皆さんは「本能寺の変」を、ご存知でしょうか?
実は「本能寺の変」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「本能寺の変」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「本能寺の変」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、詳しくなれます。
この記事を読んで、「本能寺の変」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「本能寺の変」とは、今から約「450年」前の日本で、最も強い権力を握っていた武将「織田信長」が、家来の「明智光秀」に裏切られて殺害された事件
2,近年の研究によると、「本能寺の変」は、明智光秀が「四国」の武将「長宗我部元親」を救うために起こしたもの、と考えられている
3,「本能寺の変」には、「明智光秀」を操った「黒幕」がいると言われているが、「秀吉」「家康」「天皇」が黒幕として諸説ある
「本能寺の変」とは何か、徹底解説
「本能寺の変」について、子供向けに、簡単に、わかりやすく説明
「本能寺の変」とは、今から450年ほど前、日本で最大のチカラを持っていた武将「織田信長」が殺害された事件です。
犯人の名前は「明智光秀」。
「織田信長」は、自分がもっとも信頼した部下「明智光秀」に裏切られて、京都の「本能寺」という場所で襲われたのです。
当時の日本は、各都道府県で「大名(だいみょう)」と呼ばれる「戦国武将」たちが、血で血を洗う戦争を、100年以上も繰り返していました。
織田信長は、そんな戦国時代を終わらせるため、日本のほとんどを征服していました。
しかし、「全国統一」まであと一歩のところで、明智光秀に討たれてしまったのです。
以下のリンク記事で、「本能寺の変」について、よりくわしく簡単に解説させていただいております。
「本能寺の変」について、より詳しく解説
「本能寺の変」について、さらに詳しく解説いたします。
事件が起こったのは「天正10年(1582年)6月2日」の夜明け頃。
京都で、「織田信長」が宿泊所としていた寺院「本能寺」で起こりました。
信長を襲撃したのは、織田家で信長に継ぐナンバー2「明智光秀」。
光秀は、信長から「中国地方で毛利家と戦っている羽柴秀吉の援軍に行け」と命令を受けていました。
そこで光秀は「13000人」の軍団を引き連れて、「丹波亀山城」を出発。
西の中国地方へ向かうのかと思いきや、逆に東の京都「本能寺」へ向けて進軍。
「本能寺」に、わずか100名ほどで宿泊していた主君「織田信長」を襲撃し、殺害してしまったのでした。
「本能寺の変」概要まとめ
「本能寺の変」という戦国最大の事件について、その概要をまとめてみました。
戦国時代最大の事件「本能寺の変」について、短く要点をまとめると、以下のとおりです。
- 100年も続く戦国時代を終わらせるまで、あと一歩というところにたどり着いた戦国最強の権力者「織田信長」が、何の前触れもなく突然亡くなった。
- 信長を殺害したのは、信長がもっとも信頼していた名将「明智光秀」
- 信長は、京都「本能寺」に、宿泊していたところを明智軍13000名に襲われ、亡くなった
信長が「明智光秀」に討たれたこの大事件は、当時から「黒幕」の存在が疑われていました。
誰かが「明智光秀」に命令して、「織田信長」を討たせたのではないか?ということです。
「本能寺の変」について、以下のリンク記事で、その概要を、さらに詳しく解説いたしました。よろしければお役立てくださいませ。
戦国最大の謎「本能寺の変」の真相を短くレポート
詳しい解説は、後でおこなうとして、ここでは「本能寺の変」の「黒幕」と「真相」について、ザッと解説をさせていただきたいと思っています。
近年注目されている「本能寺の変」の真相としては、「四国説」というものがあります。
明智光秀は、婚姻関係を結んだ四国・土佐の大名「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」と、親しくしていました。
信長は、この「長宗我部元親」を滅ぼすため、【1582年6月3日】に大軍団を四国へむけて出発させるはずだったのです。
それを止めるために、【1582年6月2日】に、「本能寺の変」を起こした。
これが「四国説」です。
「本能寺の変」の「黒幕」と「謎」について、真相を考察
「本能寺の変」の黒幕について、諸説をご紹介
「本能寺の変」には、黒幕の存在が疑われていると、申しました。
しかしその「黒幕説」は、相当な数の「容疑者」があげられています。
黒幕と疑われている人物の中でも、代表的な者をあげると、以下のとおりです。
- 足利義昭
- 近衛前久
- 羽柴秀吉
- 徳川家康
- 朝廷(正親町天皇)
- イエズス会
それぞれどのような説なのか、詳しく見てみましょう
【足利義昭】
信長の手によって、「足利義昭」がひきいた「室町幕府」は滅亡しました。
そのため足利義昭は、織田信長を強烈に憎んでいました。
義昭は、もともと「明智光秀」の主君でした。
その縁を利用して、義昭は「光秀に信長を殺害させた」という説です。
【近衛前久(このえ さきひさ)】
関白という最高の位についていたお公家さん。
信長や上杉謙信と親しくしていた「近衛前久」は、織田信長が勢力を拡大していく様子を危険に感じていました。
朝廷と天皇の権威を傷つける動きを見せた信長を、近衛前久が阻止しようとしたのです。
【羽柴秀吉(豊臣秀吉)】
秀吉は、「本能寺の変」で最も得をしています。
「中国大返し」という超高速移動を成功させ、「明智光秀」を討ち果たした秀吉。
「本能寺の変が起こることを、事前に知っていたのではないか」
と疑われているのです。
【徳川家康】
織田信長の同盟者「徳川家康」。
信長の同盟者であったはずが、「本能寺の変」が起こった【1582年】頃には、信長の家来も同然な状態となっていました。
家康は、父「松平広忠」を、織田家によって殺害されていますし、伯父「水野信元」は信長の命令で切腹させられています。
信長に恨みをもっていた家康が、光秀と協力して信長を討った。
「明智光秀」の子孫「明智憲三郎」さんが、この説を主張しています。
「家康の陰謀論」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。
【朝廷(正親町天皇)】
朝廷と天皇の権威を犯そうとした織田信長を、正親町天皇を中心とする「朝廷」の勢力が暗殺したという説です。
【イエズス会】
信長は「キリスト教」の布教を保護していました。
布教保護の見返りを、信長はもらっていたのです。
「鉄砲」を撃つための「弾薬」を、海外から輸入していました。
そんな信長が、「キリスト教」を保護しなくなったため、イエズス会が暗躍して、信長を死なせた、という説です。
光秀が信長を殺害した【動機】は諸説あり
「黒幕説」と「四国説」は、ザッと解説いたしました。
しかし、「光秀」本人の動機はなんだったのでしょうか?
黒幕にそそのかされたと言っても、光秀にとって信長は、自分を引き立ててくれた恩人です。
何の恨みも理由もなしに、いきなり裏切るとは考えにくいです。
ここでは、動機を考えてみたいと思います。
【四国説】
この「四国説」ついては、後ほどくわしく解説いたします。
「四国・長宗我部元親を救済するため、四国遠征軍を止めることが目的だった」という説です。
【怨恨説】
光秀は信長を恨んでいたため、その恨みを晴らすため殺害した、という説です。
信長が光秀にとてもひどい仕打ちをしたという逸話は、数多くあります。
諏訪で光秀を殴り倒したとか、徳川家康を接待していた光秀をはげしく罵ったとか。
その恨みが、「本能寺の変」の原因だ、という説です。
【認知症説】
高齢であった光秀が「認知症」になってしまったため、間違って信長を殺害した、という説です。
光秀の年齢は、正確にはわかっていません。
一説によると「67歳」だったとも言われています。
ですので、可能性はあるかもしれません。
「織田信長の最期の言葉」と、黒人武将「やすけ」が、「本能寺の変」の真相に近づくヒントになっている、という説があります。
それについては以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
最新説「四国説」とは?
「四国説」とは、光秀が「本能寺の変」を起こした動機として、最近もっとも注目されている説です。
明智光秀は、四国統一を目指す武将「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」と親しくしていました。
長宗我部元親の妻は、明智光秀の重臣「斎藤利三」の妹だったのです。
その縁もあって、長宗我部元親は「織田信長」と同盟を結びます。
信長の協力もあって、長宗我部元親は、四国統一へあと一歩のところまで躍進します。
長宗我部元親は、四国統一のため、「阿波の国」を支配していた信長の宿敵「三好康長」を攻撃。
実はこの「三好康長」、長宗我部に攻められ滅亡寸前のところを、信長の部下「羽柴秀吉」と通じて交渉し、信長に降伏したいと申し出ていたのです。
ここに
「明智光秀・長宗我部元親」と「羽柴秀吉・三好康長」
という、「四国の2大勢力」である「長宗我部・三好」と、「織田家の2大勢力」である「明智・羽柴」という、2つの派閥争いが複雑にからみあうこととなるのです。
光秀は重臣「斎藤利三」を通じて「長宗我部」と姻戚関係を結び、羽柴秀吉も甥の「秀次(のちの豊臣秀次)」を「三好康長」の養子とすることで関係を深めます。
信長は、それまで「長宗我部元親」を支援していました。
しかし「光秀・秀吉」の派閥争いが始まると、「秀吉・三好」の派閥を選択するようになります。
信長は突然、「長宗我部元親」を滅ぼすことを決定。
自分の三男「織田信孝」を大将とする3万人の「四国遠征軍」を組織します。
「四国遠征軍」の出撃は、【天正10年(1582年)6月3日】に決定。
これは「光秀」にとって、「秀吉との派閥争いに敗北した」ことを意味していました。
追い打ちをかけるように、それまで「徳川家康」の接待役をつとめていた光秀に「中国地方で戦う羽柴秀吉の援軍に行け」という命令が下ります。
「援軍に行け」ということは、「羽柴秀吉の支配下に入って、その命令に従え」という意味です。
光秀は、これまで協力し続けてくれた「長宗我部元親」を、なんとか救済しようと奔走します。
「四国遠征軍」の出撃を阻止するためには、「織田信長」を討つしかありません。
この「四国遠征軍」が出撃する1日前の【天正10年(1582年)6月2日】、明智光秀は京都「本能寺」で、「織田信長」を襲ったのです。
信長が亡くなると、その噂を聞いた大坂の「四国遠征軍」は、逃走者が続出し壊滅。
明智光秀の軍に最も近い位置にいた「四国遠征軍」は、戦うことが出来る状態ではなくなりました。
実質的に軍をひきいていた「丹羽長秀」は、「羽柴秀吉」の軍がもどってくることに期待して、待機。
その後、「中国大返し」を成功させた秀吉の軍と合流した「四国遠征軍」の「織田信孝」と「丹羽長秀」は、「山崎の戦い」で「明智光秀」を撃破。
信長の仇討ちに成功するのです。
この「四国説」によると、「黒幕」や「首謀者」は存在しないことになります。
黒幕は「朝廷」説
「本能寺の変」の黒幕は、「朝廷」ではないか、という説があります。
朝廷・・・・つまり「正親町天皇」を中心とするお公家さんの勢力が、信長を死なせたというのです。
つまり「朝廷の権威を失墜させるほどのチカラをもった信長を、朝廷が警戒して殺害した」という説ですね。
信長は、「本能寺の変」が起こる前、京都で「馬揃え(うまぞろえ)」を行っています。
「馬揃え」・・・いわゆる「軍事パレード」です。
これが、「朝廷への圧力」であると考えられているのです。
この「馬揃え」をみて、「信長は危険である」と感じ取った朝廷が、「本能寺の変」を計画した・・・。
しかし、この説には無理があるという指摘もあります。
実は信長、「天皇の権威を失墜させた」わけではなく、実は天皇・朝廷を大切にしていたという説もあるのです。
「馬揃え」についても、実は朝廷を脅すつもりなどなかった、という説があります。
この「馬揃え」が行われる直前、信長は「安土城」でも軍事パレードを行っています。
これを知った「正親町天皇」が、「おもしろそうだから京都でも軍事パレードをおこなってほしい」と要請。
天皇からの要請に忠実にしたがった信長は、京都で馬揃えをおこなったに過ぎないのです。
朝廷を脅したどころか、忠実だった信長。
「朝廷黒幕説」は、可能性が低いと考えられています。
「秀吉」黒幕説
羽柴秀吉が、「本能寺の変」の黒幕という可能性はどうでしょうか?
「本能寺の変」が起こったことで、もっとも得をしたのが「羽柴秀吉」です。
秀吉は、信長が亡くなったあとの織田家を支配。
信長の死後わずか8年で、一気に「天下統一」を成功させています。
そのため、「実は秀吉が本能寺の変の黒幕ではないか」という説が根強く残っているのです。
しかし、この説には限界があります。
「光秀」を影で操っていたのが「秀吉」だとしたら、光秀はなぜ死の間際にまで、このことを世間に公にしなかったのでしょうか?
光秀が知らぬ間に、秀吉に操られていたという可能性もあります。
しかし、現実的に考えて、そんな「催眠術」みたいなことができるでしょうか。
秀吉が黒幕なら、光秀と「本能寺の変」について、綿密な打ち合わせをしていたはずです。
また、光秀からしたら、秀吉が黒幕なら、それを裏付ける証拠を手に入れて、自分が「捨て駒」にされないようにしていたはずです。
秀吉は、「本能寺の変」の黒幕というわけではなく、なんらかの理由で「本能寺の変」が起こるだろう気配を察知していた、ただそれだけなのではないでしょうか。
そのため、「本能寺の変」が起こった場合に備えていた・・・。
そう考えたほうが、自然な気がします。
最新説「認知症」説
最新の研究によると、「光秀は認知症だった」という説があるのです。
「本能寺の変」が起こる前、光秀には「おかしな行動」が目立っているというのです。
「ちまき」という笹で包まれた食べ物があります。
光秀は、その「ちまき」に巻かれた「笹」を剥がさず、そのまま口に入れて食いちぎったのだとか。
通常「ちまき」は、笹を剥がして、中の「お餅」を食べるもの。
本能寺の変が起こったとき、「55歳」または「67歳」であったという光秀。
当時としては、かなりの高齢です。
認知症で、自分が何をしているのか理解していなかった説も、あながち暴論ではない気がします。
最新説「暗闇」説
もう1つ「暗闇」で憎悪が増幅した説。
これは「犯罪心理学」の観点からする見解です。
「明智光秀は、衝動的に織田信長を討った」
というのです。
犯罪心理学によれば、人間は暗闇の中に長くいると、心の奥底に存在する「憎しみ」が思い出され、徐々に増幅してしまうのだとか。
夜の道を、車で長時間走行していると、「怒りの記憶」が思い出され、衝動的にその憎しみの相手を殺害してしまう・・・。
そんな事件がときどき発生するのだと、「犯罪心理学」で分析できるようですね。
信長は、いわゆる「ムチャぶり」が多い、とても人使いの荒い人物でした。
そのため、光秀は信長に強い憎しみを抱いていた可能性が高いと考えられます。
「丹波亀山城」から、秀吉の援軍に向かうために、深夜に出発した光秀軍。
暗闇の中を長時間かけて行軍していた光秀は、怒りの感情が増幅し、衝動的に「信長」を殺害してしまった・・・。
これが、最近噂されている最新説「認知症説」と「暗闇説」です。
そもそも「本能寺の変」に「黒幕」「首謀者」がいるのか?
「本能寺の変」は、そもそも「明智光秀」の裏で誰かが糸を引くような、そんな事件なのでしょうか?
光秀は、何者かに操られた、または何者かと協力して「織田信長」を討ったのでしょうか?
例えば、「四国説」や「認知症説」「暗闇説」で考えてみると、「首謀者」「黒幕」は存在しません。
また「秀吉・黒幕説」について考えてみると、「秀吉」は「黒幕」というわけではなく、「本能寺の変を事前に察知して、そのスキに便乗しただけ」と言えます。
「本能寺の変」は「明智光秀」の単独犯行だった可能性が、高いのではないでしょうか。
ミステリー!「消えた信長の遺体」
「本能寺の変」で討たれた「織田信長」ですが、その遺体は全く見つかっていません。
明智光秀は、信長の遺体を必死に捜索しましたが発見できなかったのです。
そのため、光秀は「織田信長が死んだ」ということを証明することができなかったのです。
「信長は生きている」
羽柴秀吉は、近畿地方周辺の武将たちに、「信長は生きて京都に潜伏している」というニセ情報をばらまき、味方を増やしています。
味方が全く増えなかった明智光秀は、「秀吉軍4万」VS「光秀軍1万3千」という圧倒的不利な立場に追いやられ、「山崎の戦い」であっけなく敗北するのです。
一説によると、「信長の遺体」は、京都「阿弥陀寺」の住職「清玉上人」が火葬した後、本能寺から持ち出されて埋葬されたとのことです。
「信長の遺体のゆくえ」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく調査・解説しております。よろしければ、ご一読くださいませ。
実は「織田信長は本能寺で死んでいない」という噂が、当時からあったのですが、それについては以下のリンク記事で、詳しく解説をさせていただいております。よろしければお役立てくださいませ。
「織田信長」と「明智光秀」それぞれが率いた軍勢・人数
「本能寺の変」で、信長はあまりにもあっけなく敗北しています。
「本能寺」は当時、堀や塀をめぐらせた、一種の「砦」でした。
しかし「信長」は、わずか「100名」未満の護衛しか持っていなかったため、光秀に負けたのです。
光秀が率いていた軍は「13000人」、また一説によると「本能寺」を包囲した軍は「3000人」いたと言われています。
「光秀軍13000人」VS「信長軍100人」
または
「光秀軍3000人」VS「信長軍100人」
「桶狭間の戦い」で「3000人」の部隊で、「40000人」をひきいた「今川義元」を討ち果たした「織田信長」でも、これだけの戦力差で包囲されては、どうにもできなかったのでしょう。
「本能寺の変」のその後を『年表』で解説
「本能寺の変」が起こったあと、「明智光秀」と「天下の行方」はどうなったのでしょうか?
「本能寺の変」から「光秀・戦死」まで
まずは「本能寺の変」から「明智光秀の戦死」までを、簡単に年表形式で解説します。
【1582年6月2日】
「本能寺の変」勃発
「織田信長」死去
【1582年6月3日】
「羽柴秀吉」が「信長の死」を知り、「毛利家」と和睦
【1582年6月4日】
「徳川家康」が「伊賀越え」を成功させて三河国へ帰還
【1582年6月6日】
秀吉が姫路城へ帰還
【1582年6月9日】
光秀、秀吉軍迎撃のため「鳥羽」へ出撃
【1582年6月12日】
光秀軍、鳥羽から「山崎」へ出撃
【1582年6月13日】
「山崎の戦い」
明智光秀が敗北
坂本城へ落ち延びる途中で、京都「小栗栖(おぐるす)」で落ち武者狩りに襲われ落命。
「本能寺の変」から「戦国の終わり」まで
【1582年】
「本能寺の変」
「織田信長」死去
【1583年】
「賤ヶ岳の戦い」
【1584年】
「小牧・長久手の戦い」
【1590年】
「小田原征伐」
「豊臣秀吉」が天下統一
【1592年】
「朝鮮出兵・文禄の役」
【1597年】
「朝鮮出兵・慶長の役」
【1598年】
「豊臣秀吉」死去
【1600年】
「関ヶ原の戦い」
「石田三成」が敗北
【1603年】
「徳川家康」が「征夷大将軍」に就任
「江戸幕府」を開く
【1605年】
「徳川秀忠」が二代将軍に就任
【1614年】
「方広寺鐘銘事件」をきっかけに「大坂・冬の陣」勃発
「大坂城」の堀を埋めることを条件に、和睦が成立
【1615年】
「大坂・夏の陣」
「豊臣家」滅亡
【1616年】
「徳川家康」死去(享年75歳)
「織田信長」と「明智光秀」の「生涯年表」を、詳しく解説しております。よろしければ以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。
「本能寺の変」に関わった人物たち
「明智光秀」の正体
明智光秀という人は、一体どこの何者なのでしょうか?
実はその前半生は謎に包まれており、今も明らかにはなっていません。
「明智光秀」は、信長の妻「帰蝶(濃姫)」の「いとこ」と言われています。
「帰蝶」の母「小見の方」が、「明智光秀」の父の妹なのです。
この「帰蝶」の父「斎藤道三」は、信長の姑であり、『美濃のマムシ』と呼ばれた名将。
さらに、明智家の一族「土岐氏」は、「源氏」の一門です。
「織田信長」は、「平清盛」の末裔を名乗っていましたので、「平氏」です。
「平氏」の「織田信長」を、その宿敵である「源氏」の「明智光秀」が討った・・・。
当時から、そう噂されていたようです。
また、「源氏」の「明智光秀」は、「平氏」の「豊臣秀吉」に討たれています。
その「平氏」である「豊臣家」は、「源氏」のトップ「徳川家康」に滅ぼされています。
「明智光秀」については、以下のリンク記事で、そのすべてを完全解説しております。
よろしければ、ぜひお役立てくださいませ。
「本能寺の変」直前の「織田信長」の動き
「本能寺の変」が起こる直前、織田信長は何をしていたのでしょうか?
信長は、「明智光秀」とともに、「安土城」で「徳川家康」の接待をしていました。
その「徳川家康」は、安土城での接待が終わると、堺の町を見物するために、少数の家来をつれて出発します。
信長はその後、「安土城」から100名ほどの部隊を率いて、京都「本能寺」へ。
本能寺では、信長が持っていた38個の名物茶器をつかって、「京都のお公家さん」や「博多の商人たち」を接待する予定でした。
このとき、信長がわずか「100名」足らずで京都に滞在していたことは、あまりに無防備です。
なぜそれほど無防備だったのか。
その理由は、「京都周辺、近畿地方を、明智光秀とその軍団が支配していたから」です。
信長は、何か問題が起こったとしても、光秀の軍団を戦わせればいいだけだ、と考えていたのでしょう。
それだけ、明智光秀は信長から信頼されていたのです。
「織田信長」は、本能寺の変の前、何をしていた?そして変の後、織田家はどうなった?
「本能寺の変」で「森蘭丸」はどうなった?
美少年として知られる「織田信長」の小姓「森蘭丸」
蘭丸は、「本能寺の変」でどうなったのでしょうか?
結論からいえば、「森蘭丸」は戦死しています。
「明智三羽烏」と呼ばれた明智家家臣の一人「安田国継(天野源右衛門」)によって、森蘭丸は討ち取られているのです。
ちなみに蘭丸の弟「森坊丸」と「森力丸」も、「本能寺の変」で戦死。
「安田国継」は、『織田信長』を槍で負傷させた「本能寺の変」から、ちょうど「15年後」の【1597年6月2日】に亡くなっています。
「本能寺の変」に「羽柴秀吉」はどのように関わっていたのか?
秀吉は、どのように変に関わっていたのかを、もう一度考えてみましょう。
秀吉は、まるで信長が亡くなることを知っていた、待っていたかのように、周到に準備をしていました。
- 戦闘をしていた「毛利家」との和睦の下準備
- 撤退するための「船」や、物資運搬の準備
- 一気に京都方面へ駆け抜けるための道の整備
- 「本能寺の変」が発生したその翌日には、事件を知ることができた情報網の構築
ただ、秀吉は「信長暗殺の黒幕」ではないと思います。
「光秀が信長を殺害した場合、それに便乗するために、徹底的に準備していた」ということでしょう。
信長暗殺が起こる前に知っていたのか、後に知っていたのか。
秀吉は「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」という「毛利家」の外交担当の僧侶と何度も「毛利家との和睦」について交渉しています。
この「安国寺恵瓊」という人、実は「本能寺の変」の10年くらい前に、こんなことを言っています。
「信長の世が、長く続くとは思えない。
いずれ高いところから転げ落ちるだろう」
おそらく秀吉も、安国寺恵瓊と同じく、恐怖政治を行う信長が、長くはもたないと考えていたのでしょう。
そこで、誰かが近い将来、信長にキレて、反旗をひるがえすだろう・・。秀吉はそう考えていたはずです。
その結果、「光秀」が信長を殺害。
秀吉は「待っていました」と言わんばかりに「明智光秀」を討ち果たして、織田家の主導権を手に入れました。
その後、秀吉は「柴田勝家」と織田家を二分して争い、勝利。
織田家を完全に乗っ取ってしまいます。
秀吉は、信長の転落を見事に利用して、織田家を奪い取ったのでした。
安国寺恵瓊は、「信長は長く続かない」と予言した言葉に続けて、こう言っています。
「羽柴秀吉という人物は、『さりとてはの者(なかなかの人物)』である」
余談ですが、安国寺恵瓊はその後、「関ヶ原の戦い」で敗北し、石田三成・小西行長とともに処刑されています。
「本能寺の変」と「徳川家康」の関係
「徳川家康」は、「本能寺の変」にどのように関わっていたのでしょうか?
家康は「本能寺の変」が起こったとき、京都の南にあった「堺」の町にいました。
信長が亡くなったことを知った家康は、「切腹」しようとしたほどでした。
しかし思い直した家康は、「伊賀」という難所を通って三河国へもどり、光秀を討ち果たそうとします。
「神君伊賀越え(しんくんいがごえ)」
家康の人生で最大の危機だったと言われている「神君伊賀越え」。
この危機をかろうじて乗り越えて三河国へと戻った家康は、光秀を討伐しようと出陣します。
しかし、一足先に「羽柴秀吉」が明智光秀を討ってしまうのでした。
「徳川家康」が「堺」にいた理由
家康は、なぜ堺にいたのでしょうか?
理由は簡単、「織田信長から堺の町を見物するようにと勧められたから」です。
一説によると、信長は家康を暗殺しようとしていたとのこと。
しかし同盟者である家康を、何の理由もなしに暗殺したら、信長は皆から批判され、だれからも信用されなくなるでしょう。
そのため信長は「家康」を堺へと送り出し、自分は「本能寺」で少数の部隊のみで、無防備に宿泊。
「本能寺を徳川家康に急襲された」と言いがかりを家康につけて、家康を暗殺する・・・。
そんな青写真を描いていた、という説もあるのです。
信長は「家康を暗殺」するために、一度は家康を「堺の町」で自由にさせたということです。
これが本当かどうかはわかりませんが、興味深い話だと思います。
信長とともに戦死した嫡男「織田信忠」
信長の嫡男「織田信忠」は、「本能寺の変」が起こったとき、「本能寺」の近くにある「妙覚寺」に宿泊していました。
信忠は、父「信長」が襲われたと知ると、それを救出しようとするも断念。
「妙覚寺」から「二条御所」へ移動して、そこで明智軍を迎撃。
壮絶な戦いの末に亡くなっています。
信忠は、なぜ逃げなかったのでしょうか?
おそらく信忠は、逃げ延びたとしても、逃亡したことを「信長」に責められることを恐れたのでしょう。
信長の弟「織田有楽斎」は、しきりに信忠にたいして「切腹」をすすめたと言われています。
「信忠」はこの言葉に従い、切腹。
織田家は当主「信長」と、後継者「信忠」を同時に失い、一気に衰退していくこととなるのです。
ちなみに「織田有楽斎」は、甥「信忠」に切腹させておきながら、自分は「本能寺の変」から逃亡。
のちに「織田有楽斎は人ではない」と、人々から笑われたと言われています。
「本能寺の変」のあと「長宗我部元親」はどうなったの?
「本能寺の変」によって、「四国遠征軍」は崩壊。
これで命拾いしたのが「長宗我部元親」です。
「長宗我部元親」は、その後も四国統一のための戦闘を継続。
そしてついに「四国統一」に成功します。
ところが、その後「天下統一」へ進む「豊臣秀吉」と激突。
秀吉の圧倒的な力に敗北した「長宗我部元親」は降伏。
「四国」のほとんどを秀吉に取り上げられ、「土佐」の1国のみを与えられています。
「本能寺の変」のあと「帰蝶(濃姫)」はどうなった?
織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」は、「本能寺の変」のあと、どうなったのでしょうか?
実は「帰蝶(濃姫)」がどうなったのかは、はっきりわかっていません。
帰蝶は、信長とともに「本能寺」で亡くなった・・・という説もあるほどです。
実は帰蝶には
- 「本能寺の変」で信長と一緒に亡くなった
- 「本能寺の変」が起こる前に、すでに亡くなっていた
- 「本能寺の変」の30年後に亡くなった
という説があるのです。
まず、「本能寺の変」で亡くなったという説ですが、これは可能性が低いです。
信長は本能寺にいた女性たちに、何度も「逃げるように」と命じて、命を助けています。
光秀も、彼女たちを殺していませんし、「帰蝶」は光秀の「いとこ」ですので、殺すとは思えません。
残る2つの説ですが、どちらが正しいのかは、ハッキリしていません。
帰蝶は「安土殿」と呼ばれて、織田家で重要な地位を占めていたと言われています。
多分ですが、「本能寺の変」から30年後に亡くなったという説が正しいのではないでしょうか。
余談ですが、帰蝶と信長には子供がいません。
何かしらの事情があったのかもしれませんが、一般的に考えると、2人は不仲だったのではないでしょうか。
「帰蝶(濃姫)」については、以下のリンク記事でも解説させていただいております。よろしければ、こちらのリンクもお役立てくださいませ。
「本能寺の変」が起こった「日時・年・年号」を、くわしく解説
「本能寺の変」は、一体いつ起こったのでしょうか?
2020年1月19日、「明智光秀」を主人公とする大河ドラマ「麒麟がくる」が始まりました。
その【2020年1月19日】から、【438年前】の【1582年】に「本能寺の変」が起こりました。
日付は、新暦だと【1582年6月21日】
旧暦にすると【天正10年6月2日】
事件が起こった時刻は、正確には不明ですが、「早朝」であったと言われています。
光秀は、夜のあいだに本能寺を包囲し、信長の逃亡を見逃さないように、夜が明けて明るくなってから、攻撃を開始したと言われています。
おそらく「4~5時」頃に、攻撃を開始したのでしょう。
この頃、日本は「戦国時代」または「安土桃山時代」と呼ばれる時代でした。
「戦国時代」とは、【1467年】の「応仁の乱」から、「豊臣秀吉」が「天下統一」をした【1590年】までの【123年間】です。
戦国時代【1467~1590年】
「安土桃山時代」とは、この頃の日本を実質的に支配していた「織田信長」と「豊臣秀吉」の最後の居城である「安土城」と「伏見桃山城」の名前をあわせたもの。
「室町幕府」が信長によって滅ぼされた【1573年】から、「徳川家康」が「江戸幕府」を開く【1603年】までの【30年間】です。
安土桃山時代【1573~1603年】
余談ですが、「奈良時代」から始まり、「平安時代」「鎌倉時代」「室町時代」「安土桃山時代」「江戸時代」と、これらの名前は「当時の政治の中心地」から名前をとってつけられています。
中には「戦国時代」のような、日本が置かれた状態を指し示す時代名もあります。
「明治維新」以降、「年号」が時代名として使われるようになります。
ちなみに「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」などは、その時代に使われた物の名前がつけられています。
「本能寺の変」が起こったときの年号は「天正(てんしょう)」でした。
「天正年間」は、このあと「10年」、「天正20年」まで続きます。
ちなみに「天正20年」、つまり【1592年】は、豊臣秀吉による「朝鮮出兵(文禄の役)」が始まった年です。
「本能寺の変」が起こった日付にまつわる因縁と逸話について、以下のリンク記事で、解説させていただいております。よろしければ、ご一読くださいませ。
「本能寺の変」が起こった場所を地図でご案内
「本能寺の変」が起こった場所・跡地をマップでご紹介いたします。
まず、現在の「本能寺」の位置は、以下の通り、「三条駅」近くに建てられています。
しかし、この現在の「本能寺」は、実際に「本能寺の変」が起こった場所ではなく、【1591年】に「豊臣秀吉」によって移転させられたもの。
旧「本能寺」は、新「本能寺」の西へ約1kmのところにあります。
実際に信長が命を落とした「本能寺」跡地には、現在「老人ホーム」と「学校」が建てられています。
現在「本能寺」の跡地には「碑」が建てられてはいるものの、「本能寺」の名前をとって「本能特養老人ホーム」と「堀川高校」の学舎が建っているのです。
マンション建設が行われるときに行われた発掘調査で、「本能寺」でつかわれた瓦などが発掘されています。
もしも「本能寺の変」が起こっていなかったら
もしも「本能寺の変」が起こっていなかったら、歴史はどうなっていたのでしょうか?
結論からいえば、2つのことが起こったと考えられます。
- 信長による海外遠征
- 織田信長・病死
まず「1」の「信長による海外遠征」について。
信長は、宣教師「ルイス・フロイス」の残した資料によると
「毛利家を滅ぼしたあとは、朝鮮半島・明国へ遠征軍を派遣する」
という計画をもっていたのだとか。
おそらく信長は、毛利家の強力な水軍を降伏させたら、その水軍をそのまま朝鮮半島・明国へ派遣するつもりだったのでしょう。
成功するかどうかはわかりませんが、のちに秀吉がやった「朝鮮出兵」のようなことが起きたと思います。
もう1つの「信長・病死」について。
「本能寺の変」が起こらなくても、信長が長生きできたとは思えません。
なぜなら信長は「塩分をとりすぎていた」から。
信長は、「濃い味」を好む人だったので、「塩」を大量に食べていたのです
「織田信長」が最も恐れた武将「上杉謙信」は、「塩」の食べ過ぎが原因で「脳溢血(のういっけつ)」により亡くなっています。
信長もまた、「脳溢血」になっていた可能性が高い、という説があるのです。
「本能寺の変」が起こらなかったら、信長は「海外遠征」を実行し、「脳溢血」で近い将来に亡くなっていた。
そうなったら、後継者「織田信忠」が、海外遠征軍を撤退させていたでしょう。
「秀吉」が行った「海外遠征」を、「徳川家康」が撤退させたように。
「本能寺の変」と「茶道」の関係
織田信長といえば、「茶の湯御政道(ちゃのゆごせいどう)」を取り入れた人として有名です。
「茶の湯御政道」とは、茶道で使われる「茶碗」や「茶釜」のような「茶器」を、まるで財宝のように扱うことで、その茶器に価値をもたせて、それを部下に与えることで、「茶器」に部下への褒美としての意味をもたせたのです。
家来に与える「ご褒美」といえば、「土地」や「財宝」または「官位」などの身分。
しかしこれらは無限にあるわけではないので、必ずいつか与えられなくなり、部下の不満が増していきます。
そのため信長は、「作れば無限に製造できる」と言っても過言ではない「茶器」に目をつけました。
信長は、「茶器」を褒美として与え、政治に「茶道」を組み込んでいったのです。
織田四天王の一人「滝川一益」は、領地ではなく茶器を褒美にほしいと頼んだものの、願いが敵わずに残念がったと言われています。
信長は定期的に茶会を開いていたと考えられます。
記録に残っている最初の「信長の茶会」は、《1571年12月》。
この年は、「比叡山焼き討ち」が行われた年です。
実は「本能寺の変」が起こった前日【6月1日】、信長は「お公家さん」や「博多の商人」を相手に、自分が持っている名物茶器「38個」を使って、壮大な「お茶会」を開きました。
お公家さんを接待し、「博多の商人」も接待することで、朝廷との関係を強め、また、「海外遠征」に「博多の商人」のチカラを借りようとしたと考えられています。
このときの「信長の名物茶器38個」は、一部が焼失しているものの、「新田肩衝」や「初花肩衝」は、現在「徳川ミュージアム」「徳川記念財団」が保有し、重要文化財に指定されています。
「本能寺の変」を描いた「絵」を画像でご紹介
「本能寺の変」を描いた絵は、数多くあるようです。
江戸時代に「浮世絵」のようにして描かれたものを、画像でご紹介いたします。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

《織田信長・本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

《森蘭丸の最期》
「引用元ウィキペディアより」

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

《森蘭丸》
「引用元ウィキペディアより」
「本能寺の変」の語呂合わせ
「本能寺の変」が起こった年は、西暦で「1582年」。
歴史家の「磯田道史」先生がおっしゃっておられたのですが、この「年」は、語呂合わせで「いちごパンツ」と覚えればよいのだとか。
「本能寺の変」と「いちごパンツ」・・・・。
インパクトが強すぎて、忘れることができなさそうですね。
「本能寺の変」から「関ヶ原の戦い」「豊臣家滅亡」までの年表
「本能寺の変」から、天下は「織田家」のものから「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」のものに移り変わりました。
しかしその「豊臣家」の天下も、「関ヶ原の戦い」からは「徳川家康」のものに、移り変わっていきます。
ここでは、「本能寺の変」から、「関ヶ原の戦い」、そして「豊臣家の滅亡」までの出来事を、「年表」にまとめてみました。
【1582年】
「本能寺の変」で「織田信長」死去
「山崎の戦い」に敗北した「明智光秀」が戦死
「清洲会議」で「羽柴秀吉」が天下の主導権を握る
【1583年】
「羽柴秀吉」と「柴田勝家」、この2人の派閥に割れた織田家の主導権争いが始まり、「賤ヶ岳の戦い」が勃発。
「羽柴秀吉」「織田信雄」が勝利し、「柴田勝家」「お市の方」「織田信孝」死去
【1584年】
「小牧・長久手の戦い」
「徳川家康」「織田信雄」の実質的な敗北
【1586年】
「徳川家康」が「豊臣秀吉」に臣従
【1590年】
「小田原征伐」
「北条氏政」「伊達政宗」が秀吉に臣従し、「天下統一」
【1592年】
「朝鮮出兵・文禄の役」
【1593年】
「豊臣秀頼」誕生
【1595年】
「豊臣秀次」切腹
【1597年】
「朝鮮出兵・慶長の役」
【1598年】
「豊臣秀吉」死去
【1600年】
「関ヶ原の戦い」
「石田三成」がひきいた「西軍」が敗北し、「徳川家康」ひきいる「東軍」が勝利。
この戦いの褒美として、家康は「東軍」の武将たちに、豊臣家の領地を勝手に分け与えてしまった。
そのため、それまで「200万石」あった「豊臣家」の領地は、一気に「63万石」まで減少。
実質的に豊臣家は、「天下を支配する家柄」から、中堅大名へと転落する。
【1603年】
「徳川家康」が「征夷大将軍・源氏長者」に任命される
「江戸幕府」を開く
「征夷大将軍」は「武家の棟梁」を意味し、「源氏長者」とは「源氏一門のトップ」を意味しており、「征夷大将軍」として武家を支配し、「源氏長者」として公家のトップに立った家康は、これにより天下を支配することとなる
【1605年】
家康が「征夷大将軍」の職を、三男「徳川秀忠」にゆずる
これにより、「徳川家が将軍として、今後も天下を支配していく」という意思を天下に示すこととなる。
【1615年】
「大坂夏の陣」
「豊臣秀頼」と、その母「淀殿(茶々)」が死去
「豊臣家」滅亡
「本能寺の変」の謎に迫ったおすすめ「本」
「本能寺の変」を描いた作品・書籍としては「明智憲三郎」さんの作品が有名です。
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この「本能寺の変 431年目の真実」では、「明智光秀」が「本能寺の変」を起こした「動機」や「黒幕」についての研究報告がされています。
「明智憲三郎」さんは、明智光秀の息子「おづる丸」の子孫なのだとか。
独自に調査した結果、「明智憲三郎」さんは、「本能寺の変」の真相について、
- 「明智光秀」と「徳川家康」による共謀説
- 光秀は、「織田信長」の「海外遠征」と「家康暗殺」を阻止するために、「本能寺の変」を起こした
と主張しておられます。
非常に興味深い作品でした。
この作品は、「マンガ」でも出版されています。
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「本能寺の変」を描いた「小説」おすすめ作品
筆者の個人的な意見ですが、「本能寺の変」を扱った作品のなかで面白かったのが、作家「安部龍太郎」さんの小説「信長燃ゆ」です。
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同じく「安部龍太郎」さんの小説「家康」でも、「本能寺の変」が扱われています。
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「安部龍太郎」さんは、「本能寺の変」の黒幕として、「ある名門のお公家さん」をあげています。
そして「秀吉」が、「信長暗殺」の真相を利用して、朝廷を脅し、天下を奪い取った・・・というストーリーが描かれています。
とてもおもしろい傑作です
『本能寺の変』について「ひとこと」言いたい!
「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなったことで、歴史は激動の移り変わりを見せます。
「山崎の戦い」で「明智光秀」が敗死。
「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」の敗死とともに、織田家の衰退が確定してしまうのです。
もしも「明智光秀」や「柴田勝家」が、「羽柴秀吉」に勝利していたら、歴史はどのように変わっていたでしょう。
「明智光秀」が「賤ヶ岳の戦い」で勝利していたら、おそらく「足利義昭」を京都へ呼び戻し、「室町幕府」を再興していたでしょう。
そうなると日本は、古くてチカラの弱い支配体制へと逆行しますから、戦国時代は終わったとしても、「江戸時代」のような長く平和な時代は訪れなかった可能性があります。
「柴田勝家」が「賤ヶ岳の戦い」に勝利していたら、どうなっていたでしょうか。
柴田勝家は「織田家を守る」という守旧派です。
もしも「柴田勝家」が勝利していたら、信長の三男「織田信孝」を信長の後継者として、天下統一を推し進めていたでしょう。
しかし、「織田信孝」と「柴田勝家」では、「豊臣秀吉」や「徳川家康」のような高度な支配体制を確立できたとは思えません。
遅かれ早かれ、「豊臣秀頼」が「徳川家康」に滅ぼされたように、「織田信孝」も「柴田勝家」亡き後、「徳川家康」に滅ぼされていたのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「本能寺の変」とは、今から約「450年」前の日本で、最大の権力を握っていた「織田信長」が、部下の「明智光秀」に裏切られ、殺害された事件
2,最新の研究によると、「本能寺の変」は、明智光秀が「四国」の武将「長宗我部元親」を救うために起こしたもの、と考えられている
3,「本能寺の変」には、「明智光秀」を操った「黒幕」がいると言われているが、「秀吉」「家康」「天皇」が黒幕として諸説ある
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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