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織田信長の年表を簡単に解説!小学生もわかる「何をした人?」

織田信長は戦国時代に日本の統一へ大きく近づいた武将です。

尾張の小さな大名から始まって、桶狭間の戦いで今川義元を破り、天下布武のスローガンのもと京都へ進出しました。

楽市楽座で経済を活性化させ、長篠の戦いで鉄砲を効果的に使い、比叡山焼き討ちなど大胆な行動で戦国時代の常識を次々と打ち破りました。

しかし本能寺の変で明智光秀に裏切られ、49歳の生涯を閉じています。

信長がしたことは、戦い方や経済の仕組みを変え、天下統一への道筋を作ったことなのです。

この記事のポイント
  • 織田信長の年表を小学生にもわかりやすく時系列で整理
  • 桶狭間・長篠・本能寺など有名な戦いの真実を簡単に解説
  • 信長が何をした人なのか、業績や性格がひと目でわかる
  • 教科書の定説と最新研究の違いも小学生向けに紹介
目次

織田信長とは何をした人?「3つのすごい革命」を簡単に解説

革命の種類具体的な内容その影響
戦い方の革命鉄砲の大量導入と兵農分離武士が専業化して強くなった
経済の革命楽市楽座で自由に商売城下町が発展し経済が豊かに
人事の革命実力主義で家来を選ぶ豊臣秀吉など優秀な人材が活躍

戦い方を変えた!「鉄砲」の大量運用と「兵農分離」

織田信長が戦国時代に革命を起こした第一の理由は、戦い方そのものを根本から変えたからです。それまでの戦いは、農民が農作業の合間に戦場へ駆り出される、いわば季節労働のような側面がありました。春に田植え、秋に収穫をする農民たちは、その合間にしか戦えなかったのです。

信長は家来たちを農業から完全に切り離し、一年中戦える職業軍人にしました。これを兵農分離といいます。

兵農分離によって織田軍は、敵が農繁期で動けないタイミングでも攻撃できるようになりました。また、専業の武士は訓練時間が増えるため、戦闘技術も向上します。さらに信長は、当時まだ珍しかった鉄砲を大量に購入し、家来たちに持たせました。特に有名なのが長篠の戦いで、織田・徳川連合軍が武田軍を破ったときには、3000丁もの鉄砲を集めたと伝えられています。

鉄砲は一発撃つのに時間がかかるという弱点がありましたが、信長は馬防柵という柵を作り、その後ろから安全に敵を狙い撃ちする戦法を使いました。これにより、戦国最強といわれた武田騎馬隊でさえ、織田軍の前に敗れ去ったのです。


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経済を変えた!「楽市楽座」と「関所撤廃」による自由市場

信長の革命は戦場だけではありません。経済の仕組みも大きく変えました。それが楽市楽座という政策です。

それまでの日本では、商人が商売をするには座という組合に入り、高い会費を払う必要がありました。座に入れない人は商売ができなかったため、新しい人が参入しにくく、物の値段も高止まりしていたのです。

信長は楽市楽座令を出して、座の特権を廃止しました。誰でも自由に商売できるようになったことで、城下町には多くの商人が集まり、経済が活性化しました。岐阜や安土といった信長の城下町は、たちまち賑やかな商業都市へと成長していきます。

実は楽市楽座は信長のオリジナルではなく、近江の戦国大名・六角定頼が先に実施していました。信長はそれを真似して、より大規模に展開したのです。

さらに信長は、領内の関所を次々と撤廃しました。関所では通行料が取られるため、商人たちにとっては大きな負担でした。関所を無くすことで、物資の流通がスムーズになり、経済はますます発展しました。信長の領地は豊かになり、その富で強力な軍隊を養うことができたのです。

常識を変えた!身分にとらわれない「実力主義」の人事制度

信長の三つ目の革命は、人の使い方です。戦国時代といえども、まだ家柄や血筋が重視される時代でした。しかし信長は、家柄よりも実力を重視するという、当時としては画期的な人事を行いました。

最も有名な例が豊臣秀吉です。秀吉は農民の出身で、最初は信長の草履取りという雑用係でした。しかし信長は秀吉の才能を見抜き、次々と出世させました。秀吉は墨俣一夜城の築城や、中国地方の攻略など、数々の功績を上げ、最終的には天下人にまで上り詰めたのです。

家臣の名前出身・身分信長から与えられた役割
豊臣秀吉農民出身中国方面軍司令官
明智光秀浪人近畿方面軍司令官
柴田勝家織田家の古参北陸方面軍司令官
滝川一益忍者の一族関東方面軍司令官

他にも、明智光秀は浪人から取り立てられ、近畿方面の総大将にまで昇進しました。信長は部下の能力を正当に評価し、それに見合った役職と報酬を与えたのです。このような実力主義の組織は、他の戦国大名よりも優秀な人材が集まりやすく、織田軍団の強さの秘密となりました。


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【年表1:誕生〜家督相続】「尾張の大うつけ」と呼ばれた少年時代(1534年〜1559年)

織田信長
引用元「Wikipediaコモンズ」より
信長の年齢主な出来事
1534年0歳尾張国で誕生。幼名は吉法師
1546年13歳元服して織田信長と名乗る
1548年15歳美濃の斎藤道三の娘・帰蝶と結婚
1551年18歳父・信秀が死去。家督を継ぐ
1556年23歳弟・信行を暗殺し尾張をほぼ統一

1534年誕生:父・信秀と母・土田御前の期待と幼名「吉法師」

天文3年、織田信長は尾張国の勝幡城、あるいは那古野城で生まれたとされています。父は織田信秀という尾張の有力な戦国大名で、母は土田御前という女性でした。信長の幼名は吉法師といい、信秀には多くの子供がいましたが、吉法師は嫡男として期待されていました。

織田信秀は当時、尾張国内でもトップクラスの勢力を持っていましたが、尾張全体を支配していたわけではありませんでした。尾張は複数の織田一族が分裂して争っており、さらに隣国の美濃からは斎藤道三が、東からは今川義元が圧力をかけてくる、厳しい状況だったのです。

父・信秀は非常に優秀な武将で、経済力も軍事力も高い人物でした。朝廷に多額の寄付をして、天皇から官位をもらうなど、中央との繋がりも重視していました。幼い吉法師、のちの信長は、そんな父の背中を見ながら育っていきます。

信長の生まれた年は1534年が有力ですが、1533年説もあります。当時は暦の数え方も曖昧で、記録によって違いがあるのです。

奇抜なファッションと行動?「うつけ」と呼ばれた真意とは

信長は元服して織田信長と名乗るようになってからも、周囲からはうつけ者(バカ者)と呼ばれていました。なぜなら、その格好と行動があまりにも奇抜だったからです。

信長は髪を茶筅髷という変わった形に結い、半袴という短いズボンのような服を着て、腰には瓢箪をいくつもぶら下げて城下を歩き回っていました。武士としてはとても真面目には見えない格好で、家来たちも心配していました。父・信秀もこのままでは織田家の将来が危ういと嘆いたと伝えられています。

しかし最近の研究では、信長のうつけ振りは計算された演技だった可能性が指摘されています。

わざと「バカなふり」をしていた天才的な戦略

信長があえてうつけを演じていた理由は、敵に油断させるためだったのではないかという説があります。織田家は強大な今川家や斎藤家に囲まれており、もし信長が優秀すぎると見られれば、早めに潰されてしまう危険性がありました。

そこで信長は、わざと愚か者のふりをすることで、敵に警戒されないようにしたのではないかというのです。実際、信長は裏では領民と触れ合い、情報を集め、家臣たちの性格を見抜くなど、将来のリーダーとしての準備を着々と進めていました。

また、うつけの格好で城下を歩くことで、城下町の商人や農民と直接話をすることができました。これは当時の武士にしては珍しい行動で、民衆の暮らしを知ることが、のちの楽市楽座などの政策に繋がったとも言われています。


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1551年父の死:位牌に抹香を投げつけた有名な事件の背景

天文20年、織田信秀が病死しました。信長は18歳で織田家の家督を継ぐことになります。父の葬儀が盛大に行われ、多くの家臣や親族が集まりました。

そこで事件が起きます。信長は葬儀の場に、例のうつけスタイルで現れました。しかも父の位牌に向かって抹香をわしづかみにして投げつけたというのです。周囲は唖然とし、これでは織田家は終わりだと嘆く者もいました。

位牌に抹香を投げつけるという行為は、現代で言えば葬式で騒ぐようなもので、とんでもない非常識な行動でした。

信長の本当の気持ち:悲しみの裏返しだった?

しかし、この行動にも深い意味があったという解釈があります。信長は父・信秀を心から尊敬していました。その父が亡くなった悲しみを、普通の形で表現できなかったのかもしれません。また、家臣たちの中には信長を侮る者もおり、そうした人々を試す意味もあったという説もあります。

実際、信長の教育係だった平手政秀という重臣は、信長のうつけ振りを止められなかった責任を感じて自害しています。その死を知った信長は、政秀のために立派な寺を建てて供養しました。このことから、信長は決して無情な人間ではなく、むしろ感情を内に秘めるタイプだったことが分かります。

位牌に抹香を投げつけたのも、悲しみを抑えきれない若き信長の、不器用な感情表現だったのかもしれません。

弟・信行との骨肉の争いと尾張統一への苦難の道のり

父・信秀の死後、織田家は分裂の危機を迎えます。信長の弟・織田信行が、兄に不満を持つ家臣たちに担がれて、信長に対抗する勢力を作り始めたのです。

母の土田御前も、うつけ者の信長よりも、真面目な信行のほうを気に入っていました。信長は家督を継いだものの、家臣の半分は弟・信行を支持するという、非常に不安定な立場にありました。

弘治2年、ついに両者は刃を交えることになります。稲生の戦いと呼ばれるこの戦いで、信長は弟・信行の軍を撃破しました。しかし信長はこの時、弟を許して和解します。

しかし信行は再び謀反を企てます。信長はこれを察知し、病気を装って信行を城に呼び寄せ、暗殺してしまいました。

この決断は冷酷とも思えますが、織田家を一つにまとめるためには避けられない選択でした。弟の死によって、織田家の内紛は終わり、信長は尾張をほぼ統一することに成功したのです。

尾張統一への道のりは、信長にとって家族との決別でもありました。母からは嫌われ、弟を殺さなければならなかった信長の心中は、想像を絶する苦しみだったに違いありません。しかし信長は、感情よりも織田家の未来を優先する決断をしたのです。


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【年表2:飛躍】桶狭間の戦いと「天下布武」の始まり(1560年〜1567年)

織田信長の肖像
引用元「Wikipediaコモンズ」より
信長の年齢主な出来事
1560年27歳桶狭間の戦いで今川義元を討つ
1562年29歳徳川家康と清洲同盟を結ぶ
1567年34歳稲葉山城を攻略し岐阜城と改名
1567年34歳天下布武の印章を使い始める

1560年桶狭間の戦い:2万5千の今川軍をどう破ったのか?奇襲説の真実

永禄3年5月19日、織田信長の人生を変える大勝負が訪れます。それが桶狭間の戦いです。駿河、遠江、三河を支配する大大名・今川義元が、2万5千とも言われる大軍を率いて尾張へ侵攻してきたのです。

一方、信長が動員できた兵はわずか3千から5千程度でした。兵力差は5倍以上。誰もが織田家の滅亡を覚悟しました。しかし信長は諦めませんでした。

通説:迂回奇襲で敵を油断させた?

長い間、桶狭間の戦いでの勝因は、信長が敵の背後に大きく迂回して、油断していた今川義元を奇襲したからだと信じられてきました。教科書にもそう書かれていました。

義元は窪地で休憩しながら酒を飲んでおり、突然現れた信長軍に驚いて討ち取られた、というドラマチックなストーリーです。これは江戸時代に書かれた軍記物が元になっており、明治時代に陸軍が奇襲戦の手本として採用したことで、定説となりました。

最新説:実は正面から突撃していた!

しかし現在の研究では、迂回奇襲説はほぼ否定されています。信長の家臣が書いた信長公記という信頼できる記録には、迂回したとは一言も書かれていないのです。

最新の研究によれば、信長は正面から今川本陣に向かって突撃したと考えられています。義元の本陣は窪地ではなく、おけはざま山という丘の上にありました。義元は油断などしておらず、ちゃんと前衛部隊を配置して警戒していました。

比較項目従来の定説最新学説
信長の進路敵の目を盗んで大きく迂回敵の正面から堂々と接近
義元の本陣位置低地・窪地丘陵地(おけはざま山)
義元の状況酒宴を開き油断前衛を配置し戦闘態勢
勝因敵の油断と偶然天候急変を利用した一点突破

勝利の秘密:豪雨と情報戦

では信長はどうやって勝ったのでしょうか。ポイントは二つあります。

一つ目は天候です。戦いの直前、激しい豪雨が降りました。雨の中、信長は善照寺砦という場所から今川軍の様子をじっと見ていました。そして雨が止んだ瞬間、視界が開けたタイミングで、今川本陣に向けて全力で突撃を命じたのです。

雨上がりの直後は、兵士たちが一瞬気を抜くタイミングです。その隙を見逃さず、信長は一点集中で攻撃を加えました。突然至近距離から襲い掛かってきた織田軍に、今川軍の前衛は大混乱に陥り、その混乱が本陣まで波及しました。義元は逃げようとしましたが、追いつかれて討ち取られてしまったのです。

二つ目は情報収集力です。信長は今川軍の動きを常に監視しており、義元本陣の正確な位置を把握していました。敵の主将がどこにいるかを知らなければ、一点突破作戦は成功しません。信長の勝利は、偶然の奇襲ではなく、高度な情報戦と一瞬の判断力によるものだったのです。


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徳川家康との「清洲同盟」はなぜ戦国最強の同盟になれたのか

徳川家康
引用元「Wikipediaコモンズ」より

桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、義元に従っていた松平元康(のちの徳川家康)は独立のチャンスを得ました。元康は三河国の岡崎城を取り戻し、織田信長と同盟を結ぶことにしました。これが清洲同盟です。

清洲同盟は永禄5年に結ばれ、信長が本能寺の変で死ぬまでの20年以上、一度も破られることのなかった、戦国時代屈指の強固な同盟でした。

なぜこの同盟は長続きしたのでしょうか?それは両者の利害が完全に一致していたからです。

お互いに背後を守り合う完璧な関係

信長は美濃や京都を目指して西へ進出したいと考えていました。しかし東から攻められたら困ります。一方、家康は三河を固めて勢力を広げたいが、西の織田に攻められたら危険です。

そこで両者は、お互いに背後を守り合うという約束をしました。信長は東を家康に任せて安心して西へ進め、家康は西を信長に任せて東の武田家と戦うことができました。この完璧な役割分担が、同盟を長続きさせた秘訣なのです。

さらに両者は、相手を裏切って得られる利益よりも、協力して得られる利益のほうが大きいことを理解していました。これは戦国時代には珍しい、理性的で合理的な関係でした。信長と家康の友情は、感情ではなく論理に基づいていたからこそ、強かったのです。

1567年美濃攻略:「稲葉山城」を落とし「岐阜」と命名した理由

桶狭間の戦い以降、信長は隣国の美濃を攻略する作戦に集中します。美濃は斎藤道三が築いた強国でしたが、道三の死後、息子の斎藤義龍、さらにその息子の斎藤龍興へと継承されていました。

信長は何度も美濃へ侵攻しますが、稲葉山城という堅固な山城に阻まれて苦戦が続きました。しかし永禄10年、ついに信長は稲葉山城を攻め落とすことに成功します。

岐阜という名前に込めた大きな野望

城を手に入れた信長は、稲葉山城を岐阜城と改名しました。この岐阜という名前には、信長の大きな野望が込められています。

岐阜の岐は、中国の周の文王が岐山から天下統一を始めたという故事から取られています。阜は孔子の生まれた曲阜から来ています。つまり岐阜とは、ここから天下統一を始めるという宣言だったのです。

美濃を手に入れたことで、信長の領地は尾張と美濃の二か国となり、兵力も経済力も大幅に増強されました。さらに美濃は京都へ続く街道の要所でもあり、天下へ進出する絶好の拠点でした。信長はここを本拠地として、いよいよ京都を目指す準備を整えたのです。


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有名なハンコ「天下布武」に込められた本当の願い

岐阜城を手に入れた信長は、この頃から天下布武という印章を使うようになりました。天下布武とは、文字通り天下に武を布く、つまり武力によって天下を統一するという意味に見えます。

しかし最新の研究では、天下という言葉の意味について、従来とは違う解釈が提示されています。

天下とは日本全国ではなく京都周辺だった?

戦国時代の史料において、天下という言葉は必ずしも日本列島全体を指していたわけではありませんでした。多くの場合、天下とは京都を中心とする五畿内、つまり山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国を意味していました。

つまり信長が最初に掲げた天下布武の真意は、京都周辺に室町幕府の秩序を武力で回復させるという、保守的な目標だった可能性があります。信長はこののち足利義昭を奉じて京都へ上洛しますが、これはまさに天下布武の実行だったのです。

ただし、のちに信長が室町幕府を滅ぼし、自ら天下人として振る舞うようになると、天下の意味も拡大していきました。天下布武は、時代とともに意味を変化させていった、動的なスローガンだったと言えるでしょう。


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【年表3:激闘】将軍・足利義昭との対立と「信長包囲網」(1568年〜1574年)

信長の年齢主な出来事
1568年35歳足利義昭を奉じて京都へ上洛
1570年37歳金ヶ崎の退き口、姉川の戦い
1571年38歳比叡山延暦寺焼き討ち
1573年40歳足利義昭を追放し室町幕府滅亡
1573年40歳浅井・朝倉氏を滅ぼす

1568年上洛:足利義昭を奉じて京都へ進軍した狙い

美濃を手に入れた信長のもとに、一人の人物が助けを求めてやってきました。それが足利義昭です。義昭は室町幕府の第15代将軍候補でしたが、兄の将軍が三好三人衆に暗殺され、自身も命を狙われて逃げ回っていました。

義昭は信長に、自分を将軍にして京都を奪回してほしいと頼みました。信長はこの申し出を受け入れ、永禄11年、大軍を率いて京都へ進軍しました。これを上洛といいます。

なぜ信長は義昭を助けたのでしょうか?それは将軍という権威を利用して、全国の大名に命令する権限を手に入れるためでした。

将軍をかついで日本を動かす戦略

当時の日本には、まだ室町幕府の権威が残っていました。たとえ実力がなくても、将軍の命令という形式を取れば、他の大名も従わざるを得ない面がありました。信長は義昭を将軍にすることで、将軍の権威を借りて自分の意思を通す戦略を取ったのです。

上洛は成功し、義昭は無事に第15代将軍に就任しました。しかし次第に、義昭と信長の関係に亀裂が入り始めます。義昭は名実ともに将軍として権力を振るいたいと考えていましたが、信長は義昭をあくまで名目上の存在として扱いました。

義昭は信長に対して不満を募らせ、やがて信長を倒すための大規模な同盟を結成します。これが信長包囲網です。


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1570年金ヶ崎の退き口:妹・お市と浅井長政の裏切り、そして撤退戦

元亀元年、信長は越前の朝倉義景を討つため、大軍を率いて北陸へ進軍しました。ところが戦いの最中、信長に衝撃的な知らせが届きます。それは同盟者であるはずの浅井長政が裏切ったという報告でした。

浅井長政は信長の妹・お市を妻にしており、信長とは親戚関係にありました。しかし長政は、朝倉家との古い同盟を優先し、信長を背後から攻撃することを決めたのです。

織田軍、絶体絶命の大ピンチ

信長の軍は、前方に朝倉軍、後方に浅井軍という、完全な挟み撃ちの状態に陥りました。このまま戦えば全滅は確実です。信長は即座に撤退を決断しました。これが金ヶ崎の退き口と呼ばれる、信長最大の危機でした。

撤退戦において、豊臣秀吉と明智光秀が殿軍を務めました。殿軍とは、退却する味方を守るため、最後尾で敵を食い止める役目です。非常に危険な任務ですが、秀吉と光秀の活躍により、信長は無事に岐阜へ逃げ帰ることができました。

伝説によれば、お市は長政の裏切りを密かに信長に知らせたとされています。袋の両端を縛った小豆袋を送ることで、挟み撃ちを暗示したという逸話です。

姉川の戦いと比叡山焼き討ち:なぜ神仏を敵に回して焼き払ったのか

金ヶ崎から帰還した信長は、すぐさま反撃に転じました。元亀元年6月、浅井・朝倉連合軍と姉川で激突しました。これが姉川の戦いです。

この戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりましたが、浅井・朝倉軍を完全には倒せませんでした。さらに信長包囲網によって、武田信玄、本願寺、三好三人衆など、多くの敵が同時に攻めてくる状況になりました。

その中でも信長が特に問題視したのが、比叡山延暦寺でした。延暦寺は日本仏教の総本山とも言える権威ある寺院でしたが、浅井・朝倉軍に味方し、武器や兵糧を提供していたのです。

全山焼き討ちの真相:虐殺か、それとも演出か?

元亀2年9月、信長は比叡山を攻撃し、堂塔伽藍を焼き払い、僧侶や民衆を殺害したとされています。これが比叡山焼き討ちです。信長の残虐性を象徴する事件として、長く語り継がれてきました。

しかし最近の発掘調査では、意外な事実が明らかになっています。比叡山全体で大規模な火災の痕跡が見つかっておらず、焼かれたのは主要な建物の一部に限られていた可能性が高いのです。また、数千人が殺されたとされていますが、そのような大量の人骨は発見されていません。

視点従来の通説最新の研究成果
被害規模全山焼失、数千人虐殺限定的な火災、人骨の出土なし
対象山上の堂塔伽藍すべて麓の坂本周辺および主要施設のみ
信長の意図宗教の否定、感情的な報復敵対勢力の武装解除、見せしめ効果

では、なぜ皆殺しと伝わっているのでしょうか。それは信長が意図的に、恐怖を広める情報操作を行ったからだと考えられています。神仏をも恐れぬ魔王というイメージを広めることで、他の敵対勢力を心理的に威嚇したのです。

実際の被害は、敵対した僧兵や、麓の坂本に住んでいた浅井・朝倉の支援者たちが中心で、比叡山全体が灰になったわけではありませんでした。信長の焼き討ちは、狂気の暴走ではなく、計算された政治的テロルだったのです。

1573年室町幕府滅亡:義昭追放と「信長包囲網」崩壊の瞬間

信長と足利義昭の対立は、ついに決定的な段階を迎えます。義昭は信長を倒すため、武田信玄や本願寺と連絡を取り合い、全国に信長討伐の命令を出しました。しかし義昭自身には軍事力がなく、京都の二条御所に立てこもるしかありませんでした。

元亀4年、信長は京都へ攻め込み、義昭を追放しました。義昭は京都から逃げ出し、室町幕府は事実上滅亡しました。約240年続いた室町幕府が、ここに終わりを告げたのです

義昭追放の年、信長を最も苦しめていた武田信玄が病死しました。これにより信長包囲網は一気に力を失います。

同年、信長は浅井・朝倉両軍を滅ぼすことにも成功しました。浅井長政は自害し、朝倉義景も討たれました。信長は裏切った長政への怒りから、長政の髑髏を盃にして酒を飲んだという、恐ろしい逸話も伝わっています。

信長包囲網は崩壊し、信長の勢いは止まらなくなりました。この時点で、信長は名実ともに日本最強の戦国大名となったのです。


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【年表4:絶頂】長篠の戦いと安土城築城(1575年〜1581年)

信長の年齢主な出来事
1575年42歳長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576年43歳安土城の築城を開始
1580年47歳石山本願寺が降伏し10年戦争終結
1581年48歳京都で盛大な御馬揃えを開催

1575年長篠の戦い:武田騎馬隊を封じた「鉄砲三段撃ち」は実在したか

天正3年、織田・徳川連合軍は、三河の設楽原で武田勝頼軍と激突しました。これが長篠の戦いです。武田軍は信玄亡き後も戦国最強と恐れられており、その騎馬隊は他の追随を許さないとされていました。

この戦いで信長が用いたとされるのが、鉄砲三段撃ちという戦法です。3000丁の鉄砲を三列に並べ、一列目が撃つ間に二列目が装填し、三列目が狙いを定める。こうして途切れることなく弾幕を張り、武田騎馬隊を壊滅させたという物語です。

長年、教科書にも載っていたこの戦法ですが、現在では三段撃ちは後世の創作である可能性が極めて高いとされています

三段撃ちが創作である理由

まず、信長公記には鉄砲の数は千挺ばかりと書かれており、3000丁という記録はありません。また、三段に分かれて交代で撃ったという具体的な記述も一切ないのです。三段撃ちの描写が登場するのは、江戸時代に書かれた軍記物が初めてです。

さらに、当時の火縄銃は発射後の清掃、火薬の装填、弾丸の装填、火縄の調整など、20秒から30秒以上かかる手順が必要でした。戦場の混乱の中で、数千人の兵士が整然と列を入れ替えながら射撃を続けることは、技術的に非常に困難だったと考えられています。

では、織田軍はどうやって勝ったのでしょうか?最新の研究では、馬防柵と火力集中が勝因だったとされています。

本当の勝因:馬防柵という野戦築城

信長が設楽原に構築したのは、二重、三重の馬防柵でした。これは単なる障害物ではなく、武田軍の突撃を物理的に止めて、鉄砲隊が安全に撃てる殺傷地帯を作るための軍事施設でした。

武田軍が柵に阻まれて足を止めたところに、織田軍は一斉射撃や自由射撃で濃密な弾幕を浴びせました。重要なのは撃ち方の工夫よりも、これだけの数の鉄砲と弾薬を調達できた経済力と兵站能力だったのです。

また、武田軍についても見直しが進んでいます。騎馬軍団という言葉から、西洋の騎士のような純粋な騎兵部隊をイメージしがちですが、実際の武田軍は騎馬武者に多数の歩兵が従う、混成部隊でした。集団騎馬突撃という戦法自体が、日本の戦国時代にはあまり行われていなかったのです。

長篠の戦いは、奇策による勝利ではなく、物量、土木工事、兵站という近代的な戦争要素を統合した、信長の合理的思考の勝利だったと言えます。


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1576年安土城築城:五層七階の天守閣が輝く「見せる城」の衝撃

長篠の戦いに勝利した信長は、琵琶湖のほとりに新しい城を築くことを決めました。それが安土城です。天正4年から築城が始まり、わずか3年で完成しました。

安土城は、それまでの日本の城とはまったく異なる、革命的な建築物でした。最大の特徴は、五層七階の巨大な天守閣です。外壁には金箔が貼られ、遠くからでも輝いて見えました。内部は豪華な障壁画で飾られ、まるで宮殿のようでした。

なぜ信長はこれほど豪華な城を作ったのでしょうか?それは権力を見せつけるためでした。

戦うための城から、見せるための城へ

それまでの城は、敵から守るための軍事施設でした。しかし安土城は、守りだけでなく、信長の権威を誇示するためのシンボルとして設計されました。高くそびえる天守閣は、琵琶湖を行き交う船からも見え、誰もが信長の力を思い知らされました。

城下町も計画的に整備され、楽市楽座の政策により商人が集まり、大変な賑わいを見せました。安土城は、単なる軍事拠点ではなく、政治、経済、文化の中心地として機能したのです。

残念ながら安土城は、本能寺の変の直後に焼失してしまい、現在は石垣しか残っていません。しかし、その革新的なデザインは、後の大坂城や江戸城など、日本の近世城郭建築に大きな影響を与えました。

石山本願寺との10年戦争終結と日本統一へのカウントダウン

信長にとって、最も長く苦しい戦いが石山本願寺との戦争でした。石山本願寺は、浄土真宗本願寺派の総本山で、現在の大阪城があるあたりに位置していました。本願寺の法主・顕如は、全国の門徒に信長と戦うよう呼びかけ、一向一揆という宗教的な抵抗運動を展開しました。

この戦いは元亀元年から天正8年まで、実に10年間も続きました。本願寺は堅固な要塞であり、信長は何度攻めても落とせませんでした。また、毛利家が海から兵糧を送り込んだため、本願寺は長期戦に耐えることができました。

信長は海上封鎖を行うため、九鬼嘉隆に命じて鉄甲船という装甲軍艦を建造させました。

天皇の仲介で和睦、ついに本願寺降伏

天正8年、ついに本願寺は降伏しました。朝廷が仲介に入り、顕如は石山を退去することに同意したのです。10年にわたる消耗戦は、信長にとっても大きな負担でしたが、これでようやく畿内の敵対勢力がすべて消え去りました。

本願寺との和睦により、信長の領土は近畿、東海、北陸、中国地方の一部にまで及び、石高は推定で600万石を超えました。これは当時の日本全体の石高の約3分の1に相当する、圧倒的な勢力でした。

天下統一は、もはや時間の問題となっていました。残る敵は、中国地方の毛利家、四国の長宗我部家、九州の島津家、そして関東の北条家と東北の伊達家くらいでした。信長は各方面に軍団を派遣し、着実に勢力圏を広げていきます。

京都御馬揃え:天皇と民衆に見せつけた圧倒的な軍事パレード

天正9年、信長は京都で盛大な御馬揃えを開催しました。これは軍事パレードのようなもので、織田軍の精鋭部隊が馬に乗って行進し、その威容を天皇や公家、そして京都の民衆に見せつけるイベントでした。

正親町天皇も観覧に訪れ、信長の軍勢を目の当たりにしました。色とりどりの旗指物、統一された甲冑、訓練された兵士たち。その圧倒的な軍事力は、誰の目にも明らかでした。

この御馬揃えは、信長が日本の頂点に立ったことを内外に示す、勝利宣言のようなイベントだったのです

信長はこの頃、朝廷から太政大臣や関白への就任を打診されたとも言われています。しかし信長がどのような返答をしたかは、明確な記録が残っていません。もしかすると信長は、既存の官位制度にとらわれない、新しい形の支配者になろうとしていたのかもしれません。

天下統一の夢は、もう目の前に迫っていました。しかし運命は、信長に残酷な結末を用意していたのです。


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【年表5:最期】本能寺の変!49年の生涯と残された謎(1582年)

日時場所出来事
6月2日未明京都・本能寺明智光秀の軍勢が本能寺を包囲
6月2日早朝本能寺織田信長、自害。享年49歳
6月2日二条御所信長の長男・信忠も自害
6月13日山崎羽柴秀吉が光秀を討つ

1582年6月2日未明:明智光秀はなぜ裏切ったのか?主要な動機説

明智光秀
引用元「Wikipediaコモンズ」より

天正10年6月2日未明、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を、家臣の明智光秀が1万3千の軍勢で襲撃しました。これが日本史最大のミステリー、本能寺の変です。

豊臣秀吉
引用元「Wikipediaコモンズ」より

信長のそばにいた護衛はわずか100人程度。圧倒的な兵力差の前に、信長は抵抗むなしく自害しました。享年49歳。天下統一まであと一歩というところで、信長の人生は突然幕を閉じたのです。

なぜ光秀は主君・信長を裏切ったのでしょうか?この謎については、今も多くの説が議論されています。

主要な動機説を整理してみよう

本能寺の変の動機については、実に様々な説があります。主なものを表で整理してみましょう。

説の名前内容信憑性
怨恨説信長に何度も恥をかかされた恨み有力だが決定打に欠ける
野望説光秀自身が天下を取りたかった動機としては弱い
四国説長宗我部との同盟を守るため最近注目されている
朝廷黒幕説朝廷が光秀に指示した証拠不足
突発説チャンスを見て衝動的に決断可能性はある

怨恨説は、光秀が信長から度々叱責され、家臣の前で恥をかかされたことへの恨みが積もり積もったという説です。実際、信長は光秀を優秀な部下として重用しながらも、時に厳しく叱りつけることがありました。しかし、それだけで謀反を起こすには動機として弱いという意見もあります。

四国説は、最近注目されている説です。光秀は四国の長宗我部元親と同盟関係にあり、友好を深めていました。しかし信長は突然方針を変え、長宗我部を敵として攻めることを決めました。光秀は長宗我部を救うため、やむなく信長を討ったという説です。

真相は今も謎のままですが、おそらく一つの理由だけではなく、複数の要因が重なって、光秀は決断したのでしょう。


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「是非もなし」信長が死に際に言ったセリフの意味と最期の様子

本能寺が包囲されていることに気づいた信長は、最初は家来同士の喧嘩だと思っていました。しかし、敵の旗印を見て、明智光秀の謀反だと悟ります。

そのとき信長が口にしたのが、有名な言葉是非もなしです。

是非もなしという言葉は、仕方がないという意味に解釈されることが多いのですが、実は違う意味だったかもしれません。

諦めではなく、戦う覚悟を示した言葉

是非もなしを現代語に訳すと、善い悪いを議論している場合ではない。戦うのみだという意味になります。つまり信長は諦めたのではなく、最後まで戦う覚悟を決めたのです。

信長は弓を手に取り、敵兵を次々と射倒しました。しかし弦が切れると、今度は槍を持って戦いました。やがて槍も折れ、もはやこれまでと悟った信長は、本能寺の奥へ下がり、自ら火を放って自害したと伝えられています。

信長の最期は、まさに戦国武将らしい、壮絶なものでした。部下を裏切られ、圧倒的な兵力に囲まれても、最後まで戦い続けた信長の姿は、彼の生き方そのものを象徴しています。

ただし、この是非もなしという言葉も、信長公記に記されているものの、著者の太田牛一はその場にいませんでした。本能寺から脱出した女性たちからの聞き書きに基づくため、完全に正確かどうかは分かりません。それでも、信長の性格を考えれば、いかにもありそうな言葉だと言えるでしょう。


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遺体が見つからなかった理由は?黒幕説や生存説を検証する

本能寺の変における最大の謎が、信長の遺体が発見されなかったことです。明智光秀は本能寺の焼け跡を必死に探しましたが、信長の遺体は見つかりませんでした。このため、様々な憶測が生まれました。

遺体消失についての主な仮説

遺体が見つからなかった理由について、いくつかの仮説があります。

火薬爆発説は、本能寺に保管されていた火薬に引火して大爆発が起き、遺体が跡形もなく吹き飛んだという説です。しかし当時の黒色火薬の威力を考えると、遺体が完全に消滅するほどの爆発は考えにくいとされています。

阿弥陀寺持ち出し説は、信長と親しかった阿弥陀寺の清玉上人が、変の最中に本能寺へ駆けつけて遺体を持ち出したという説です。阿弥陀寺には今も信長の墓があります。しかし明智軍の厳重な包囲の中、僧侶が侵入して遺体を運び出すのは現実的に困難だという反論があります。

完全焼失・埋没説が、現在最も学術的に支持されている説です。激しい火災で建物が崩落し、遺体は瓦礫の下に埋もれて炭化・損壊したため、明智軍の捜索でも判別できなかったというものです。あるいは、信長自身が遺体を見つけられないよう、自ら灰の中に身を隠したという説もあります。

信長の遺体が見つからなかったことで、信長生存説や、南蛮へ逃げたという伝説まで生まれました。しかし信憑性のある証拠はありません。

遺体がなかったことで、信長の墓は全国に20か所以上も存在します。京都の阿弥陀寺、大徳寺総見院、建勲神社、そして信長の故郷である愛知県の万松寺など、多くの場所で信長は祀られています。遺体はなくとも、信長の魂は今も日本中に生き続けているのです。


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織田信長の「性格」と教科書には載っていない意外なエピソード

実は甘党で下戸?宣教師が記録した知られざる食生活

織田信長といえば、荒々しく残酷な武将というイメージがありますが、意外にもお酒が飲めない体質だったことが、宣教師ルイス・フロイスの記録から分かっています。

フロイスは信長と何度も面会しており、その様子を詳しく記録しました。それによると、信長は酒を飲まず、食事も非常に節制していたそうです。武将の宴会では、皆が酒を飲んで盛り上がる中、信長一人だけが水を飲んでいたという光景もあったようです。

その代わり、信長は甘いものが大好きでした。特に干し柿や砂糖菓子を好んで食べていたという記録があります。

健康管理に厳格だった合理主義者

信長が下戸だったのは、単に体質の問題だけではなく、健康管理に厳格だったからだとも言われています。酒に酔って判断力が鈍ることを嫌い、常に冷静な頭脳を保とうとしていたのです。

また、信長は非常に早起きで、睡眠時間が短かったことでも知られています。朝早くから活動を始め、夜遅くまで仕事をする、非常にエネルギッシュな人物でした。現代で言えば、完全なワーカホリックだったのかもしれません。

食事も質素で、戦場では兵士たちと同じものを食べることもありました。贅沢な料理よりも、栄養があって素早く食べられるものを好んだようです。このような自己管理の厳しさが、信長の強さの源だったのでしょう。


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「鳴かぬなら殺してしまえ」は本人が詠んだ?実際の性格分析

織田信長の性格を表す言葉として有名なのが、鳴かぬなら殺してしまえホトトギスという川柳です。しかし、この句は信長本人が詠んだものではありません

これは江戸時代に作られた創作で、信長、秀吉、家康の性格を比較するために作られた川柳なのです。信長は短気で残酷、秀吉は工夫して何とかする、家康は我慢強く待つ、という性格の違いを表現したものでした。

本当の信長の性格:冷徹だが合理的

実際の信長は、感情的に怒って人を殺すような人物ではありませんでした。むしろ、徹底的に合理的な判断をする人物だったのです。

フロイスの記録によれば、信長は極めて理性的で、明晰な判断力を持っていました。家臣の進言には耳を傾けないこともありましたが、それは他人の意見を無視したのではなく、自分の考えに自信を持っていたからです。

信長が残酷と言われる理由は、敵対者に対して容赦なかったからです。しかしそれは感情的な暴力ではなく、政治的な計算に基づいた行動でした。比叡山焼き討ちも、長島一向一揆の皆殺しも、すべて敵の抵抗を完全に砕き、二度と立ち上がれなくするための、冷徹な戦略だったのです。

一方で、信長は裏切らない家臣には非常に寛大でした。豊臣秀吉や明智光秀のように、出自が低くても実力があれば重用しました。また、失敗を許す度量もありました。秀吉は何度も作戦に失敗していますが、信長は秀吉を見放しませんでした。

信長の長所信長の短所
判断が速く合理的
実力主義で人材登用
新しいことに挑戦する
自己管理が徹底している
他人の意見を聞かない
敵に対して容赦ない
プライドが高すぎる
部下を信用しすぎる

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豊臣秀吉や黒人侍・弥助との関係から見る「人たらし」な一面

信長は冷徹な面がある一方で、人の才能を見抜き、魅力で惹きつける人たらしの才能も持っていました。

豊臣秀吉との関係は、その典型例です。秀吉は農民出身で、最初は信長の草履取りという雑用係でした。ある寒い日、秀吉は信長の草履を懐で温めておいたというエピソードがあります。信長はこの気遣いに感心し、秀吉を気に入りました。

その後、秀吉は墨俣一夜城の築城、金ヶ崎の退き口での殿軍、中国攻めの総大将と、次々と出世していきます。信長は秀吉の才能を信じ、大きなチャンスを与え続けました。秀吉もそれに応え、信長の期待以上の成果を上げたのです。

黒人侍・弥助との不思議な絆

天正9年、宣教師ヴァリニャーノが、黒人の従者を連れて信長のもとを訪れました。信長は黒人を見たのが初めてで、非常に興味を持ちました。最初は体に墨を塗っているのかと思い、体を洗わせたほどです。

信長はこの黒人を気に入り、ヴァリニャーノから譲り受けました。弥助という名を与え、身の回りの世話をさせました。信長は弥助に刀を持たせ、時には道具持ちとして連れ歩きました。

弥助が正式な侍だったかどうかは議論がありますが、信長に近侍することを許された忠実な家臣だったことは確かです。

本能寺の変のとき、弥助も信長のために戦いました。信長の死後、弥助は信長の息子・信忠のもとへ駆けつけ、最後まで戦いました。しかし明智軍に捕らえられた弥助は、日本人ではないという理由で殺されず、南蛮寺へ送り返されたと伝えられています。

信長と弥助の関係は、人種や身分を超えた、不思議な絆でした。信長は、相手が誰であろうと、興味を持った人物には分け隔てなく接する、開かれた心を持っていたのです。


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織田信長・簡易年表リスト【小学生・中学生向け保存版】

重要な出来事だけを厳選した「テストに出る」年表

織田信長の人生を、テストに出やすい重要な出来事だけに絞って、年表形式でまとめました。小学生・中学生の皆さんは、これを覚えておけば歴史のテストで困ることはありません。

年号年齢重要な出来事ポイント
1534年0歳尾張国で誕生幼名は吉法師
1551年18歳父・信秀が死去、家督相続位牌に抹香を投げた
1560年27歳桶狭間の戦い今川義元を討つ
1567年34歳美濃攻略、岐阜城と改名天下布武を使い始める
1568年35歳足利義昭を奉じて上洛京都へ進出
1570年37歳姉川の戦い浅井・朝倉と激突
1571年38歳比叡山焼き討ち延暦寺を攻撃
1573年40歳室町幕府滅亡足利義昭を追放
1575年42歳長篠の戦い武田勝頼を破る
1576年43歳安土城築城開始豪華な天守閣
1582年49歳本能寺の変明智光秀に討たれる

これらの年号と出来事を覚えるコツは、物語として理解することです。単に年号を暗記するのではなく、信長の人生の流れとして、一つ一つの出来事がどうつながっているかを考えると、自然に頭に入ります。

信長が死んだあと、時代はどう変わったのか?

織田信長が本能寺の変で亡くなったあと、日本はどうなったのでしょうか。信長の死後、天下を巡る争いは続きましたが、最終的には信長の家臣だった豊臣秀吉が天下統一を果たしました。

秀吉は明智光秀を、本能寺の変発生から、わずか11日で討ち取り、その後、柴田勝家や織田信孝との織田家の後継者争いに勝利しました。そして信長が果たせなかった天下統一を、わずか8年後の1590年に完成させたのです。秀吉は関白という位に就き、全国の大名を従えました。

しかし秀吉の死後、今度は徳川家康が台頭します。家康は1600年に「関ヶ原の戦い」で石田三成に勝利し、江戸幕府を開きました。そして260年以上続く、平和な江戸時代が始まったのです。

織田信長がいなければ、豊臣秀吉も徳川家康も天下を取ることはできませんでした。信長は天下統一の道を切り開いた、まさにパイオニアだったのです。

信長が始めた楽市楽座や兵農分離、実力主義といった政策は、秀吉や家康にも受け継がれました。安土城のような豪華な天守閣は、大坂城や江戸城へと発展しました。鉄砲の大量運用という戦術も、その後の戦いの標準となりました。

信長の人生はわずか49年でしたが、その影響は日本の歴史を大きく変えました。もし信長がいなければ、日本の統一はもっと遅れていたかもしれません。信長は、日本を中世から近世へと導いた、時代の革命児だったのです。


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織田信長についてもっと詳しく知りたい方は、以下の記事もぜひご覧ください。

織田信長の家系図・子孫をわかりやすい画像で紹介!お市との関係とは

織田信長について全てを徹底解説!本能寺の変や年表・子孫を完全網羅

まとめ:織田信長の生涯から学ぶ歴史の教訓

  • 織田信長は1534年に尾張で生まれ、1582年に本能寺の変で49歳で死去した
  • 桶狭間の戦いは奇襲ではなく正面攻撃と天候を利用した勝利だった
  • 長篠の戦いの三段撃ちは後世の創作で、実際は馬防柵と火力集中が勝因
  • 比叡山焼き討ちの被害は誇張されており、政治的な演出の側面が強い
  • 楽市楽座は信長の独創ではなく六角定頼の政策を拡大したもの
  • 天下布武は当初、京都周辺の秩序回復を意味していた可能性がある
  • 信長は実力主義で豊臣秀吉など身分の低い者も重用した
  • 清洲同盟は徳川家康との相互利益に基づく戦国最強の同盟だった
  • 安土城は軍事拠点ではなく権威を誇示するシンボルとして築かれた
  • 本能寺の変の動機は怨恨説や四国説など複数の要因が考えられる
  • 是非もなしは諦めの言葉ではなく戦う覚悟を示した言葉だった
  • 信長の遺体は発見されず完全焼失か瓦礫に埋もれたと考えられる
  • 信長は下戸で甘党、健康管理に厳格な合理主義者だった
  • 黒人侍・弥助は信長に近侍を許された忠実な家臣だった
  • 信長の革新的な政策は豊臣秀吉と徳川家康に受け継がれ天下統一の基礎となった

織田信長の生涯は、挑戦と革新の連続でした。常識にとらわれず、新しいことに挑戦し続けた信長の姿勢は、現代を生きる私たちにも多くの教訓を与えてくれます。

失敗を恐れず、合理的に判断し、実力のある人を登用する。信長の生き方は、今の時代にも通じるリーダーシップの本質を教えてくれるのです。

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