武田勝頼の首はどうなった?武田家臣・長篠の戦いで死んだ名将一覧!

武田信玄の四男・武田勝頼
「天目山の戦い」で亡くなった武田勝頼の首は、どうなったのか?
勝頼が亡くなる7年前、「長篠の戦い」で亡くなった「武田家」の名将たちとは?
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・勝頼の首は、織田信長にののしられながら、京都でさらされた
・長篠の戦いで、多くの武田家名臣たちが命を落とした
・武田家は、勝頼の死後、武田信玄の次男「海野信親」、五男「仁科盛信」の系列で、現代まで存続している
武田勝頼の首
1582年、「長篠の戦い」の7年後、「天目山の戦い」で武田勝頼は敗死しました。
織田・徳川・北条が退去して武田領内に攻め込み、「小山田信茂」の裏切りもあって、天目山の戦いに敗北し、嫡男の「信勝」へ武田家の家督を相続させ、その場で親子ともども自害。
さらに、妻の北条夫人(北条氏政の妹)も、この時19歳の若さで亡くなっています。
武田勝頼の首は、織田信長のもとに送られ、首実検が行われました。
勝頼の首を見た信長は、凄まじい勢いで勝頼を罵ったそうです。
「極悪人・武田信玄の息子よ。
その罰が原因で、汝はこのような姿に成り果てたのだ。
信玄は、京の都へ行きたいと言っていたらしい。
父・信玄の夢を叶えてやるため、貴様の首を京都へ連れて行ってやろう。
京の都に貴様の首をさらして、笑いものとなるがいい」
挙句の果てには散々に、勝頼の首を鞭打つ始末。
信長が長年抱いていた「信玄への恨み」の凄まじさが伺えます。
対して徳川家康は、勝頼の首を丁重に扱いました
「あなたは経験のなさが原因で、敗戦を重ねてしまいました。
父・信玄公の名を負い、その重さたるや計り知れないものがあったことでしょう。
あなたの若さが原因なのです。
本当に惜しいです。」
寛大な対応を見せた家康に対し、旧武田家家臣団は感謝を惜しまず、後に家康に仕えて天下統一をおおいに助けたそうです。
勝頼の首は、息子・信勝の首とともに、京都の一条大路でさらされました。
後に家康は、勝頼の菩提寺として「景徳院」を建立しています。
長篠の戦いで亡くなった「名将」たち
天目山の戦いで武田家が滅びる7年前、三河国・長篠城の近く「設楽原」にて、後世「長篠の戦い」と呼ばれた合戦が行われました。
織田・徳川連合軍が「3万8千~7万2千」
対する武田軍が「1万5千~2万5千」
織田軍には数千の鉄砲があると言われていましたが、実際にはそんな鉄砲が存在していた可能性は低いです。
織田軍は、得意の「築城」技術を駆使して設楽原に「陣城」と呼ばれる陣地を気づきあげました。
3重の馬防柵、堀、堀を作った際に掘り起こした土で丘をつくり、さらには「連吾川」を天然の堀として利用し、武田軍を迎え撃ち、「1万」以上の損害を武田軍に与えました。
この戦いで、武田は歴戦の名将を何人も失いました。
「武田四天王」の内3名、「山県昌景」「馬場信春」「内藤昌豊(昌秀)」
他にも「真田幸村」の伯父「真田信綱」「真田昌輝」兄弟
「真田幸村」のはとこ「鎌原重澄」
山県昌景の息子「山県昌次」
武田信玄の甥「望月信永」
「土屋昌続」
「土屋貞綱」
「原昌胤」
「小幡憲重」
「甘利信康」
「横田康景」
「原盛胤」
「安中景繁」
「米倉重継」
「大井貞清」
信玄の弟「河窪信実」
「三枝昌貞」
「和田業繁」
武田四天王の一人「高坂昌信」の息子「高坂昌澄」
山本勘助の息子「二代目・山本菅助」
この敗戦で、武田家は一気に衰退していくこととなります
武田家のその後
長篠の戦いで敗北した武田家は、一時は領土を拡張したものの、南の徳川家康と織田信長からの圧力に押されて、衰退していきます。
そして長篠の戦いから7年後の1582年3月、武田家は「天目山の戦い」で滅亡。
その3ヶ月後には、織田信長が「本能寺の変」で、明智光秀に殺害されています。
武田家はその後、徳川家康の五男「武田信吉」によって一時的に再興。
しかし、信吉は夭折。
武田信玄の次男で、盲目であった僧侶「海野信親(竜芳)」の子「武田信道」が逃げ延び、平成の現在・当主「武田英信」さんまで続いています。
とはいえ、「武田英信」さんの系列では、2度も養子を取っているため、武田信玄と血縁はありません。
それに対して、信玄の五男「仁科盛信」の長男「仁科信基」と次男「信貞」の子孫が、江戸時代に旗本として存続して、現代まで続いており、その系統は武田信玄との血縁が今も続いています。
仁科信貞の子孫は後に「武田姓」へ戻しており、明治時代に兵庫県へ移住しているらしく、現在も続いています。
ちなみに信玄の七男「安田信清」は、後に上杉景勝に仕えています。
ちなみに「武田勝頼の子孫」が、名門の血をついで明治まで存続していました。
以下のリンク記事で詳しく解説させていただいております。
↓↓↓↓↓
まとめ
本日の記事をまとめますと
・武田勝頼の首は、息子・信勝の首とともに、京都でさらされた
・武田家の名臣たちは、長篠の戦いで多くが戦死している
・武田家はその後、信玄の子孫たちが旗本として徳川家に仕え、現代まで続いている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「長篠の戦い」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
↓↓↓↓↓
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。