今回のテーマは「豊臣秀吉のあだ名」です。
この記事では「織田信長」が「羽柴秀吉」を「なんと呼んでいたのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長と秀吉の関係」を、カンタンに理解できます。
「信長」は「秀吉」を「ハゲネズミ」と呼んでいたのです。
「猿」と呼んだ記録はないものの、「秀吉」が猿に似ていたことだけは確かなようですね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
信長が「秀吉」を「猿」と呼んだ記録はない。ただ、信長は秀吉を「ハゲネズミ」と呼んでいた
2,「織田信長」と「豊臣秀吉」は、どういう関係なのか?
「秀吉」は、「織田信長」に仕えた部下だった。「秀吉」は「明智光秀」と並んで、信長の家臣団の中でもっとも優秀だった
3,「織田信長」と「秀吉」の「草履の逸話」とは?
秀吉には「信長の草履をふところで温めた」という逸話があるが、それは後世の創作と考えられている
目次
信長は「秀吉」を猿とは呼ばず「ハゲネズミ」と呼んでいた!
「織田信長」は、部下である「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」を、「猿」ではなく、「ハゲネズミ」と呼んでいたらしいです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
信長が秀吉を「猿」と呼んだのは、後世の作品「太閤記」での創作と考えられています。
信長は、「秀吉」の妻「おね」から、秀吉の「浮気癖」と「妻への八つ当たり」に関する愚痴を聞かされたことがありました。
そのとき信長は、「おね」を慰めるための手紙を送っています。
その手紙には、こう書かれていました。
「あのハゲネズミに、あなたのような立派な妻は、二度と見つかりません。
もったいないほどです。
秀吉のことで、決して苦しまないでください。
この手紙を、秀吉に見せてやると良いでしょう」
信長は、秀吉を「ハゲネズミ」と呼んでいたのです。
「猿」と呼んでいた記録は、何も見つかっていません。
しかし、「羽柴秀吉」が「猿」に似ていなかったわけではありません

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
秀吉は、天下人となったあと、居城である「聚楽第」の壁に「さる関白」と落書きをされたことがありました。
それだけではありません。
「秀吉」に謁見した外国の死者が
「猿にもネズミにも似ている」
と証言した記録が残っているのです。
つまり秀吉は、「猿」に似た顔だったのでしょうね。
「豊臣秀吉」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」と「豊臣秀吉」の関係とは?「秀吉」は「信長」の優秀な部下だった
織田信長にとって、豊臣秀吉は「明智光秀」と並ぶ優秀な部下でした。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」
「秀吉」は、「明智光秀」「柴田勝家」「滝川一益」たちと並ぶ、「中国地方」の侵略を担当する「軍の司令官」だったのです。
- 「羽柴秀吉」
- 「明智光秀」
- 「柴田勝家」
- 「滝川一益」
この四名は、織田家で特に高い地位にいました。
信長は、「光秀」の次に「秀吉」の働きぶりを評価していたのです。
しかし信長は「本能寺の変」で、その最も信頼していた「明智光秀」に裏切られ戦死してしまいます。
秀吉は「信長」の仇討ちに成功し、「明智光秀」に次ぐ「織田家ナンバー2」の地位から、一気に「天下人」へと上りつめたのです。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
秀吉は「織田信長の息子」を養子にもらっていた
羽柴秀吉は、織田信長の四男「於次丸(おつぎまる)」を、養子にもらっています。
実は秀吉、若い頃に患った「熱病(おたふく風邪)」で、子供が出来ない身体だった、といわれています。
信長はそんな秀吉に、自分の四男「於次丸(のちの羽柴秀勝)」を、褒美の代わりに養子として与えているのです。
つまり信長にとって秀吉は、「息子の養父」にあたるのです。
織田信長は、自分の子供を与えてやるほどに、「羽柴秀吉」を気に入り、そして重く用いていたということです。
この「於次丸」こと「羽柴秀勝」は、「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」に参戦して、養父「羽柴秀吉」とともに戦っています。
しかし、実父「織田信長」が亡くなった4年後の【1586年】、秀勝はわずか【18歳】で病死しています。
「織田信長の息子たち」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
秀吉と「草履」の逸話!実はすべてウソだった?
「豊臣秀吉」といえば、「織田信長」に仕えた逸話として「草履(ぞうり)」のエピソードが有名です。
織田信長の「草履取り」、つまり「庭先の係」を担当していた秀吉は、信長が外出する際に、信長の草履を差し出す役目も果たしていたのです。
信長が外へ出ようとすると、草履をふところから取り出して、信長の前に並べる秀吉。
信長が草履を履いてみると、何やら草履があたたかい・・・・。
これに信長は激怒!
信長は秀吉に
「俺の草履を尻の下に敷いて座っていただろう」
と、お説教します。
ところが秀吉は、【自らの「ふところ」に草履を入れて温めていた】と説明。
寒い日だったので、冷たい草履を履くのは辛いだろうから、温めていたというのです。
これに感心した織田信長は、【秀吉】を引き立てて、出世させていきました。
そしてついに「秀吉」は、「明智光秀」に次ぐ「中国方面軍司令官」という重職を担当するまでに出世したのでした。
これが有名な「秀吉と織田信長の草履」のお話です。
「自らの仕事に、求められる以上の価値をつける(付加価値)」の逸話として有名ですよね
しかしこの逸話は「後世の創作」であると考えられています。
秀吉は、実際には「草履を温める」なんてやっていません。
もしかすると、本当にお尻の下に敷いて座り、信長から叱られた言い訳として「ふところであたためていた」と言い訳したのかもしれません。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」が「豊臣秀吉」を「猿」と呼んだ記録はない。ただ、信長は秀吉を「ハゲネズミ」と呼んでいた
2,「豊臣秀吉」は、「織田信長」に仕えた部下だった。「秀吉」は「明智光秀」と並んで、信長の家臣団の中でもっとも優秀だった
3,秀吉には「信長の草履をふところで温めた」という逸話があるが、それは後世の創作と考えられている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
『織田信長』関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
「織田信長の遺体の行方を調査!実は謎でも行方不明でもなかった」の記事はコチラ
「【織田信長】最後の言葉と辞世の歌は?亡くなる時の詳細な様子を紹介」の記事はコチラ
「織田信長の嫁の名前一覧表!正妻は「帰蝶」ではなく生駒吉乃?」の記事はコチラ
「【織田信長】家紋の意味や花の由来!読み方を画像付きで簡単解説!」の記事はコチラ
「織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは」の記事はコチラ
「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説」の記事はコチラ
「織田信長と池田恒興(つねおき)の関係と最期を解説!子・輝政の逸話」の記事はコチラ
「織田信長の生い立ちから最期まで!3分でわかりやすく簡単に解説!」の記事はコチラ
「[織田信長]本能寺の変で死んでない?真実と黒幕を分かりやすく簡単に解説」の記事はコチラ
「織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?」の記事はコチラ
「織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます」の記事はコチラ
「織田信長はどんな人物だったの?意外にも優しいエピソードが多かった」の記事はコチラ
「明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ
「織田信長家臣・弥助(やすけ)の生涯!彼が持つ信長デスマスクは本物?」の記事はコチラ
『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
コメント