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レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。
二条城を建てたのは徳川家康です。慶長8年(1603年)、関ヶ原の戦いに勝利した家康が、京都における将軍の拠点として築城しました。ただし「織田信長が建てた」という情報も完全な間違いではありません。歴史上、京都の二条エリアには少なくとも4つの「二条城」が存在し、信長も永禄12年(1569年)に別の二条城を築いているからです。この記事では、複数の二条城の違いや大政奉還の舞台となった歴史、見どころまでわかりやすく解説します。
- 二条城を建てたのは徳川家康だが、信長も別の二条城を建てていた
- 歴史上4つの二条城が存在し、それぞれ別の場所にあった
- 家康の二条城は幕府の始まりと終わりの舞台となった
- 二の丸御殿と庭園に込められた徳川の権威と美意識
- 大河ドラマ『豊臣兄弟!』『信長 KING OF ZIPANGU』に描かれた二条城建設秘話
二条城は誰が建てたのか?答えは「一人じゃなかった」

| 二条城の種類 | 築城者 | 築城年 | 現在の状態 |
|---|---|---|---|
| 足利義輝の二条御所 | 足利義輝 | 1560年 | 焼失(跡地不明) |
| 織田信長の二条城 | 織田信長 | 1569年 | 焼失(石碑のみ) |
| 豊臣秀吉の妙顕寺城 | 豊臣秀吉 | 1583年 | 廃城 |
| 現在の二条城 | 徳川家康 | 1603年 | 世界遺産として現存 |
二条城を創設したのは誰?→現在の二条城を建てたのは徳川家康
現在京都で観光できる世界遺産「元離宮二条城」を建てたのは、江戸幕府初代将軍・徳川家康です。二条城の公式サイトにも「1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城した」と記載されています(出典:元離宮二条城公式サイト)。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、天下人としての地位を固めるため、京都に新たな拠点を築くことを決断しました。慶長6年(1601年)から工事が始まり、慶長8年(1603年)に完成したのが、現在の二条城の原型です。造営総奉行には京都所司代の板倉勝重が任命されたとされています。
築城にあたって家康は、西日本の大名たちに命じて資材や労力を提供させる「天下普請(てんかぶしん)」という方式を採用しました。これは単に城を建てるためだけではなく、大名たちの財力を削ぎ、徳川家への忠誠を示させるという政治的な狙いがありました。
家康が二条城を建てた3つの理由
徳川家康が莫大な費用をかけて二条城を建てた理由は、主に3つあったと考えられています。
- 将軍が京都に滞在する際の宿所として
江戸から遠く離れた京都において、将軍が安心して滞在できる拠点が必要でした。 - 天皇と朝廷を「守護」するという名目のもとで監視するため
京都御所のすぐ近くに城を構えることで、朝廷の動きを常に把握できる体制を整えました。 - 西日本の大名たちに徳川の圧倒的な力を見せつけるため
豪華絢爛な城を築くことで、「天下は徳川のものである」ということを視覚的に示す意図がありました。
特に注目すべきは、二条城が京都御所の南西(裏鬼門)に位置している点です。一見すると「御所を守る」という名目ですが、実際には「徳川家の権力が朝廷と密接に関わっている」ことを暗に示す配置だったとも考えられます。このような政治的メッセージを込めた立地選びは、家康の巧妙さを物語っています。
経営者の視点で見ると、家康の「天下普請」は現代のビジネスにおける「共同プロジェクト方式」に通じるものがあります。大名に築城費用を負担させることで、財力を削ぎつつ「参加者意識」を持たせる。反抗するコストより従うコストのほうが安い状況をつくる。筆者はこれを、家康が実践した「コスト構造による支配」だと考えます。関ヶ原の勝利だけではなく、こうした経済的な仕組みの構築が、260年の太平を支えた一因だったのではないでしょうか。
織田信長が築城した二条城とは?→信長が建てたのは「別の二条城」
「二条城を建てたのは織田信長」という情報は完全な間違いではありませんが、信長が建てた二条城と現在の二条城は全く別の建物です。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
永禄12年(1569年)、織田信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を京都に迎え入れるにあたり、義昭の居城として新しい城を建設しました。これが「旧二条城」または「信長の二条城」と呼ばれるものです。場所は現在の二条城よりも少し北東で、烏丸通と室町通の間にありました。信長は13代将軍・足利義輝の将軍御所跡を拡張し、わずか約70日間という驚異的なスピードで完成させたとされています。
この城は石垣に石仏や墓石を転用するなど、信長らしい合理主義と革新性が見られました。また、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると、信長は本圀寺から豪華な屏風や調度品を強制的に新御所へ移させたとも記されています。内装には金箔がふんだんに使われ、権力の象徴としての豪華さを誇っていたといわれています。
二条城といえば、筆者が思い出すのは織田信長とルイス・フロイスの逸話です。フロイスが初めて信長に対面した際、信長は二条城の建築を指揮していました。そのとき信長は、京都の娘の顔をのぞき込んで困らせていた織田軍の兵を一刀両断にしたと伝わっています。信長は軍紀にきわめて厳しかったのです。
この場面は、1992年の大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(緒形直人主演)でも、工事現場でフロイス(フランク・ニール)と信長が初対面するシーンとして印象的に描かれていました。
さらに2026年放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』(小栗旬=信長、尾上右近=義昭)でも、この二条御所の建設シーンが登場しています。劇中では、信長が巨石「藤戸石」の上に立ち、笛や鼓でにぎやかに囃しながら数千人がかりで運ぶ様子が描かれました。史実でもフロイスの記録に残るこの派手なパフォーマンスは、信長の権力を民衆に見せつける演出だったと考えられます。2つの大河ドラマを見比べると、同じ「二条城建設」でも、描く角度がまったく異なるのが興味深いところです。
しかし、義昭が信長と対立して京都を追放された後、この城は信長自身が京都滞在時の宿所として使用するようになりました。さらに後には、皇太子である誠仁親王に献上されています。
そして運命の天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こります。本能寺で襲撃を受けた織田信長の嫡男・織田信忠は、この旧二条城に籠城して明智光秀軍と戦いました。しかし多勢に無勢で、最終的に信忠は自刃し、城も炎上してしまいました。
現在、信長の二条城があった場所(京都市上京区烏丸通下立売上ル)には、「旧二条城跡」と刻まれた石碑がひっそりと立っているだけです。建物は何も残っていませんが、昭和52年(1977年)の地下鉄烏丸線工事の際に当時の石垣の一部が発掘され、信長の二条城の存在が考古学的にも証明されています。
| 比較項目 | 信長の二条城 | 家康の二条城 |
|---|---|---|
| 場所 | 烏丸通・室町通間 | 二条通堀川西入 |
| 建設期間 | わずか約70日 | 約2年 |
| 主な目的 | 足利義昭の居城 | 将軍の京都宿所 |
| 最期 | 本能寺の変で焼失 | 現存(世界遺産) |
歴史上には4つの「二条城」が存在した
ここで混乱を招くのが、「二条城」という名前の城が歴史上複数存在したという事実です。室町時代から江戸時代にかけて、京都の「二条」というエリアには、少なくとも4つの「二条城」と呼ばれる建物が建てられました。
①足利義輝の二条御所(二条城)
室町幕府13代将軍・足利義輝は、1559年に造営を開始し1560年に完成した二条通沿いの御所に移り住みました。これが最初の「二条城」とされています。しかし永禄8年(1565年)、義輝は三好三人衆や松永久通らの襲撃によってこの御所で暗殺され(永禄の変)、建物も焼失してしまいました。
②織田信長の二条城(旧二条城)
永禄12年(1569年)、織田信長が15代将軍・足利義昭のために築いた城です。詳細は前述のとおりで、天正10年(1582年)の本能寺の変で焼失しました。
③豊臣秀吉の妙顕寺城(二条第)
天正11年(1583年)、天下人となった豊臣秀吉は、京都の拠点として妙顕寺城(二条第)を築きました。しかし後に聚楽第を築いたため、この城は役割を終えて廃城となりました。
④徳川家康の二条城(現在の二条城)
そして慶長8年(1603年)、徳川家康が築いたのが、現在私たちが見ることのできる二条城です。これが唯一、現存している「二条城」なのです。
筆者は、なぜ権力者たちが繰り返し「二条」の地に城を構えたのかに注目しています。二条通は平安京の大内裏に近く、天皇の御所にもアクセスしやすい位置にあります。つまり「朝廷の権威を借りつつ、自らの武力と存在感を示す」には最適のロケーションだったのではないでしょうか。信長がつくった二条城は足利義昭を守るためだったようですが、家康がつくった二条城は儀礼や式典などのための場だったと考えられます。戦うことを主目的に造られたお城ではなく、京都市の広い市街地の中では、堀を深くして石垣を高くすることにも限界があり、防御力をそれほど高くはできなかったのでしょう。「二条」という地名そのものが、権力の象徴だったのかもしれません。
さて、家康が築いた二条城も、建てられた当初は現在の姿とは大きく異なっていました。現在の豪華絢爛な姿は、次に紹介する3代将軍・徳川家光の大改修によって完成したものです。
3代将軍・徳川家光による大改修で現在の姿に
家康が築いた二条城は、実は現在私たちが見ている姿とは大きく異なっていました。現在の豪華絢爛な二条城の姿は、3代将軍・徳川家光による寛永3年(1626年)の大改修の結果なのです。

寛永3年(1626年)、後水尾天皇が二条城に行幸(天皇が訪問すること)することが決まりました。これは徳川幕府にとって非常に重要なイベントでした。天皇をお迎えするにあたり、家光は二条城を大規模にリフォームすることを決断したのです(出典:元離宮二条城公式サイト「歴史」)。
この時の改修工事で行われた主な内容は次のとおりです。
- 本丸御殿の増築と拡張
- 家康が再建した伏見城から5層の天守閣を移築
- 二の丸御殿を拡充し、豪華な障壁画を制作
- 二の丸庭園の大幅な改修
特に注目すべきは、狩野探幽をはじめとする狩野派の絵師たちが総力を挙げて描いた障壁画です。約3600面にも及ぶこれらの絵画のうち1016面は「重要文化財」に指定されており、高く評価されています。松や虎、花鳥などが力強い筆致で描かれ、徳川将軍の権威を視覚的に表現しています。
つまり、二条城は家康が「基礎」を築き、家光が「完成」させた城といえるのです。現在の二条城の美しさは、この二人の将軍の力が結集した結果なのです。
では、完成した二条城はどのような歴史的役割を果たしたのでしょうか。次のセクションでは、大政奉還をはじめとする二条城の歴史的事件と、現在の見どころを詳しく見ていきます。
二条城は何のために建てられた?歴史的役割と見どころ

| 年代 | 出来事 | 歴史的意義 |
|---|---|---|
| 1603年 | 家康が征夷大将軍就任 | 江戸幕府の誕生 |
| 1611年 | 家康と豊臣秀頼の会見 | 徳川の優位性を確立 |
| 1626年 | 後水尾天皇の行幸 | 朝廷との関係強化 |
| 1750年 | 落雷で天守焼失 | 以降再建されず |
| 1867年 | 徳川慶喜が大政奉還 | 江戸幕府の終焉 |
| 1994年 | 世界遺産に登録 | 世界的な文化財として評価 |
二条城の何がすごい?→徳川260年の始まりと終わりを見届けた唯一の城
二条城の最大の特徴は、徳川幕府260年の歴史の「始まり」と「終わり」の両方を見届けた唯一の場所であるという点です。この事実こそが、二条城が他の城とは一線を画す最大の理由といえます。
1603年:将軍宣下と徳川幕府の始まり
慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康は伏見城で征夷大将軍の宣旨を受け、完成直後の二条城に入城して将軍就任の賀儀を盛大に行いました。これによって江戸幕府が正式にスタートしたのです。家康は全国の大名たちを集めて自らの権威を誇示しました。
1611年:豊臣秀頼との決定的な会見
慶長16年(1611年)3月28日、二条城で歴史的な会見が行われました。徳川家康と豊臣秀頼の対面です。かつて主君であった豊臣家の当主・秀頼が、家臣だった家康のもとを「訪問する」という形式をとることで、天下の権力が豊臣から徳川に完全に移ったことが明確になりました。この会見は、豊臣家の滅亡へとつながる重要な一歩でした。
1867年:大政奉還と徳川幕府の終焉
そして時は流れて慶応3年(1867年)。15代将軍・徳川慶喜は、10月13日に在京40藩の重臣約50名を二条城の二の丸御殿大広間に召集して諮問し、翌14日に大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これが日本史の教科書に必ず載っている「大政奉還」です。
家康が征夷大将軍に任命された場所で、慶喜が将軍職を返上する。これほどドラマチックな歴史の巡り合わせは、他に例がないでしょう。二条城は、まさに徳川幕府の運命を最初から最後まで見届けた証人なのです。
この二条城で大政奉還がなされたわけですから、武士の時代が終わった場所とも言えるかもしれません。「始まった場所で終わる」という巡り合わせに、筆者は歴史の持つ一種の詩情を感じます。経営の世界でも、創業の地で廃業の決断を下す企業は少なくありません。場所には記憶が宿り、そこで下す決断には特別な重みが生まれる。慶喜がこの場所で大政奉還を決意したことには、単なる偶然以上の意味があったのではないかと筆者は考えます。
【見どころ①】国宝・二の丸御殿と鶯張りの廊下
二条城を訪れたら絶対に見逃せないのが、国宝に指定されている「二の丸御殿」です。江戸時代初期の武家風書院造の最高傑作として、世界的に高く評価されています。
二の丸御殿は、車寄、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟から構成され、部屋数は33室、畳の数は約800畳にも及びます。建物全体が雁行形(がんこうがた)に配置されており、上空から見ると雁が飛ぶような形をしています(出典:元離宮二条城公式サイト「二の丸御殿」)。
将軍の威厳を演出する巧妙な設計
二の丸御殿の最大の特徴は、来訪者が奥へ進むにつれて、天井が高くなり、装飾も豪華になっていくという設計です。最初の「遠侍(とおざむらい)」では比較的質素な造りですが、将軍が座る「大広間」に近づくにつれて、欄間の彫刻や障壁画が豪華絢爛になっていきます。これは訪問者に対して、奥に座る将軍の絶対的な権威を感じさせるための心理的演出でした。
忍者対策?鶯張りの廊下
二の丸御殿の廊下を歩くと、床板が「キュッキュッ」と鳥の鳴き声のような音を立てます。これが有名な「鶯張り(うぐいすばり)」です。
防犯目的とする説が広く知られていますが、現在の研究では意図的な設計ではなく経年変化による副産物とされています。しかし結果的に、この音が侵入者の発見に役立つことは間違いなく、セキュリティ機能を果たしていたともいえるでしょう。
鶯張りの音が意図的なものか偶然の産物かについては、諸説あります。「侵入者を感知するために設計された」という通説は観光案内でもよく紹介されますが、建築史の研究では「目かすがい」と呼ばれる金具と床板の摩擦による経年変化が原因とする説が有力とされています。ただし、仮に偶然だったとしても、 taking into account 侵入者を発見する機能として「防犯に役立つ」と認識したうえで、あえて修繕しなかった可能性もあるかもしれません。筆者としては「偶然の産物を意図的に活用した」という折衷的な見方が最も説得力があるのではないかと考えます。
狩野派による約3600面の障壁画
二の丸御殿の襖や壁を飾るのは、狩野探幽、狩野尚信、狩野興以ら狩野派の絵師たちが描いた障壁画です。約3600面にも及ぶこれらの絵画は、松、虎、鷹、桜など、力強さと優美さを兼ね備えたモチーフが描かれています。現在展示されているものの多くは保存のため模写に差し替えられていますが、その精巧な技術によって、当時の迫力をそのまま感じることができます。
【見どころ②】3つの庭園と小堀遠州の技
二条城には、異なる時代に作られた3つの美しい庭園があります。それぞれが異なる特徴を持ち、訪れる人々を魅了しています。
二の丸庭園:小堀遠州の傑作
二条城で最も有名な庭園が、特別名勝に指定されている「二の丸庭園」です。この庭園は、江戸時代を代表する作庭家・小堀遠州が、1626年の後水尾天皇の行幸に合わせて改修したものです。

池の中央には蓬莱島、左右には鶴島と亀島が配置され、「神仙蓬莱思想」を表現しています。最大の特徴は、どの角度から見ても美しい「八方正面の庭」として設計されている点です。二の丸御殿の各部屋から眺めても、それぞれ異なる美しさを楽しめるように計算されています。力強い石組みは武家の力を象徴し、同時に雅な美しさも兼ね備えた、まさに徳川将軍にふさわしい庭園といえるでしょう。
本丸庭園:明治の洋風庭園
本丸庭園は、明治29年(1896年)の明治天皇の行幸に際して作られた洋風庭園です。芝生を敷き詰めた開放的なデザインで、江戸時代の和風庭園とは全く異なる趣があります。

清流園:和洋折衷の現代庭園
清流園は昭和40年(1965年)に作られた比較的新しい庭園で、和風と洋風が融合したユニークなデザインです。市民の憩いの場としても親しまれています。
二条城をめぐる歴史ドラマは、大河ドラマでも繰り返し描かれてきました。2026年放送中の『豊臣兄弟!』では、小栗旬演じる織田信長が藤戸石を運ぶ圧巻のシーンが話題になりました。1992年の『信長 KING OF ZIPANGU』では、緒形直人演じる信長が二条城の工事現場でフロイスと初対面する名場面が印象的です。これらの大河ドラマを映像で観ると、史料だけでは伝わらない当時の空気感を体感でき、二条城への理解がより深まります。
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なぜ一階建て?二条城の東大手門に隠された配慮
「二条城はなぜ一階建てなのか」という疑問は、正確には二条城の正門「東大手門」に関するものです。実は東大手門は、築城当初は現在と同じ2階建て(櫓門)でした。
しかし寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸の際、天皇の行列を2階から見下ろすのは不敬にあたるという配慮から、一重(一階建て)の門に建て替えられたとみられています(出典:元離宮二条城公式サイト「城内の文化財と施設」)。現在の東大手門は、その後の寛文2年(1662年)に再び2階建てに建て直されたものです。
つまり「一階建て」だった時期は、天皇の行幸に合わせた一時的な改修であり、天皇への敬意を形にした配慮の結果だったといえます。武家の権力の象徴である城でありながら、朝廷への礼節を忘れなかった徳川家の政治的バランス感覚がうかがえるエピソードです。
世界遺産「二条城」が持つ本当の価値
二条城は平成6年(1994年)、「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界遺産に登録されました。その評価のポイントは、単に古い建物が残っているということだけではありません。武家政権の権威を示す建築様式の完成形であること、江戸時代初期の書院造の最高傑作であること、日本の政治史における重要な舞台であること、そして武家文化と公家文化が融合した稀有な存在であることが評価されています。
特に注目すべきは、二条城が江戸時代には徳川家の城でありながら、明治時代には皇室の離宮として使用されたという点です。そのため、明治期に葵紋から菊紋への付け替えが行われましたが、予算不足で完了せず、結果として両紋が並存する形となっています。世界でも極めて珍しい場所なのです。
武家政権の象徴であり、同時に皇室とのつながりも持つ二条城は、日本の複雑な歴史を体現する唯一無二の文化遺産といえるでしょう。次のセクションでは、この記事の要点をまとめるとともに、よくある質問にお答えします。
二条城の歴史をわかりやすくまとめ
- 現在の二条城を建てたのは徳川家康で1603年に完成した
- 豪華な姿に改修したのは3代将軍・徳川家光である
- 歴史上「二条城」と呼ばれる建物は少なくとも4つ存在した
- 織田信長も1569年に二条城を建てたが本能寺の変で焼失した
- 信長の二条城と家康の二条城は場所も建物も全く別物である
- 1603年に家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府が始まった
- 1867年に慶喜が大政奉還を表明し徳川幕府が終わった
- 同じ場所で幕府の始まりと終わりを見届けた唯一の城である
- 国宝の二の丸御殿は武家風書院造の最高傑作とされる
- 鶯張りの廊下や狩野派の障壁画など見どころが豊富
- 小堀遠州作の二の丸庭園は特別名勝に指定されている
- 天守閣は1750年に落雷で焼失し現在は天守台のみ
- 明治時代には皇室の離宮として使用されていた
- 1994年にユネスコ世界遺産に登録された
- 葵紋と菊紋が並存する稀有な文化財である
「二条城は誰が建てた?」という疑問から始まったこの探求は、徳川家康という答えだけにとどまらず、織田信長、豊臣秀吉、徳川家光、そして徳川慶喜といった歴史の巨人たちの物語へと広がっていきました。二条城という一つの場所に、日本の権力者たちの野望と栄光、そして衰退が刻み込まれているのです。
京都を訪れた際には、ぜひ二条城に足を運んでみてください。豪華絢爛な建築や美しい庭園を眺めながら、そこに刻まれた日本の歴史に思いを馳せることで、教科書では味わえない生きた歴史の息吹を感じることができるはずです。
よくある質問
現在の二条城(元離宮二条城)を創設したのは、江戸幕府初代将軍・徳川家康です。慶長8年(1603年)に完成しました。ただし歴史上は「二条城」と呼ばれる城が4つ存在し、織田信長も永禄12年(1569年)に別の二条城を築いています。現存する世界遺産の二条城は家康が基礎を築き、3代将軍・家光が寛永3年(1626年)の大改修で現在の豪華な姿に完成させました。
いいえ、現在観光できる二条城を築いたのは織田信長ではなく、徳川家康です。ただし、織田信長も永禄12年(1569年)に「二条城」と呼ばれる城を築いています。これは現在の二条城とは場所も建物も全く別で、「旧二条城」または「信長の二条城」と呼ばれます。信長の二条城は天正10年(1582年)の本能寺の変の際に焼失し、現在は石碑が残るのみです。つまり「二条城は誰が建てた?」という質問への答えは、「現在の二条城は家康、かつての二条城は信長も建てた」ということになります。
二条城がすごい理由は主に3つあります。第一に、1603年の徳川家康の将軍宣下と1867年の大政奉還という、徳川幕府260年の「始まり」と「終わり」を同じ場所で見届けた唯一の城であること。第二に、国宝の二の丸御殿が江戸時代初期の書院造の最高傑作であり、狩野派による約3600面の障壁画(うち1016面が重要文化財)が現存すること。第三に、明治期に葵紋から菊紋への付け替えが行われましたが、予算不足で完了せず、結果として両紋が並存する形となっている世界的にも稀有な文化遺産であることです。1994年にユネスコ世界遺産に登録されています。
この疑問は、二条城の正門「東大手門」に関するものと考えられます。東大手門は築城当初は2階建て(櫓門)でしたが、寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸の際に、天皇の行列を2階から見下ろすのは不敬にあたるという配慮から、一時的に一階建て(一重の門)に建て替えられました。現在の東大手門は、その後の寛文2年(1662年)に再び2階建てに建て替えられたものです。なお、二の丸御殿自体は書院造の平屋建てですが、これは武家の城郭御殿として一般的な建築様式です。
現在、二条城に天守閣はありません。かつては家康が再建した伏見城から移築された5層の立派な天守閣がありましたが、寛延3年(1750年)に落雷によって焼失してしまいました。現在は本丸の一角に「天守台」という石垣の土台だけが残っており、そこからは京都市内を見渡すことができます。
明治維新後、二条城は徳川家から新政府に引き渡され、「二条離宮」として皇室の別邸になりました。その後、昭和14年(1939年)に京都市に下賜された際、「かつて離宮だった城」という意味を込めて「元離宮二条城」という正式名称になりました。
織田信長が建てた旧二条城があった場所(京都市上京区烏丸通下立売上ル)には、現在「旧二条城跡」と刻まれた石碑が立っているだけです。ただし、昭和52年(1977年)の地下鉄烏丸線工事の際には、当時の石垣の一部が発掘され、信長の二条城の存在が考古学的にも証明されました。
二の丸庭園を作庭(改修)したのは、江戸時代を代表する作庭家・茶人である小堀遠州です。寛永3年(1626年)の後水尾天皇の行幸に合わせて、遠州が大規模な改修を行いました。二の丸庭園の「どの角度から見ても美しい」という特徴は、遠州の卓越した空間設計能力の証といえるでしょう。
二条城全体をじっくり見学する場合、所要時間は約1時間半から2時間程度が目安です。国宝・二の丸御殿の内部見学に約40分、二の丸庭園の散策に約20分、本丸エリアと天守台への移動・見学に約30分、清流園などその他のエリアに約20分程度を見込むと良いでしょう。桜や紅葉のシーズン、特別公開やライトアップイベントの際はさらに時間がかかることがあるため、時間に余裕を持って訪れることをおすすめします。
参考資料
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。
※この記事は2026年4月14日に最新情報を確認・更新しています。

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