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織田信長に「本物の写真」はある?有名肖像画を秀吉が書き直した衝撃の真実と復元された素顔

「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」

炎に包まれた本能寺で幕を閉じた織田信長の生涯は、大河ドラマや映画で何度繰り返し描かれても、見る者の胸を揺さぶります。そんな信長についてインターネットで検索すると、今も「織田信長 写真 本物」というキーワードが頻繁に検索されていることをご存知でしょうか?

写真技術が存在しない戦国時代の人物に、なぜ「写真」という言葉がついてまわるのか——その背景には、現代人が信長に抱く圧倒的な「リアルへの渇望」があります。さらに、私たちが歴史の教科書で必ず目にする「あの有名な肖像画」にも、美術史を揺るがす描き直しのミステリーが隠されているのです。

この記事では、宣教師の記録や最新の科学調査、そして肖像画をめぐる歴史ミステリーを丁寧に解きほぐしながら、「本当の信長の顔」に迫る旅へ皆さんをご案内します。

この記事のポイント
  • 「信長の写真」が検索されつづける都市伝説の正体と、その噂が生まれた理由がわかる
  • 長興寺の有名な肖像画に隠された「別人説・描き直し説」の最新研究がわかる
  • 大徳寺の肖像画を「豊臣秀吉が地味に描き直した」という衝撃のミステリーがわかる
  • 宣教師ルイス・フロイスが見た「本当の信長の顔と性格」が史実ベースでわかる

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目次

織田信長の「本物の写真」は存在するのか?

「信長の写真を見た」「本物の写真があるらしい」——こんな噂をSNSやネットで目にしたことはありませんか?実はこの噂、歴史的な背景と現代のデジタル社会が生み出した、とても興味深い現象なのです。

写真がない戦国時代に「本物」が検索される理由

結論から申し上げると、織田信長の本物の「写真」は物理的・年代的に完全に存在しえません。写真技術(ダゲレオタイプ)がフランスで発明されたのは1839年、日本に伝わったのは幕末の1848年頃です。信長が本能寺の変で亡くなった1582年とは、約260年もの隔たりがあります。

では、なぜ今も「本物の写真」が検索されているのでしょうか?その理由は大きく2つあります。

一つ目は、山形県天童市の三宝寺(さんぽうじ)に伝わる、まるで「古い白黒写真」のように見える超写実的な肖像画の存在です。日本の伝統的な水墨画とは異なり、西洋の画法による陰影がついたこの絵は、ネット上で「信長の写真みたいだ!」という驚きとともに拡散し、いつしか「本物の写真がある」という都市伝説へと変化したのです。

織田信長(三宝寺蔵)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

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二つ目は、幕末から明治期に撮影された別の武士や歌舞伎役者の古写真が、インターネットのまとめサイトやSNSで「信長の真の姿」として誤認・拡散された事例の存在です。丁髷(ちょんまげ)を結い鋭い眼光を持つセピア色の古写真が、「教科書が教えてくれない真実」を求める読者の確証バイアスと結びついた——これは現代ならではの「デジタル・フォークロア(現代のインターネット上の民間伝承)」とも呼べる現象です。

筆者・レキシル氏

私自身この都市伝説を初めて知ったとき、正直「そんなわけないだろう」と思いながらも、つい検索してしまいました。それほど人間は、歴史上の偉人の「本当の顔」を自分の目で確かめたいという欲求が強いのだと思います。信長に限らず、坂本龍馬や西郷隆盛の肖像をめぐっても似たような噂が後を絶ちません。これは、「歴史を身近なものとして感じたい」という、とても真っ当な人間の感情の表れではないでしょうか。

まとめ:信長の写真が「ない」理由
  • 写真技術は1839年発明。信長の没年(1582年)とは約260年のズレがある
  • ネット上に出回る「写真風の画像」は、超写実的な肖像画か幕末武士の写真の誤認
  • 近年はAIが生成した「リアルな信長の顔」も出回り、真偽の判断が難しくなっている

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現代の科学技術で「信長の顔」をリアルに復元!

写真が存在しない以上、「信長の本当の顔」を知るためには科学の力に頼るしかありません。過去に複数の研究機関やテレビ番組の特別企画において、警察の科学捜査手法(法医学的顔貌復元)を応用した復元プロジェクトが実施されてきました。

残念ながら、信長の遺骨は本能寺の変の炎の中で失われたとされているため、遺骨から直接顔を復元する「復顔法」は使えません。そのため、以下の3つのアプローチが組み合わされています。

アプローチ内容
①肖像画の骨格逆算現存する信頼性の高い肖像画の目鼻立ちの配置・輪郭・耳の位置などを計測し、頭蓋骨の形状を推測
②子孫の顔貌データ分析織田家の子孫(例:フィギュアスケーターの織田信成さん)の遺伝的な骨格の特徴を統計的に処理してベースモデルに反映
③人類学的な時代補正戦国時代の武士が食べていた硬い玄米・乾物などの食習慣から、下顎の骨や咀嚼筋の発達を補正

これらの複合的な分析から復元された信長の顔立ちは、現代の大河ドラマやゲームが描く「屈強で野性的、威圧的な武将」とは大きく異なります。復元された信長の顔は、面長で鼻筋が真っ直ぐに通り、顎の線が細く、切れ長の目を持つ「公家のような貴族的で神経質な顔立ち」だったとされています。

この結果は、織田家が越前国(現在の福井県)の劔神社(つるぎじんじゃ)の神官の家系にルーツを持つとされることや、中世における支配階級の血統的な特徴とも合致しています。信長の妹である「お市の方」が戦国一の美女として名高かったことを考えると、信長もまた、現代のイメージとはかなり異なる繊細な美しさを持っていた可能性が高いのです。

筆者・レキシル氏

ドラマや映画で、織田信長を演じる人は、誰もがイケメンです。高橋英樹さん、渡哲也さん、反町隆史さん、舘ひろしさん、豊川悦司さん、吉川晃司さん、吉田鋼太郎さん、染谷将太さん、木村拓哉さんなどなど。だから「信長はイケメンだ」と無意識に刷り込まれても不思議ではありませんよね。でも、意外とイケメンって、どこにでもいるものじゃありません。アニメとかドラマとかゲームで、かっこいい人として描かれる偉人も、案外とイケメンじゃなかったのかも・・。いや、でも、信長と父母を同じくする妹のお市の方は、娘の「初」の証言によると「三十代なのに二十代にしか見えない若作りの名人だった」とのことですし。やはりイケメンだったのでしょうか?秀吉や家康は、猿とかハゲネズミとかタヌキとか呼ばれているから、イケメンから程遠いというのは、すぐわかりますけどね


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教科書でおなじみ!長興寺の「織田信長の肖像画」の謎

「織田信長」と聞いて誰もが思い浮かべる、萌黄(もえぎ)色の肩衣をまとい、厳しい表情で畳に座るあの肖像画。実はこの絵には、美術史の専門家が注目する深いミステリーが隠されているのです。

長興寺の肖像画はどこにある?描いた人と公開の時期

あの有名な肖像画は、愛知県豊田市にある「長興寺(ちょうこうじ)」というお寺が大切に保管している、国の重要文化財です。信長が本能寺の変で亡くなった翌年の1583年、家臣の与語正勝(よごまさかつ)が信長の一周忌法要に際して描かせ、寄進したと伝えられています。

織田信長(長興寺蔵)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

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絵師は、安土桃山時代を代表する天才絵師・狩野永徳(かのうえいとく)の弟にあたる狩野宗秀(かのう そうしゅう)です(作品の裏面に押された印章に「元秀」とあることから判明)。当時の日本画壇のトップクリエイターが、天下人・信長の肖像を手がけたわけです。

この長興寺の肖像画は、普段は厳格な温湿度管理の保管庫に収められており、一般の方が実物を見られるのは数年に一度の特別展のみです。直近では2025年5月31日〜6月15日に、豊田市美術館髙橋節郎館(たかはしせつろうかん)にて6年ぶりとなる特別公開が行われました。公開のニュースを見かけたら、それは「本物の信長に会える」絶好の機会ですよ。

項目詳細
所蔵場所愛知県豊田市・長興寺(国指定重要文化財)
制作年1583年(天正11年)/信長没後1年
絵師狩野宗秀(狩野永徳の弟)
公開頻度数年に一度の特別展のみ(直近:2025年豊田市美術館関連施設)
文化財指定国の重要文化財

衝撃のミステリー!あの有名な肖像画は「別人」だった?

「長興寺の肖像画は、実は別人を描いたのではないか?」——この噂は一部の歴史ファンの間で長年囁かれてきました。近年行われた修復作業に伴うX線透過撮影・赤外線反射撮影・蛍光X線分析(XRF)といった最新の非破壊科学調査によって、絵の具の層(特に顔面部)に複数の塗り直しの痕跡や、下書きからの微妙な線の修正が確認されています。

しかし、美術史の専門家の見解は、「劇的な偽造ではない」というものです。日本の肖像画、特に「頂相(ちんそう)」と呼ばれる高貴な人物の肖像を描く文化において、完成後に発注者の意向を考慮して目元の鋭さや口元を「理想化」して修正すること(ペンティメントと呼ばれる技法)は当時ごく一般的でした。


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重要なのは、信長特有の面長な輪郭や高い鼻梁といった骨格的特徴は、下層部のデッサンから一貫して認められており、「別人から信長に描き換えた」という別人説を裏付ける決定的な科学的証拠は発見されていないという点です。

それでは、なぜあの肖像画の信長はあんなに「怖い顔」をしているのでしょうか。私が興味深いと思うのは、絵師の狩野宗秀が信長と直接会ったことがなく、家臣や関係者の記憶と証言だけを頼りに描いたという点です。「うちの殿様はいつも眉間にシワを寄せて、こんなに威厳のあるお顔をされていた」という家臣たちの記憶の中の信長が、意図的かどうかはわかりませんが「理想化」されて描かれた可能性は十分にあるでしょう。つまり長興寺の肖像画とは、「家臣たちの記憶の中で神格化された信長の姿」と言えるかもしれません。

肖像画が後から「描き直し」されたという噂の真相

「肖像画が描き直された」というミステリーで、最も有名で学術的にも注目されているのは、長興寺の肖像画ではなく、京都の大徳寺(だいとくじ)に所蔵される信長の肖像画にまつわる話です。

大徳寺の織田信長の肖像画はこちらからご覧いただけます

2008年から行われた解体修理に伴うX線調査によって、現在の表の絵の下に「もう一つの絵」が隠されていることが判明しました。元の絵には、緑や茶色の派手な着物・大きな桐紋・腰に差した刀が2本描かれた、いかにも「ド派手な天下人・信長」の姿があったのです。

ところが現在の表の絵は、着物の色は地味になり、模様も目立たなくなり、刀も1本に減らされています。いったい誰が、何の目的でわざわざ完成した絵を「地味」に修正させたのでしょうか?

「犯人」は豊臣秀吉?その動機とは
  • 信長の三回忌法要を主催した豊臣秀吉が、改変を指示した可能性が高いとされる
  • 動機:「かつての主君・信長があまりに偉大に見えると、自分(秀吉)の権威が薄れる」という天下人としてのプライド
  • 「信長より自分が上だ」と世間にアピールするため、信長の姿をトーンダウンさせた、というのが有力な説

天下人のドロドロとしたプライドが400年後の現代に科学で暴かれる——これが歴史の面白さですよね。私はこのエピソードを知ったとき、「あのハゲネズミ(秀吉)は寧々(ねね)宛の手紙でも信長にからかわれていたし、死後にまで信長にコンプレックスを抱いていたのか…」と、思わず苦笑してしまいました。

豊臣秀吉
Wikipediaコモンズ」より引用

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宣教師が見た「真の信長」と幻の西洋画

日本の絵師たちが「神格化」のフィルターを通して信長を描いた一方、大航海時代にはるばる日本に来たヨーロッパの宣教師たちは、全く異なる視点で信長の姿を記録していました。その記録こそが、最もリアルな「生身の信長」に迫る手がかりです。

ルイス・フロイスが見た信長の容貌と性格

信長の「生身の姿」を語る上で最も信頼できる一次史料が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した著書『日本史(Historia de Iapam)』です。フロイスは信長と複数回にわたって直接の対話を行い、その容姿・性格・嗜好に至るまでを西洋人の冷静な目で克明に記録しました。

特徴フロイスの記録
身長・体格中くらいの背丈で細身。甲冑の寸法から165〜170cm程度と推測。当時の平均より高身長だった
髭(ひげ)「髭が薄かった」と明記(大河ドラマの立派な髭のイメージとは真逆)
「甲高い声で話す」と明記。低音の威圧的な声ではなく、高くよく通る声質だった
性格極端に性急(せっかち)。論理的で徹底した合理主義的思考。日本の神仏を信じていない
清潔感「極端に清潔好き」。当時の日本人と比較しても突出した潔癖症ぶり

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特に注目すべきは「髭が薄かった」という記述です。大河ドラマや映画では、信長は立派な口髭・顎髭を持つ威圧的な武将として描かれることが定番ですが、これは史実と異なる可能性が高いのです。戦国時代において、髭は「武士らしさ・男らしさ・威厳の象徴」とされており、権力者の肖像を描く絵師が「理想化して髭を描き足す」のは当時の慣習でした。

実は、数ある信長の肖像画の中に「髭のない信長」を描いた非常に珍しい一点が存在します。兵庫県丹波市の柏原藩(かいばらはん)に伝来する肖像画で、丹波市教育委員会も「なぜ髭がないのか理由は不明だが、特異な画像だ」と認めています。この「身内の藩に伝わる、あえて髭を描かなかった肖像画」こそ、フロイスの記録と合致する「もっとも生前の信長に近い姿」である可能性を私は強く感じます。

宣教師が描いた写実的な肖像画とは?幻の油彩画の謎

冒頭でご紹介した三宝寺の「写真のような写実的な肖像画」。これはイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオが来日後に描いたと言い伝えられています。ただし、ニコラオが来日したのは1583年——信長が亡くなった翌年のことです。

では、あのリアルな顔をどうやって描いたのか?一説によると、信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)が父の顔をよく知る家族として細かな指示を出しながら描かせたとされています。「目元はもっと切れ長に」「鼻は高く」と、当時の記憶が生々しい家族が立ち会って完成させたとすれば、三宝寺の写実画はほかの肖像画と比べて「もっとも本物に近い可能性が高い」ということになります。

さらに、歴史ミステリーとして語り継がれているのが「幻のヨーロッパ風油彩画」の存在です。信長は宣教師たちと親交が深く、地球儀や時計など西洋の文物を愛した人物でした。宣教師たちが、ヨーロッパの王侯貴族やローマ教皇への報告として、日本の最高権力者・信長の写実的な油彩肖像画を船に乗せて本国へ送ったという伝承があるのです。

南蛮屏風
Wikipediaコモンズ」より引用

しかし、過酷な航海での沈没、ヨーロッパでの戦乱、あるいは江戸時代のキリシタン弾圧による美術品の焼却などにより、もし存在していたとしても現在は失われた「幻の肖像画」となっています。「ヨーロッパのどこかの修道院の地下書庫に今も眠っているのではないか」というロマンは、400年後の今も歴史ファンを惹きつけてやみません。私もこの話を知るたびに、イタリアやポルトガルの修道院の古い倉庫を想像しながら、なんともいえないワクワクした気持ちになります。


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現代のイラストで「かっこいい信長」が描かれる理由

現代のゲームやアニメ、歴史小説で描かれる信長は、「冷徹でスマートなイケメン魔王」というイメージが定番ですよね。この強固なキャラクターイメージはいつ、どのようにして完成したのでしょうか。

信長が自らを「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と称したのは、武田信玄が書状で仏教的権威を誇示したのに対し、信長が意趣返しとして署名したことに由来するとされています(諸説あり、フロイスの書簡に記録されています)。当初は政治的なレトリックに過ぎませんでしたが、江戸時代の講談では比叡山焼き討ちなどを理由に「残虐な暴君」として描かれ始めます。

転換点となったのは、昭和期の吉川英治や司馬遼太郎らの歴史小説です。彼らの筆によって信長は「時代に先駆けすぎた孤高の天才・悲劇の革命児」としてロマンチックに再構築されました。そして1980年代以降、劇画やコンピューターゲームのキャラクターデザインが加わり——黒ずくめの衣装、鋭い眼光、長髪の美青年——という「冷徹でイケメンな魔王」という現代の信長像が完成したのです。

本能寺の変(名古屋市所蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

フロイスが記録した「ヒゲが薄く、甲高い声のせっかちな清潔好き」という史実の信長は、現代の「重低音でしゃべる威厳ある魔王」とは正反対と言っていいかもしれません。

面白いのは、史実の信長も現代のイケメンCEO像に通じる要素を持っている点です。「頭の回転が速く無駄を嫌い、西洋の文化をスタイリッシュに着こなす、スリムで清潔感のあるカリスマ」——現代に置き換えれば、ITベンチャーの創業社長のような雰囲気ではないでしょうか。信長が「かっこいい」と感じられ続ける理由は、史実とフィクションの両方に、それぞれの「かっこよさ」があるからなのだと思います。

そんな信長の「かっこよさ」と「複雑な人間性」は、これまでの大河ドラマでも幾度となく描かれてきました。2020年放送の大河ドラマ『麒麟がくる』では、染谷将太さんが演じる信長が、深く澄んだ眼差しと独特の緊張感のある口調で「肖像画とは異なる、リアルで繊細な信長像」を体現しており、多くの歴史ファンに鮮烈な印象を残しました。フロイスが記した「理知的で神経質、せっかちだが人を引きつける魅力」という描写と不思議と重なる演技は、史実をベースにした解釈として私には非常に説得力があるものに感じられました。

筆者・レキシル氏

数あるドラマの中で、筆者がもっとも印象に残っている「織田信長」は、大河ドラマ「秀吉」で、俳優・渡哲也さんが演じた信長です。主人公の秀吉をかわいがり、それでいて厳しく鬼のように怒り狂う様は、まさに魔王でした。圧倒的な迫力と恐ろしさに、「織田信長ってこんなひとだったのだろうなぁ」と感じるどころか、「これが織田信長だ」と思い込んでしまったほどです。今でも筆者の頭の中では、歴史上の織田信長は、渡哲也さんとまったく同じお顔をしています。秀吉を笑顔で褒める一方で、明智光秀に対しては、その母親を容赦無く死に追いやる。まさに第六天魔王・織田信長を演じた渡哲也さんは、圧倒的でした。また、おなじく「秀吉」で、千利休を演じられた「仲代達矢」さんも、陽気でありながら迫力があり、静かな凄みを発した名演技でした。
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大河ドラマの「信長像」と史実のギャップ

最新の歴史研究が提示する「生身の信長」の姿は、私たちが慣れ親しんだドラマや小説のイメージとは、いくつかの点で大きく食い違っています。最後にこのギャップを整理してみましょう。

「冷徹な魔王」は本当?筆マメな常識人・信長の素顔

ドラマの中で信長は「気に入らない家臣を理不尽に斬り捨てる、血も涙もないサイコパス」として描かれることが多いですよね。しかし近年の一次史料(古文書・自筆書状)の再評価から浮かび上がってくる実像は、それとは大きく異なります。

信長は極めて「筆マメ」な人物でした。前線の武将への細かな補給物資の指示から始まり、領国の政務まで、現代のCEOのようなマイクロマネジメントを書状で行っていた記録が多数残っています。これは「感情で動く暴君」ではなく、「論理的で官僚的な実務能力を持った統率者」の姿です。

特に有名なのが、豊臣秀吉の正室・寧々(ねね)に宛てた手紙です。秀吉の浮気に悩む寧々に対し、天下人の信長はわざわざ自筆で次のような趣旨の励ましの言葉を送っています——「あなたは昔よりずっと美しくなった。あのハゲネズミ(秀吉)があなたに不満を持つなど言語道断。正妻なのだから堂々として、この手紙を秀吉にも見せなさい」。

一国の覇者が、部下の妻の家庭の悩みにここまで寄り添う——この一通の手紙だけで、「魔王」というイメージが大きく揺らぎます。


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また、明智光秀への「理不尽な折檻(せっかん)」のエピソードも、多くが後世の軍記物によってドラマチックに脚色されたものであり、同時代の一次史料では確認できないものが大半だとされています。「残虐な魔王」は、既存の強固な権威を破壊するために信長が戦略的に用いた「恐怖という名の政治的ツール」の側面が過大にクローズアップされた姿であり、生身の信長は、部下の夫婦の悩みにまで寄り添い、兵站(へいたん)の細部まで気を配る、極めて人間的な実務家だったのです。

まとめ:写真がなくても色褪せない信長の魅力

「織田信長の本物の写真」は存在しませんでした。しかし、残された肖像画・宣教師の記録・最新の科学調査を紐解いていくと、教科書には載っていない「リアルな信長の姿」が鮮やかに浮かび上がってきます。

  • 家臣たちが畏怖を込めて描かせた「長興寺の肖像画」(家臣の記憶の中で神格化された姿)
  • 豊臣秀吉のプライドによってこっそり描き直された「大徳寺の肖像画」
  • 家族の証言と西洋技術が融合した可能性を持つ「三宝寺の写実画」
  • そして、ヨーロッパのどこかに今も眠っているかもしれない「幻の油彩肖像画」

写真という確固たる証拠がないからこそ、「本当はどんな顔で、どんな声で笑ったのだろう?」という想像力が掻き立てられます。その「余白」こそが400年の時を超えて人々を魅了し続ける、歴史ミステリーの最大の醍醐味ではないでしょうか。次に大河ドラマで信長が登場したとき、ぜひ「ヒゲの濃さ」と「声の高さ」に注目してみてください——史実との違いを知ることで、歴史はもっと深く楽しめるはずです。

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