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長篠の戦いの場所は何県?戦いについて小学生向けにわかりやすく簡単に解説

長篠の戦いとは、織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍を打ち破った戦いです。

戦場は現在どこの県にあるのでしょうか

教科書には載せられていない長篠の戦いの真実とは何か?

古戦場は現在の愛知県新城市しんしろし

鉄砲3000丁が使われることはなかったのです。

信長は、陣城じんじろという野戦築城やせんちくじょうを利用して勝利したのです。

教科書とは異なる【長篠の戦いの真実】を、わかりやすく簡単に解説いたします。

歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと
・長篠の戦い・・・これまでの通説では3000丁の鉄砲による三段撃ちで、武田勝頼率いる騎馬隊は敗北した事になっている

・しかし実際には三段撃ちなど不可能だった。織田信長による陣城を利用した戦いで武田は敗北した

・戦場は、現在の愛知県新城市長篠で行われた


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目次

長篠の戦いは何県で行われた?現在の場所を地図付きで解説

長篠の戦いの古戦場がある場所は、愛知県です。

現在は【愛知県新城市しんしろし長篠】という地名になっています。

もともと長篠には長篠城という城が存在しており、現在でも長篠城址として保存されています。

1576年に廃城となっているため、城自体は残っておらず、あくまでも城跡です。

この新城市では、毎年【長篠合戦のぼりまつり】なるイベントが開催されており、その時【火縄銃】を発砲するイベントが行われています。

2017年5月のイベントでは、大河ドラマ【おんな城主直虎】とのコラボイベントも行われたとのこと。

長篠城をご存知でしょうか?

武田軍からの鉄砲の銃撃を受けて、長篠城は穴だらけになったと言われています。

長篠の戦いで亡くなった武田軍の兵士たちは埋葬され、信長により信玄塚と呼ばれる塚が、長篠に築かれました。

信玄塚では、毎年お盆に【火踊り】という供養祭りが、約400年も続けられています。

信長は、勝利するために、意外と臆病で慎重な戦い方をする人だったのですね。


ちなみに・・・大河ドラマ【直虎】において、長篠の戦い前、本多正信という中年武士が登場していました。

この本多正信について、詳しく解説させていただいております。

よろしければ以下のリンク記事をご利用下さいませ。

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【長篠の戦い】とは何かを簡単に解説

1575年、長篠の戦いが勃発しました

織田信長徳川家康の連合軍と、武田勝頼率いる武田騎馬軍団がぶつかった戦い。

織田・徳川連合軍は38,000~72,000もの大軍団。

対する武田勝頼は15,000~25,000と言われていますが、戦国最強と呼ばれた武田騎馬軍団が主力だった言われています。



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長篠の戦いに至るまでの経緯

1573年、甲斐国の戦国大名武田信玄は、京都を目指した上洛戦の途中で病死。

あとを継いだ四男武田勝頼は、父・武田信玄から

3年は自分が死んだことを隠し、戦争をせずに内政に集中せよ

と遺言されていました。

しかし、そのスキを突いて徳川家康は三河・遠江の領地を武田軍から奪い返すために行動を開始。

その徳川家康の動きに対抗して、勝頼は父の遺言に逆らい、三河へ進撃。

1575年5月、勝頼は、徳川家康の勢力下にあった長篠城を包囲。

家康は勝頼を討つ好機として、織田信長に援軍を要請。

信長は大量の鉄砲を揃えて、徳川家康と合流し、武田勝頼に対峙したのでした。



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これまでの通説長篠の戦い

長篠の戦いは設楽原という平野部で行われたと言われています。

信長は3000丁という、莫大な数の鉄砲を用意。

更には馬防柵と呼ばれた木製の柵・堀をつくって、武田騎馬隊を防ぎました。

馬防柵・・・・織田・徳川連合軍では、鉄砲を大量に集めて進軍したそうですが、その中で鉄砲を持っていなかった者は、丸太を運ばされたとのことです。

堀と馬防柵の内側では、織田・徳川の兵が、3000の鉄砲を、1000丁ずつ3段構えで配置し、休みなく鉄砲で攻撃。

武田勝頼は、背後の鳶ヶ巣砦を敵に奪われていたため、撤退しようとすれば、鳶ヶ巣砦の敵に退路を絶たれ、信長・家康本隊に背後を突かれる・・・・挟み撃ちの状態になっていました。

生き残るには、正面にいる織田・徳川本隊を倒すしかありません。

また、勝頼の愚かさにより、無謀な突撃を繰り返し、最終的には10,000もの騎馬兵を失った・・・と言われています。

武田信玄に仕えた数々の名将達は、次々と討死。

武田四名臣と呼ばれた

  1. 高坂弾正
  2. 山県昌景
  3. 馬場信春
  4. 内藤昌秀

の内、高坂弾正以外の3名が討死。

真田幸村の伯父・真田信綱・昌輝も討死。

名門・武田は一気に衰退していった・・・と言われています・・・。

しかし、最近の通説では、どうやらこの三段撃ちはなかった・・・と考えられているみたいですね。



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ちなみに・・・武田勝頼は、無謀にも織田軍の鉄砲隊に対して、突撃を繰り返し、名将たちを次々失った愚か者・・・とされていますが、本当にそうなのでしょうか?

勝頼は、もしかしたら意図的に老将たちを排除するために、無茶苦茶な戦をわざと行ったのでは?

もともと勝頼は、武田家の継承者ではありませんでした。

本来は武田信玄の長男義信が後継者となるはずでしたが、義信が謀反を起こそうとしたため処刑。次男が盲目、三男が夭折していたため、もともと諏訪家を継承するはずだった勝頼が武田家当主に・・。

しかし、諏訪家の家臣団とともに戦をしてきた勝頼に、武田の名将・老臣たちは容易に従わず・・・・勝頼の存在感は非常に薄いものがありました。

そのため、武田勝頼は棟梁つまり武田家のボスであるにもかかわらず、影響力が薄い傀儡になりかかっていたのです。

この状況を打破するには、老臣たちを排除しなくてはなりませんが、濡れ衣をきせるわけにもいきません。そのため、長篠の戦いという戦いを利用して、老臣たちを排除した・・・ということも考えられるのでは?

この長篠の戦いの後、武田勝頼は領土を拡張し、最大版図を形成しています・・・。北は越後の糸魚川市・日本海まで到達し、東は上野の国、南は駿河・遠江まで・・・

勝頼・・・愚将とは程遠い人物であったことが、最新の研究で明らかになっています。信長も、勝頼をかなり恐れていましたしね。



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鉄砲の三段撃ちは、なかった?

鉄砲三段撃ちは不可能?

最近の通説では、三段撃ちは存在しなかったと言われているみたいです。

実はこの長篠の戦いが行われた時期は梅雨時

しかも長篠の戦い当日は、雨だったと記録が残っているのです。

更には設楽原は、田んぼだったため足場が悪く、三段に構えて、兵士が迅速に次々交代する動きは不可能。

雨が降ったことで足場がさらに悪化・・・鉄砲の火薬・火縄は、雨に弱いため、雨の中で連続射撃は困難なのです。

当時の火縄銃は、重さ5キロ・・・さらに甲冑を着込んだ兵士たちは、三段撃ちなんかやったら、相当な体力を消耗するでしょう。

小説家の安部龍太郎氏が、著書【家康】の中で、三段撃ちは不可能と言っていました。

当時の鉄砲は単発式でしたので、短時間での連発は至難の業だったのでしょう。



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長篠の戦いは攻城戦だった

信長は、武田を恐れていました。

武田信玄に対しては、贈り物を送りまくって機嫌を取り、信玄の死後も息子・勝頼を恐れていたのです。

信長は、3万の大軍団を率いて、家康の待つ長篠へ出発。

しかし、進軍は極めてゆっくり・・・・。

実際信長は、武田が恐ろしかったのでしょう。

このゆっくりした進軍を見て、勝頼は自信を深めます。

織田は恐れる必要のない相手だ

と感じたのでした。

信長は、強敵である武田騎馬隊に対抗するため、長篠・設楽原に陣城と呼ばれる即席の城を作りました。

つまり野戦築城です。

堀をつくり、柵で囲い、堀をつくるために掘り出した土で急勾配の丘を築きあげたのです。



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陣城とはつまり、敵から身を守る防御陣地のこと。

3万もの兵を抱える織田。

おそらく1日で陣城を完成させたことでしょう。

この陣城に対して、武田騎馬隊が突撃を開始。

対して織田軍は陣城からの鉄砲で銃撃。

とはいえ三段撃ちではなく、陣城前に部隊を配置して武田騎馬軍団をおびき寄せ、城に近づいた騎馬隊を鉄砲で討ち取るという戦法。

武田軍が疲弊すると、織田軍は総攻撃。

陣城・野戦築城を利用した戦いで、武田軍は1万人もの兵士を失ったのです。

信長が考案したとされている鉄砲・三段撃ちは画期的と言われていましたが、実際にはこの長篠の戦い以前から、鉄砲傭兵集団である雑賀衆では釣瓶撃ちという五段撃ちが行われていました。

城を攻撃することは、不利なのでやってはならない・・と孫子の兵法には書かれています。

逆に言えば、敵に城を攻めさせれば、有利に戦えるということになります。

その【敵に城を攻めさせる】という罠を勝頼に対して、信長は仕掛けたのです。

三段撃ちはなかったにしても、かなり上手な戦い方だったのかもしれません。


鉄砲の数・3000丁の真実について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

よろしければご利用下さいませ。

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・長篠の戦い、これまでの通説では【鉄砲の三段撃ち】で武田騎馬隊を打ち破ったとされていた

・最近の通説では、三段撃ちは不可能であると言われている

・実際には、信長は設楽原に陣城と呼ばれる野戦築城を行い、武田軍を破った

以上となります。

本日はレキシルへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、またレキシルへお越しくださいませ。

ありがとうございました


長篠の戦い」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

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