この記事では「織田信長の弟・妹」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長の兄弟たち」を、カンタンに理解できます。
「信長」には「数多くの弟や妹」がいました。
弟妹たちの中でも、最も有名なのは「信長に暗殺された弟・信勝」と、「戦国一の美女・お市の方」でしょう。
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この記事を短く言うと
1,織田信長の「兄弟」たちとは、誰がいたのか?
信長には、20人以上の兄弟がいた。最も有名なのは、信長に暗殺された弟「信勝(信行)」と、戦国一の美女「お市の方」だろう
2,信長が弟「信勝」を暗殺した理由とは?
信勝が何度も信長に謀反を起こしたから。信勝は周囲にいわれた通り動くだけの、無能な人間だった
3,信長の弟と「東京・有楽町」の関係とは?
信長の弟「織田有楽斎」の名前が、「有楽町」の由来という噂があるが、その可能性は低い
織田信長の兄弟姉妹の名前一覧と、兄弟たちの最期
織田信長には、数多くの弟と妹がいましたが、その名前を一覧でご紹介致します。
織田信長には、「兄」がいました。
- 織田信広
「信広」は庶子、つまり身分の低い側室の子であり、信長の兄ではありましたが、家督継承は出来ませんでした。
「信広」は弟「信長」に仕え、1574年「長島一向一揆」で戦死しています。
信長の弟たちは、以下のとおりです。
- 「織田信勝」(信行)、信長に謀反を起こしたため、1558年、信長に暗殺される
- 「織田信包」、信長と母を同じくする弟。秀吉に仕え、1614年に大坂城内で血を吐いて死去。
- 「織田信治」、1570年の「宇佐山城の戦い」で「浅井・朝倉連合軍」と激戦の末に戦死。
- 「織田秀俊」(信時)、守山城主。1556年に家臣に裏切られて自害した。
- 「織田信興」、1570年に「伊勢長島一向一揆」と激戦の末に戦死。信長が最も信頼していた弟だった。
- 「織田秀孝」、1555年に叔父「織田信次」に、無礼討ちで殺害された。
- 「織田秀成」、1574年、「長島一向一揆」で戦死した。
- 「織田信照」、信長の次男「織田信雄」に仕え、1610年に死去。
- 「織田長益」(有楽斎)、「本能寺の変」で信長の息子「信忠」に切腹をすすめながらも生き延び、「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」に参戦。1622年死去。茶道「有楽流」の祖であり、子孫は今も愛知県で「有楽流」を守っている。
- 「織田長利」、信長の末弟。1582年、「本能寺の変」で甥「織田信忠」とともに戦死。
次に、信長の「妹」を一覧でご紹介致します
- くらの方(大橋重長の妻)
- 犬山殿(織田信清の妻)、夫を弟「織田信長」に殺され、信長死後は信長次男「織田信雄」に庇護された。
- 神保・稲葉夫人(神保氏張の妻、のちに稲葉貞通と再婚)
- 斎藤道三の側室
- 苗木勘太郎の妻
- お犬の方(佐治信方の妻、のちに細川昭元と再婚)
- お市の方(浅井長政の妻、のちに柴田勝家と再婚)、「淀殿」、「お初」、「お江」の母親。「豊臣秀頼」「徳川家光」の祖母
- 小幡殿(織田信成の妻)
- 栄輪院(織田信直の妻)
- 津田出雲守の妻
- 飯尾尚清の妻
- 乃夫殿(津田元秀の妻)
- 信徳院(牧長清の妻)
- 丹羽氏勝の後妻
- 乃木九郎の妻
信長の弟・妹のなかで、父も母も同じ弟妹は「信勝(信行)」と「信包」、そして「お市の方」だけだったといわれています。
信長の父「織田信秀」は、数多くの側室を抱えていたため、無数の兄弟に恵まれていました。
息子の信長も、父にならったのか、子供については、20人以上ももうけていました。
「織田信秀」「お市の方」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
弟「信勝(信行)」を暗殺した理由!信勝は無能だった
弟『信勝』と兄「信長」は、能力の差が大きすぎた
織田信長は、弟「織田信勝(信行)」を、【1558年】に暗殺しています。
その理由は、「信勝」が兄「信長」に対して、何度も何度も謀反したからです。
しかし、それだけではありません。
信勝は、織田家の当主となるには、無能すぎたと考えられます。
1つの逸話があります。
信長・信勝の父「織田信秀」が亡くなったあと、信秀の葬儀において、2人は対象的な行動をとります。
兄「信長」は、父の位牌に抹香という「粉のお香」を投げつけるという暴挙を働きます。
ところが「信勝」は、行儀よく作法に従ったといいます。
これをみた人々は、「信長」をバカにして、「信勝」を評価しました。
ところが、これは信長の罠でした。
この一件から、信長を侮った周囲の敵対勢力は、油断しきってしまい、信長に滅ぼされています。
信長は、わざと「バカなふり」をしていたのです。
信長の「バカなふり」は、周囲をあざむくための芝居でした。
ところが「信勝」はというと、大人に気に入られるために、ほめられるために行儀よくしただけの、とても底の浅い考えしかなかったのです。
自分の頭で考えた「信長」と、人にいわれるままに動いた「信勝」。
この逸話からしても、信勝の能力には、限界があったと言わざるを得ません。
信勝が暗殺されたのは、「能力が低かった」、つまり「無能だったから」といって良いでしょう。
少しでも自分の頭で考える能力があったら、一度謀反に失敗したら、おとなしく従うはずですからね。
「明智光秀」と「織田信勝」の知られざる関係
実は、「明智光秀」と「織田信勝」の間には、知られざる接点があります。
とはいえ、2人が顔を合わせたことはないと思います。
間接的に接点があるのです。
実は「明智光秀」の四女が、「織田信勝」の息子「津田信澄」に嫁いでいるのです。
つまり「明智光秀」にとって、信勝の息子「信澄」は、娘婿ということです。
実は「信勝」が暗殺されたあとも、信勝の息子「信澄」は、信勝を殺害した伯父「織田信長」によって、大切に保護されたのです。
そして信長は、成長した甥「信澄」を、重く用いたのでした。
「津田信澄」は、織田家でもっとも力を持っていた重臣「明智光秀」と婚姻関係を結んだだけではありません。
さらには信長の三男「信孝」が「四国遠征軍・司令官」に任命されると、「津田信澄」は織田家重臣「丹羽長秀」とともに、「信孝」の副将に任命されているのです。
信長が、どれほど「信澄」を信頼していたかが、わかります。
ところが、この三男「信孝」と「津田信澄」が「四国遠征軍」として出陣する前日の、【天正10年(1582年)6月2日】、悲劇が起こります。
「本能寺の変」です。
なんと「津田信澄」の義父「明智光秀」が、「本能寺」で、「信孝」の父「織田信長」を襲撃し討ち取ってしまうのです。
これに激怒した「織田信孝」と「丹羽長秀」は、副将であった「津田信澄」を襲撃し、有無を言わせずに討ち取ってしまいます。
「信孝」と「丹羽長秀」は、「津田信澄」を「明智光秀の共犯者」とみなしていたのです。
信澄が、義父「明智光秀」に協力して「信長」を裏切っていたかどうかは、実は全くわかっていません。
「津田信澄」は、「明智光秀の裏切り」とは、全く無関係だった可能性すらあるのです。
おそらく「丹羽長秀」と「織田信孝」は、こう考えたのでしょう。「津田信澄」の父「信勝」が、「織田信長」に暗殺されているため、「津田信澄」が父の仇を討つ目的で、「明智光秀」に協力しているに違いない、と。
津田信澄は、父「信勝」を殺した伯父「織田信長」のお気に入りでした。
もしかすると、津田信澄は、無実の罪を着せられて討たれたのかもしれません。
「津田信澄」と「明智光秀の四女」の「子孫」については、以下のリンク記事にて簡単に解説しております。
実は、「信澄」と「光秀の四女」の子孫は、その後も続いていたようなのです。
織田信長の弟「有楽斎」と、東京の深い関係
織田信長の弟で、茶人の「織田有楽斎(長益)」といえば、東京「有楽町」の名前の由来となっていると噂の人物です。
しかし、この「有楽斎の名前が、有楽町の由来」という説は、どうやらガセである可能性が高いのだとか。
東京・有楽町が、「有楽町」という名前で呼ばれたのは「明治」になってから。
つまり、「有楽斎」が亡くなってから、200年以上も経過したあとのことです。
「有楽町は織田有楽斎の屋敷があったから、有楽町と呼ばれた」という説が噂されていますが、そもそも「有楽斎」は、江戸に住んだことがありません。
有楽町のお隣を「永楽町」と呼んでいたらしいので、おそらく「縁起の良い名前」ということで、付けられたのでしょう。
2017年現在、「有楽町一丁目二丁目」の人口は、「18名」だそうです。
ちなみに、大阪には、「有楽斎が住んだ場所」が「有楽町(うらくちょう)」という名前で呼ばれ、現在でも「有楽」という名前が建物などに付けられて残っています。
信長の弟は僧侶になっていた?信長を埋葬した僧「清玉上人」
織田信長が【1582年】に「本能寺の変」で亡くなると、京都「阿弥陀寺」の僧侶「清玉上人」が、信長の遺体を密かに「阿弥陀寺」へ埋葬したと言い伝えられています。
清玉上人は、言い伝えによると、「信長の弟」といわれているのだとか。
子沢山だった信長の父「信秀」のことですから、ありえない話ではないですが・・・。
どうやら、「清玉上人」の母親が、尾張で生活しており、産気づいたところを織田家の人間に救われたのだとか。
清玉上人の母は、出産直後に亡くなり、これ以降「清玉上人」は、13歳になるまで、「織田家」で信長とともに兄弟同然に育てられたようですね。
そして13歳で「興福寺」へ出家。
19歳で京都「阿弥陀寺」の住職になっています。
清玉上人は、幼い頃の「織田信長」からの恩を返す目的で、信長を救出するために「本能寺の変」が起きたとき、本能寺へ走ったのでしょう。
明智軍は、信長をとり逃さないために、敵が見えない夜が明けるまで、攻撃を待っていました。
そこへ清玉上人が、おそらく「本能寺の僧侶」を装って、寺へ侵入。
すると信長の家来(おそらく黒人武将の「弥助」)が、信長の首を火葬にしていたのです。
清玉上人が、その信長の家来にたずねると、「信長から、敵に信長の遺体を渡すな、と言われた」とのこと。
そして清玉上人は、彼らから信長の遺骨をゆずりうけて、再び「本能寺の僧侶」のふりをして本能寺から逃亡。
阿弥陀寺で信長の遺骨を埋葬したのでした。
おそらく、火葬された信長の遺体というのは、「信長の胴体」ではなく、「首のみ」だったのでしょう。
清玉上人は、「信長」のみならず、嫡子「信忠」や、小姓の「森蘭丸・坊丸・力丸」の兄弟も埋葬。
自らの墓も「阿弥陀寺」に残し、現在も京都「阿弥陀寺」で眠っています。
黒人武将「弥助」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,織田信長には、20人以上の兄弟がいた。最も有名なのは、暗殺された弟「信勝(信行)」と、「お市の方」だろう
2,信長が弟「信勝」を暗殺した理由は、信勝が何度も信長に謀反を起こしたから。信勝は無能な人間だった
3,信長の弟「織田有楽斎」の名前が、「有楽町」の由来という噂があるが、可能性は低い
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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ありがとうございました。
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