織田信長の「美濃攻略」を年表で解説!美濃攻めにおける意外な戦略とは

この記事では「織田信長」の「美濃攻略戦」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長が、どのようにして美濃攻めを成功させたのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「用意周到に、慎重に美濃攻めをすすめ、ゆっくりと勝利を手に入れていった」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」は、なぜ「美濃国の攻略」を開始したのか?
【1556年】に「長良川の戦い」で敗死した義父「斎藤道三」が、「織田信長」にたいして、「美濃国をゆずる」という遺言状を残していたため
2,「信長」の「美濃攻略」は、いつ始まり、いつ終わったのか?
【1561年】、美濃国の支配者「斎藤義龍」が病死すると、信長は「美濃攻略」を開始し、【1567年】に「稲葉山城」を陥落させて、美濃国の制圧することに成功した
3,「美濃攻略」は、どのように進んだのか?
信長はまず「外交戦略」で「美濃・斎藤家」を孤立させ、次に「内部分裂」を起こさせて裏切り者を出させたあとで開戦し、勝利している。
目次
織田信長が「美濃攻略」にこだわった理由!義父「斎藤道三」の遺言状
織田信長が、自分の領地「尾張国」のとなりにある「美濃国」の攻略を開始し、7年もかけたのは、なぜなのでしょうか?
実は、信長が「美濃国」の攻略にこだわった理由があるのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
その理由とは、妻「帰蝶(濃姫)」の父「斎藤道三」からの遺言があったからです。
【1556年】、「斎藤道三」は「長良川の戦い」で敗北し、息子「斎藤義龍」に討たれています。
信長の義父「斎藤道三」は、死の間際に、一つの遺言状を残しているのです。
「娘婿である織田信長に、美濃国をゆずる」
という、通称「国譲り状」が、現在も残っています。(大阪城天守閣・京都の妙覚寺に現存している)
信長は、この「斎藤道三」からの「国譲り状」があったからこそ、「美濃国」攻略を最優先におこなったのです。
「斎藤道三の最期」については、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の「美濃攻め」を年表で解説!
「織田信長」の「美濃攻略」を、年表でわかりやすく解説いたします。
信長が「美濃攻め」を本格的に開始したのは【1561年】からです。
信長は【1561年】から【1567年】までの7年間をかけて、美濃国を攻略しているのです。
【1560年】
「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討伐
【1561年】
斎藤道三を討ち果たした「帰蝶」の兄「斎藤義龍」が病死。嫡子「斎藤龍興」が家督を継承
「義龍」が病死すると、「信長」は美濃国へ侵攻し、勝利。(森部の戦い)
「墨俣」へ砦をつくり、ここを「美濃攻略」の前線基地とする。(墨俣城は【1566年】に築城されたともいわれているが、【1561年】に信長は墨俣に陣取っている)
【1562年】
三河国の「松平元康(徳川家康)」と「清洲同盟」を結び、「今川氏真」から背後を攻撃される危険性を除く
【1563年】
「新加納の戦い」で「斎藤龍興」に敗北する。
「小牧山城」を築城し、「清州城」から拠点を移動する
【1564年】
美濃国の西に位置する「南近江国」の武将「浅井長政」と同盟を結び、妹「お市の方」を嫁がせる(婚姻は【1567年】または【1568年】とする説もある)
美濃国の東に位置する「信濃国」を支配していた「武田信玄」とも、婚姻関係を結んで同盟を締結する。
「斎藤龍興」が、家臣の「竹中半兵衛重治」と「安藤守就」に裏切られ、居城「稲葉山城」を奪われる。
半年後、「斎藤龍興」が「稲葉山城」を奪還。
【1565年】
尾張国「犬山城」の城主で、「斎藤家」に味方していた「織田信清」に勝利。
これにより「尾張国」統一に成功。
美濃国「鵜沼城(うぬまじょう)」と「猿喰城(さるばみじょう)」を陥落させる。
加治田城の城主「佐藤忠能」が、斎藤家から「織田信長」に寝返る。
「堂洞城(どうぼらじょう)」、「関城」を陥落させる。
【1566年】
「河野島の戦い」で「織田信長」が「斎藤龍興」に敗北する
【1567年】
「稲葉山城の戦い」、「西美濃三人衆」と呼ばれた「稲葉良通」「安藤守就」「氏家直元」が信長に寝返り、稲葉山城が陥落する。
「斎藤龍興」は城の目の前にあった「長良川」を下って、「伊勢国」の「長島」へ逃亡。
信長はこの「稲葉山城」を居城とし、軍師「沢彦宗恩」の案に従って「岐阜城」と改名した。
「斎藤義龍」については、以下のリンク記事をどうぞ。
短期決戦ではなく、ジワジワ外堀を埋め続けた「信長の戦略」
織田信長といえば、「気が短い」、「虐殺もためらわない」、「恐怖の魔王」というイメージがあると思います。
とにかく「スピード重視」。「桶狭間の戦い」のように、敵総大将の首だけを目標に、一瞬で勝敗を決するような人物だと思われがちです。
しかし「美濃攻略」に関して、信長はとてつもなく慎重で、用意周到です。
まず信長は、「外交戦略」を駆使して、味方を増やし、「美濃国・斎藤龍興」を孤立させています。
尾張国からみると「美濃国」の反対側に位置していた「三河国・徳川家康」と同盟を結んで、防備を強化。
美濃国のとなりに位置していた「南近江国・浅井長政」と「信濃国・武田信玄」と同盟を締結し、美濃国を包囲。
そして「敵から裏切り者を出させるため」に、内部分裂の策略を次々と繰り出ししています。
信長は「桶狭間の戦い」で、総大将「今川義元」の首だけを狙って、一瞬で戦いを終わらせています。
そのため、「短期決戦が得意である」と思われがちです。
しかし実際には、信長は用意周到で慎重、用心深い戦い方を実践しています。
- 外堀を埋める
- 裏切り者を出させる
- 勝利が決定的になってから戦いを始める
この順番で、確実に相手を弱らせています。
それでも「美濃国攻略」には、「7年」もの歳月がかかっているのです。
信長は「美濃攻め」においては、「外堀を埋める」という戦い方を採用し、被害を最小限に抑えて勝利しています。
「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事をどうぞ。
美濃国を制圧した後、一気に飛躍した「織田信長」のその後
【1567年】、「美濃国」を支配したあとの「織田信長」は、それまでの慎重な戦い方から一転して、一気に勢力拡大に動き出します。
【1568年】、信長は「永禄の変」で暗殺された征夷大将軍「足利義輝」の弟である「足利義昭」を連れて、「義輝の仇討ち」という名目で京都へ進軍(上洛)。
「義輝」を暗殺した仇である「三好三人衆」を京都から追放し、京都周辺を一気に支配下におくのです。
ここから、信長は天下統一へ飛躍することとなるのです。
信長はまず、当時最大の商業都市であり貿易都市だった「堺」や、水運の中心地「大津」「草津」を直接支配し、圧倒的な財力を手に入れます。
この財力を駆使して、信長は「物量作戦」を開始。
凄まじい数の軍団を組織して、「鉄砲」や「大砲」、「鉄甲船」などの最新兵器で他国を圧倒。
【1582年】には、その勢力範囲を、わずか14年間で、「中国地方」から「関東地方」にまで拡大するのです。
【1582年6月21日(天正10年6月2日)】、織田信長は、もっとも信頼していた部下「明智光秀」に裏切られ「本能寺」で戦死。(本能寺の変)
あと2~3年もあれば、天下統一に成功していたはずの「信長」。
本当にあと一歩のところで、命を落としたのです。
「織田信長の年表」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」が美濃攻略にこだわった理由は、【1556年】に「長良川の戦い」で敗死した義父「斎藤道三」が、「織田信長」にたいして、「美濃国をゆずる」という遺言状を残していたため
2,「信長」の「美濃攻略」は、【1561年】、美濃国の支配者「斎藤義龍」が病死すると同時に始まり、【1567年】に「稲葉山城」を陥落させて終了した
3,信長はまず「外交戦略」で「美濃・斎藤家」を孤立させ、次に「内部分裂」を起こさせて裏切り者を出させたあとで開戦し、勝利している。
以上となります。
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ありがとうございました。
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