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織田信長の【伊賀攻め】と伊賀忍者がヒドい!忍者の戦い方と子孫の今

この記事では「織田信長」の「天正伊賀の乱」、通称「伊賀攻め」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「天正伊賀の乱」と「伊賀忍者の恐ろしさ」を、カンタンに理解できます。

 

「伊賀忍者」は「常識ハズレな命知らず集団」だったのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」の「伊賀攻め」とは、どのような戦いだったのか?

1579年】と【1581年】の二度に渡っておこなわれた戦い。それぞれ「第一次天正伊賀の乱」と「第二次天正伊賀の乱」と呼ばれ、「第一次」で織田軍は大敗。「第二次」で織田軍は勝利し、伊賀国を支配下においた。

 

2,「伊賀忍者」の戦い方とは?

「奇襲」「夜襲」「不意打ち」などなど。今でいう「ゲリラ戦」で、散々に織田軍を困らせていた。

 

3,「伊賀忍者」の常識ハズレな凄さとは?

「伊賀忍者」は、どうやらかなりの「命知らず」だったらしい。「不意打ち」や「奇襲」「夜襲」をとにかく繰り返す戦い方は、「命知らず」でなくてはやっていられない。

「織田信長」の「伊賀攻め」こと「天正伊賀の乱」をカンタン解説

戦国時代の覇者「織田信長」は、忍者たちの国として有名な「伊賀の国」を、2度に渡って攻撃しています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

1579年】と【1581年】の2度です。

1579年】の一度目の「伊賀攻め」は、【第一次天正伊賀の乱】

1581年】の二度目の「伊賀攻め」は、【第二次天正伊賀の乱】

と、それぞれ名付けられています。

《織田信雄》
「引用元ウィキペディアより」


「織田信長」が直接軍団をひきいて「伊賀」を攻めたわけではありません。

実際に軍団をひきいて戦ったのは、「織田信長」の次男「織田信雄(のぶかつ)」です。

1579年】、近畿地方を制圧していた織田信長ですが、「伊賀の国」だけは攻撃せず、放置していました。

そんな中、「伊勢国」を支配していた次男「織田信雄」が、父「信長」の許可を得ること無く、独断で「8千」の兵を動かして、伊賀国を攻撃し大敗北。

激怒した信長は、息子「信雄」に、「親子の縁を切る」とまで記した手紙を送りつけています。

1581年】、今度は信長の許可を得て、「5万」の軍団で「伊賀」を攻撃。

一般市民もふくめて約「3万人」もの人を殺害して、「伊賀国」は織田家の支配する地域となったのです。



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「伊賀忍者」たちの凄さ!その戦い方はヒドいものだった?

「伊賀の国」を支配していた「伊賀忍者」たちの戦いぶりは、とても「ヒドい」ものだったようです。

常識ハズレで命知らず。

「不意打ち」や「奇襲・夜襲」を得意とし、「ゲリラ戦」で織田軍を散々に苦しめたのでした。

これは、当時の常識としては考えられないものだったはずです。


織田軍は、「砦や陣城のような防御陣地をつくって、そこへ敵をおびき出し、鉄砲で迎撃する」という戦い方を得意としていました。

この戦い方で、「長篠の戦い」の際に、戦国最強の「武田勝頼」ひきいる「武田騎馬軍団」を撃破したのです。

ところが、「不意打ち」「ゲリラ戦」「奇襲」「夜襲」を使う「伊賀忍者」に、この戦法は通用しません。

防御陣地をつくって、敵の襲来を待っても、伊賀忍者は「織田軍の陣地」のスキをついて夜襲を仕掛けたはずだからです。

そして【1581年】の「第二次天正伊賀の乱」で、「織田軍団が一般人・非戦闘員3万人を虐殺した」というのも、「伊賀忍者」のヒドい戦い方と、無関係ではないはずです。

おそらくですが、伊賀忍者は「一般市民・非戦闘員」のなかに紛れながら「ゲリラ戦」をおこなったのではないでしょうか。

そのため「織田軍」は、「一般市民」と「伊賀忍者」の区別がつかないままに、「ゲリラ」こと「伊賀忍者」の標的とされたのです。

疑心暗鬼となった「織田軍団」は、「一般市民」ごと「伊賀忍者」を殲滅する作戦を採用せざるを得なかったのだと考えられます。

当時の伊賀国の人口は「9万人」。

その3分の1にあたる「3万人」が虐殺されたのです。

確かに「織田信長」と「織田軍団」は、「虐殺」をよくおこなっていました。

しかし、それにしたって一般市民のうちの「3分の1」を虐殺するなんて、被害が多すぎます。

それには理由があるはずです。

その理由が、ただいま説明したように「伊賀忍者がゲリラ戦を行なっており、一般市民と忍者の区別がつかなかったから」だとするのなら、説明がつくのです。

織田軍団の虐殺も「ヒドい」ですが、伊賀忍者の戦い方も「ヒドい」ものだったのではないでしょうか。


「長篠の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「【織田信長と長篠の戦いまとめ】鉄砲の嘘と戦法の真実を簡単に解説!」の記事はコチラ

「長篠の戦いでの鉄砲隊の数は少なかった?1丁のお値段を調査!」の記事はコチラ

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「長篠の戦いをわかりやすく簡単解説!戦場・場所は現在どこの県?」の記事はコチラ



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忍者たちの「常識ハズレ」な凄さとは?

「伊賀忍者」の「常識ハズレな凄さ」に、織田軍団は恐怖したと考えられます。

「常識ハズレな凄さ」とは、どういうことなのでしょうか?

伊賀忍者は、「命知らず」だった可能性が高いのです。


伊賀忍者たちは、忍というだけあって「奇襲」や「夜襲」、つまり相手の意表を突く「サプライズアタック」を得意としていました。

これは、仕掛けられる方は確かに恐ろしいのですが、仕掛ける方も恐ろしいのです。

「奇襲」は「意表を突く」、つまり「予想外のところから攻撃を仕掛ける」からこそ効果を発揮します。

もしも「奇襲」をしかけることが、敵に予想されてしまったら、包囲殲滅されて全滅してしまうのです。

たとえば「桶狭間の戦い」で、奇襲を成功させて「今川義元」を討ち果たした「織田信長」ですが、もしも「今川義元」に「奇襲」を予想されていたら、信長の軍団は「桶狭間」で「今川軍」に包囲され、ひとり残らず討ち取られていたでしょう。(「桶狭間の戦い」は、「奇襲戦」ではないという説もある)

その「失敗したら全滅しかねない」というリスク大の「奇襲・夜襲」を、「伊賀忍者」はまったく迷うことなく次々と仕掛けてくるのです。

この命知らずな戦法が、「第二次天正伊賀の乱」の「犠牲者3万人」という、とてつもない犠牲者が出た原因の一つでもあるのでしょう。

捨て身で戦いを挑んでくる者たちほど、恐ろしいものはありません。

織田信長は「石山戦争」で、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、死を恐れずに戦う「一向一揆」と10年も戦い続けました。

「命知らず」の恐ろしさを誰よりも知っていた「織田軍団」だからこそ、「伊賀忍者」に恐怖し、かえって被害を大きくしてしまったのかもしれません。


「桶狭間の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕」の記事はコチラ

「【今川義元】なぜ織田信長との「桶狭間の戦い」で敗北した?原因は油断」の記事はコチラ

「【今川義元と桶狭間の戦い】その謎や疑問のすべてを短く簡単に解説」の記事はコチラ

「織田信長と桶狭間の戦いを簡単に解説!どのような戦法で勝利したのか」の記事はコチラ



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忍者たちの子孫!ほとぼりが冷めたら戻ってきていた・・・。

「天正伊賀の乱」で「織田軍団」に撃破された「伊賀忍者」たちの子孫は、かつて「伊賀国」があった「三重県伊賀市」に、今も住んでおられます。

当時「伊賀国」を指導していた忍者たちと同じ苗字の人々が、「三重県伊賀市」に多くおられるのだとか。


この事実もまた、「伊賀忍者」たちの「常識ハズレ」っぷりを表しているのでしょう。

つまり伊賀忍者たちは、「第二次天正伊賀の乱」で「織田信雄」の軍団に「3万人」も虐殺されたあと、ほとぼりが冷めた頃に、何もなかったかのように、「伊賀国」へ戻ってきていた、ということです。

伊賀国の舵取りを間違った「伊賀忍者」の棟梁たち・・・。

彼らが「織田軍団」に徹底抗戦するという方針をとらなかったら、「3万人」も亡くなることはありませんでした。

にもかかわらず、「ほとぼりが冷めたら帰国」とは。

どうやら「伊賀忍者」たちには、常識などまったく通用しないようです。

おそらくその「常識ハズレ」なところが、「伊賀」という国の特徴だったのでしょう。


「織田信雄」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「織田信長の次男【織田信雄】の生涯年表!うつけを演じた名将だった?」の記事はコチラ



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」の「伊賀攻め」とは、【1579年】と【1581年】の二度に渡っておこなわれた戦い。それぞれ「第一次天正伊賀の乱」と「第二次天正伊賀の乱」と呼ばれ、「第一次」で織田軍は大敗。「第二次」で織田軍は勝利し、伊賀国を支配下においた。

 

2,「伊賀忍者」の戦い方は、「奇襲」「夜襲」「不意打ち」などなど。今でいう「ゲリラ戦」で、散々に織田軍を困らせていた。

 

3,「伊賀忍者」は、どうやらかなりの「命知らず」だったらしい。「不意打ち」や「奇襲」「夜襲」をとにかく繰り返す戦い方は、「命知らず」でなくてはやっていられない。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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