織田信長が南蛮貿易を重視した理由!外国との貿易なしでは戦えなかった

この記事では「織田信長」と「南蛮貿易」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長」と「南蛮貿易」の「関係」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は、「鉄砲」を撃つ際に使う「黒色火薬」を手に入れるために、「南蛮貿易」を重視せざるを得ない立場にあったのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」は、なぜ「南蛮貿易」を重視していたのか?

当時「鉄砲」を撃つための「黒色火薬」の材料である「硝石」は、日本国内で生産できなかった。そのため「硝石」を輸入に頼りきっていたので、「南蛮貿易」を重視せざるを得なかった

 

2,「信長」は、なぜ「キリスト教」を保護したのか?

当時は「キリスト教」の布教を認めなくては、南蛮貿易できなかった。さらに信長は敵対していた「宗教勢力」の弱体化を狙って、キリスト教の保護をしていたと考えられる

 

3,「信長」は、南蛮貿易で手に入れた利益を何に使っていたのか?

信長は、南蛮貿易で手にした莫大な利益を使って、「巨大な軍団」をつくりあげ、天下を制圧していった

織田信長が「南蛮貿易」を重視した理由!鉄砲と火薬

織田信長は「スペイン」や「ポルトガル」との貿易、通称「南蛮貿易」をとても重要視していました。

 

信長が「南蛮貿易」を重視した理由は、「硝石(しょうせき)」を手に入れるためです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

信長は、「鉄砲」を誰よりも重視していました。

 

しかし「鉄砲」を撃つためには、「黒色火薬」が必要です。

 

その「黒色火薬」を製造するための「材料」に、大きな問題があったのです。


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「黒色火薬」は、

  • 「木炭」
  • 「硫黄」
  • 「硝石」

という、「3つの材料」を、一定の割合で混ぜあわせることで完成します。

 

「木炭」と「硫黄」は日本国内で、いくらでも手に入ります。

 

しかし「硝石(硝酸ナトリウム)」だけは、当時の日本では産出されなかったのです。(硝酸ナトリウムは、日光が当たらない土中で生成されるらしいが、当時はそんなこと誰も知らなかった)

 

そのため「硝石」だけは南蛮貿易に頼らなくては、手に入らなかったのです。

 

鉄砲の弾丸に使用される金属「鉛(なまり)」も、国内では手に入りにくかったため、信長は「硝石」や「鉛」などを手に入れるため「南蛮貿易」をとても重視していた、というわけです。

 

信長は「南蛮貿易」の中心的な貿易港だった「堺」を直接支配します。

 

そうすることで、「硝石」や「鉛」を積極的に輸入したのです。


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それだけではありません。

 

「鉄砲」は当時、日本での「国産」が可能とはなっていたものの、「引き金」部分の合金などは、やはり国内で生産することが難しかったのです。

 

そのため「引き金」に使う合金「真鍮(しんちゅう)」なども輸入に頼っていました。(「真鍮」は「鉛」と「亜鉛」の合金。五円玉の材料。一説によると「オリハルコン」の正体とも言われている)

 

つまり信長は、「鉄砲」という当時の最新兵器を使うために、「南蛮貿易」を重視せざるを得なかったのです。

 

織田軍団は、「鉄砲」などの最新兵器で、戦闘能力を極限まで高めて、激戦を勝利し続けてきました。

 

「鉄砲」のない状態で戦うことなど、信長には考えられなかったのです。

 

そのため「南蛮貿易」を重視するしかなかったわけです。

 

「南蛮貿易」がなかったら、織田信長は戦うことすら出来なかった、と言ってもいいでしょう。

 

この「鉄砲」が、「長篠の戦い」で、強敵「武田勝頼」と武田騎馬軍団を撃破する事となります。

 


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信長が「キリスト教」を保護した理由!布教させないと貿易できなかった

南蛮貿易とは、「スペイン」と「ポルトガル」という2カ国と行う貿易のことです。

 

ただ、「日本」と「スペイン・ポルトガル」の本土を、船でつないで交易していたわけではなく、アジアにあった「スペイン・ポルトガル」の拠点と日本を船で往復して、物品を往来させていたのです。

 

この「スペイン」と「ポルトガル」は、「キリスト教カトリック派」の国でした。

 

スペインやポルトガルは、「日本でキリスト教を広めること(布教)」を、「貿易の条件」としていたのです。

 

つまり「スペイン・ポルトガル」は、「貿易したければ、キリスト教の布教を認めろ」と言ってきたわけです。

 

信長は当時、「比叡山延暦寺」、「石山本願寺」、「高野山」などの宗教勢力と、激しく対立していました。

 

キリスト教を広めることで、それら敵対する宗教勢力の力を削ぎ落とすことができると考えたわけです。

 

そのため信長は、「キリスト教」の布教を保護しました。

 

しかし、それほど積極的に保護したわけではなく、他の仏教と変わらない程度の保護だったといわれています。

 

先程申し上げた通り、信長にとって「南蛮貿易」は「鉄砲」の材料を輸入するために、必要不可欠なものでした。

 

「キリスト教の布教」も、認めざるを得なかったのでしょう。

 

「比叡山焼き討ち」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちをした理由!比叡山は悪の巣窟だった』の記事はコチラ

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貿易によって得た利益で、信長は最強軍団をつくりあげていた

「南蛮貿易」により、織田信長は「巨万の富」を得たと考えられます。

 

信長は、この莫大な資金で「強大な軍団」をつくりあげたのです。

 

金を使って「傭兵」を大量に雇って、大軍団を形成。

 

さらには「鉄砲」などの「最新兵器」を、次々と導入し、自らの軍団に装備させて、最強の軍をつくりあげたのです。

 

それだけではありません。

 

信長は、「莫大な資金」で「大量の食料」を確保し、大軍団の長期にわたる遠征を可能としました。

 

また、「材木」などの物資を購入して、いくつもの「砦」を建設。

 

これらの砦を有効に活用し、敵との戦いを有利にすすめたのです。

 

信長は「南蛮貿易」のみならず、「楽市楽座」や「関所撤廃」などで、常に商業を重視しました。

 

それにより手に入れた資金を利用して、凄まじい速度で、天下を制圧していったのです。

 

「織田信長の政策」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長の政策まとめ一覧!「政策のねらいと結果」をカンタン解説!』の記事はコチラ

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「豊臣秀吉」と「徳川家康」は、南蛮貿易をどのように利用したのか

1582年】、「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に殺害されたあと、「南蛮貿易」は徐々に衰退していきます。

 

「信長」のあとを継いで天下人となった「豊臣秀吉」は、「南蛮貿易」の利権を守ろうしました。

 

しかし、貿易と同時に広まっていく「キリスト教」に対しては、とても危険視していました。

 

1587年】、豊臣秀吉は「バテレン追放令」という法律を発しています。

 

「バテレン」とは、「キリスト教の神父」という意味です。

 

つまり「バテレン追放令」とは、「キリスト教の神父を追放する命令」ということです。

 

秀吉は、九州を制圧したとき、驚くべき光景を目にします。

 

九州では、外国から来たキリスト教の神父が戦国武将から与えられた土地を支配。

 

その神父や南蛮商人たちが、「日本人を奴隷として売買」していた事実を目の当たりにし、秀吉は愕然とします。

 

この「日本人が奴隷として売買されている事実」をなんとかしようと、秀吉は「バテレン(神父)追放令」を出したのです。

 

ただ、秀吉は「一般庶民がキリスト教を信じること」だけは許しています。

 

秀吉は、「神父」は追放したものの、「南蛮貿易」の利益の重要性をわかっていたため、「貿易」だけはそのまま続けることを許した、というわけです。

 

その後、秀吉は「朝鮮出兵」を強行。スペインやポルトガルの植民地へ服従を迫るものの、無視されています。


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「徳川家康」もまた、南蛮貿易を厳しく規制するようなことはしませんでした。

 

しかし家康の死後、孫で三代将軍「徳川家光」の時代に、幕府は「中国」と「オランダ」以外の国との貿易を禁止する「鎖国」を開始。

 

1639年】、幕府は「ポルトガル」の船を日本から完全に追放してしまいます。(第5次鎖国令)

 

これにより「南蛮貿易」は完全に終了したといわれています。

 

ところで、なぜ「オランダ」と「中国(明)」は貿易することを許されたのでしょうか。

 

儒教や仏教が盛んだった「中国(明)」は、「キリスト教」を持ち込む危険性がなかったと考えられます。

 

そのため、貿易も許されていました。

 

「オランダ」は、「スペイン」や「ポルトガル」のような「カトリック派」ではなく、「プロテスタント派」という宗派の国でした。

 

「プロテスタント」には、「カトリック」と大きく異なる点がありました。

 

「プロテスタント」は、「布教活動をしない宗派」だったのです。

 

さらに「オランダ」は、「スペイン」や「ポルトガル」のような強国ではありません。

 

そのため「徳川幕府」は、「オランダ」との貿易を長崎平戸という港に限って、認めたのでした。

 

「朝鮮出兵の理由」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【豊臣秀吉】朝鮮出兵の理由を簡単解説!結果は失敗どころか大成功だった』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」が、なぜ「南蛮貿易」を重視していたのかというと、当時「鉄砲」を撃つための「黒色火薬」の材料である「硝石」は、日本国内で生産できなかった。そのため「硝石」を輸入に頼りきっていた。そういう理由で、「南蛮貿易」を重視せざるを得なかった

 

2,当時は「キリスト教」の布教を認めなくては、南蛮貿易できなかった。それだけではなく、「信長」は敵対していた「宗教勢力」の弱体化を狙って、キリスト教の保護をしていたと考えられる

 

3,「信長」は、南蛮貿易で手にした莫大な利益を使って、「巨大な軍団」をつくりあげ、天下を制圧していった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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