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今川義元の愛刀・義元左文字と愛用の鉄兜は今どこにあるのか?

この記事では【今川義元の愛刀と兜】について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば、今川義元の刀と逸話、刀が今現在どこにあるのか、カンタンに理解できます。

 

義元の愛刀・義元左文字は、現在では京都国立博物館に所蔵されているのです。


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この記事を短く言うと

 

今川義元の愛刀は義元左文字。織田信長や徳川家康に受け継がれ、現在は京都国立博物館にある

 

義元が最期にかぶっていた鉄兜が、猛将・岡部元信おかべもとのぶを通じて現在は【大阪府岸和田市】の岸和田城・三の丸神社にある

 

今川義元は、亡くなる直前に桶狭間の戦いで、織田信長の家来・服部小平太春安はっとりこへいたはるやすの膝を刀で斬りつけ、撃退していた。剣術の心得もしっかりあったと考えられる

目次

今川義元の愛刀【義元左文字よしもとさもんじ】の逸話と刀のゆくえ

今川義元の愛刀【義元左文字】とは、どんな刀なの?

【1560年】、桶狭間おけはざまの戦いで織田信長おだのぶながに敗北し亡くなった武将・今川義元ですが、その愛刀・義元左文字よしもとさもんじは、かなり有名な名刀です。

 

  • 天下取てんかとりの太刀たち
  • 左文字を持つものは天下を取る

 

そんな言い伝えが残されているのが、今川義元が愛用した名刀・義元左文字です。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

義元左文字には別名があり

 

  • 宗三左文字そうさんさもんじ
  • 三好左文字みよしさもんじ

 

などと呼ばれています。

 

今川義元は、この義元左文字という名刀を愛用していました。


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義元左文字の歴代所有者と、伝説の逸話とは?

義元左文字は、もともとは三好政長みよしまさながという武将が持っていた代物で、最終的に徳川家康が所持した刀なのです。

 

三好政長は、別名・三好宗三みよしそうざといいます

 

この三好宗三が、武田信虎たけだのぶとらという武将へ、この左文字を贈ったのです。

 

武田信虎とは、あの武田信玄たけだしんげんの父親です。

《武田信虎》
「引用元ウィキペディアより」

信虎は自分の娘を、今川義元に嫁がせています。

 

そのとき武田信虎は今川義元へ、この左文字を贈っているのです。

 

武田信虎に贈られた名刀・左文字を愛用するようになった今川義元ですが、【1560年】の桶狭間の戦いで戦死してしまいます。

 

織田信長が、そのとき義元左文字を奪い取っているのです。

 

信長は、義元左文字を手に入れたことが、よほど嬉しかったようです。

 

なんと信長は左文字の刀に、【いつ・どこでこの刀を手に入れたのか】を、自分の名前までつけて刻みつけているのです。

 

永禄えいろく三年五月十九日、今川義元を討ち取ったときに、彼が所持していた刀

織田尾張守おわりのかみ信長

 

それ以来、信長はこの義元左文字を愛用するようになります。

 

【1582年】、本能寺ほんのうじの変で織田信長が明智光秀あけちみつひでに討たれて亡くなると、豊臣秀吉とよとみひでよしが義元左文字を手に入れます。

 

秀吉から、息子・豊臣秀頼とよとみひでよりへ受け継がれた義元左文字は、その後、徳川家康の手に渡ります。

 

家康は、この義元左文字を身に帯びて、大坂の陣を戦い、豊臣家を滅ぼしたのでした。


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  1. 三好政長(宗三)
  2. 武田信虎
  3. 今川義元
  4. 織田信長
  5. 豊臣秀吉
  6. 豊臣秀頼
  7. 徳川家康

 

このように、左文字は天下を狙う者、または天下を取ったものが所持している名刀なのです。

 

そのため、天下取りの太刀、とも呼ばれています。

 

家康は2代将軍・徳川秀忠とくがわひでただに、この義元左文字をゆずっています。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

そして秀忠もまた、息子である3代将軍・徳川家光とくがわいえみつに、形見かたみとして義元左文字をゆずり渡しています。

 

その後、左文字は代々徳川将軍家に受け継がれていきました。

 

【1868年】、江戸城無血開城えどじょうむけつかいじょう明治維新めいじいしんによって、徳川幕府が滅亡します。

 

その直後、明治天皇めいじてんのうが織田信長の功績をたたえ、京都に建勲神社けんくんじんじゃを建立しています。

 

すると徳川宗家の当主・徳川家達いえさとが、この神社に義元左文字を奉納。

 

現在も建勲神社が義元左文字を所有しており、京都国立博物館に寄託されています。

 

義元左文字は、現在も京都国立博物館で、大切に保管されているのです。

 

建勲神社のホームページはこちら

 

京都国立博物館のホームページはこちら

2000年の大河ドラマ【葵〜徳川三代〜】に登場した義元左文字

2000年に放送された大河ドラマ【あおい~徳川三代】に、義元左文字が登場するシーンがあります。

 

第48話の【さらば秀忠】という回で、父・徳川秀忠から息子・徳川家光へ、義元左文字が形見分けされるというシーンです。

《徳川秀忠》
「引用元ウィキペディアより」

俳優・西田敏行にしだとしゆきさんが演じる徳川秀忠が、家光に対して

 

  1. 江雪政宗こうせつまさむね
  2. 不動国行ふどうくにゆき

 

という二振りの名刀とともに、左文字をゆずりわたすのです。

 

しかしこのとき左文字は、義元左文字ではなく、三好左文字と呼ばれています。

 

義元左文字には数々の別名がありましたが、三好左文字とも呼ばれていたのです。

 

実際、史実でも義元左文字は、秀忠から家光へ与えられています。

 

ちなみに江雪政宗は、小田原北条氏おだわらほうじょうしにつかえた僧侶・板部岡江雪斎いたべおかこうせつさいの愛刀だったものです。

 

不動国行は、剣豪将軍と呼ばれた室町幕府13代将軍・足利義輝あしかがよしてるや織田信長、豊臣秀吉に愛された名刀です。


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義元が愛用していた鉄兜は、今どこにあるの?

2023年放送の大河ドラマ【どうする家康】の第一話で、俳優の岡田准一おかだじゅんいちさんが演じる織田信長が、兜をかぶったままの今川義元の首を持って疾走しっそうするシーンが放送されていました。

 

その今川義元が亡くなる直前までかぶっていた鉄兜てつかぶとが、大阪に現存しています。

 

現在、大阪府岸和田市の岸和田城きしわだじょう、城の中にある三の丸神社さんのまるじんじゃに今川義元の兜と伝えられているものが収蔵されているのです。

岸和田城
「引用元ウィキペディアより」

なぜ今川義元の兜が、大阪にあるのでしょうか?

 

今川義元の家来けらい岡部元信おかべもとのぶから、代々子孫へと伝えられてきたのです。

 

岡部元信とは、桶狭間の戦いで織田信長から主君・今川義元の首を取り返した猛将です。

 

この岡部元信は、自分が占領していた鳴海城なるみじょうと、今川義元の首を交換する交渉に成功し、首を奪還することに成功したのです。

 

岡部は義元の首とともに、義元が身につけていた兜もゆずりうけています。

 

首はその後、東海道にある東向寺とうこうじまたは臨済寺りんざいじへ埋葬されています。

 

岡部元信はその後、武田信玄・勝頼かつより親子につかえ、【1581年】の高天神城たかてんじんじょうの戦いで、徳川家康に攻められて戦死しています。

 

この岡部元信の一族に、岡部正綱おかべもとつなという武将がいます。

 

岡部正綱は、徳川家康に仕えています。

 

正綱の孫・岡部宣勝おかべのりかつが、岸和田城6万石を与えられ大名になっています。

 

この岡部元信の子孫・岡部宣勝が、岸和田城内にあった三の丸神社というところに、代々岡部家に伝えられていた今川義元の兜を納めたと考えられます。

 

【1935年】、社殿しゃでん祭壇さいだんのなかから、金色に輝く兜が発見されました。

 

それが、今川義元の鉄兜と伝わえられているのです。


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今川義元は弱くなんかない!実は剣術にも優れていた

今川義元は肥満ひまんで、お歯黒はぐろの弱い武将と考えられているようですが、実際には剣術も強かった可能性があります。

 

桶狭間の戦いで、今川義元は自ら義元左文字の太刀を振るって、織田軍の武将・服部小平太春安はっとりこへいたやすはるの膝を斬りさいて撃退しているのです。

《桶狭間の戦い》
「引用元ウィキペディアより」

その後、毛利新助良勝もうりしんすけよしかつに討ち取られた義元でしたが、服部小平太を撃退しているのですから、剣術の腕前にも優れたものがあったのでしょう。

 

義元は幼い頃、僧侶として生活していたため、通常の武士の子が受けるはずの武術の稽古をしていなかったと考えられています。

 

しかしそれでも、実際の戦場で敵を撃退しているのです。

 

義元は、僧侶から武将となったあと、かなりの修行を積んだはず。

 

最近では、桶狭間の戦いで圧倒的に有利な状況であるにも関わらず、敗北した愚かな武将、というこれまでの評価が改められてきています。

 

武術についても、今川義元の能力は、決して弱くなかったと考えられます。

 

→→→→→【桶狭間の戦い】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【自分の死を予知夢で知った今川義元】についてくわしくはこちら


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今川義元は、信玄・氏康・謙信を封じ込めた名将だった

今川義元は、かなり優秀な名将であると、筆者は考えています。

 

後世に名将として高く評価されている以下の3人の名将たちをご存知でしょうか?

 

  1. 武田信玄たけだしんげん
  2. 北条氏康ほうじょううじやす
  3. 上杉謙信うえすぎけんしん

彼ら戦国時代でも屈指くっしの名将たちにも、義元は決して敗けていません。

 

むしろ、これら3名の名将を、今川義元は手玉てだまに取ったといって良いと思います。

 

  1. 武田信玄
  2. 北条氏康
  3. 上杉謙信

 

今川義元は、この3名の名将たちの運命を、大きく狂わせているのです。

 

甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいというものをご存知でしょうか?

 

今川義元と武田信玄そして北条氏康の3名が、駿河するが国の富士郡ふじぐんにある善徳寺ぜんとくじで締結した同盟のことです。

 

この同盟は、数多くの意味と効果がありました。

 

今川義元にとっては、後方に位置する甲斐かい国(山梨県)の武田信玄と相模さがみ国(神奈川県)の北条氏康に攻撃される危険性を排除し、尾張おわり国(愛知県西部)の織田信長との戦いに専念できました。

 

武田信玄と北条氏康も、背後から今川義元に攻撃されることなく、それぞれが正面の敵に対処できました。


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ただ、信玄と氏康は三国同盟で、大きな損もしています。

 

武田信玄は、海という経済を発展させる上で重要な存在を失っているのです。

 

この同盟が原因で信玄は、北の上杉謙信を倒して越後えちご国(新潟県)を奪いとって日本海に出る、という方法以外に海を手に入れることができなくなりました。

 

北条氏康はというと、西への道を完全に塞がれ、京都を支配して天下を取るということができなくなりました。

 

武田信玄も北条氏康も、三国同盟のおかげで勢力拡大が難しくなっているのです。

 

そしてなによりも、三国同盟のおかげで最大の損失をこうむったのが上杉謙信です。

《上杉謙信》
「引用元ウィキペディアより」
画像をクリックすると拡大できます

謙信はこの三国同盟のおかげで、生涯にわたって勢力拡大ができなかったのです。

 

武田信玄と北条氏康に共通する最大の強敵は、軍神・上杉謙信でした。

 

信玄と氏康は、軍神と呼ばれた最強の武将・上杉謙信に、武田・北条の連合軍で対処していきます。

 

さすがに武田信玄・北条氏康という名将2人を相手にしては、上杉謙信も苦戦してしまいました。

 

そのスキに、今川義元は楽に織田家と戦うことができたのでした。

 

つまり三国同盟は、武田信玄・北条氏康・上杉謙信という、戦国時代最高の名将たちを互いに争わせて完全に封じ込める、秘策中の秘策だったのです。

 

この三国同盟という名案を発案して実現させたのは、今川義元の軍師であり師匠でもあった太原雪斎たいげんせっさいという人だといわれています。

 

その太原雪斎に三国同盟を実現させた今川義元は、やはり名将といって良いでしょう。

 

たった1つの誤算は、今川義元が織田信長に討たれたことです。

 

今川義元と太原雪斎が残した三国同盟は、義元・雪斎の死後も今川家を守りつづける効果をもたらしました。

 

武田信玄は義元の死後、三国同盟を即座に破棄して駿河国を攻めようとします。

 

しかし今川家に味方した北条氏康に邪魔され、さらには上杉謙信の攻撃にも苦しめられ、武田信玄は思うように駿河攻略ができずにいたのです。

 

【1569年】、今川義元が桶狭間の戦いで亡くなった9年後、武田信玄と徳川家康の連合軍によって、今川家はついに滅亡するのです。

 

三国同盟は、戦国時代で最高の外交の成果であったと、筆者は思っています。

 

→→→→→【今川義元・信玄・氏康は義兄弟だった】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

今川義元の愛刀・義元左文字は、信長や家康に受け継がれ、現在は京都国立博物館にある

 

義元の兜が現在、岸和田城・三の丸神社にある

 

義元は、桶狭間の戦いで、信長の家来・服部小平太の膝を刀で斬りつけ、撃退した。剣術の心得もあったということ

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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