武田勝頼の最後の場所はどこ?子孫は足利の血を継ぎ昭和まで存続!

武田信玄の息子・武田勝頼

勝頼の最期の場所はどこ?

実は滅亡しておらず、子孫は名門「足利」の血を受け継いで、少なくとも昭和までは存続していた!


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この記事を短く言うと
・武田勝頼の最期の場所は「天目山」、現在は「山梨県甲州市」

・勝頼は元々、母の実家「諏訪家」を相続するはずだった

・勝頼の子孫は、少なくとも昭和まで存続していた


武田勝頼の最期の地!場所はどこ?

武田勝頼は1582年、甲斐国の「天目山」付近と言われています。

この天目山の山麓にある「田野村」という場所で、勝頼は自害。

自らの息子「武田信勝」に家督を継承させた後に、息子ともども自刃。

妻で「北条氏康」の六女「北条夫人」も、19歳の若さで亡くなっています。

実はこの「天目山」・・・1417年に武田家13代当主「武田信満」が自害し、甲斐武田が一度滅びた場所。

再興された甲斐武田が1582年に、20代当主「武田勝頼」の代で、再びこの「天目山」で滅びたのでした。

この「天目山」は、現在は「山梨県甲州市大和町田野」という住所に存在しています。


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武田勝頼とは?

武田信玄の四男にして、諏訪御料人の息子「勝頼」

ちなみに諏訪御料人の父「諏訪頼重」は、武田信玄に敗北して自害しています。

その為、諏訪御料人は信玄の手で強引に側室にされた・・・と言われています。

元々武田家を継承する予定ではなかったため、武田家の通字「信」の字を与えられることはありませんでした。

また、元服当初の名前は「武田」ではなく、「諏訪四郎勝頼」。

母の実家である「諏訪家」を相続するはずだったのです。

武田信玄の長男で、勝頼の異母兄「義信」は謀反の疑いで切腹。

次男「海野信親(竜芳)」は盲目であったため出家。

三男「信之」は早世。

その為、思いもよらず「武田家」を継承することとなりました。

武田家の嫡流ではなかったため、家臣たちの信頼を勝ち取ることが出来なかったとも言われていますが・・決して無能な将ではなかったと言われています。

当時の資料では「織田信長」も「上杉謙信」も、勝頼を「強い大将」と評価。

1575年の長篠の戦いで、1万余りの武田騎馬軍団と武田の老臣達を失ったと言われていますが、その後も領地拡大に成功しています。

1582年、織田・徳川・北条の連合軍が、一気に武田領内になだれ込んだため、応戦することも出来ず、家来たちは次々と降伏。

真田昌幸が「上州・岩櫃城」へ避難すべきと主張するが、小山田信茂という家来に「岩殿城」へと進言されて、岩殿城へ移動。

途中で小山田信茂に裏切られて、天目山にて自刃。

名将・武田信玄の名は、どうやら重すぎたようです。


子孫は足利を名乗って、今も続いている

武田勝頼の息子「信勝」は、父とともに天目山で自刃しています。

しかし勝頼には娘がおり、その娘「貞」が、高家「宮原家」に嫁いでいます。

この「宮原」氏は、徳川家康に「旗本」として仕えていました。

勝頼の娘『貞』は、「宮原義久」と結婚。

その後、幕末の時代に「宮原義直」の次男が、下野喜連川藩主・足利縄氏の養子となり、「足利聡氏」と名乗って藩主の座を継承。

一時的にでありますが、足利尊氏からの名門「足利家」の名前を継承していたようです。

ただ、足利家の血を引き継いでいたわけではありませんでした。

しかし明治維新で藩主の座を明け渡し、後に『宮原』に復姓。

1943年、「足利聡氏」氏は死去。

息子の「宮原厳夫」氏が、13代当主として、宮原家の家督を相続。

つまり1943年(昭和17年)まで、武田勝頼の子孫である「宮原」家は、続いていた事になります。

おそらくですが、今も変わらず、武田勝頼の子孫「宮原」氏は続いていることでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・武田勝頼が自害した場所は、「山梨県甲州市大和町田野」

・元々勝頼は、「諏訪家」の家督を相続するはずであり、武田家の当主になるはずではなかった

・勝頼の娘「貞」が嫁いだ「宮原家」は、少なくとも昭和まで存続していたので、今も続いているだろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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