この記事では「織田信長の家臣団」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長に仕えていた家臣団の名前」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」には、無数の家臣が仕えており、「明智光秀」「羽柴秀吉」「柴田勝家」などが、最も有名ですね。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の重臣「方面軍団長」とは、誰のこと?
「明智光秀」、「羽柴秀吉」、「柴田勝家」、「滝川一益」、「織田信孝」
2,「織田信長」の一門衆とは?
信長の血縁者で、「織田家」の血を引くもの。嫡子「織田信忠」、次男「信雄」、三男「信孝」、叔父「織田信次」、兄「信広」など
織田家・重臣「方面軍団長」
まずは、織田家の家臣団の中でも、もっとも重要な地位にいた「方面軍団長」を一覧でご紹介いたします。
信長は、「5名」の武将に軍を預け、各方面の攻略を任せていました。
この「5名」は、織田家家臣団の中でも、特に重要な地位にいたといえます。
明智光秀
「近畿方面軍司令官」
羽柴秀吉
「中国方面軍司令官」
柴田勝家
「北陸方面軍司令官」
滝川一益
「関東方面軍司令官」
織田信孝
「四国方面軍司令官」
ちなみに「織田信孝」には、織田家の重臣で、特に万能な武将「丹羽長秀」が補佐として付けられていました。
「明智光秀」や「柴田勝家」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田家家臣団「織田家一門衆」
次に、信長と血縁関係にある「織田家一門衆」をご紹介いたします。
「方面軍団長」としてご紹介した「織田信孝」を、こちらにも載せておきました。
- 織田信忠
- 織田信雄
- 織田信孝
- 織田恒直
- 織田高長
- 織田秀孝
- 織田秀勝
- 織田秀信
- 織田秀成
- 織田秀則
- 織田秀朝
- 織田秀雄
- 織田勝長
- 織田昌澄
- 織田信為
- 織田信吉
- 織田信興
- 織田信兼
- 織田信好
- 織田信広
- 織田信勝
- 織田信高
- 織田信時
- 織田信治
- 織田信重
- 織田信照
- 織田信正
- 織田信則
- 織田信貞
- 織田信当
- 織田信包
- 織田信房
- 織田信茂
- 織田信良
- 織田信糺
- 織田長孝
- 織田長次
- 織田長利
- 織田有楽斎(長益)
- 織田頼長
- 織田良雄
- 津田信澄
その他「織田家家臣団」一覧
以下に、「方面軍団長」または「一門衆」以外の武将たちをご紹介いたします。
中には、「織田家の直臣」ではなく、信長から見れば「家臣の家臣」にあたる者たちもいますが、一応「織田軍団」に属するということで、まとめて掲載いたしました。
多少雑になっておりますが、何卒ご理解の程を、よろしくおねがいいたします。
- 丹羽長秀
- 鈴木主馬
- 不破直光
- 不破光治
- 渥美刑部丞
- 安田国継
- 伊東長久
- 伊東長行
- 伊東長実
- 伊東長重
- 伊東長昌
- 伊東長直
- 伊東武兵衛
- 伊東祐元
- 伊木忠次
- 伊木忠繁
- 羽柴秀長
- 猿荻甚太郎
- 横井時泰
- 岡田重孝
- 岡田重善
- 岡田善政
- 岡田善同
- 岡本治兵衛
- 岡本重義
- 岡本重勝
- 岡本太郎右衛門
- 岡本良勝
- 下石頼重
- 下方九郎左衛門
- 下方源左衛門
- 下方貞清
- 下方弥三郎
- 加藤嘉明
- 加藤清正
- 加藤忠景
- 可児才蔵
- 河尻秀長
- 河尻秀隆
- 河尻鎮行
- 河野三吉
- 河野氏吉
- 河野氏門
- 花井右衛門尉兵衛
- 賀藤助丞
- 角田勝頼
- 角田石見守
- 梶原景久
- 梶原次右衛門
- 梶原松千代
- 梶原平右衛門
- 梶川正教
- 鎌田五左衛門
- 鎌田江次
- 鎌田助丞
- 岩越吉久
- 喜多嶋良滋
- 吉田家次
- 吉田家隆
- 吉田平内
- 逆川甚五郎
- 宮西遊左衛門
- 宮田彦次郎
- 魚住隼人
- 橋本一巴
- 橋本大膳
- 橋本道一
- 近松豊前
- 近藤源兵衛
- 近藤重勝
- 近藤重直
- 近藤政成
- 金松久左衛門
- 金森義入
- 金森甚七郎
- 金森長近
- 九藤深宮
- 櫛田忠兵衛
- 桑原家次
- 桑原吉蔵
- 桑原九蔵
- 兼松正吉
- 原長頼
- 原田安弘
- 原田安友
- 原田小七郎
- 原田直政
- 古江加兵衛
- 古川久介
- 戸田勝成
- 恒河久蔵
- 恒河忠徳
- 溝口秀勝
- 溝口富介
- 溝尾茂朝
- 荒川与十郎
- 荒川頼季
- 荒尾成房
- 高橋虎松
- 高橋藤丸
- 高畠三右衛門
- 高木政清
- 高木由政
- 黒田次右衛門
- 黒田半平
- 佐久間信盛
- 佐久間正勝
- 佐久間盛政
- 佐久間弥太郎
- 佐々成政
- 佐治新太郎
- 佐渡民部大輔
- 佐藤三河入道
- 佐脇藤右衛門
- 斎藤五八
- 斎藤六大夫
- 坂井越中守
- 竹中重治
- 竹中重門
- 黒田孝高
- 坂井尚恒
- 坂井政尚
- 坂井利貞
- 坂口縫殿助
- 山下三右衛門
- 山口取手介
- 山口守孝
- 山口小弁
- 山口太郎兵衛
- 山口半四郎
- 山口飛騨守
- 山口弥七郎
- 山崎平三郎
- 山田左衛門尉
- 山田治部左衛門
- 山田七郎五郎
- 山田勝盛
- 山田大兵衛
- 山田半兵衛
- 山田弥太郎
- 山内一豊
- 志水長次
- 柴田勝政
- 柴田勝豊
- 芝山次大夫
- 狩野又九郎
- 種村彦次郎
- 春日源八郎
- 小池備後守
- 小島兵部少輔
- 小俣与吉
- 小林家鷹
- 松井友閑
- 松浦亀介
- 松岡九郎二郎
- 松村与右衛門
- 松波三河守
- 松波七郎左衛門
- 松本為足
- 埴原常安
- 埴原新右衛門
- 森寺秀勝
- 森寺忠勝
- 森寺長貞
- 森小介
- 森長可
- 森坊丸
- 森蘭丸
- 森力丸
- 真木宗十郎
- 真木与十郎
- 真野重吉
- 真野膳二郎
- 真野兵部
- 神戸賀介
- 神戸市介
- 神戸二郎作
- 水野九蔵
- 水野宗介
- 水野大膳大夫
- 菅屋角蔵
- 菅屋四郎右衛門
- 菅屋勝次郎
- 菅屋長頼
- 世木弥左衛門
- 生駒一正
- 生駒親正
- 生駒直義
- 生駒直勝
- 青山吉次
- 青山信昌
- 青山藤六
- 青木玄蕃允
- 青木信照
- 青木則成
- 青木鶴
- 石黒武左衛門
- 赤川景弘
- 赤川彦右衛門
- 赤川平七
- 跡部秀次
- 川口宗吉
- 川口宗勝
- 浅井安親
- 浅井四郎左衛門
- 浅井充秀
- 浅井政候
- 浅井政重
- 浅井政貞
- 浅井清蔵
- 浅井長時
- 浅井備中守
- 浅野長政
- 前田慶次
- 前田玄以
- 前田利家
- 前野景定
- 前野長康
- 曾呂利惣八
- 祖父江秀治
- 祖父江秀重
- 祖父江秀盛
- 祖父江孫
- 村井宗信
- 村井清三
- 村井清次
- 村井専次
- 村井貞勝
- 村井貞成
- 村井又左衛門
- 村井又兵衛
- 村垣徳室
- 村田将監
- 太田牛一
- 大津長昌
- 滝山伝三郎
- 滝川雄利
- 滝川益氏
- 沢井雄重
- 沢彦宗恩
- 丹羽玄政
- 丹羽小四郎
- 丹羽長重
- 池田輝政
- 池田元助
- 池田恒興
- 池田長吉
- 池田長政
- 池田由成
- 池田由之
- 池田利隆
- 竹尾源七
- 中川重政
- 中野一安
- 朝日孫八郎
- 朝野意泉
- 朝野吉光
- 朝野十郎左衛門
- 長谷川秀一
- 長谷川与次
- 津田信益
- 津田信任
- 津田盛月
- 天野雄景
- 天野雄光
- 島田秀満
- 湯浅直宗
- 徳永寿昌
- 徳山秀現
- 内藤勝介
- 日下部宗好
- 日下部定好
- 萩原修理進
- 柏原鍋丸
- 薄田与五郎
- 八草中条家忠
- 八草中条秀佳
- 八草中条勝助
- 八草中条又兵衛
- 比留正元
- 富田清左衛門
- 武田左吉
- 伏屋市兵衛
- 服部一忠
- 服部小藤太
- 服部平左衛門
- 服部弥五八
- 服部弥六郎
- 服部六兵衛
- 福島正則
- 石田三成
- 福富秀勝
- 平井久右衛門
- 平手汎秀
- 平手政秀
- 平松助十郎
- 平野新左衛門
- 蜂屋頼隆
- 蜂須賀家政
- 蜂須賀正勝
- 豊瀬与十朗
- 豊島十朗
- 堀秀政
- 堀田一継
- 堀田左内
- 堀田正道
- 万見重元
- 明院良政
- 明智秀満
- 明智光忠
- 毛受勝照
- 毛利良勝
- 木下嘉俊
- 木下太郎
- 木下祐久
- 木全六郎三郎
- 野間孫兵衛
- 野間六蔵
- 野々村幸次
- 野々村幸成
- 野々村正成
- 野々村豊前守
- 矢代勝介
- 矢島五郎右衛門
- 矢島四郎右衛門
- 矢部家定
- 矢部定政
- 余語勝直
- 落合重清
- 落合重長
- 梁田正綱
- 林高兵衛
- 林通勝
- 鈴木伊直
『信長」は、部下に厳しかったのか?それとも優しかったのか?
「役に立たなくなったら容赦なく切り捨てる」
織田信長という人は、「合理主義者」であり「冷徹な人物」と思われているようです。
「佐久間信盛」や「林通勝」のような、長く仕えてきた老臣を、信長は追放しています。
そのため、「信長は家来に容赦しない、とても厳しい人」と言われています。
しかし、どうやら実際の所、簡単にそういいきれる人ではなかったようです。
信長は、家来のことを相当に気づかっていたようです。
たとえば信長は、「柴田勝家」という武将を、かなり優遇しています。
なぜか?
柴田勝家は、「北陸方面軍司令官」として、軍神「上杉謙信」と対していました。
「手取川の戦い」では、大敗北を喫して、その被害は相当甚大だったと言われています。
にもかかわらず、柴田勝家は信長から追放処分などされていません。
大失態を演じたのだから、信長から「無能」の烙印をおされて、追放されていてもおかしくないと思うのですが、そうではなく、「越前国」という大国を与えられているのです。
どうやら信長は、「結果」はもちろんだけど、「努力」を観ていたようです。
たとえば、「佐久間信盛」を追放した際、その理由を手紙に記しているのですが、そこには「本願寺を包囲して倒すに当たり、何も手を考えていない」と書かれています。
つまり「何の工夫もしていない」ということです。
信長からすれば、「失敗してもいいから、とにかく努力すれば、取り立てよう」と考えていたのでしょう。
しかし、「佐久間信盛」にはその努力度がゼロだったのです。
また、「信長は能力主義者だった」ということですが、そんなこともなかったようです。
信長は、むしろ能力よりも、自分と付き合いの長い者を、積極的に採用していました。
「方面軍団長」として採用した5名のうち、息子「信孝」と「明智光秀」を除けば、「柴田勝家」も「滝川一益」も「羽柴秀吉」も、「尾張国の小大名」だった頃から信長に仕えてきた生え抜きです。
また「明智光秀」も、信長の妻「帰蝶」の「いとこ」ですので、信長からすると「親戚筋」にあたります。
こうして考えてみると、信長は、「付き合いの長い譜代(ふだい)の家臣」ばかりを採用し、「外様」と呼ばれる付き合いの短い部下を冷遇しています。
「荒木村重」や「松永久秀」のような、外様は、その扱いに我慢できず、裏切ったと考えられるのです。
信長は特に、自分の親戚をとても重視しています。
たとえば、妻「帰蝶」の弟である「斎藤利堯」と「斎藤利治」は、常に自分の身近に置いておくほどに重用しているのです。
これらのことをまとめて考えてみると、「織田信長は実力主義者」、「信長は役に立たない家臣は捨てる」などの噂は、信ぴょう性に乏しいということが、わかってくると思います。
信長は家来にとても優しく、しっかりとその働きを、注意深く観て、慎重に評価していたのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の重臣「方面軍団長」は、「明智光秀」、「羽柴秀吉」、「柴田勝家」、「滝川一益」、「織田信孝」
2,「織田信長」の一門衆とは、信長の血縁者で、「織田家」の血を引くもの。嫡子「織田信忠」、次男「信雄」、三男「信孝」、叔父「織田信次」、兄「信広」など
以上となります。
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ありがとうございました。
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