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武田勝頼の子孫の現在とは?勝頼の最後の地はかつて武田家が滅亡した所

武田信玄たけだしんげんの子・武田勝頼たけだかつよりが最後を遂げた場所は、一体どこだったのでしょうか?

勝頼が最期を遂げた場所は、現在の山梨県甲州市にある天目山てんもくざんです。

そして実は、武田勝頼の子孫は滅びたわけではなく、勝頼の血を引く子孫は足利家の名門と結びついでおり、少なくとも昭和時代まで続いていました!

歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

どうぞお気軽にごゆっくりお楽しみください。

この記事を簡潔にまとめますと:

  • 武田勝頼の最期の場所は天目山で、現在の山梨県甲州市にあります。
  • 勝頼は本来、母親である諏訪御料人すわごりょうにんの実家・諏訪家すわけを継ぐ予定でした。父・武田信玄の後継者は、勝頼の兄で、信玄の嫡男である武田義信たけだよしのぶであるはずでした。
  • 勝頼の子孫は、少なくとも昭和時代まで存続していました。

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目次

武田勝頼の子孫の現在とは?

武田勝頼の息子、信勝は、父親とともに天目山で自害しました。

しかし勝頼には娘がおり、その【貞】という娘は宮原家という身分が高いいわゆる高家こうけに嫁ぎました。

つまり武田勝頼の子孫は、現在も続いているということです。

《武田家の家紋・武田菱》
「引用元ウィキペディアより」

宮原家は、徳川家康に仕える旗本として知られていました。

勝頼の娘【貞】は宮原義久と結婚。

その後、幕末の時代に、貞の子孫である【宮原義直】の次男が、下野国しもつけこく喜連川きつれがわ藩主・足利縄氏あしかがつなうじの養子となり、足利聡氏あしかがさとうじと名乗って藩主の座を継承しました。(足利縄氏は、徳川慶喜の実弟)

彼は一時的に足利家の名前を受け継いでいましたが、厳密に言えば足利家の血を引いていたわけではありません。

しかし明治維新で藩主の座を放棄し、後に宮原の姓に戻しました。

1943年に足利聡氏が亡くなり、その息子である宮原厳夫さんが宮原家の家督を継ぎました。

つまり、1943年(昭和17年)まで、武田勝頼の子孫にあたる宮原家は続いていたのです。

これ以降の詳細は不明ですが、現在も武田勝頼の子孫である宮原家は存続しているでしょう。

武田勝頼の血を引く系統では無いものの、他の系統からも、武田家の子孫は続いています。

武田信玄の7男で、勝頼の弟にあたる武田信清は、上杉景勝の妻となっていた姉・菊姫を頼って上杉家に仕えました。

彼は女系子孫でありながら、信玄の血統を維持しました。

この系統は勝頼の子孫ではないものの、米沢武田氏よねざわたけだしと呼ばれており、現在も存続しています。

具体的には、武田昌信さんがその子孫で、武田旧恩会の顧問を務めているそうです。

足利家の子孫や末裔についての詳細は、以下のリンク記事をご参照いただければと思います。現在も続く足利家の家系図が掲載されています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 武田勝頼が自害した場所は山梨県甲州市大和町田野でした。
  2. 勝頼はもともと諏訪家の家督を相続する予定であり、武田家の当主になる予定はありませんでした。
  3. 勝頼の娘「貞」が嫁いだ宮原家は、少なくとも昭和まで存続しており、現在も存続している可能性が高いです。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越しいただき、誠にありがとうございました。

またのご訪問をお待ちしております。ありがとうございました。

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