《足利義輝》辞世の句の意味と込められた想い!剣豪将軍の壮絶な最期

この記事では「足利義輝の辞世の句と、最期」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「義輝の辞世の句の意味と、最期の様子」を、カンタンに理解できます。

 

「足利義輝」は「三好三人衆」に暗殺され、「壮絶な辞世の句」を残しているのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「足利義輝」の辞世の句は?

「五月雨は 露か涙か ホトトギス わが名をあげよ 雲の上まで」

 

2,「足利義輝」の最期の様子とは?

義輝は、三好軍に襲撃されながらも、自ら刀剣をふるって戦い、壮絶な戦死をとげた

 

3,「足利義輝」は誰に殺されたのか?

義輝は「三好三人衆」や「三好義継」に殺害された。傀儡(かいらい・操り人形)にならなかったためと考えられる。

「足利義輝」の「辞世の句」と、その意味

「室町幕府」の第13代征夷大将軍「足利義輝」が残した「辞世の句」は、かなり壮絶で哀しい内容となっています。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで

 

(降りしきるこの五月雨は、露なのか?それとも私が流す涙なのか?

死をつかさどるといわれている「ホトトギス」よ。

天空高く舞い上がり、気高く、そして誇り高く戦い抜いた私の名を、雲の上へと高めてくれ)

「足利義輝」は、【永禄8年(1565年)5月19日】、「三好三人衆」らに襲撃され、壮絶な最期を遂げました。

 

通常、辞世の句は「いつ死んでもいいように、事前に用意しておくもの」だと言われています。

 

しかし、足利義輝が亡くなったのは「旧暦5月」であり、辞世の句には「五月雨」という季語が出てきます。

 

つまり、辞世の句を事前に用意していたにしては、時期が見事なまでに一致していることが気になるのです。

 

おそらく義輝は、襲撃されたとわかって、死を覚悟し、即座に「辞世の句」を書いたのでしょう。

 

壮絶な最期は、その望みの通り、「剣豪将軍」の名を後世にまで轟かせる事となるのです。


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剣豪将軍「足利義輝」の壮絶な最期

足利義輝は【永禄8年(1565年)5月19日】、「永禄の変」と呼ばれる政変によって殺害されます。

 

襲撃したのは「三好三人衆」と呼ばれる「三好家」の武将たち。

 

彼らは突然、将軍御所を襲撃したのでした。

 

「塚原卜伝(つかはら ぼくでん)」

 

戦国時代を代表する剣豪「塚原卜伝」から「新当流・免許皆伝」を受けていた、「剣豪将軍」と呼ばれた足利義輝は、自ら薙刀や刀をふりまわして奮闘。

 

一説によると、義輝は足利将軍家に代々伝わっている数々の名刀を畳に突き刺し、それを奮って戦ったと言われています。

 

刃こぼれで刀が使えなくなったら、また別の刀を畳から抜いて戦う。

 

壮絶な死闘の末、足利義輝は三好軍によって殺害されます。

 

最期は、大勢の軍に囲まれ、畳を押しつけられて身動きできなくなった末に、刺殺されたといいます。


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「足利義輝」は、なぜ、誰に殺されたのか?

「足利義輝」は、三好三人衆と呼ばれた「三好長逸」、「三好政康」、「岩成友通」、そして「三好義継」や「松永久通」らによって殺害されました。

 

殺害された理由は、「足利義輝が三好三人衆たちの傀儡(かいらい)政権、すなわち操り人形となることを強く拒絶したため」と考えられています。

 

「三好三人衆」たちは、征夷大将軍「足利義輝」を操り人形にして、強大な権力を得ようと考えていました。

 

しかし「足利義輝」は、それを拒絶し、「三好三人衆」と完全に敵対してしまうのです。

 

「足利義栄(よしひで)」

 

義輝の「いとこ」にあたる「足利義栄」を次の征夷大将軍として「操り人形」にしようと考えた「三好三人衆」たちは、「義輝」を襲撃。

 

足利義輝が亡くなったあと、「14代・征夷大将軍」として「足利義栄」が就任。

 

ところが、この「足利義栄」の政権は、長く続きませんでした。

 

「義輝暗殺」に、「上杉謙信」や「朝倉義景」が激怒。京都の数万をこえる民衆も、将軍暗殺に怒りをあらわにしたのでした。

 

そして「足利義輝」が亡くなった3年後、「尾張のうつけ」と呼ばれた武将が動き出すのです。


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「足利義輝」が亡くなったその後!何がおこったのか?

【1568年】、足利義輝が亡くなった3年後、「織田信長」が義輝の弟「足利義昭」を連れて京都へ進軍。

 

信長は、「足利義輝」を殺害した「三好三人衆」と「三好義継」を相手に戦う事となるのです。

 

結果は信長の圧勝。

 

「三好三人衆」と「三好義継」は逃亡。

 

「松永久通」は、父「松永久秀」とともに信長に降伏して、臣従します。

 

信長は、15代「征夷大将軍」に「足利義昭」を就任させて、京都を支配します。

 

その後、「三好三人衆」、「三好義継」、「松永久通」、「松永久秀」たちは、一時的に信長と講和して関係を修復しています。

 

しかし全員が、最終的に信長と敵対することとなり、一人残らず戦死・病死・行方不明となっています。

 

そして「足利義昭」までもが信長と敵対。

 

1573年】、「足利義昭」は京都から追放され、「室町幕府」は滅亡するのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「足利義輝」の辞世の句は「五月雨は 露か涙か ホトトギス わが名をあげよ 雲の上まで
 
2,「足利義輝」は、三好軍に襲撃され、自ら刀をふるって戦い、戦死した
 
3,「足利義輝」は「三好三人衆」、「三好義継」、「松永久通」に殺害された。傀儡(かいらい・操り人形)にならなかったためと考えられる。

以上となります。

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ありがとうございました。

 

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