この記事では「織田信長と前田利家の関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長と利家がどういう関係だったのか」を、カンタンに理解できます。
「信長と利家」は「愛人関係」であり「主従関係」であり、「親戚」でもあったのです。
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この記事を短く言うと
信長と利家は、「主君と部下」、「愛人関係」、「子供同士が結婚している親戚関係」だった。
2,「利家」は、「信長」の愛人だったのか?
信長の小姓をつとめていた利家は、信長の「夜の相手」をしていて、同僚から羨ましがられた
3,「利家」と「信長」の子供同士が結婚していたとは?
利家の長男「利長」と、信長の四女「永姫」が結婚している。二人の間に子供はいなかったが仲はよかったらしい
「織田信長」と「前田利家」の関係を、ザッと解説
「織田信長」と「前田利家」は、主君と部下の関係であるとともに、「子供同士」が結婚する「親戚関係」にありました。
特に有名なのが、「前田利家」が「織田信長」の「愛人」だったという関係です。
【1551年】、「前田利家」は13歳で「織田信長」の「小姓(こしょう・親衛隊または側近)」として仕えるようになります。
その後、前田利家は「赤母衣衆」という、信長直属の親衛隊・精鋭部隊の筆頭に任命され、数々の武功をたてるのでした。
「槍の又左衛門(またざえもん)」
通称「又左衛門」と呼ばれていた前田利家は、その槍(やり)の腕前から、「槍の又左衛門」という「あだ名」をつけられていました。
利家は、身長180cmほどの長身で、美男子だったといわれています。
また、派手な格好をした「傾奇者(かぶきもの)」だったともいわれています。
前田利家は、織田信長からとても気に入られ、信長の娘「永姫」は利家の息子「前田利長」に嫁いでいます。
以上のことから、「織田信長」と「前田利家」は
- 「主従関係」であり
- 「愛人関係」であり
- 「子供同士が結婚した親戚関係」であった
ということになります。
「前田利家の子孫と家系図」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「前田利家」は「織田信長」の愛人だった?
「前田利家」は、「織田信長」の愛人だった、といわれています。
つまりは、「夜の相手」をしていたということです。
当時、戦場において「小姓」は主君の「夜の相手」もしていたといわれています。
これは、戦場で女性を近づけると、暗殺される危険性があったため、信頼できる部下に夜の相手をさせたのです。
戦場に妻を連れていくわけにもいかなかったので、これは当時としては当然の習慣だったようです。
そのため、「小姓」は「美男子」が指名されたともいわれていますが・・・。
「徳川家康」の小姓だった徳川四天王の一人「井伊直政」は、かなりの美男子だったといいます。
「織田信長」が晩年に愛した小姓「森蘭丸」もまた、絶世の美少年だったといいます。
また、信長が生きた時代から約300年後の英雄「西郷隆盛」も、美男子「月照」と愛人関係にあったのだとか。
「前田利家」は、「織田信長」から特に愛され、同僚の男たちから羨ましがられた・・・といいます。
主従の信頼関係は、こういう方法でも強化されていったのでしょう。
「井伊直政」、「森蘭丸」、「月照」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「利家」の息子「前田利長」と、信長の娘「永姫」は夫婦だった
前田利家の息子「前田利長」の妻は、織田信長の四女「永姫」です。
当時、戦国武将の娘は、政略結婚のために他家へ嫁ぐのが当然でした。
しかし「織田信長」は、娘たちを大切に思っていたのか、他家へ嫁がせることが少なかったといわれています。
娘の多くは、重要な家臣の息子に嫁がせています。
その一人が、「前田利家」の息子「前田利長」でした。
利長は、のちに「豊臣秀吉」がつくった「豊臣政権」において、父「利家」の後を継ぐように「豊臣五大老」の一人となっている武将です。
当時から将来を有望視されていたのでしょう。
そして、信長からすれば、「利家の息子なら、娘を嫁がせても安心」と、信頼していたと考えられます。
ただ、「永姫」の結婚生活は、幸せとは言えないものだったのかもしれません。
利長と永姫の関係は、非常に良いものでした。
しかし、子宝に恵まれなかったのです。
「誰でもいい。どんな女でもいいから、夫・利長の子供を産んでほしい」
こんな悲痛な言葉を残しているのです。
永姫は心から利長を愛していたのでしょう。
利長は、側室との間に「満姫」という女子をもうけたものの、満姫は幼くして亡くなっています。
【1614年】、前田利長は病死。
「永姫」は、その9年後の【1623年】に、50歳で亡くなっています。
利長は、異母弟「前田利常」を養子として、加賀藩を継承させています。
「利家」は「信長」を尊敬していた!「秀吉」への憎しみと「秀頼」への忠誠
前田利家は、「織田信長」を尊敬していたといわれています。
そのため、織田信長の血を引く「豊臣秀頼」に忠誠を誓っていた、という説があるのです。
ただ、その反面、親友と考えられている「豊臣秀吉」のことを、実は嫌っていた、という説も存在しています。
前田利家は、織田信長を尊敬し、心酔していたという説があります。
利家はやはり、寵愛してくれた織田信長に対して、特別な感情を抱いていたのかもしれません。
利家といえば、ご近所さんで奥さん同士も仲がよかった「豊臣秀吉」と、若い頃からの「親友同士だった」といわれています。
しかし、「利家」は「秀吉」を憎んでいた、という説もあるのです。
秀吉は、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなったあと、「織田家」をめちゃくちゃにして乗っ取っているのです。
「秀吉」は、信長の三男「織田信孝」を自害させ、次男「信雄」を屈服させて没落させます。
また、信長の孫「三法師(織田秀信)」をも屈服させて、小さな領地の大名に抑え込んでいます。
それだけではありません。
秀吉は、信長の娘「三の丸殿」を、側室としているのです。
挙句の果てに、秀吉は「利家」の娘「加賀殿(摩阿姫)」を、わずか15歳で側室としているのです。
一般的には、「前田利家」は「豊臣秀吉」の親友であったといわれています。
しかし、秀吉に尊敬する「織田信長」の子供たちをめちゃくちゃにされ、幼い娘「加賀殿」を側室とされた・・・。
利家が、秀吉をどのように思っていたのかを想像するのは、それほど難しくないと思います。
ただし、利家は「秀吉」の息子「豊臣秀頼」に対してだけは、忠誠を誓っていた、ともいわれています。
なぜ「秀吉」を憎んでいたにもかかわらず、その息子「豊臣秀頼」にだけは忠誠心を抱いていたのでしょうか?
理由は簡単です。「秀頼」の母が「織田信長」の姪にあたる「茶々姫(淀殿)」だったからです。
「茶々姫」の母は、「織田信長」の妹「お市の方」です。
つまり「豊臣秀頼」は、織田信長の妹の孫。秀頼からすれば、織田信長は「大伯父」に当たるのです。
利家は、織田信長の血を引く「豊臣秀頼」にたいしては、敬意を抱き、忠誠心を抱いていたのでしょう。
前田利家は、「豊臣秀吉」の死後、次の天下人と考えられていた「徳川家康」に真っ先に取り入っています。
しかし同時に、秀頼を守るため、家康を牽制(けんせい)することもしています。
利家は、秀吉亡き後の豊臣家が、天下人で居続けることができないと考えていたのでしょう。
天下人の座は「徳川家康」にゆずり、その下で「豊臣家」を存続させることを考えていたのかもしれません。
ただ、もしも前田利家が、もう少し長く生きていたら、天下は「徳川家康」より先に、「前田利家」がおさめていたかもしれません。
武闘派の前田利家は、人望が高く、「徳川家康」以上に、多くの武将から支持されていたからです。
豊臣秀吉が亡くなった翌年の【1599年】、前田利家は亡くなります。
「俺は義理のない戦は一度たりともしていない。
そんな俺が地獄行きなら、閻魔を殺してもどってくる」
利家は、そう言って亡くなったといわれています。
「本能寺の変」、「豊臣秀頼」「徳川家康」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」と「前田利家」は、「主君と部下」、「愛人関係」、「子供同士が結婚している親戚関係」だった。
2,信長の小姓をつとめていた利家は、信長の「夜の相手」をしていて、同僚から羨ましがられた
3,利家の長男「利長」と、信長の四女「永姫」が結婚している。二人の間に子供はいなかったが仲はよかったらしい
以上となります。
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ありがとうございました。
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