皆さんは「斎藤道三の最期」を、ご存知でしょうか?
実は筆者も、今回の調査をするまで、「道三がどのように亡くなったのか」について全然知りませんでした。
この記事では「道三の死因と最期の様子」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「道三の最期」について、漠然としか知らなかったとしても、これを読めば、誰かに説明できるほど、「斎藤道三の最期」に詳しくなることができるはずです。
この記事で、「斎藤道三の死因・最期の様子・遺言・お墓」などの疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。 どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,斎藤道三(利政)は、息子「斎藤義龍(高政)」との戦いで戦死。死因は「斬首」によると考えられる
2,【1556年】、斎藤道三は息子「斎藤義龍(高政)」と「長良川の戦い」で激突。息子の有能さを見抜けなかったことを後悔しながら、戦死した。
3,道三は、死の間際に、娘婿「織田信長」にたいして「国ゆずり状」をのこした。これを大義名分として、その死から11年後の【1567年】、信長は美濃を奪取した。
「斎藤道三」の死因は何?
斎藤道三は、戦死しています。
詳細な死因は不明ですが、首を討たれているので、それが直接の死因と推定されます。
【1556年】、「長良川の戦い」で息子「斎藤義龍」に敗北し、首を討たれています。
その首を討ったのは
- 「長井中左衛門」
- 「小牧源太」
- 「林主人」
といった武士たちです。
道三は、それまで「無能」と侮っていた息子「斎藤義龍」の戦い方をみて、その非凡さに驚き、後悔したと言われています。
また、首を討たれた際に、鼻が削ぎ落とされたという逸話も残っています。
「斎藤道三」最後の様子は、どんな感じ?
【1556年】、引退していた「斎藤道三」は、家督をゆずっていた息子「斎藤義龍(高政)」に襲撃されます。
「長良川の戦い」です。
義龍の軍は「17500」、対する道三の軍は「2700」。圧倒的に道三が不利でした。
「織田信長」
道三の娘「帰蝶」は、「織田信長」に嫁いでおり、信長はこの戦いで道三に味方して出陣。
しかし、信長の援軍は間に合わず、義龍の軍によって、信長の軍は撃破されます。
道三は、息子「義龍」を「おいぼれ者」と呼んで、その無能ぶりをバカにしていたといいます。
ところが「長良川の戦い」で、義龍が見事な戦いぶりをみせたことに、道三は驚きました。
息子の能力を見抜けなかったことを、道三は後悔しながら亡くなったと言われています。
父「道三」を討った義龍は、「親殺し」を行ったことを後悔したようです。
義龍は、父の首をみて
「これは我が身の不徳から出た罪である」
そういうと、父の菩提を弔うためなのか、出家してしまいます。
「はんか」
父「道三」と戦う前に、義龍は「はんか」という名前を名乗っています。
「はんか」とは、「唐」という国の人物で、義龍と同じく、やむにやまれぬ理由で親を殺害した人物です。
義龍は父を殺したことで、自分を責めぬいたのでしょうか。このわずか5年後の【1561年】、病死しています。
「斎藤義龍(高政)」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」に託した伝説の遺言状「国譲り状」とは?
道三は、最期に
「美濃国を娘婿である織田信長にゆずる」
と記された、通称「国譲り状」を残しています。
この書状は
- 「京都・妙覚寺」
- 「大阪城天守閣」
に現存しています。
信長は「長良川の戦い」で、道三を救出しようと援軍を出しますが、間に合わなかったと言われています。
この「国譲り状」を受け取った織田信長は、これを大義名分として、美濃は自分のものである、と主張します。
道三の死から11年後の【1567年】、織田信長は義龍の息子「斎藤龍興」を追い出して、美濃国を支配。
この直後、織田信長は道三の甥「明智光秀」と出会っています。
このころから信長は、「天下布武」の印を使い始め、「天下統一」へと進み始めるのです。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「天下布武の意味」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
道三のお墓は、どこにあるのか?
斎藤道三のお墓は、現在の「岐阜県岐阜市」に、「2ヶ所」あります
「常在寺」と「道三塚」です。
1つ目、岐阜県岐阜市の「常在寺」。
2つ目、「岐阜市道三町」にある「道三塚」。
道三のご遺体は、元々「常在寺」の北西にある、現在の「岐阜メモリアルセンター」のあたりに埋葬されていました。
しかし、【1837年】に、「常在寺」の「日椿上人」が、この「道三塚」に墓地を移動し、碑を建てたのだそうです。
ちなみに「常在寺」の近くに「崇福寺」というお寺があります。
「崇福寺」は、「道三塚」の東南300mのところに位置しており、「織田信長」の墓地や、「信長・信忠」の位牌堂が備えられています。
信長と道三は、わずか300mしか離れていない場所で眠っているのです。
「斎藤道三」が育て上げた「二人の名将」
斎藤道三は、「織田信長」と「明智光秀」という、後世に名を残す二人の名将を育て上げたと言っても良い人物です。
道三は、「織田信長」に惚れ込み、美濃国を譲り渡そうとしています。
「信長」は、斎藤道三を手本とし、更にはその居城だった「稲葉山城」を「岐阜城」と改名して、自らの拠点にしています。
ちなみに「岐阜」とは、伝説の名君「武王」の本拠地「岐山(きざん)」と、その弟で伝説的な大政治家「周公旦(しゅうこうたん)」の本拠地「曲阜(きょくふ)」から、一字ずつ取った名前です。
一方、名将「明智光秀」は、そんな斎藤道三に近習として仕えていたという説があります。
若い「明智光秀」は、名将「斎藤道三」を間近に見て、あらゆることを学んだはずです。
織田信長と明智光秀。
この二人を育てあげたのも、そして出会えたのも、「斎藤道三」という武将がいたからだと言えます。
ともに「天下統一」へ向けて進み続けた「織田信長」と「明智光秀」
しかし「光秀」は、突然「織田信長」を襲撃し、「本能寺の変」を起こしてしまいます。
道三が託した「美濃国」を足がかりとして、天下統一目前まで迫った「織田信長」が、同じく「斎藤道三」が残した名将「明智光秀」に、突如滅ぼされたのです。
「本能寺の変」の動機は、これまで数多くの説が唱えられてきましたが、いまだにはっきりとした理由がわかっていません。
道三の遺産によって支えられ、すすめてきた「天下統一」。
それがまるで、道三によって止められたかのように、信長は突然の最期をむかえたのでした。
明智光秀
「本能寺の変」を起こしたその時、光秀は二人をつないだ以前の主君「道三」のことを、思い起こしたのでしょうか。
「明智光秀」の子孫を名乗っておられる「明智憲三郎」さんが、「本能寺の変」について研究しておられます。
その内容が、「信長を殺した男」という題名のマンガになって人気を集めています。
筆者の感想で恐れ入りますが、このマンガ、とてもおもしろかったです。
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また、当サイトにおいても、「本能寺の変」について徹底的に分析しておりますので、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
『斎藤道三』について「ひとこと」いいたい
「斎藤道三」・・・油売りの商人から、槍の修行をして戦功をあげ続け、最後は美濃国を奪いとった梟雄(きょうゆう)。
もしも道三が、義龍の能力を正確に見抜いていたら、これほど無残な最期をとげることはなかったでしょう。
道三は「義龍」を、「おいぼれ者」と呼んで見下し、次男と三男の「孫四郎」「喜平次」を「利口者」と呼んでかわいがっていました。
北条氏綱(ほうじょう うじつな)
この「北条氏綱」とは、斎藤道三と同じく、下剋上で戦国大名となった名将「北条早雲」の息子です。
この「北条氏綱」の息子「北条氏康」は、ひどい臆病者だったのです。
カミナリの音に驚いて、泣きわめいてしまうほどでした。
これを見た家来たちは、氏康を見下し、北条家の将来を心配していました。
しかし氏綱は、そんな息子を見下すのではなく、力強く、優しく励ましたのです。
「臆病さは、大将に必要不可欠な能力である」
氏綱は、息子「氏康」に
「お前には大将としての才能がある」
と、勇気づけたわけです。
この期待に応えた「北条氏康」は、とてつもなく勇敢な武将に育ち、先陣をきって自ら敵兵と戦うほどの猛者となりました。
身体に刻まれた歴戦の傷跡は、「氏康傷」と呼ばれたほどです。
氏康は、名将「上杉謙信」「武田信玄」「今川義元」と互角に渡り合い、戦においては生涯不敗を誇り、「小田原北条氏」の勢力を大きく拡大させることに成功するほどの人物となります。
わずか数千の軍で、上杉憲政ひきいる8万の大軍団を撃破した「河越夜戦」は、織田信長の「桶狭間の戦い」、毛利元就の「厳島の戦い」に並んで評価され、「日本三大奇襲戦」と呼ばれています。
もし「道三」にも、「氏綱」のように息子を励ます優しさがあったら、「義龍」に討たれる悲劇は起こらなかったでしょう。
しかし「氏康」は、父「氏綱」ほど子育てが上手ではなかったらしく、我が子「氏政」の無能を悲しんだと言われています。
その「氏政」にひきいられた北条家は、【1590年】、「豊臣秀吉」によって攻め滅ぼされます。
その後、再興した北条家は、「狭山藩1万石」を領して、明治維新を迎えます。
ちなみに、「北条氏綱」が「氏康」にたいして遺した「5か条の訓戒状」は、名文として後世において評価されています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,斎藤道三は、息子「斎藤義龍」との戦いで戦死した。死因は「斬首」
2,【1556年】、「斎藤道三」は息子の「斎藤義龍」と「長良川の戦い」で激突。侮っていた息子が有能であったことを見抜けず、そのことを後悔しながら、戦死した。
3,道三は、死の間際、「織田信長」に「国ゆずり状」をのこした。これを大義名分に、11年後の【1567年】、織田信長は美濃を奪取した。
以上となります。
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ありがとうございました。
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