今回のテーマは豊臣秀吉です。
この記事では豊臣秀吉のあだ名について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば、秀吉が当時からどんなあだ名で呼ばれていたのかを、カンタンに理解できます。
秀吉のあだ名はサルではなくハゲネズミだったのです。
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この記事を短く言うと
1,豊臣秀吉のあだ名である猿とは、誰が言い始めたものなのか?
江戸時代の本・太閤記の設定で、秀吉は猿というあだ名で親しまれている事になっている。これが秀吉を猿と呼び始めた最初と考えられる
2,秀吉の主君・織田信長は、秀吉をサルと呼んでいなかったのか?
織田信長が秀吉をサルと呼んでいた記録はない。ただしハゲネズミと呼んでいた記録は残っている
3,秀吉の顔形の特徴とは?
秀吉の顔は、当時の人々の記録によるとサルやハゲネズミに似ていたらしく、サルというあだ名は、これら当時の人々の証言により産まれたものと考えられる。
豊臣秀吉のあだ名・猿とは、江戸時代の太閤記の記録が初出だった
猿に似ているということで有名な天下人・豊臣秀吉ですが、実は当時から猿と呼ばれたことはなかったのです。
秀吉といえば主君・織田信長から、お猿さんに似ていることをからかわれて、猿と呼ばれていた逸話が有名です。
しかし実はサルというあだ名は、秀吉の死から数十年が経過した江戸時代に出版された太閤記という本で描かれたことが最初なのです。
秀吉が生きていた当時から、サルと呼ばれていた記録はないのです。
ただし、ハゲネズミと呼ばれていた記録は、明確に残っています。
秀吉の主君・織田信長からの手紙には、秀吉をハゲネズミと呼んでいることが記されています。
→→→→→【秀吉の天下統一までの道のり】についてくわしくはこちら
織田信長は部下だった秀吉をハゲネズミと呼んでいた
秀吉といえば主君・織田信長からサルと呼ばれていたと思われがちですが、そうではありません。
信長は、秀吉をハゲネズミと呼んでいたのです。
織田信長は、秀吉の妻・おね(のちの北政所)に対して、一通の手紙を送っているのですが、その中に、ハゲネズミと呼ぶ一文が記されているのです。
「このあいだ、久しぶりにあなた(おね)に会いましたが、あなたはいっそう美しさが増しているように感じました。
藤吉郎(秀吉)が、あなたに対し数々の不満を言っていると耳にしました。言語道断です。
あのハゲネズミ(秀吉)が、あなたほど素晴らしい女を他に得られるはずはないのですから、あなたも正室(正妻のこと)らしく、堂々として、決して嫉妬などしてはいけませんよ。
この手紙を、秀吉にも見せつけておやりなさい」
この手紙から、織田信長が秀吉をハゲネズミと呼んでいたことがわかります。
同時に、織田信長が秀吉の妻・おね(北政所)に対して、心優しく気を使う様子もうかがえます。
秀吉の顔の特徴とは?当時の人は秀吉を猿に似ていると思っていた
秀吉の特徴を記した当時の記録によると、豊臣秀吉がサルに似ていたことは確かなようです。
【1591年】、秀吉が天下統一を達成した直後、京都に悪質な落書きが発生しています。
その落書きには、このように書かれていました。
【まつせとは べちにあらじ 木の下の さる関白を みるにつけても】
サルのような秀吉が、藤原五摂家しか就任できない最高の官職である関白になった。猿が関白になったということは、この世はすでに末世(終末)ということだろう
それだけではありません。
朝鮮からの使者が、秀吉に謁見し、そのときの様子を記録しています。
それによれば
(秀吉は)大きなサルのようだ
と言い、もうひとりの朝鮮からの使者は
「目元がネズミに似ている」
と記録を残しています。
さらに、玉木吉保という毛利家の家臣の記録によると、秀吉は
赤ひげ・猿まなこ
という顔形だったとか。
以上のことから、秀吉が猿に似ていたことだけは確かなようです。
それほど顔形が整っていたわけではないようですね。
ただし、玉木吉保が記した猿まなことは、猿のような目という意味ではなく、油断のない目つきという意味になります。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,豊臣秀吉のあだ名である猿とは、太閤記の設定によるもので、秀吉は猿というあだ名で親しまれている事になっている。これが秀吉を猿と呼び始めた最初と考えられる
2,織田信長が秀吉をサルと呼んでいた記録はない。ただしハゲネズミと呼んでいた記録は残っている
3,秀吉の顔は、当時の人々の記録によるとサルやハゲネズミに似ていたらしく、サルというあだ名は、これら当時の人々の証言により産まれたものと考えられる。
以上となります。
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