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織田信長が室町幕府を滅ぼした理由とは?信長は滅ぼす気がなかった!

「織田信長が室町幕府を滅ぼした理由は何だったのか」と気になって調べていませんか。教科書では信長が室町幕府を倒したと習いますが、実はその裏には15代将軍・足利義昭との複雑な対立がありました。

結論からお伝えすると、織田信長には最初から室町幕府を滅ぼす意図はなかったとする見方が有力であり、将軍・足利義昭との関係が決定的に悪化した結果として、1573年に室町幕府は事実上の滅亡を迎えます。この記事では、織田信長が室町幕府を滅ぼした理由と、その本当の経緯をわかりやすく解説します。

この記事のポイント

  • 織田信長が室町幕府を滅ぼした理由と本当の真相
  • 室町幕府が滅亡するまでの信長と足利義昭の対立の経緯
  • 信長には実は室町幕府を滅ぼす気はなかったという説
  • 追放されたあとの足利義昭のその後の生涯と死因

室町幕府を開いた人物や将軍の役割を整理しておくと、この記事がより理解しやすくなります。関連記事:征夷大将軍とは何か?簡単にわかりやすく子供でもわかるよう解説

目次

織田信長が室町幕府を滅ぼした理由とは?結論を簡単に解説

まずは「織田信長が室町幕府を滅ぼした理由」について、結論から簡単に整理しておきましょう。多くの人が「信長が天下統一のために邪魔な幕府を倒した」とイメージしていますが、実際の経緯はもう少し複雑です。室町幕府を滅ぼした人は確かに織田信長ですが、そこには将軍・足利義昭との人間関係の決裂という大きな要因がありました。ここでは滅亡に至った3つのポイントを、わかりやすく解説していきます。

織田信長(三宝寺蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

織田信長が室町幕府を滅ぼした最大の理由は足利義昭との対立

足利義昭
Wikipediaコモンズ」より引用

織田信長が室町幕府を滅ぼした最大の理由は、15代将軍・足利義昭との関係が修復不可能なまでに悪化したことです。もともと信長は、足利義昭を将軍の座に就けるために京都へ上洛させた、いわば義昭の最大の協力者でした。ところが将軍となった義昭は、次第に信長の力が大きくなることを警戒するようになります。そして信長を排除しようと各地の大名に密書を送るなどし、いわゆる「信長包囲網」(※後世に名付けられた歴史用語)の形成に関与して信長と敵対する道を選んだとされています。この対立こそが、室町幕府が滅亡へと向かう直接の引き金になりました。信長にとって室町幕府を倒すこと自体が目的だったのではなく、自分を倒そうとした将軍・足利義昭を抑え込んだ結果として、幕府が機能を失っていったというのが実情です。


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室町幕府を滅ぼした人は織田信長だが当初は協力者だった

室町幕府を滅ぼした人として歴史に名を刻んだのは織田信長ですが、両者は当初きわめて良好な協力関係にありました。1565年、13代将軍・足利義輝が殺害される永禄の変が起こり、弟である義昭は将軍の座を狙って各地の大名に上洛の支援を求めて回ります。しかし当時、義昭の願いに本気で応えられる実力を持つ大名はなかなか現れませんでした。そんな中で義昭の要請に応えたのが、尾張・美濃を平定したばかりの織田信長だったのです。1568年、信長は義昭を奉じて京都へ上洛し、義昭を15代将軍の座に就けることに成功します。つまり信長は、室町幕府を再興させた立役者でもありました。この事実を知ると、「織田信長 室町幕府」という関係が単純な敵対ではなかったことがよくわかります。

信長は室町幕府を滅ぼす気はなかったという見方

近年の研究では、織田信長には当初から室町幕府を滅ぼす意図はなかったという見方が有力になっています。信長は義昭を将軍に就けたあとも、しばらくは将軍を立てて政治を行う形を尊重していました。信長が目指していたのは「天下静謐(てんかせいひつ)」、つまり戦乱のない安定した世の中の実現であり、そのために将軍の権威を利用しようとしていたとも考えられています。実際、信長は義昭との関係が悪化したあとも、すぐに義昭を殺害するのではなく、和睦の機会を与えたとされています。最終的に義昭を京都から追放したものの、命まで奪うことはありませんでした。こうした経緯を見ると、信長が「幕府を滅ぼすこと」を最初から狙っていたわけではないことが見えてきます。


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室町幕府が滅亡するまでの経緯|信長と足利義昭の関係

ここからは、織田信長と足利義昭の関係がどのように変化し、室町幕府が滅亡へと向かっていったのかを、時系列に沿ってわかりやすく解説します。協力関係から始まった二人が、なぜ決定的に対立するに至ったのか。その流れを知ることで、織田信長が室町幕府を滅ぼした理由がより立体的に理解できるはずです。

足利義昭を奉じて上洛した1568年

すべての始まりは1568年の上洛でした。兄・足利義輝を失った義昭は、当初は朝倉義景を頼っていましたが、なかなか上洛の支援を得られずにいました。そこで義昭が頼ったのが織田信長です。信長は義昭の要請を受けると、わずかな期間で軍勢を整え、京都への進軍を開始します。途中、上洛を阻もうとした南近江の六角義賢は、信長の進軍に対して観音寺城などを拠点としましたが、信長勢の猛攻の前に城を放棄して撤退し、信長はその勢いのまま京都を制圧します。当時、義昭の願いに本気で応えられる実力を持つ大名がいなかった中で、これほどの速さと軍事力で上洛を成し遂げた信長の力は際立っていました。こうして義昭は念願の15代将軍に就任し、信長はその最大の功労者となります。義昭は信長に深く感謝し、将軍を補佐するような高い地位を与えようとしたと言われています。この時点では、二人の関係はきわめて良好なものでした。

将軍権力をめぐる信長と義昭の対立の始まり

蜜月関係は長くは続きませんでした。信長は義昭を将軍に就けたあと、義昭の行動を制限する条項を突きつけるようになります。これは「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」と呼ばれ、将軍が勝手に各地へ命令を出すことなどを制限する内容でした。義昭にしてみれば、自分が将軍であるにもかかわらず、信長によって行動を縛られることへの不満が募っていきます。一方の信長は、義昭が将軍の権威を使って自分に対抗しようとする動きを警戒しました。こうして将軍権力の主導権をめぐり、二人の間には次第に深い溝が生まれていったのです。「織田信長 幕府」という関係が、協力から緊張へと変質していく転換点がここにありました。


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信長包囲網の形成と義昭の挙兵

信長との対立を深めた足利義昭は、ついに信長打倒へと動き出します。義昭は将軍という立場を最大限に活用し、各地の有力大名に信長を討つよう密書を送りました。これに応じたのが、甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、そして石山本願寺などです。

武田信玄
Wikipediaコモンズ」より引用

こうして信長を四方から取り囲む「信長包囲網」が形成されました。とりわけ最強と謳われた武田信玄の西上は信長にとって大きな脅威となります。義昭はこの包囲網(各勢力の利害が一致した結果であり、義昭単独の主導ではないとする見方もあります)に勢いを得て、1573年に槇島城に籠もるなどして軍事行動を起こし、信長と全面的に敵対する道を選びました。将軍が、自らを将軍にしてくれた相手に刃を向けたのです。この義昭の挙兵こそが、室町幕府滅亡への最後のカウントダウンを始める出来事となりました。

信長は室町幕府を滅ぼすつもりはなかった?滅亡の真相

義昭が挙兵したことで、信長と室町幕府は決定的に対立します。しかし、ここでも信長はすぐに幕府を完全に潰そうとはしませんでした。この章では、室町幕府がどのように事実上の滅亡を迎えたのか、そして信長の本当の意図はどこにあったのかという真相に迫ります。

1573年・足利義昭の京都追放と室町幕府の事実上の滅亡

1573年、足利義昭の挙兵に対し、信長は軍を率いて京都を制圧します。それでも信長は、義昭にすぐ和睦を持ちかけました。しかし義昭がこれを拒否して再び挙兵したため、信長は義昭を京都から追放する決断を下します。一般的に、この1573年の足利義昭の京都追放をもって室町幕府は事実上滅亡したとされています(制度的には義昭が将軍職を辞した1588年を終焉とする説もあります)。1336年に足利尊氏が開いた室町幕府は、約240年の歴史にここで事実上の幕を下ろしました。なお、室町幕府を開いた足利尊氏と、滅ぼされた足利義昭を混同しやすいので注意が必要です。尊氏は幕府を「開いた」初代将軍、義昭は幕府が「滅びた」ときの15代将軍にあたります。


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信長が義昭を殺さなかった理由

注目すべきは、信長が追放した義昭を殺害しなかったという点です。戦国時代において、敵対した相手を生かしておくことは大きなリスクを伴いました。それにもかかわらず信長が義昭の命を奪わなかったのには、いくつかの理由が考えられます。一つは、将軍を殺害すれば「主君殺し」として世間の批判を浴び、信長自身の正当性が揺らぐことを避けたためです。もう一つは、信長が将軍の権威そのものを完全に否定していたわけではなく、状況次第では再び義昭を担ぐ余地を残していた可能性です。信長が目指したのは幕府の打倒そのものではなく、あくまで自分に敵対する勢力の排除でした。この事実こそ、「信長は室町幕府を滅ぼすつもりはなかった」という説の有力な根拠となっています。

私自身、信長という人物を調べていて強く感じるのは、彼が意外なほど約束を重んじる律儀な一面を持っていたことです。徳川家康との同盟を生涯にわたって守り抜いたことからも、それは見て取れます。義昭との関係も、信長の側から一方的に裏切ったというよりは、再三にわたって和睦を呼びかけても応じてもらえなかった末の決別だったように思えてなりません。

天下静謐を目指した信長の本当の狙い

信長の行動原理を理解するうえで欠かせないのが「天下静謐」という考え方です。これは、戦乱を鎮めて天下を安定させるという理念で、信長が掲げた大義名分でもありました。信長にとって将軍・足利義昭は、当初この天下静謐を実現するためのパートナーでした。しかし義昭が信長包囲網の形成に関与して各地の戦乱を煽る存在になってしまったため、信長から見れば義昭こそが天下静謐を乱す元凶になってしまったのです。つまり信長は、幕府を倒すために義昭を追放したのではなく、天下を安定させるために、戦乱の中心となった将軍を排除せざるを得なかったと解釈できます。織田信長が室町幕府を滅ぼした理由の核心は、まさにこの天下静謐という理念と、それを阻む義昭との対立にあったといえるでしょう。

追放後の足利義昭はどうなった?その後の生涯と死因

1573年に京都を追放された足利義昭ですが、実はその後もしばらく生き続け、自らを「将軍」と称し続けました。室町幕府最後の将軍は、追放後どのような人生を歩み、どこで最期を迎えたのでしょうか。ここでは、足利義昭のその後の生涯と死因について、わかりやすく解説します。

追放後も将軍を名乗り続けた足利義昭

京都を追われた足利義昭は、そのまま大人しく隠居したわけではありませんでした。義昭は各地を転々としながら、依然として信長打倒の意志を捨てず、再び信長包囲網を画策します。最終的に義昭が落ち着いたのは、毛利氏の庇護を受けた備後の鞆(とも)の浦でした。義昭はこの地で「鞆幕府」とも呼ばれる亡命政権を維持し、将軍としての立場を主張し続けます。京都を追われてもなお自らを将軍と名乗り続けたこの姿勢こそ、足利義昭という人物の執念深さと、室町幕府再興への強い思いを物語っています。実際、室町幕府が法的に完全に終わるのは、後年に義昭が将軍職を正式に辞してからだという見方もあります。

豊臣秀吉に仕えた晩年

豊臣秀吉
Wikipediaコモンズ」より引用

1582年、織田信長が本能寺の変により、明智光秀に滅ぼされます。筆者は実際に織田信長が亡くなった最期の地である本能寺跡地へ行ったことがありますが、高齢者施設や住宅が建ち並び、現在では小さな碑が残るのみ。歴史的大事件が起こった場所とは思えないほどです。

本能寺跡の碑(筆者撮影)

本能寺の変で信長が倒れたあと、足利義昭の境遇は大きく変わります。天下の実権を握った豊臣秀吉は、義昭を京都へ戻すことを許しました。1588年、義昭は正式に将軍職を辞し、出家して「昌山(しょうざん)」と号します。その後は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)の一人として所領を与えられ、晩年を過ごしました。御伽衆とは、主君のそばに仕えて話し相手や文化的な交流を務める役割です。かつて天下を巻き込んで信長と争った室町幕府最後の将軍が、今度は天下人・秀吉の話し相手として遇されたのは、なんとも数奇な巡り合わせといえます。出自の低い秀吉にとっても、由緒ある足利将軍家の義昭を従えることは、自らの権威を高める意味があったと考えられます。室町幕府最後の将軍が、最後は秀吉に仕える身となったことは、時代の移り変わりを象徴する出来事といえるでしょう。


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足利義昭の死因と最期

足利義昭は1597年、61歳でその生涯を閉じました。足利義昭の明確な死因は不詳ですが、晩年に腫物(はれもの)を患っていた記録があり、それが悪化したことによるものとする説が有力とされています。波乱に満ちた人生を送った義昭でしたが、最期は戦乱の中ではなく、病によってその生涯を終えたのです。室町幕府を滅ぼされた将軍でありながら、戦国の世を最後まで生き抜き、天寿に近い年齢まで生きたことは特筆に値します。

足利義昭の生涯と死の詳細については、こちらの記事で詳しく解説しています。関連記事:【足利義昭の死因】室町幕府最後の将軍はどこで死んだ?享年61の最期

余談ですが、織田信長からその才能を認められた戦国武将・蒲生氏郷は「情けと知行は車の両輪」という言葉を残しています。これは人の心を動かすには情けと恩賞の両方が必要だという教えですが、私はこの言葉を知ったとき、ふと信長と義昭の関係を思い出しました。信長は義昭を殺さず生かしました。もしかすると信長の心のどこかには、いつか義昭を再び迎える可能性も残っていたのかもしれない、とつい想像してしまうのです。


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もし信長が室町幕府を滅ぼさなかったら|天下静謐の思想

歴史に「もしも」は禁物といわれますが、織田信長が室町幕府を滅ぼした理由を深く理解するために、あえて「もし信長が幕府を滅ぼさなかったら」という視点から考えてみましょう。この章では、信長の天下構想と、室町幕府滅亡が日本の歴史に与えた意味を掘り下げます。

信長が描いた新しい天下の形

織田信長が目指していたのは、将軍を頂点とする旧来の幕府体制とは異なる、新しい統治の形だったと考えられています。信長は古い権威や慣習にとらわれず、実力によって天下を治めようとしました。もし義昭との対立がなく、信長が将軍を立てたまま天下統一を進めていたとしても、いずれ室町幕府という古い枠組みは時代に合わなくなっていた可能性が高いでしょう。信長が掲げた天下静謐の理念は、結果として将軍の権威に頼らない、新しい秩序の構築へとつながっていきました。室町幕府の滅亡は、信長個人の意図というより、戦国という時代が求めた必然だったとも解釈できます。

室町幕府滅亡が日本史に与えた影響

室町幕府の滅亡は、日本の歴史における大きな転換点となりました。240年近く続いた足利将軍家による統治が終わり、実力者が天下を治める新しい時代の幕が開いたのです。それ以前の社会では、将軍から領地の支配を任された「守護大名」が各地を治めていました。しかし戦乱の世が続く中で、家柄や役職よりも実力がものをいう「戦国大名」が台頭し、下の者が上の者を実力で打ち倒す下剋上の風潮が広がっていきます。信長による室町幕府の滅亡は、こうした権力構造の大きな変化を決定づける象徴的な出来事でした。信長の後を継いだ豊臣秀吉、そして徳川家康へと続く流れの中で、やがて約260年続く江戸幕府という安定した体制が生まれます。皮肉なことに、信長が壊した「幕府」という仕組みは、徳川家康によって新しい形で再構築されることになりました。室町幕府を滅ぼした織田信長の行動は、結果として戦国の世を終わらせ、長い泰平への道を切り開く第一歩になったといえるでしょう。


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よくある質問(FAQ)

最後に、織田信長と室町幕府の滅亡について、よくある質問をまとめました。記事の総まとめとして、疑問点の確認にお役立てください。

Q1. 室町幕府を滅ぼした人は誰ですか?

室町幕府を滅ぼした人は織田信長です。1573年、信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放したことで、室町幕府は事実上の滅亡を迎えました。ただし信長は当初、義昭を将軍に就けた協力者であり、対立の末の追放だった点が重要なポイントです。

Q2. 織田信長が室町幕府を滅ぼした理由は何ですか?

最大の理由は、15代将軍・足利義昭との関係が決定的に悪化したことです。義昭が信長打倒の包囲網を築いて挙兵したため、信長は義昭を追放する決断を下しました。信長には当初から幕府を滅ぼす意図はなく、敵対した将軍を排除した結果だったと考えられています。

Q3. 室町幕府が滅亡したのはいつですか?

一般的に、室町幕府が滅亡したのは1573年とされています。この年に織田信長が足利義昭を京都から追放したことで、1336年に足利尊氏が開いた室町幕府は約240年の歴史に幕を下ろしました。なお完全な終焉は義昭が将軍職を辞した1588年とする見方もあります。


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Q4. 追放された足利義昭の死因は何ですか?

足利義昭の死因は不詳ですが、晩年に患った腫物が悪化したことによるものとする説が有力とされています。京都を追放されたあとも各地を転々とした義昭は、最終的に豊臣秀吉に仕え、1597年に61歳で亡くなりました。戦乱の世を最後まで生き抜き、病によってその生涯を終えています。

Q5. 室町幕府を開いた人と滅ぼされたときの将軍は違いますか?

はい、別人です。室町幕府を開いたのは初代将軍・足利尊氏で、1336年のことです。一方、滅ぼされたときの将軍は15代将軍・足利義昭です。同じ足利氏のため混同されがちですが、開いた人物と滅亡時の人物はまったく異なるので注意しましょう。

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麒麟がくるや武田信玄など、信長と義昭が生きた戦国時代を描いた作品は動画配信サービスでも楽しめます。映像で見ると、二人の対立がよりリアルに理解できるはずです。

織田信長の生涯や本能寺の変、子孫について網羅的に知りたい方は、こちらの記事もあわせてご覧ください。関連記事:織田信長について全てを徹底解説!本能寺の変や年表・子孫を完全網羅

まとめ|織田信長が室町幕府を滅ぼした理由

織田信長が室町幕府を滅ぼした理由は、15代将軍・足利義昭との対立にありました。もともと信長は義昭を将軍に就けた協力者でしたが、将軍権力をめぐる対立から義昭が信長包囲網の形成に関与して軍事行動を起こし、1573年に信長が義昭を京都から追放したことで室町幕府は事実上滅亡します。信長には当初から幕府を滅ぼす意図はなく、天下静謐を乱す存在となった将軍を排除した結果でした。追放後の義昭は将軍を名乗り続けたのち秀吉に仕え、1597年に61歳で亡くなっています。私自身、本能寺の跡地を訪れた際、信長が義昭をどう思っていたのかと静かに想像をめぐらせました。律儀な一面を持つ信長のことですから、対立の裏には複雑な思いがあったのかもしれません。

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