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「天下統一」実現まであと一歩までこぎつけながら、「本能寺の変」で命を落とした「織田信長」。
若い頃は「尾張の大うつけ者」と呼ばれていた「信長」が、なぜ天下統一という偉業を達成する一歩手前まで出世できたのでしょうか?
この記事では「織田信長の功績」について解説しながら、「なぜそこまで出世したのか」をわかりやすく解説していきます。
これを読んで「だから信長は天下統一を果たしかけたのか!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 織田信長は戦国時代の武将。「尾張国」の大名から、天下統一へあと一歩のところまで躍進した人物。【1582年】に信長は「本能寺の変」で「明智光秀」に殺害された
- 数々いる戦国大名のなかで、織田信長が最も躍進できた理由は、革新的な思想によって、当時の常識を次々とくつがえし続けたため。
- もしも信長が「本能寺の変」で死ななかったら、おそらくは「幕府」を開くことで、「天下静謐(平和)」を実現したのではないか
織田信長がしたことを【年表】にして簡単まとめ!何をして有名になったの?
「織田信長」という名前は知っていても、具体的にその功績を説明できる人は少ないかもしれませんね。
信長は「天下統一まであと一歩のところまでいった人物」です。
その功績をひとことで言えば「天下統一目前までいったことで、応仁の乱から100年以上続いた戦国時代を終わらせる土台をつくりあげた」ということになると思います。
天下統一・戦国時代の終焉は、織田信長が亡くなった8年後に「豊臣秀吉」によって達成されています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
織田信長の生涯を、簡単にではありますが、年表にまとめてみてみましょう。
1534年(信長の年齢・・・1歳)
尾張(愛知県西部)の大名「織田信秀」の嫡男として誕生、信長の幼名は「吉法師」。
1546年(13歳)
古渡城で元服、「織田三郎信長」と名乗る。
1548年(15歳)
信秀、美濃(岐阜県南部)の大名「斎藤道三」と同盟を結ぶ。
信長、道三の娘「帰蝶(濃姫)」と結婚。
1552年(19歳)
父「織田信秀」死去、信長が家督を継ぎ、「織田上総介信長」と名乗るようになる。
1553年(20歳)
信長の教育係「平手政秀」、「うつけ者」と呼ばれた信長の奇行を諌めるために自害。
信長、正徳寺で舅「斎藤道三」と初対面。
道三、「うつけ者」と呼ばれる信長の本当の器量を見抜く。
1556年(23歳)
道三、息子の「斎藤義龍」に殺される。信長、救援に向かうが間に合わず。
道三という強力な後ろ盾を失った「信長」に対し、信長の弟「信勝(信行)」を推す「柴田勝家」らが挙兵。
8月、「稲生の戦い」で信長と信勝が激突。結果は「信長」の勝利。信長の母「土田御前」の願いにより、信長は弟「信勝」「柴田勝家」らを赦免。
1558年(25歳)
弟「信勝(信行)」、再び信長に謀反を企てる。「柴田勝家」が信勝の裏切りを信長に密告。これに対して信長は病を装い、清州城に信勝を呼び出し殺害。
1559年(26歳)
信長、新たな尾張の統治者として認めてもらうために上洛。室町幕府13代将軍「足利義輝」に謁見。
1560年(27歳)
駿河の「今川義元」が、三河の「松平元康(のちの徳川家康)」を先鋒にたて、尾張に侵攻。
5月19日、「信長」出陣。鷹狩で土地勘と気象条件を熟知した「桶狭間」で「今川義元」を撃破。
兵力数は今川「1万人以上」の大軍に対し、織田軍わずか「3千から5千人」。
信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」は「戦国最大の番狂わせ」といわれ、この勝利によって信長は戦国の覇者としての階段を駆け上がり始めるのです。
しかし信長は桶狭間周辺で頻繁に鷹狩を行っており、海風が強く吹く時間帯や周辺の地形を熟知していたので、地の利は「義元」ではなく「信長」にありました。
義元は大軍を率いていましたが、義元自身の本隊は「5千人程度」だったと言われ、進軍中の義元本隊と信長の本隊が、偶然戦場で鉢合わせしたことが義元の運の尽きだったのでしょう。
義元が亡くなったことで、今川軍の先鋒「松平元康」は今川家から離反。
信長が名を上げたのとは逆に、名門「今川家」は凋落の一途を辿りました。
1561年(28歳)
美濃の「斎藤義龍」急死、嫡男「斎藤龍興」が斉藤家と美濃を受け継ぐ。
1562年(29歳)
信長、清州城で「松平元康(家康)」と「清洲同盟」を締結。以降2人の協力関係が信長の死まで継続。
信長、美濃の「斉藤龍興」対策で近江の「浅井長政」と同盟を結ぶ。
1565年(32歳)
信長、犬山城主「織田信清」に勝ち、尾張統一を達成。甲斐の「武田信玄」と同盟を結び、姪を養女として信玄の四男「勝頼」に嫁がせる。
信長、「滝川一益」の援軍を得て伊勢に侵攻。「神戸具盛」らを屈服させ、北伊勢を平定。
「三好義継」「松永久通」「三好三人衆」らが、室町幕府第13代将軍「足利義輝」を暗殺。
義輝の弟「足利義昭」が「松永久秀」の保護を得て、諸大名に上洛を要請。
信長、足利義輝の家臣だった「細川藤孝」に書状を送り、「義昭」の上洛要請に応える意志があることを伝える。
1566年(33歳)
信長、美濃「斉藤龍興」との戦闘を再開するも龍興に敗北。三好三人衆らに狙われた「義昭」は、若狭国に逃走。
義昭の上洛要請に応える意志があると「細川藤孝」に書状を送った信長でしたが、領国の秩序を安定させるために美濃攻略を優先させます。
しかし「斉藤龍興」に敗北を喫し、笑いものになってしまっていました。
こうして信長は、自分の名誉を回復するためにも美濃「斉藤龍興」を滅ぼし、「義昭」の上洛をなんとしても果たさなければならなくなりました。
1567年(34歳)
信長、美濃「斉藤龍興」を攻撃。これにより稲葉山城陥落。「斎藤龍興」、伊勢の長島へ落ち延びる。
美濃を平定したのち、信長は領地に「楽市楽座」を取り入れました。
「楽市楽座」は、【1549年】に近江の六角氏が取り入れたのが歴史上の初見と言われています。
既得権益を持つ商工業者の権利を制限し、「自由取引市場」を導入。新しい商工業者を育成し、経済活動を活発にし、領地内の経済を活性化させる政策です。
また、信長は「稲葉山城」を拠点とし、その名を「岐阜城」と改名。上洛への拠点とします。
1568年(35歳)
越前の戦国大名「朝倉義景」の家臣「明智光秀」が、義昭に対して「朝倉義景は頼りにならないから織田信長を頼れ」と進言。
義昭、光秀を通じて信長に上洛と、自分を「征夷大将軍」にするよう要請。
7月、信長、越前国「朝倉義景」の元に身を寄せていた「足利義昭」へ使者を派遣。
義昭、美濃へ移動。岐阜城下で信長と会見。
9月、信長、「足利義昭」とともに上洛を開始。
信長の妹「お市の方」、【1567年~1568年】の間に「浅井長政」と結婚。
「足利義昭」は室町幕府第13代将軍「足利義輝」の弟で、元々は奈良「興福寺」の僧侶でした。
しかし「三好義継」らによって兄「義輝」が暗殺されたため、奈良を脱出。近江の大名「六角氏」に保護され、還俗して足利将軍家の当主になることを宣言します。
足利将軍家再興のため、各地の大名に書状で協力を要請しますが、これに応えたのが「織田信長」だったのです。
「細川藤孝」経由で信長の助力を待った「義昭」でしたが、上洛より領地の安定を先にした信長は「斎藤龍興」に敗北。義昭は越前「朝倉義景」の元に身を寄せることになりました。
足利義昭は当然「朝倉義景」にも上洛を要請したのですが、義景は上洛への意思表示をしませんでした。当時「義景」の家臣だったと言われる「明智光秀」は「朝倉義景ではなく織田信長を頼れ」と義昭に進言します。
一説には、「明智光秀」は織田信長の正室「帰蝶」と従兄弟とも言われ、その血縁関係から光秀は信長を頼るよう進言したのではないか・・・とも言われているのです。
こうして岐阜城下で会談した「義昭」は、信長の協力を得ることになり、「足利義昭」は「織田信長」と「浅井長政」に警護されながら上洛を開始します。
9月30日、「三好三人衆」らが支持する室町幕府第14代将軍「足利義栄」病没。
10月18日、義昭、室町幕府第15代将軍に就任。
信長、義昭からの幕府要職就任を断り、尾張に帰還。
1569年(36歳)
1月 三好三人衆と信長に稲葉山城を追われた斎藤龍興、義昭の御所を襲撃。
信長、豪雪の中、義昭救援のため尾張から京都まで2日で駆けつけるが、光秀等によ
り乱は平定されていた。信長、義昭のために二条に御所を建設。当初、自分を征夷大将軍にしてくれた信長に対し、義昭は非常に感謝を示し、御父と呼び、幕府の要職につけて自分のそばに置きたいと願うほど、慕っていました。しかし、いつしか信長と義昭の間には隙間風が吹き始め、関係が悪化し始めます。同年 信長、北伊勢に続き、南伊勢も平定。
1570年(37歳)
4月、信長、越前「朝倉義景」を攻めるが、北近江の同盟者「浅井長政」が裏切り、「明智光秀」、「木下秀吉」の殿(しんがり)によって辛くも京都に逃れる。
6月、信長、「徳川家康」とともに「朝倉義景」「浅井長政」と近江国「姉川」で激突、勝利。(姉川の戦い)
8月、信長、「三好三人衆」に対して挙兵するが、「本願寺顕如」ひきいる「石山本願寺」が信長にたいして挙兵。「浅井・朝倉連合軍」も近江の坂本に攻め込む。宇佐山城を守備していた信長の重臣「森可成」と実弟「織田信治」が戦死。(10年に及ぶ「石山戦争」開始)
9月、摂津「三好三人衆攻め」から戻った信長、「朝倉軍」を攻撃、朝倉軍「比叡山」へ逃走。
同月、「長島一向一揆」勃発、信長の実弟「織田信興」が自害に追い込まれる。
11月、信長、征夷大将軍「足利義昭」に調停を依頼し、翌12月「正親町天皇」の勅命を得て、「浅井・朝倉」と和睦。この時、信長は「浅井長政」「朝倉義景」の両名に手をついて屈服したと言われています。
1571年(38歳)
5月、信長、「長島一向一揆」討伐のため出陣するも攻めあぐねて撤退。撤退の際に「柴田勝家」が負傷。
信長、比叡山に逃げ込んだ朝倉軍の引き渡しを「延暦寺」に依頼するが、延暦寺側はことごとく信長の依頼を無視し続ける。
9月、約1年間の引き渡し要求を無視し続けた「延暦寺」に、最後通牒を突きつける。延暦寺側はこれも無視したため「比叡山焼き討ち」を計画。
9月11日、信長の動きを察知した「延暦寺」は、黄金300枚、墾田200枚を信長に贈って攻激中止するよう嘆願するが、信長、この使者を追い返す。
9月12日、信長、「比叡山焼き討ち」を開始。比叡山、灰燼に帰す。被害者数は数千人。
比叡山に逃げ込んだ「朝倉軍」の兵を引き渡すよう、1年近く使者を送りつづけ、交渉しようとした信長でしたが、延暦寺側はまったく耳を貸しませんでした。
信長にとっては、比叡山に敵対する兵力が残存し、いつ自分に刃を向けるかもしれない状況を一刻も早く解消しなければなりません。当然です。比叡山は信長の本拠地の一つ「京都」の喉元なのですから。
1年近く粘って堪忍袋の緒が切れた信長は、比叡山が軍事要塞化するのを防ぐためにも、「焼き討ち」を敢行せざるを得ないと腹を括ります。
この動きを察した「延暦寺」が慌てて黄金300枚持ってきて懇願しても、「いまさら何を言う」・・・という気持ちだったのでしょうね。
灰燼に帰した比叡山の後処理を「明智光秀」に任せた信長は、翌日に京都に戻りました。
こののち光秀は、比叡山の所領だった地「坂本」に城を築きます。「坂本城」です。
一方、信長の要請を1年間無視し続けた比叡山延暦寺の高僧「正覚院豪盛」は信長の焼き討ちから落ち延び、甲斐の戦国大名「武田信玄」に助けを求めました。
信長の焼き討ちに怒った信玄は「天台座主・信玄」と署名した抗議書を認め、信長との同盟を破棄。
この書状に対し信長は「第六天魔王・信長」と署名した返書を送り、後世に信長が「魔王」と呼ばれる所以となります。
1572年(39歳)
3月、「三好義継」と「松永久秀」、信長に反旗を翻す。
11月、「徳川家康」、「一言坂の戦い」で「武田信玄」に敗北。要衝「二俣城」を武田軍に奪われる。
12月、信長、「家康」に対して救援として「佐久間信盛」らの軍勢を送るが「三方ヶ原の戦い」で「武田信玄」に敗北。
この頃信長は、「義昭」の乱行をいさめる書状を送っています。
しかし「征夷大将軍」になったことで増長したのか、かつては「御父」と慕った信長の言葉に、「義昭」はまったく耳を貸そうとしませんでした。
1573年(40歳)
2月、武田軍、三河へ侵攻。野田城を奪取。
義昭は武田軍が遠江(静岡県浜松市周辺)から三河(愛知県豊橋市周辺)まで侵攻したと知り、信長を裏切り「武田信玄」と組もうとします。
信長はなんとか義昭の気持ちを変えようと尽力し、「正親町天皇」の勅命を得て義昭と和解します。
4月12日、「武田信玄」信州駒場で死去、武田軍三河から撤退。突然の武田軍撤退をみた家康、信玄の死を確信。
7月、義昭が再び信長に抵抗するが信長は義昭を撃破し追放。これにより「足利尊氏」が開き、【1336年】から「237年間」も続いた「室町幕府」滅亡。
武田軍の動きから「信玄」の死を確信した「家康」とは異なり、「義昭」は恐らく「信玄」が亡くなったのを知らなかったのでしょう。
だから一旦は「正親町天皇」の勅命で和解した信長に対し、約3ヶ月後に再び反旗を翻したのでしょうね。
そのくらいの時間を稼げば、「信玄」が兵を率いて上洛し、自分を助けて「信長」を倒してくれる・・・と考えたのだと思います。
しかしその目論見は外れ、信長に包囲された「義昭」は家臣にさとされて、しぶしぶ信長に降伏しました。
信長は義昭の息子「義尋(ぎじん)」を「征夷大将軍」の後継者とするという名目で、自らの人質として手元に置き、義昭を京都から追放します。
当時の史料によれば、義昭は京都から追放されたのちも、武門の棟梁「征夷大将軍」ではあったようですが、義昭の京都からの追放をもって、「室町幕府の滅亡」と考えられています。
8月、信長、「朝倉義景」を攻め滅ぼし、ついで「浅井長政」を攻め滅ぼす。
「お市の方」、「茶々」「初」「江」ら3人の娘を連れ織田家に戻る。
1574年(41歳)
7月~9月、信長、「長島一向一揆」を討伐。この戦いで信長の兄「織田信広」戦死。
1575年(42歳)
5月、「織田・徳川連合軍」と「武田勝頼」、三河「長篠の戦い」で激突、「織田・徳川連合軍」が圧勝。
8月、「越前一向一揆」討伐。
11月、信長、朝廷より「権大納言」、次いで「右近衛大将」に任じられる。
この月の28日、大名家としての家督を嫡男「織田信忠」に譲る。
この朝廷からの任官によって、信長は事実上の「天下人」となりました。
1576年(43歳)
1月 「安土城」の築城開始。安土城下町にも楽市楽座を取り入れ、経済を活性化。安土城の完成は3年後の【1579年】。
4月、「本願寺」を攻撃、自らも銃撃で負傷し苦戦しながらも本願寺を撃破。
信長はこの頃、それまで比較的良好な関係を築き上げてきた越後(新潟県)の大名「上杉謙信」との関係が悪化。安芸(広島県)の大名「毛利輝元」らも信長と対立し始めます。
11月 信長、「内大臣」に昇進。
1577年(44歳)
8月 「松永久秀」、信長に反旗を翻し、「本願寺攻め」の最前線基地「天王寺砦」から離脱。大和国(奈良県)の「信貴山城(しぎさんじょう)」へ籠城。
松永久秀、「信長」からの降伏勧告に応じず、10月10日に天守閣に火を放ち自害。
11月20日、信長が「従二位 右大臣」に昇進。
1578年(45歳)
3月13日、「上杉謙信」急死。享年49歳。上杉家で謙信の2人の養子「上杉景勝」「上杉景虎」の間で後継者争いが勃発。その混乱に乗じて、信長は「越中(富山県)」に侵攻。
7月 毛利軍、「上月城」を攻略、10月には信長の家来「荒木村重」が毛利氏や「足利義昭」、本願寺と手を結び、信長に反抗を開始。
12月 信長、「荒木村重」の籠もる「有岡城」に兵糧攻め開始。
1579年(46歳)
6月 「明智光秀」、「丹波・丹後」を平定。
9月 「荒木村重」、有岡城を出て尼崎城へ移るが、2ヶ月後に有岡城落城。信長、村重の妻子や家臣らを虐殺。
同月 信長の命令で家康が自らの正室「築山殿」殺害、嫡男「松平信康」切腹。(「築山事件」。しかしこの事件には異説あり。信長の命令ではなく、松平信康が謀反を企てたため、家康は信康を処分したというのが最近の定説)
1580年(47歳)
3月 相模国(神奈川県)の大名「北条氏政」、信長に従属を申し出る。信長の支配地域、関東まで拡がる。
4月 「正親町天皇」の勅命により、「本願寺」が織田家と和睦。(10年に及ぶ石山戦争が終結。これにより「本願寺顕如」が本拠地「石山本願寺」を退去。のちに豊臣秀吉がこの地に「大坂城」を築城する)
1581年(48歳)
1月 信長、「荒木村重」の残党をかくまい、「足利義昭」と内通した「高野山」を討伐。
2月 1月から「明智光秀」に命じて準備をさせた「馬揃え(軍事パレード)」を京都で挙行。
1582年(49歳)
3月 「甲州討伐」、「武田勝頼」と正室「北条夫人」、勝頼の嫡男「武田信勝」死去、武田家滅亡。(天目山の戦い)
4月 朝廷が信長を「太政大臣・関白・征夷大将軍」のいずれかにすると打診してきたため、話し合う。
5月 徳川家康が「安土城」を訪れ、「明智光秀」がその接待役を任される。
「備中高松城攻め」を行っている「羽柴秀吉」から援軍要請があり、信長は光秀に援軍を命じる。
5月29日 信長、「毛利輝元」攻めの出兵準備のため、安土城を出て上洛。「本能寺」へ入る。
6月2日 未明、「羽柴秀吉」の援軍に向かったはずの「明智光秀」が本能寺を急襲。(本能寺の変)
信長自らも反撃したが、圧倒的な数で勝る明智軍に為す術もなく、本能寺に火を放ち自害。【享年49歳】
この時、明智光秀は必死に信長の死体を捜索したが発見できず。その理由は、焼死体が多すぎたためだと考えられている。
6月13日 「山崎の戦い」 中国地方から迅速に戻った「羽柴秀吉」は、「丹羽長秀」「織田信孝」らの軍を吸収して「山崎(現在の京都府長岡京市付近)」で「明智光秀」と激突。
戦は1日で決し、「明智光秀」は敗走。逃げる途中に「小栗栖」付近で落ち武者狩りに襲われ負傷。その後自刃。
1590年(-)
「豊臣秀吉」により、「小田原征伐(北条征伐)」が行われる。
奥州「伊達政宗」や「津軽為信」が秀吉に屈服。
7月 「北条氏政」が切腹、その子「氏直」が降伏して高野山で謹慎。
8月 秀吉「宇都宮城」へ入城。「宇都宮仕置」により、東北地方の大名配置を決定。
「織田信長」の死から8年後、「豊臣秀吉」の手によって、「天下統一」が達成される。
経済を活性化させ、領地を経済的に豊かにし、バラエティに富んだ家臣に恵まれた信長は、関東の「北条氏」が従属を申し出たことで、天下統一まであと一歩というところまで到達します。
ところがその直後、最も信頼を寄せていた家臣「明智光秀」に謀反を起こされ、本能寺で命を落としたのでした。
数々の戦国武将の中で信長が特に大躍進をした理由とは何か?
数多くの戦国武将の中で、織田信長だけが天下統一目前まで躍進できた、その理由はいったい何だったのでしょうか?
いくつかその要因が考えられますので、ひとつずつ上げていきます。
信長が新しいものを積極的に取り入れる柔軟な性格の持ち主だったから
信長は「長篠の戦い」で、徳川家康とともに「武田勝頼」を撃破しています。
この勝利をもたらしたのは、「鉄砲隊」でした。
最新兵器「火縄銃」を持った鉄砲隊を横列させ、一番隊が射撃したらすぐに二番隊が交代、二番隊のあとは三番隊、と休む間もなく武田軍に銃撃を浴びせたのです。(諸説あります)
対する武田軍は鉄砲隊ではなく、槍や刀で武装していましたから、装備面からみても武田軍に勝ち目はありませんでした。
「六角氏」が始めた「楽市楽座」を取り入れ、経済を活性化させた
「他人が作った政策でも、良いと思ったものは取り入れる」・・・そういった合理的で柔軟な性格が信長にはありました。
近江の「六角氏」が始めた「楽市楽座」を、信長は美濃平定後に自領に取り入れ、新興産業を奨励。自由取引市場を取り入れて、領地の経済活動を活性化します。
商工業が活発になれば、他の大名の領地に対して自分の領地の生産物を多く販売させ、その結果領地に多額の金銭が舞い込むことになり、信長自身の税収も増えますよね。
さらに信長は領地の街道を整備させ、人や馬が交通しやすい状況を作りました。街道整備を経済活動に役立てるだけでなく、織田軍の機動力を高めることも忘れませんでした。
戦のたびに農民や平民を徴兵するのではなく、織田軍強化のため、職業軍人を作った
【1588年】、イギリスの女王「エリザベス1世」は「アルマダの海戦」において「スペイン」の「無敵艦隊」と戦うにあたり、徴兵で頭数を揃えるのではなく、「海賊」をイギリス海軍として登用し、「無敵艦隊」と戦ってもらいました。
海賊は「海岸線・海流・海上の気象変化」などに詳しく、海上戦に長けています。
「無敵艦隊」という軍事のプロに、違法活動ではあるものの「海上戦のプロ」である「海賊」をぶつけ、見事に勝利しました。
戦において、どれだけ兵の数が勝ろうとも、その「兵の質」が低ければ、形勢不利となると大将を置き去りにして逃げていってしまいますよね。
それならば、活発にした経済活動がもたらした富を使い、「俸給を払うから織田家の足軽として働かないか」と人を集め、軍事訓練を受けさせ、「プロの兵士」を作ったほうが効率よく戦えます。(兵農分離)
信長は経済活動がもたらした富で人集めをし、強大な「足軽集団(傭兵部隊)」を作りました。
そして彼らの働き次第によって、身分を問わずに出世の道を開いたのです。
「兵農分離」しておけば、戦が長引いても農村で働き手が不足して農作物の収穫に問題が生じることもなくなりますから、経済的な打撃を避けることが可能になります。
この「兵農分離」によって、信長は長期遠征を可能としたのでした。
これは当時としては大変な「軍事改革」だったことでしょう。
それまでの常識を打ち破って積極的に新しいシステムを導入したことが、「上杉謙信」や「武田信玄」のような「信長」よりも戦が強い大名を相手にしても、最終的には信長が勝利できた理由でしょう。
信長は大変、運が強かった
「桶狭間の戦い」で、兵力で圧倒的に数が勝る「今川義元」に勝利できた理由は、信長自身が「鷹狩」で地形や気象を調査し尽くしていた地「桶狭間」の周辺で戦うことができたためです。
城に攻め込まれる前に、信長にとって「地の利に明るい場所」へと義元が移動したことが、信長には幸いしました。
もしこのとき「桶狭間」で激突せず、「清州城」に攻め込まれていたら、その後の天下人「織田信長」はなかったでしょう。
海風が吹く「時間帯」や「方向」に詳しかった信長は、風に乗せて大声を出して突撃。今川方に、実際より大軍団であると勘違いさせることに成功し、さらに運良く「義元」の本隊と鉢合わせしました。
兵力総数は多くとも、義元本人を守る部隊は「5千人程度」でしたから、信長本隊の「3千5百人」と大差ありません。
こうして数々の幸運が重なり、「今川義元」を討ち取った信長は、一気にその名をあげることに成功します。
さらに信長にとって運が良かったのは、同盟関係を破棄した強敵「武田信玄」が、上洛途中に信濃国駒場で病死したことです。
信長だけではなく、「清洲同盟」を結んでいた徳川家康も信玄に手こずり、敗北しています。
もし、信玄が病没せず、上洛に成功して「足利義昭」と合流していたら、その後の信長はなかったでしょう。
さらに信長の幸運は続きます。
「本願寺攻め」で関係が悪化し始めた「上杉謙信」も病没しました。
強力なライバル武将が相次いで亡くなったことが幸いし、関東の覇者「北条氏」も信長に臣従します。
これらの要因が相まって、信長は天下統一目前まで到達します。
しかし最も信頼を寄せていた家臣「明智光秀」に謀反を起こされ、最期は「本能寺」で命を落としました。
織田信長がもしも「本能寺の変」で死ななかったら・・・・
信長は「幕府」を開くつもりだった
【1582年6月2日未明】、「羽柴秀吉」の「備中・高松城攻め」に応援に行かせたはずの「明智光秀」が、僅かな手勢で本能寺に滞在していた信長を急襲。信長も応戦したものの、数で勝る明智軍に敗北しました。
もし「本能寺の変」が起きていなかったら、信長はその後どうなったでしょう?
これはあくまでも私見ですが、「幕府」を開いていたのではないかと思います。
【1568年】に信長が京都へ上洛したのは、もともと「足利義昭」の要請に応え、「室町幕府」を再興するためでした。
それが証拠に義昭を「征夷大将軍」につけたあと、『幕府の要職についてほしい』という義昭の申し出を断り、さっさと本拠地の岐阜へ帰ってしまいます。
その次に上洛したのは、義昭が「三好三人衆」らに「御所」を襲われた際、それを救援するためでした。
信長のこれらの行動の動機はすべて「将軍義昭様をお守りし、室町幕府を守る」というためのものだと思います。
ところが義昭はどんどん慢心し始め、信長の耳には義昭の不行状が届き始めました。
当然、信長は義昭を諌めますが、慢心しきった義昭は信長の意見に耳を貸そうとしません。
それどころか、信長を邪魔者扱いし始め、信長に敵対する勢力と手を結び、恩人であるはずの織田信長を滅ぼそうと画策し始めます。
信長の意見に耳を貸さない「義昭」に、爺やであった平手政秀の諌めに耳を貸さず、自害に追い込んでしまった若き日の己の不行状を思い出し、苦々しい思いを抱いていたでしょう。
それでも室町幕府を再興し、「天下静謐(てんかせいひつ)」のためと我慢した信長でしたが、武田信玄の上洛を待つような義昭の謀反に、堪忍袋の緒が切れました。
義昭を追放後は、自身が天下人となり、天下静謐を実現するために邁進します。
信長の目的は、あくまでも「天下静謐(平和)」
もし信長が「本能寺の変」で命を落とさず、その後の世の中を生き延びたとしても、恐らく「天下静謐」のために尽力したでしょう。
私は徳川家康が織田信長の理想を実現したと思っていますので、嫡男「織田信忠」を初代将軍として、織田幕府を開き、天下静謐を実現しようとしたと思います。
「豊臣秀吉」のように海外遠征などを行わず、国内の統一を行い、海外との貿易も盛んに行ったはずです。
信長の生きた時代、イエズス会はスペインの領土を広げる手伝いをしていましたから、もしかしたら日本をスペインのものにという動きを見せたかもしれません。
もしそのような動きを見せれば、全力で阻止したでしょうが、スペインは【1588年】の「アルマダの海戦」で「エリザベス女王」ひきいるイギリスに負け、海外での覇権を失っていきました。
ルイス・フロイスらによって「日本人は戦上手だ」と報告されていますから、信長が幕府を開いていたら、さすがのスペインも手出しすることを諦めていたのではないでしょうか。
信長が生き長らえていたら、キリシタンも禁制にならず、日本の町並みが「マカオ」のようにヨーロッパの影響を受けた異国情緒あふれる町並みになっていたかもしれませんね。
『織田信長』について「ひとこと」言いたい!
「織田信長」は、尾張からの家臣を重用していました。
その中で例外的に外様で厚遇されていたのが、「細川藤孝」と「明智光秀」だったのです。
畿内の警護を任され、信長から厚遇され、信頼も厚く寄せられていた「明智光秀」が、なぜ「本能寺の変」を起こしたのでしょう?
様々な説が提唱されていますが、『光秀は罠にはめられたのだ』と私は思っています。
「本能寺の変」のあと、織田家家臣の中で一番得をしたのは、誰でしょう?
「豊臣秀吉」ですね。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
光秀を「山崎の戦い」で破り、織田家家臣団の中で発言力を増した秀吉は、本能寺の変の翌【1583年】、織田家中の最大のライバル「柴田勝家」とその妻「お市の方」を「賤ヶ岳の戦い」で攻め滅ぼし、天下人へと駆け上がりました。
「織田信長」が亡くなったことで、一番利益を得たのは秀吉ですから、「本能寺の変」の黒幕として疑われて然るべきではないか、と私は思います。
「本能寺の変」の歴史的な意義としては、信長が亡くなり秀吉が台頭したことです。
そのため光秀の動機などを考察することは、歴史学会では「キワモノ」扱いされているのが非常に残念なことだと個人的には思います。
歴史研究家で「明智光秀」の子孫にあたられる「明智憲三郎」さんも、「明智光秀は羽柴秀吉の罠にはめられたのだ」と主張しておられました。
明智憲三郎さんの主張したストーリーが、漫画になって人気です。
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明智憲三郎さんの「黒幕説」は、非常におもしろい説だと思います。
明智さんは「光秀は徳川家康を暗殺しようとした織田信長を、逆に家康と協力して殺害した」と主張しておられます。
家康の孫にして三代将軍「徳川家光」は、祖父「家康」の「家」の一字と、光秀の一字である「光」を受け継ぎ、「家光」と名乗った・・・・とされています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「織田信長」は戦国時代の武将。数々の戦国大名の中で、天下統一へあと一歩のところまで躍進した革命的な人物。【1582年】、織田信長は「本能寺の変」で「明智光秀」によって殺害された
- 数々いる戦国時代の名将のなかで、織田信長が最大勢力へと躍進できた理由は、革新的な思想によって、当時の常識を次々とくつがえし続けたその頭脳と手腕による。
- もしも信長が「本能寺の変」で死ななかったら、その後「幕府」を開いて「天下静謐(平和)」を実現したのではないだろうか
以上となります。
この記事を短くまとめると、以下の通り
織田信長は【1534年】に尾張に生まれ、父「織田信秀」の死後家督を相続し、美濃の「斎藤道三」の娘「帰蝶」と結婚。道三を後ろ盾としました。
【1560年】、「今川義元」を「桶狭間の戦い」で破り、戦国の世に名を上げます。
【1565年】、「足利義昭」の要請を受け、【1568年】に上洛、義昭を室町幕府第15代将軍に就任させます。
しかし将軍就任後に慢心し始めた「義昭」は、次第に信長を疎んじるようになります。
【1573年】に義昭を京都から追放した信長は、以降「天下静謐」のため、尽力し始めました。
強力なライバルだった「武田信玄」や「上杉謙信」が病死したことも後押しし、天下統一目前までこぎつけます。
しかし【1582年】、京都・本能寺に滞在中、最も信頼を寄せていた家臣「明智光秀」に謀反を起こされ、亡くなります。
享年【49歳】でした。

《山形県天童市三宝寺所蔵、宣教師による織田信長肖像画Wikipediaよりパブリックドメイン》
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