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織田信長の生い立ちから最期まで!3分でわかりやすく簡単に解説!

戦国の天才「織田信長」

その生い立ちから「本能寺の変」における最後まで、わかりやすく「3分」で解説!

信長はなぜ、名将揃いの戦国の中で、一人だけ「天下人」まで大躍進できたのか?


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと

・戦国時代とは、1467年「応仁の乱」から始まった戦乱の時代

・織田信長は、戦国時代の終結に力をつくし、部下「明智光秀」に裏切られた「本能寺の変」で亡くなった。享年49歳

・信長躍進の理由は「経済重視」と「誰でもできる戦い方」にあった


戦国時代とは、どういう時代だったのか

戦国時代・・・。

足利幕府・八代将軍・足利義政の失政から始まった「応仁の乱」

この応仁の乱が発端となり、世の中は戦国時代と呼ばれる各地域の独立した領主同士の争う時代が始まりました。

この時代は小氷河期で、凶作が続き、飢饉であったために食糧不足となり、食料の争奪戦が繰り広げられた・・・という説もあります。

1467年(応仁の乱開始)から1590年(秀吉の天下統一)まで、100年以上も領主たちが争う時代が、始まったのでした。



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織田信長の「生い立ち」と「本能寺の変」まで

1534年5月13日、尾張国・那古野で「織田信秀」の三男として「織田信長」が誕生。

幼い頃から気性の荒い子として有名であり、更には派手な格好や行動など、奇行が目立ったため「尾張の大うつけ」とあだ名されていました。

父親の信秀から厳しく養育され、それでいて父の愛情を受けて育った・・・とも言われています。

父・信秀の死後、織田家の家督を相続した信長は、1560年に「桶狭間の戦い」で、当時日本最大の勢力を誇っていた「今川義元」を討伐。

その後は三河国・徳川家康と同盟し、妻「濃姫」の兄で、義父「斎藤道三」を殺害した「斎藤義龍」が治める「美濃(現在の岐阜県南部)」に標的を絞り、7年かけて美濃国を攻略。

肥沃な濃尾平野を完全に掌握した信長は、圧倒的な軍事力を背景に、足利幕府の正統後継者「足利義昭」を将軍に就任させるという「大義名分」で、1568年に上洛(京都を占領)達成。

そのまま機内のほとんどを制圧し、京都・朝廷・足利将軍家を掌握。

しかし、足利義昭を操り人形として利用し、権力を掌握しようとする信長は、義昭と対立。

義昭は全国の大名に対し「反・信長連合軍」の結成を呼びかけ、これに応えた「武田信玄」「浅井長政」「朝倉義景」「石山本願寺」「比叡山延暦寺」などと次々と交戦。

信長は苦戦しながらも、これらの敵を各個撃破していき、遂に最大の敵だった「石山本願寺」と、1580年に講和(事実上の本願寺の降伏)。

京都を中心に、備前(岡山県南部)から上野(群馬県)まで制圧した織田軍。

残すは、東北・関東・中国・四国・九州でしたが、中国地方は織田家家臣「羽柴秀吉」によって制圧寸前。

関東・北条氏は織田に対して臣従しかけていましたし、東北は統一されておらずまとまって対抗する可能性は低かったので、実質残すは「四国」「九州」のみ。

四国には、信長の三男「神戸信孝」率いる征伐軍が、1582年6月2日に出発する予定でした。

しかし、その「1582年6月2日」早朝、京都・本能寺に宿泊していた信長は、家来の「明智光秀」の襲撃を受けて敗死。

明智光秀はこの11日後に、「羽柴秀吉」の攻撃を受けて敗死し、1590年・秀吉により天下統一が果たされたのでした。



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なぜ信長だけが躍進できたのか?

100年以上も続いた戦国時代。

この時代に、なぜ信長だけが「天下統一」へ一気に飛躍できたのでしょうか?

理由はいくつもありますが、主に「2つ」あると思います。

1,「経済(金銭)を重視した」

2,「無理なく勝利できる方法で戦争をしていた」

「経済(金銭)を重視した」

信長は、大津・堺・山崎などの商業地を直轄地とし、無用な関所を廃して、流通を活性化させ、その上で税を徴収して、巨万の富を手にしました。

それにより「足軽」という「傭兵」を雇い入れ、損害が出ても圧倒的な財力で即・補充するという物量作戦をとります。

圧倒的な経済力で、圧倒的な軍事力を保持した信長は、家来たちに軍を任せ、各地に送り込みました。

補給を際限なく行える織田軍は、常に敵よりも多い軍で戦っていました。



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「無理なく勝利できる方法で戦争していた」

織田軍は「足軽」が主戦力・・・半農半兵が当たり前だった戦国時代において「傭兵」である足軽は、機動力・長期戦には優れていましたが、土着性・忠誠心がなく「命がけで戦わないため、戦闘能力が低い」という弱点がありました。

その弱さを、最新兵器「鉄砲」や物量でカバーしながら、「砦を築いて敵を包囲する」という、誰でもできる方法を多用して、敵を圧倒していきました。

誰でもできる・・・つまり「代わりはいくらでもいる」・・・・替えが効く、長期で利用可能な方法により、勝利を繰り返していったのです。

信長の弱点

弱点は、サイコパスとも呼ばれる欠落した心・・・。

相手の気持ちを察することが出来ない部分があり、そのため、平然と人を切り捨てる残酷さを持っていました。

その冷徹さに恐怖した味方が次々と信長を裏切り、いつまでたっても敵が減らないという悪循環へ。

最終的に、最も信頼していた家臣「明智光秀」に殺害されてしまったのです。

ちなみに信長は、妹の「お市」と気が合っていたという説があります。サイコパスとサイコパスは非常に気があうのだそうです。もしかしたら「お市の方」もまた「サイコパス」だったのかもしれません。


「本能寺の変の真相」については、以下のリンク記事をご利用下さいませ。

↓↓↓↓↓



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・応仁の乱から始まった戦国時代・・・100年以上続いたが、信長の力で終結へ

・戦国時代の天才・織田信長は、49歳で明智光秀の襲撃で戦死

・経済力と物量により、天下統一へあと一歩のところまでいった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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