
  • 朝比奈元長
  • 朝比奈元智
  • 安部元真
  • 天野景貫
  • 飯尾連竜
  • 庵原元政(または之政)
  • 鵜殿長持(今川義元の義弟。義元の妹を妻としている)
  • 鵜殿長照(長持の息子。今川義元の妹の息子にあたる。義元の甥)
  • 鵜殿氏長(長照の息子。徳川家の旗本)
  • 岡部元信(今川義元の首を取り戻し、のちに高天神城で徳川家康を苦しめた猛将)
  • 岡部正綱(岡部元信の一族)
  • 孕石元泰
  • 久野宗能
  • 菅沼定盈
  • 関口氏純(氏広または親永とも名乗っている。徳川家康の正室・築山殿の父親)
  • 松平元康(のちの徳川家康)
  • 松井宗信

 

→→→→→【今川義元の家臣団一覧】についてくわしくはこちら


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今川義元の子孫と家系図

今川義元の子孫は、義元の嫡男・今川氏真と、その妻・早川殿を通じて、後世に伝えられています。

 

あの吉良上野介きらこうずけのすけも、今川義元の血を引く子孫の1人です。

 

氏真と早川殿には、娘がおり、その娘が、今川家の本家にあたる吉良家へと嫁いでいるのです。

「《今川義元の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

氏真の娘婿・吉良義定は、徳川家康に仕えて高家と呼ばれる格式高い名家ととして、その家系は後世へとつながっていきます。

 

この吉良家を通じて、氏真の末裔は、あの有名な吉良上野介へとつながります。

 

そして吉良上野介を通じて、軍神の名家である上杉家へとつながることになるのです。

 

→→→→→【今川義元の家系図と子孫】についてくわしくはこちら


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 今川義元の息子や父母について!どんな人なの?

今川義元の父は今川氏親いまがわうじちか。母は寿桂尼じゅけいにという女性です。

 

父・氏親は、駿河の大名として、その地位を確立した武将。

 

しかし父・氏親は、不可解な急死を遂げています。

 

氏親は、息子で後継者だったといわれている彦五郎と同じ日に急死。

 

そのため、暗殺されたともいわれています。

 

氏親の死後、今川家の家督は、今川義元の兄・今川氏輝が継承。

 

その氏輝も亡くなったため、出家していた今川義元は、母・寿桂尼と師・太原雪斎の支援を得て、兄・玄広恵探げんこうえたんと激しく家督争いをします。(花倉の乱)

 

家督争いに勝利した今川義元は、今川家当主に就任。

 

その優れた能力を駆使して、東海道を制圧していくのです。

 

ちなみに寿桂尼は、女性ながらに圧倒的なカリスマ性を発揮して、息子・義元が桶狭間の戦いで敗死したあとの今川家を、武田信玄・北条氏康・徳川家康から守り抜くのです。

 

今川義元には氏真うじざねという息子がいました。

 

しかしこの氏真は、相当に出来の悪い息子だったようです。

 

寿桂尼は、孫の氏真を強力に補佐し、今川家を守り続けたのです。

 

寿桂尼の死後、最強の戦国大名・今川家は、衰退していくことになります。

 

→→→→→【今川義元が見た予知夢】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【今川義元の父母と息子】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【今川氏真と本能寺の変】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【今川氏真の最期と子孫】についてくわしくはこちら


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今川義元と、周辺人物との関係

織田信長

今川義元と織田信長は、宿敵と言われていますが、当初今川義元は、織田信長など眼中になかったと考えられています。

 

当時の織田信長は、うつけ(大バカ者)と呼ばれていたため、義元は油断していたのかもしれません。

 

信長からすれば、今川義元は、すぐとなりに位置する強敵です。

 

信長は、今川義元を恐れ、そして強く警戒していたはずです。

 

→→→→→【織田信長って何した人?】についてくわしくはこちら

徳川家康

徳川家康は、三河国の国主・松平清康の孫であり、義元は徳川家康をのちの今川家の重鎮にしようと、英才教育を施したといわれています。

 

徳川家康こと竹千代は、もともと三河国の国主の若殿でした。

 

ところが父・松平広忠の代には松平家は衰退し、隣りの今川家のチカラを借りなくては、生き残れない状況に陥っていたのです。

 

そのため、今川家からチカラを借りる代わりに、広忠は息子・竹千代を人質として義元に差し出したのでした。

 

この竹千代が優秀だったため、義元は自らの師匠である太原雪斎に、竹千代を教育させます。

 

竹千代は後に、義元から一字をもらって松平元康と名乗り、徳川家康と名前を改めていきます。

 

今川義元にとって、徳川家康は、人質以上に、目をかけたかわいい教え子のようなものだったのかもしれません。

 

その証拠に、今川義元は自らの姪である瀬名姫(築山殿)を、徳川家康に嫁がせて、家康を今川家の一族同然にあつかっています。

 

→→→→→【今川義元と徳川家康の関係】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【瀬名姫(築山殿)の生涯と最期】についてくわしくはこちら

武田信玄

今川義元と武田信玄は、義理の兄弟です。

 

信玄の姉が、名刀・左文字を持参して、今川義元に嫁いでいます。

 

それだけではありません。

 

今川義元の娘が、武田信玄の嫡男・義信の妻となっているのです。

 

義信夫婦の仲は、かなり良かったらしく、今川家と敵対しようとする武田信玄を、息子の義信は必死に止めたと言われています。

 

武田信玄は、今川義元を最後まで恐れていました。

 

そんな今川義元が桶狭間の戦いで、まさかの敗死を遂げたため、一気に駿河を奪い取ってしまおうと考えたのです。

 

→→→→→【武田信玄の強さ】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【今川義元と武田信玄の関係】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【今川義元と北条氏康の関係】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【武田信玄と上杉謙信どちらが強いのか】についてくわしくはこちら

井伊直虎

2017年放送の大河ドラマ【おんな城主直虎】の主人公・井伊直虎と今川義元は、主従関係であり、同時に親戚でもあります。

 

一説には、義元の側室である井伊直平の娘は、井伊直虎の大叔母、つまり直虎の祖父の妹にあたると言われています。

 

井伊直虎は、今川義元が生きている間は、今川家に部下としてつかえていました。

 

しかし義元が死ぬと、徳川家康に仕えて、ともに今川家に対して、侵攻を開始しています。

 

直虎は義元に、心から臣従していなかったということですね。

 

→→→→→【今川義元と井伊直虎の関係】についてくわしくはこちら

豊臣秀吉

今川義元と豊臣秀吉にも、若干のつながりがあります。

 

豊臣秀吉は、まだ織田信長に仕える以前の若い頃、松下之綱という武将に仕えていました。

 

つまり秀吉はもともと今川義元の家臣の松下之綱の、そのまた家臣だったということです。

 

秀吉はこのときの恩を忘れておらず、松下之綱を大名に取り立てています。

 

余談ですが、松下之綱の娘・おりんは、剣豪大名・柳生宗矩の妻であり、有名な剣豪・柳生十兵衛三厳の母です。

 

→→→→→【今川義元と豊臣秀吉の関係】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【秀吉と名刀・義元左文字】についてくわしくはこちら


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今川義元公【生誕500年】記念祭

今川義元は、【1519年】に誕生しているため、【2019年】は今川義元公・生誕500年記念祭が盛大に行われたようです。

 

特に今川家の菩提寺である静岡市葵区の臨済寺では、生誕500年を記念して新しく造りかえられ、義元公の霊をまつる今川神廟という廟がつくられました。

 

【1560年6月12日(永禄3年5月19日)】に亡くなった今川義元。

 

すでに亡くなってから、460年もの月日が経過しています。

 

最近になって、ようやく海道一の弓取りと呼ばれた今川義元の再評価がされるようになってきました。


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今川義元の天才軍師【太原雪斎】

今川義元には、太原雪斎たいげんせっさいという天才軍師がついていました。

 

雪斎は、豊臣秀吉の参謀・竹中半兵衛重治や黒田官兵衛孝高に比べると、あまり有名ではありません。

 

しかし、筆者はこの太原雪斎こそ、戦国でも屈指の名参謀であると思っています。

 

太原雪斎は、今川義元の参謀・軍師であり、同時に幼い義元を育てた師でもありました。

 

雪斎は、今川家の宿敵であった北条氏康との関係を修復。

 

また、同盟者であった武田信玄も巻き込んで三国同盟を締結します。

 

歴史学者・小和田哲男おわだてつお先生がおっしゃるには、この三国同盟は戦国時代に存在していた同盟のなかでも、かなり完成度の高い同盟だったようです。

 

じつはこの三国同盟、武田信玄と北条氏康にとって、とても利益のある同盟・・・・に見えますが、今川家がもっとも特をした同盟だったのです。

 

三国同盟があったおかげで、義元が桶狭間の戦いで亡くなったあとも、今川家は即座に滅亡することなく、9年ものあいだ存続したと考えられます。

 

雪斎は、桶狭間の戦いの前に急死していますが、死してなお今川家を守ったといえるのではないでしょうか。

 

ちなみに雪斎は、戦争もかなり上手だったらしく、織田信長の父・織田信秀を、戦で何度も打ち破っています。

 

→→→→→【今川義元と太原雪斎】についてくわしくはこちら


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今川義元は上洛し、天下統一をするつもりだったのか?

義元は、織田信長を桶狭間の戦いで倒して、そのまま京都へ進軍し、天下を取るつもりだったのでしょうか?

 

そもそも天下統一なんて、一気に出来るものだったのでしょうか?

 

筆者は、不可能だと思っています。

 

そもそも義元は、織田信長を倒してそのまま京都へ向かうつもりなどなかったと思っています。

 

京都へ向かうには、美濃の斎藤義龍や、近江の浅井久政と六角氏を倒さなくてはいけません。

 

それを一度で倒し切るのは不可能でしょう。

 

今川義元は、京都を支配すること(すなわち上洛)を目指してはいたものの、桶狭間の戦いでの目的は、京都への向かうこと・上洛ではなく、信長討伐だけだったと考えられます。

 

今川義元は、織田信長ほど、兵農分離がうまくできていたとはいえません。

 

京都を長く支配するような長期遠征は、今川義元にはできなかったと思います。

 

→→→→→【今川義元と天下統一】についてくわしくはこちら


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今川義元の評価

愚将とされている今川義元ですが、筆者は今川義元は名将だったと思っています。

 

そもそも、愚将であれば武田信玄・北条氏康・織田信長などの猛者を相手に、東海道を制圧出来るはずがありません。

 

とくに武田信玄は、今川義元が率いていた今川家を極端に恐れ、気を使っています。

 

義元の娘を、信玄は息子・義信の妻にもらっていますが、それも今川家を恐れていたため、人質を貰い受けた・・・ということでしょう。

 

織田信長も、今川義元を恐れ、尊敬していたようです。

 

信長は、今川義元から奪った名刀・左文字を義元左文字と呼んで愛刀とし、その刀に【義元を討ったとき、その身につけていた刀】と刻ませています。

 

おそらく信長は、義元を討ったという功績を、ずっと誇らしく思っていたのでしょう。

 

評価の低い「今川義元」ですが、内政にもチカラを発揮しています。

 

→→→→→【今川義元の評価】についてくわしくはこちら


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今川義元の逸話・エピソード

義元といえば、当代記とうだいきという資料に、面白いエピソードが残っています。

 

花倉の乱で討ち果たした兄・玄広恵探げんこうえたんが、ある日、義元の夢に出てきたのです。

「出陣してはならん」

 

叫ぶ兄・玄広恵探に対して、義元は怒鳴りつけます。

「私の兄とはいえ、敵である貴様に、そのようなことを言われる筋合いはない!」

 

すると玄広恵探は、こう返します。

「お前のために言っているのではない。

 

我が今川一族の滅亡が近い・・・。

 

だから言っているのだ」

目を覚ました今川義元は、軍を進めている途中で、死んだはずの玄広恵探の姿を発見し、刀を握ったのでした。

 

義元ひきいる今川軍4万は、その直後に、尾張の国・桶狭間へと到着したのです・・・。

 

→→→→→【今川義元の予知夢の逸話】についてくわしくはこちら


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 今川義元は公家かぶれで、‎顔にお化粧をしていた

今川義元といえば、お歯黒で化粧をしていたというイメージが一般的です。

 

しかしこれは、後世の創作ともいわれています。

 

この時代からさらに400年ほど前の奥州平泉において、お歯黒と京都の方言が流行していたといいます。

 

藤原氏が栄華を極めたこの平泉では貴族たちが、自らの栄華を誇るために、京都の言葉をマネして、化粧にお歯黒もしていたのだとか。

 

義元や駿府城の人々が、もしも化粧・お歯黒をしていたとしても、それは決して軟弱という意味ではなく、京都をマネてその栄華を誇っていたのでしょう。

 

それは、公家かぶれと言えばそれまでですが、今川家のチカラを誇示する狙いもあったのだと思います。

 

現代に例えて言ってみると、有名な社長が、ブランド品で身の回りを固めているような感じでしょうか。

 

余談ですが、もともとお歯黒は、虫歯だらけだった天皇が目立たないようにするため、公家全員が歯を黒く塗ったことが始まりなのだという説があります。

 

→→→→→【今川義元はお公家さんだったの?】についてくわしくはこちら


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その他

今川義元の性格

非常に冷徹で、しかも合理的な性格であったことがうかがえます。

 

義元は、三国同盟を締結し、長年の宿敵・北条氏康との敵対行為を解消しています。

 

この三国同盟、一番得をしたのは今川義元です。

 

義元は、背後の武田・北条という強敵を封じ込めることに成功し、全力で京都へ向けてすすめるようになったのです。

 

戦争も、ある程度は上手だった今川義元。

 

駿河の国を今川仮名目録追加などの法律で、合理的に治めた今川義元。

 

非常に合理的で、それでいて冷静沈着な性格であったと考えられます。

今川義元の生涯年表

【1519年】(今川義元1歳)
今川義元こと芳菊丸誕生

 

【1529年】(11歳)
太原雪斎と出会う

 

【1536年】(18歳)
京都から駿河に戻ると、兄・今川氏輝が急死する
花倉の乱勃発
兄・玄広恵探を倒して、今川家の家督を継承

 

【1541年】(23歳)
三河国へ侵攻

 

【1548年】(30歳)
第二次小豆坂の戦い
織田信秀を撃破

 

【1554年】(36歳)
武田信玄・北条氏康と三国同盟締結

 

【1560年】(42歳)
桶狭間の戦いで戦死。享年42歳

 

→→→→→【今川義元の生涯年表】についてくわしくはこちら

今川義元のプロフィール

今川義元のプロフィールを簡単に解説いたしますと、以下のとおりです。

 

  • 生年【1519年】
  • 没年【1560年6月12日(永禄3年5月19日)】
  • 出身地・駿河国・駿府(現在の静岡県静岡市)
  • 幼名・芳菊丸ほうぎくまる
  • あだ名・海道一の弓取り
  • 父・今川氏親
  • 母・寿桂尼
  • 兄・今川氏輝
  • 兄・玄広恵探
  • 妻・武田信玄の姉
  • 子・今川氏真

名優・成田三樹夫さんが演じた今川義元の名言【むごい教育】とは?

悪役として有名な名俳優・成田三樹夫さんをご存知でしょうか?

 

その成田三樹夫さんが、大河ドラマ【徳川家康】で、今川義元を演じておられました。

 

このとき名優・成田三樹夫さんが演じた今川義元は、再評価された名将・今川義元のイメージに、最もピッタリなのではないでしょうか。

 

強い今川義元を、成田三樹夫さんは見事に演じてみせたのです。

 

そんな成田三樹夫さんが演じる今川義元が、幼い竹千代こと徳川家康の教育方針について、こんなことを言っていました。

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これこそがもっとも「むごい教育」だとは思わぬか

大河ドラマ・徳川家康で今川義元は、幼い竹千代を警戒し、名将として育てるのではなく、むごい教育をして、愚将に育てようとしたのです。

 

ところが、今川義元の師・太原雪斎は、竹千代の才能を見抜き、竹千代を育てることを楽しみ始めます。

 

そして太原雪斎は、竹千代のことを、愛弟子・今川義元以上に目をかけて育てるのでした。

 

雪斎は竹千代に秘められた可能性を見抜いたのです。

 

今川義元のむごい教育、それを太原雪斎にさせなかった竹千代の勝利でした。

今川義元と今川焼きの関係

今川焼きと呼ばれる和菓子をご存知でしょう。

 

今川焼きは、今川義元と何か関連があるのでしょうか?

 

結論から言えば、「関係ある説が唱えられている」のです。

 

今川焼きというものが、今川義元が使用した家紋・二つ引き両の形をマネてつくられたものだという説です。

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」

 

二つ引き両はもともと足利家の家紋なので、それでいうなら足利焼きでもよかった気もしますが・・・。

 

江戸時代の中期【1772~1781年】に、江戸の今川善右衛門というお金持ちが、今川橋の近くで、誰もが知っている桶狭間の戦いを宣伝に利用して、今川焼きという名前のお菓子を売ったことが始まり、という説もあるようです。

 

→→→→→【今川義元と今川焼きの関係】についてくわしくはこちら


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もしも今川義元が桶狭間の戦いに勝利していたら、歴史はどうなっていたの?

もしも今川義元が桶狭間の戦いに勝利していたら、歴史はどうなっていたのでしょうか?

 

おそらく織田信長は、今川義元に臣従していたでしょう。信長が殺されることはなかったと思います。

 

その後の信長の猛烈な快進撃は、なかったと考えられます。

 

とはいえ、今川義元の天下が訪れたか?というと、それも難しいと思います。

 

京都への道には、まだ美濃・斎藤家、北近江・浅井家、南近江・六角家などがいます。

 

これらを屈服させるには、今川義元には、不安要素が多すぎます。

 

もっとも大きな不安要素は2つ

 

  1. 義元自身の寿命
  2. 後継者・今川氏真の能力不足

 

義元は桶狭間の戦いのとき42歳。

 

人生を50年と考えると、残り10年足らずで、天下を取るのは難しいでしょう。

 

また、後継者であった嫡子・氏真は、真の愚将として有名です。

 

これだけの不安要素があったら、今川家の天下は難しいでしょう。

 

義元亡き後は、織田信長・徳川家康・武田信玄らに、良いようにされていたと思われます。

「義元が、桶狭間の戦いで勝利していたら、信長を屈服させて、さらに勢力を拡大させたものの、天下には届かず、義元の死後に今川家が衰退することは、避けられなかった」

と、筆者は予想します。

 

→→→→→【もしも今川義元が上洛していたら】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川義元は、【1560年】に桶狭間の戦いで、織田信長に討ち取られた武将。義元は東海道を制圧していた

 

2,義元が使っていた家紋は今川赤鳥。櫛の汚れを取りのぞくための道具を形どった家紋。

 

3,義元の首は、愛知県西尾市にある義元公の首塚へ埋葬された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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