織田信長の生い立ちから、本能寺の変における最期まで、わかりやすくで解説いたします。
信長はなぜ、名将だらけの戦国の中で、一人だけ天下人の目前まで大躍進できたのでしょうか?
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この記事を短く言うと
織田信長の【生い立ち】から【本能寺の変】まで
【結論】織田信長は、1534年に尾張国の領主・織田信秀の三男として誕生。幼い頃は、派手で奇怪な言動が多かったため「尾張の大うつけ」つまり「尾張のバカ殿さま」と呼ばれていました。
1534年5月13日、尾張国の領主である・織田信秀の三男として織田信長は誕生しました。
信長は幼い頃から、乳母の乳を噛みちぎるほどに、気性の荒い子だったそうです。
さらに、派手な格好や行動など、奇怪な行動が目立ったため「尾張の大うつけ」つまり【尾張のバカ殿】とあだ名されていました。
父親の織田信秀から厳しく養育され、それでいて父の愛情を受けて育ったともいわれています。
父・信秀の死後、信長は織田家の家督を相続しています。
1560年、【桶狭間の戦い】で、当時日本最大の勢力を誇っていた敵将・今川義元を討伐。
その後は、三河(現在の愛知県東部)の徳川家康と同盟を締結。
徳川家康と同盟を結び、背後の敵を恐れる必要のなくなった信長は、念願だった斎藤家の討伐を始めます。
妻・濃姫(別名・帰蝶)の父・斎藤道三を殺害した斎藤義龍が治める美濃(現在の岐阜県南部)に標的を絞り、攻略を開始。
7年かけて、ようやく斎藤家を追放し、美濃国を支配することに成功します。
織田信長は、こうして尾張と美濃の2カ国を支配し、肥沃な濃尾平野を完全に掌握したのです。
信長は濃尾平野から産出される米などの産物を資金にかえて、圧倒的な軍事力を手に入れたのです。
ちなみに信長は、妻の濃姫を大切にしたはずです。
美濃の支配者・斎藤道三の娘・濃姫の夫であるからこそ、信長は美濃の国の正当なる支配者だと主張できたのです。
濃姫と帰蝶という二つの名前が出てきましたが、何が違うのかについては以下のリンク記事で解説いたします。
その軍事力を背景に、室町幕府の正統な後継者である足利義昭を将軍に就任させるという大義名分で、1568年に上洛(京都を占領)することに成功します。
そのまま畿内のほとんどを制圧し、京都と朝廷と足利将軍家を掌握してしまうのです。
しかし、足利義昭を操り人形として利用して、権力を掌握しようとする信長は、それを拒否しようとする義昭と対立しはじめます。
義昭は全国の大名に対して、反・信長連合軍の結成を呼びかけます。
- 武田信玄
- 浅井長政
- 朝倉義景
- 石山本願寺
- 比叡山延暦寺
などが、次々と信長を相手に交戦することとなるのです。
信長は苦戦しながらも、これらの敵を各個撃破することに成功します。
1580年、遂に最大の敵だった石山本願寺と講和すること成功するのです(これは事実上の本願寺の降伏)。
京都を中心に、西は備前(岡山県南部)、東は上野(群馬県)まで制圧した織田軍。
残すは、東北・関東・中国・四国・九州でしたが、中国地方は織田家家臣・羽柴秀吉によって制圧寸前。
関東を支配していた北条氏は、織田に対して臣従しかけていました。
東北は統一されておらず、まとまって対抗する可能性は低かったです。
残すは四国と九州のみ。
九州は、羽柴秀吉が中国地方の毛利氏を倒した後、信長自身が出陣して平定するつもりだったといわれています。
四国には、信長の三男・神戸信孝(織田信孝)が率いる軍が、1582年6月2日に出発する予定でした。
しかし、その1582年6月2日の早朝、京都・本能寺に宿泊していた信長は、部下の明智光秀の襲撃を受けて敗死します。(本能寺の変)
明智光秀はこの11日後に、羽柴秀吉の攻撃を受けて敗死。(山崎の戦い)
1590年、織田信長のあとを継いだ豊臣秀吉によって、天下統一が果たされたのでした。
なぜ織田信長だけが、一気に躍進できたのか?
【結論】戦国時代に織田信長だけが躍進できた理由は、❶経済を重視したこと、❷無理なく勝利できる戦い方を採用したことにあると思います。
100年以上も続いた戦国時代。
名将が多数登場したこの時代に、なぜ織田信長だけが天下統一へと、一気に飛躍できたのでしょうか?
理由はいくつもありますが、主に2つあると思います。
- 経済(金銭)を重視した
- 無理なく勝利できる方法で戦争をしていた
経済(金銭)を重視した
【結論】信長は経済を重視していました。
そうすることで手に入れた圧倒的な資金を使い、常に敵より多くの軍団を用意して戦うことができました。
さらには、負けても資金が豊富なので、すぐに新しい軍を雇い直すことで、即座に復活できたのです。
信長は、当時としてはめずらしく、農業生産よりも商業を重視していました。
信長は、大津・堺・山崎などの商業都市を直接支配しています。
そして通行税を徴収する無駄な関所を廃しているのです。
そうすることで物の流通を活性化させたのです。
そのうえで税を徴収して、巨万の富を手にしました。
つまり、民衆が利益を出しやすい状況をつくりあげた上で、税金を徴収したのです。
言い換えれば「まずは民衆を儲けさせたあとで、税金を貸した」ということです。
儲けた民衆に支払わせた莫大な税金や、商人から献上させた金をつかって、足軽という傭兵を大量に雇い入れたのです。
そして、自軍に損害が出ても、圧倒的な財力で、すぐに兵を新しく雇い直すという物量作戦をとります。
圧倒的な経済力で、圧倒的な軍事力を保持した信長は、部下たちに軍をまかせて、各地に送り込みました。
補給を限りなくおこなえる織田軍は、常に敵よりも多い軍で戦っていました。
- 敵よりも多くの軍団を率いて戦い、常に有利な戦いをする
- しかも圧倒的な資金力で、負けてもすぐ新しい傭兵を雇い直せる
というわけです。
無理なく勝利できる方法で戦争していた
【結論】信長は、敵より多くの軍団を用意し、鉄砲という最新兵器で武装し、砦をつくって敵を包囲するという、資金力さえあれば誰でも勝利ができる方法で戦争していたといいます。
信長の軍団は、足軽という傭兵集団を主力として戦っていました。
織田軍は、足軽と呼ばれる傭兵が主な戦力でした。
半農半兵が当たり前だった戦国時代において、傭兵である足軽には、致命的な弱点がありました。
それは、【傭兵は弱い】ということです。
傭兵は、機動力や長期戦には優れていました。
しかし土着性や忠誠心がなく【命がけで戦わないため、戦闘能力が低い】という弱点がありました。
半農半兵ならば、敗北すれば自分たちの村や土地が奪われます。
それだけではなく、同じ村の仲間同士で出陣することもしばしばでしたので、逃げたりしたら村八分つまり村で仲間はずれにされることは明らかです。
そのため、半農半兵は必死で戦います。だから強いのです。
農業をやらないといけないので、農繁期は戦えないという弱点もありました。
対して傭兵は、オールシーズン一年中でも戦えますが、逃げてもお金がもらえなくなるだけなので、すぐ逃げてしまい弱いのです。
信長はその傭兵の弱さを、最新兵器の鉄砲や物量でカバーしたのです。
さらには【砦を建築して敵を包囲する】という、誰でもできる方法を多用して、敵軍を圧倒していきました。
誰でもできるということは、つまり【武将や傭兵の代わりは、いくらでもいる】ということです。
替えが効くという、失敗しても怖くない方法で、信長は勝利を繰り返していったのです。
誰でもできる方法なので、信長は古くからの家臣・佐久間信盛のように、人材を切り捨てるのが早かったのかもしれません。
信長の弱点とは?
【結論】織田信長の弱点は、相手の気持ちを察することができないことではないか。そのため敵が増え続け、いつまでたっても敵が減らずに戦いが終わらない悪循環におちいり、ついには一番信頼していた明智光秀に裏切られて亡くなった。
織田信長の弱点は、サイコパスと呼ばれることもあるほど、相手の気持ちを理解できないことではないでしょうか。
信長には、相手の気持ちを察することが出来ない部分があり、そのため、平然と人を切り捨てる残酷さを持っていました。
その冷徹さに恐怖した味方が次々と信長を裏切り、いつまでたっても敵が減らないという悪循環へ落ちいっていたといえます。
信長を裏切った武将は数知れません。
- 浅井長政
- 松永久秀
- 荒木村重
信長は最終的に、だれよりも信頼していた家臣・明智光秀にも裏切られ、本能寺で討たれてしまったのです。
ちなみに信長は、妹のお市の方と、とても気が合っていたという説があります。
サイコパスとサイコパスは非常に気があうのだそうです。
もしかしたら信長と父母を同じくする妹【お市の方】もまた、サイコパスだったのかもしれません。
戦国時代とは、どういう時代だったのか
【結論】戦国時代とは、応仁の乱から始まった、日本全国を巻き込んだ内戦の時代のことです。
戦国時代が始まったきっかけは、室町幕府の8代将軍・足利義政による失政から始まった【応仁の乱】です
この【応仁の乱】で、室町幕府は日本全国を支配する力を失い、戦国時代がはじまったのです。
このときから、日本は各地域の独立した領主同士が戦争する、内戦の時代が始まったのです。
戦国時代は小氷河期と呼ばれる、とても寒い時期だったといわれています。
凶作が続き、飢饉であったために食糧不足となり、食料の争奪戦が繰り広げられたのだという説もあります。
1467年に【応仁の乱】が始まってから、1590年に豊臣秀吉が天下統一するまで、100年以上ものあいだ、各地の領主たちが争う時代だったわけです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 織田信長は、尾張国の領主・織田信秀の子として生まれ、若い頃は【尾張の大うつけ】と呼ばれたバカ殿だった
- 戦国時代とは、1467年【応仁の乱】から始まった戦乱の時代
- 織田信長は、戦国時代を終わらせるために力をつくしたが、一番信頼していた部下・明智光秀に裏切られて、本能寺の変で亡くなった。享年49歳
- 信長躍進の理由は【経済重視】と【誰でもできる圧倒的物量による戦い方】にあった
以上となります。
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