「征夷大将軍」と「関白」は、どちらのほうが偉いのか?そして、何が違うのでしょうか?
わかりやすく解説いたします。
「征夷大将軍」は、武士のトップ。
「関白」は、お公家さんのトップ。
豊臣秀吉は「将軍になれなかったから関白になった」のではなく、わざわざ難しい「関白」を選んでいた!
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この記事を短く言うと
・「征夷大将軍」は武士の最高位。「関白」は公家の最高位
・関白のほうが征夷大将軍よりも偉いということになっているが、時代と共に征夷大将軍のほうが権限が強くなっていく
征夷大将軍と関白はどっちが偉い?
・征夷大将軍
本来、征夷大将軍は蝦夷討伐の指揮官として任命された役職のひとつ。
当初は「征東大将軍」のと呼ばれていました。
征東大将軍は太平洋側から進軍した軍の指揮官を指し、対して日本海側から進軍した方は征狄大将軍と呼ばれました。
この役職は派遣された軍隊の最高指揮官であり、天皇の代理人として軍事行為を行っていたため、軍事に関わる人にとって最も高い権限を持ちます。
当初は蝦夷の討伐が目的の役職でしたが、【940年】に「藤原忠文」は「平将門」討伐を目的として、【1184年】に「源義仲(木曽義仲)」は「源頼朝」討伐を目的にそれぞれ任命されます。
このように、征夷大将軍の目的は当初のものから変わっていきます。
頼朝が就任したのち、征夷大将軍は武士の最高権威としての地位を示すものになりました。
・関白
関白とは、意見を申し上げることで成人した天皇を補佐し、天下の政を行う役職のことを指します。
関白は
天子の政務に関(あずか)り白(もう)す
の意味で,平安中期,藤原基経がこの任に初めてつきました。
関白は成人した天皇を助ける形で政治を行うことが特徴で、政治の決定権はあくまでも天皇にあります。
令外の官の1つであり、公家官位の最高であるとされています。
天皇幼少時の摂政と並んで成人後の天皇を補佐した関白は,もっぱら藤原氏がなり,特に道長の子孫がこれを独占し摂関政治を行います。
中世に入ってからはその子孫の近衛,鷹司,九条,一条,二条の五摂家が交代で就任し,明治に至ります。
将軍と関白は「仕事」が異なっている
・征夷大将軍
征夷大将軍は、天皇の勅令によって任命される役職です。
桓武天皇の時代に、蝦夷出身の伊治呰麻呂の反乱によって東北地方が大混乱におちいります。これを制圧するため、征夷大将軍を任命し軍隊を作ります。最初の征夷大将軍は大伴弟麻呂でした。
【811年】に征夷大将軍は廃止されますが、平安時代末期に「源義仲(木曽義仲)」が再度任命されたことで復活します。
征夷大将軍には、戦争で獲得した地域に「臨時の軍政を行う権利」がありました。
この軍政を行う臨時に政治を行う組織が「幕府」であり、そのトップが「征夷大将軍」です。
つまり幕府には、「今、日本は戦争などで非常事態だから、貴族にかわって武士が臨時に政治をおこなう臨時の役所」という意味がありました。
その中の「武士が臨時に政治を行う」という意味だけが広がり、鎌倉時代にはこの非常事態が日常化し、鎌倉幕府となります。
・関白
天皇を補佐し、権限を代行して政治を行う政務をつかさどる重職のこと。
最高位・太政大臣よりさらに上の職で、敬称は「殿下(でんか)」でした。
天皇の幼少時に摂政の職にあった人物が、天皇の成人後に引き続きこの役職に着くことが多かったようです。
関白の職務役割は、一般的には政治の総覧、及び天皇の代理人、相談役です。
もちろん最終的な決定権は天皇にあり、関白が独断で政治を行うことはできません。
公卿というよりも天皇の代理人であるため、朝廷の最高意思決定機関である太政官の議政官には出席しない慣例がありました。
関白の政治権力は「法案の最終稿を天皇に先んじて読むことのできる権利」つまり内覧であるため、正式には関白に任じられずに、あるいは任じられる前から内覧の権利のみで関白と同等の権力をふるった者もいます。
876年 (貞観十八年)初代関白の藤原基経は、9歳で天皇に即位した陽成天皇の摂政につきました。
のちに陽成天皇は退位、大叔父の光孝天皇(55歳)が即位すると、国政などを基経に委任する詔書を出します。これが「関白」の原型とされています。
時代が下ると「武士のトップである征夷大将軍」に対する「公家のトップ」としての意味合いが大きくなります。関白は巨大な権力を有することができたため、時代が下っていくことに権勢は制限されていきます。
なぜ豊臣秀吉は「関白」で、家康は「将軍」だったの?
1585年(天正13年)、羽柴秀吉が絶大な権力を持ち始めたころ、朝廷内で関白職をめぐる争い「関白相論」が起こります。
この争いは羽柴秀吉を関白に引き上げる結果をもたらし、ここに「武士の軍事力」と「関白の権威」をあわせ持つ「豊臣政権」が誕生します。
藤原氏出身者以外の人間が関白になるのは、これが史上初めての事でした。
武士が関白を務めることを指して「武家関白」と言い、関白が全国の武士を支配する全国支配体制を「武家関白制」といいます。
本来は公家のものであった「律令制」の官位を使って武士を統制しようという秀吉の狙いは当たり、豊臣政権は天下統一に成功します。
「征夷大将軍は『源氏』しかなれない」
と言われているようですが、そんなことはありません。その証拠に、晩年の織田信長は「平清盛の末裔」、つまり「平氏」であるにもかかわらず「征夷大将軍」への就任を打診されています。
そのため、秀吉にも「征夷大将軍」就任の可能性が、あるにはあったのです。征夷大将軍になれなかったから「関白」を目指したのではありません。
実は秀吉、当初は「征夷大将軍」への就任を目指していたようですが、途中で方針を転換し、「関白」への就任を目指すようになります。
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」
すなわち「源(みなもと)」「平(たいら)」「藤原(ふじわら)」「橘(たちばな)」
この「4つの姓」を持つ者しか就任できない慣習をもつ「関白」に、農民出身の「羽柴秀吉」が就任するというのは、前例のない異例の行為。それは「秀吉が征夷大将軍になる」よりも、遥かに難しいことでした。しかし、五摂家の1つ「近衛家」の「近衛前久」に養子入りすることで、秀吉は関白就任に成功します。
しかし、「豊臣家が関白を世襲する」という目論見は外れ、秀吉亡き後、1615年 (慶長二十年)の「大坂の陣」で豊臣家は滅亡。秀吉・秀次と、武家関白制はわずか二代で終わりを告げました。
このあと関白職はふたたび、藤原氏の子孫である五摂家が持ち回りで務める事になります。
徳川家康は征夷大将軍となりますが、鎌倉幕府にて「源頼朝」が征夷大将軍を任官して以降、征夷大将軍が幕府で最上位の役職として用いられ、世襲制で受け継がれるようになります。
徳川家康が江戸幕府を開くころ、「征夷大将軍」の本来の意味がうすまり、「武士の棟梁」というイメージが完全にできあがっていました。
江戸時代において、征夷大将軍は武家政権の最高権力者として長期にわたって君臨し続けます。
家康と秀頼の主従逆転
余談ですが、徳川家康と豊臣秀頼・・・・この二人は当初「豊臣秀頼」が主君で、家康が家来という関係でした。
しかし、後に二人の主従関係は逆転。一説には「二条城」で二人が顔を合わせたときに、主従が逆転したと言われています。
これは拙者独自の理論でしかありませんが、「家康」が征夷大将軍に任命されたときに、主従が逆転したのではないでしょうか?
なぜなら「征夷大将軍」は「武士の棟梁」・・・武家である「豊臣家」もまた、征夷大将軍「源(徳川)家康」の臣下と言えるのでは?
主従すら逆転させる権威「武門の首座」・・・それが「征夷大将軍」なのです
まとめ
本日の記事をまとめますと
・征夷大将軍は武士の最高権力、関白は公家官位の最高の位。
・正式には関白が上の位だが、時代とともに征夷大将軍のほうが強くなってくる。
・豊臣秀吉は政治的関与ができる関白を、徳川家康は世襲できる征夷大将軍を選んだ。
以上となります。
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