京都市にある世界遺産「二条城」は誰が建てたのか?わかりやすく解説いたします。
二条城
実は二条城は一つではなく、複数あります。
作った人は「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」などなど、数多くいるのでした。
そこには複雑な歴史と事情があります。
その歴史を、わかりやすく簡単にご説明いたします。
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この記事を短く言うと
二条城を建てた人は誰?二条城は1つじゃない
現在「京都市」にある世界遺産「二条城」を作ったのは「徳川家康」です。
それを明治時代に「宮内庁」が管轄し、「旧桂宮邸」を移築するなどして、現在の形に整えています。
しかし、実は二条城と呼ばれる城をつくった人は「徳川家康」だけではありません。
後世に「二条城」と呼ばれる建物は、「4~5つ」も存在していたのです。
「織田信長」「徳川家康」
二条城は、そのときの権力者によって建てられ、彼らの「京都における宿舎」として利用されたのでした。
現在、世界遺産として一般公開されている「二条城」は、【1600年】の「関ヶ原の戦い」のあと、徳川家康が建てさせたものです。
家康が建てた「二条城」は、その後、明治に「宮内庁」が管轄するようになったわけです。
現在の二条城を作った人は「徳川家康」なのです・・・。
しかし、単純にそう言い切れない「複雑な事情」が、二条城の歴史には秘められています。
二条城の歴史をカンタン解説!場所は違っても全て二条城
二条城の歴史は非常に複雑です。
なんといっても
「二条城は一つではない。複数ある」
というところが、事情をわかりにくくしています。
【1338年】、征夷大将軍となって「室町幕府」を開いた「足利尊氏」
その「足利尊氏」から、孫の三代将軍「足利義満」まで、室町将軍は3代にわたり、京都「二条通り」にめんした場所に屋敷をかまえていました。
足利尊氏の子孫で、室町幕府13代将軍「足利義輝」の屋敷も「二条城」です。
足利義輝の弟で「織田信長」に擁立されて15代将軍となった「足利義昭」。
その義昭のために、織田信長が京都に作り上げたお城も「二条城」です。
織田信長が京都での宿舎として使い、後に皇太です。子「誠仁親王」に献上された屋敷も「二条城」(この二条城は、本能寺の変で焼失)
そして、関ヶ原の戦い以後、徳川家康が宿舎にしていた建物も「二条城」。
この二条城において、家康は「征夷大将軍」に就任しています。
そして最期の征夷大将軍「徳川慶喜」は、「大政奉還」の諮問(しもん・うかがい)をしています。
場所は異っても、これらは全て同じ「二条城」と呼ばれた建物です
その「二条城」は、歴史の偉人や、歴史的事件を数多くむかえた場所なのです。
二条城の特徴!実は不思議なところに建てられていた
【1994年】に「世界遺産」に指定された「二条城」には、2つの特徴があります。
それは
「戦争のための城ではない」
「不思議な場所にそびえている」
ということです。
二条城の写真を御覧くださいませ。
「城」というより「お屋敷」という言葉のほうが似合うつくりであることに、気がつくとおもいます。
二条城は、お世辞にも
「戦争を想定して作られた」
とはいえない城なのです。
もちろんある程度の防御力はあるものの、「典礼儀式」をおこなう場として作られているようですね。
もう一つ特徴があります。
二条城は、「不思議な場所」に建てられているのです。
信長が使っていた「二条新御所(信長の二条城)」と、
秀吉から養父である関白「近衛前久」へゆずられた秀吉の城「妙顕寺城」
この二つのお城を東西に結ぶことで出来上がるラインと
秀吉の邸宅「聚楽第」から真南にまっすぐ伸ばしたライン
この二つのラインがちょうどクロスする地点に、現在の「二条城」があるのです。
その立地が「堀川」の西にあり、更に「門」が御所の方角へ開いているのが「家康・二条城」の特徴です。
実はこの特徴は、秀吉の屋敷「聚楽第」と同じものです。
家康は自らの「二条城」を「聚楽第」と同じ形とすることで、「秀吉を超えた」ということをアピールしようとしたのかもしれませんね。
歴代城主一覧!有名人ばかりが住んでいた
二条城の歴代城主をわかる限り一覧でご用意いたしました。以下のとおりです。
「足利尊氏」
「足利義満」
「足利義輝」
「足利義昭」
「織田信長」
「誠仁親王」
「徳川家康」
家康のあと、「江戸時代」になると「二条城」には、「城主」と呼べるような「主」は置かれなかったようですね。
明治時代になると、「二条城」は「宮内庁」の管轄となっています。
その後、「宮内庁」が二条城を修理し、「旧桂宮邸」を移築するなどして、現在の形に作り上げたのです。
『二条城』について「ひとこと」言いたい!
戦うための城郭ではなく、儀式典礼のための、まるでお屋敷のような城「二条城」。
そんな「お屋敷」のような二条城ですが、実はお城らしく「天守閣」が備えられていたのです。
現在は「天守閣」はありませんが、徳川家康が二条城に天守閣を建てさせたのだとか。
どうやら「大和郡山城」の天守閣を移築したようです。
「大和郡山城」といえば、家康が「豊臣秀頼」を、大坂城から移住させようとしたお城です。
家康は、もしかしたら「秀頼に天守閣を与えないように」と考えて、大和郡山城から二条城へ、天守閣を移築したのかもしれません。
その「二条城の天守閣」は、三代将軍「家光」が「淀城」へと移築しています。
そこで、天守閣がなくなった二条城へ、新しく移築されてきた「天守閣」は、豊臣秀吉が最期をむかえた城「伏見城」の天守閣でした。
ところが、二条城に移築された「伏見城」の天守閣も、1750年に落雷による火事で失われてしまうのです。
伏見城の天守閣・・・。
みてみたかったですが、落雷で焼けるとは・・・。
世間の天守閣は、よく「落雷」や「火事」で失われていますが、本当に残念ですね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 現在の二条城は、徳川家康が建てさせたものが基礎となっている。しかし織田信長も「二条城」と呼ばれる城を、建てさせていた
- 「二条城」とは、もともと「足利尊氏」「足利義満」のお屋敷の名前、その後、家康たちによって建てなおされ、今に至る
- 現在の二条城は、信長の二条城や秀吉の「妙顕寺城」「聚楽第」が交差する地点に建てられている
以上となります。
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