この記事では「織田信長の最期の言葉」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長の最期の言葉と、その意味」を、カンタンに理解できます。
「信長が残した最期の言葉」は「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」なのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の最期の言葉とは?
信長の最期の言葉は「是非に及ばず」だった。これは「仕方のないことだ」という意味
2,「是非に及ばず」に秘められた、真の意味とは?
実は「是非に及ばず」には、「是か非かを確認する必要はない」という意味がある。これは「明智光秀に裏切られる心当たりがある」と、信長が暗に示していたことを意味する
3,「明智光秀」が仕掛けた罠とは?
「光秀」の末裔を自称する作家「明智憲三郎」氏がおっしゃるには、「光秀」は「信長」の命令で「徳川家康」を暗殺しようとしていたのだとか。その「家康暗殺計画」を、光秀は逆に利用して、家康と協力して信長を暗殺したのだとか。
「織田信長」の「最期の言葉」とは?「是非に及ばず」とはどういう意味?
【1582年】、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれて亡くなった戦国の覇者「織田信長」。
その最期の言葉は
「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」
であったと、信長の公式記録「信長公記(しんちょうこうき)」に記されています。
「信長公記」は、信長の右筆(ゆうひつ・秘書)だった「太田牛一」が記した、信頼できる一級の歴史資料です。
「是非に及ばず」とは、「仕方のないことだ」という意味です。
名将「明智光秀」に攻められた信長は、緻密で綿密な計画をたてる名将「光秀」に攻められては、もはや逃げようがないだろう悟り、諦めを口にしたものだと、これまでは考えられてきました。
ところが、この「是非に及ばず」という言葉について、「仕方のないことだ」という意味ではなく、別の意味が込められていると主張する人がいます。
それは「明智光秀」の末裔を自称する作家「明智憲三郎」さんです。
「明智憲三郎」さんは、この「是非に及ばず」という言葉には、「信長」と「光秀」の、ある秘密が込められているとおっしゃっておられました。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「是非に及ばず」は「仕方ないことだ」という意味ではなかった
「是非に及ばず」は「仕方ないことだ」ではなく
「是か非かを確かめる必要はない」
という意味であると、「明智憲三郎」さんはおっしゃっておられます。
どういう意味なのでしょうか?
「是非を確かめなくていい」とは、「明智光秀が謀反を起こした」ということを耳にした織田信長が、「重臣の明智光秀が裏切るなどありえない」と言って、再度確認してこようとする部下に対し
「わざわざ改めて確認する必要などない」
という意味で言った言葉なのだと、明智憲三郎さんは主張しておられるのです。
この「確認する必要はない」という信長の言葉には、どういう意味が込められているのでしょうか?
織田信長は、明智光秀に裏切られた件について、心当たりがあった、ということです。
つまり信長は
「明智光秀が謀反を起こしたとしても、不思議ではない」
と思っていたということです。
なぜ信長は、「光秀から謀反を起こされたとしても、不思議ではない」などと思ったのか?
実は信長、明智光秀とともに、「ある人物」を「暗殺」しようとしていたのだそうです。
その「人物」とは、「徳川家康」です。
「明智光秀」が仕掛けた罠と、信長の油断
明智憲三郎さんは、このように主張しておられます。
「信長は本能寺へ【徳川家康】を招き入れたところを、光秀の軍に包囲させ、家康を打ち取るつもりだった」
というのです。
しかし、何の罪もない家康を、突然襲撃しては、領民たちから不信感を抱かれ、批判を受けるでしょう。
信長は、世間の評判をとても気にする人だったので、「何の理由もなく家康を襲撃して討ち取る」などということが、できなかったのです。
そこで信長は、「家康」に無実の罪を着せて、「返り討ちにした」というストーリーをでっち上げようとします。
信長は
「少人数で本能寺に宿泊していたところ、家康に襲撃された。
そのため光秀に命じて、裏切り者の徳川家康を討たせた」
そういうストーリーと口実をつくって、家康を暗殺するつもりだったと、明智憲三郎さんは主張しておられます。
家康に襲撃された、と主張するためには、信長がひきいた人数は「少数」でなくてはいけません。
信長が大軍団を引き連れていては、「家康が襲撃してきた」と言っても信ぴょう性が薄れます。
大軍団に襲撃を仕掛けるバカがどこにいるというのか?というわけです。
明智光秀は、信長が「少人数」しか連れていないことを、良い機会だと捉えて、徳川家康と共謀して、信長を襲撃したのです。
これには、「家康を罠にはめるために少人数で本能寺に宿泊していたこと」が、かえって仇となりました。
信長は、家康暗殺のために自らが仕掛けた罠に、見事にハマってしまった、というわけです。
これが、「明智光秀」の末裔を自称する作家「明智憲三郎」さんが、著書「本能寺の変~431年目の真実~」で主張された「是非に及ばず」という言葉の意味です。
また、以下の書籍には、信長が
「余は自ら死を招いた」
と言ったとも記されています。
これは「自分の罠に自分でひっかかってしまった」という意味ですが、「信長公記」によると、最期の言葉はあくまでも
「是非に及ばず」
となっています。
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ここまで説明しておいてなんですが、筆者は「明智憲三郎」さんが主張しておられる説を、あまり真実であるとは思っていません。
「明智光秀」が「本能寺の変」を起こした動機は、「光秀の織田信長へ対する怨恨」であると思っています。
歴史家「磯田道史」さんがおっしゃるには、「織田信長は油断しすぎた」のだそうです。
「少人数で本能寺に宿泊するなんて、不用心極まる!
油断しすぎた信長は、たいしたことなかった」
とまでおっしゃっておられました。
筆者も、「武田勝頼」という長年の強敵を倒した「織田信長」は、油断してしまったのだと思います。
明智憲三郎さんの説も可能性はあります。面白い説であると思います。
しかし、「是非に及ばず」という言葉の意味は、油断しきった自らの失敗を反省し、諦めた言葉なのではないでしょうか。
諦めたとはいえ、信長は「最期の罠」を光秀に用意していました。
光秀は、信長の最期の罠にひっかかり、命を落とすことになるのです。
信長が光秀に仕掛けた「最期の罠」と、引っかかった光秀の最期
信長は、最期の最期に、光秀に対して「残酷な罠」を仕掛けました。
織田信長は、最期に「自らの首を光秀に渡さないように、部下に厳しく命令した」といいます。
「自分の遺体を光秀に渡さない」
それが、信長の罠だったのです。
光秀は、燃え盛る「本能寺」の中から、「信長の遺体」を発見することができませんでした。
そのため畿内では
「信長は本能寺を抜け出して生き延びている」
という噂がたったのです。
これを聞いた畿内にいた武将達
- 「細川藤孝」
- 「筒井順慶」
- 「高山右近」
- 「中川清秀」
達は、光秀に味方することをためらい、「中国大返し」で急遽帰還した「羽柴秀吉」に、こぞって味方しました。
- 「信長の遺体が見つからない」
- 「信長が死んだことを証明できない」
このことが、光秀軍の数を減らし、逆に秀吉軍の数を増やすこととなったのです。
- 光秀の軍は約「1万5千」
- 秀吉の軍は約「4万」
光秀は「山崎の戦い」で、秀吉にあっけなく敗北してしまいます。
そして、「山崎」から居城「坂本」へ逃げる途中、落ち武者狩りに遭遇して、命を落としてしまうのです。
「織田信長の遺体のゆくえ」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の最期の言葉は「是非に及ばず」だった。これは「仕方のないことだ」という意味
2,「是非に及ばず」には、「是か非かを確認する必要はない」という意味がある。これは「明智光秀に裏切られる心当たりがある」と、信長が暗に示していたことを意味する
3,「光秀」の末裔を自称する作家「明智憲三郎」氏がおっしゃるには、「光秀」は「信長」の命令で「徳川家康」を暗殺しようとしていたのだとか。その「家康暗殺計画」を、光秀は逆に利用して、家康と協力して信長を暗殺したのだとか。
以上となります。
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ありがとうございました。
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