この記事では「織田信長の顔写真」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長の顔写真」が「本物かどうか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長の顔写真」といわれている代物は、本当は「顔写真」ではなくて「写実的に描いた似顔絵」なのだそうです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の「顔写真・似顔絵」は、どこにあるのか?
現在「山形県天童市」の「三宝寺」というお寺が所蔵している
2,なぜ「織田信長の顔写真・似顔絵」が、「山形県天童市」にあるのか?
「織田信長」の次男「織田信雄」の末裔が、江戸時代にこの「山形県天童市」に位置していた「天童藩」を治めていたから。そのときの「織田家の菩提寺」が「三宝寺」であり、「織田信長の位牌」も存在している。
3,織田信長の「似顔絵」は、本当に「織田信長の顔」を描いたものなのか?
おそらく本当に「織田信長」の顔を描いた代物だろうが、誰がいつ描いた物なのかは、ハッキリしていない。
織田信長の「顔写真・似顔絵」は、現在どこにあるのか?
織田信長には、「顔写真」が現存していることをご存知でしょうか?
その信長の顔写真とは、こちらです。
今から約【450年前】を生きていた「織田信長」の写真が残っているなんて。
これは本物なのでしょうか?
この「織田信長」の顔写真、実は「写真」ではなくて、「肖像画」なのです。
「写実画」であり、当時海外から来た宣教師が、西洋の画法をつかって描いた「織田信長の似顔絵」なのだとか。
現在「山形県天童市」にある「三宝寺」というところに、「西洋人宣教師が書いた信長の似顔絵」の「複写」、つまり「複製品」が残されているわけです。
「織田信長の生涯年表」については、以下のリンク記事をどうぞ。
なぜ「山形県天童市」に、信長の似顔絵があるのか?
どうして「山形県天童市」に、織田信長の似顔絵が残っているのでしょうか?
実は「山形県天童市」は、「織田信長」の子孫が、藩主として支配していた土地なのです。
「織田信長」の次男「織田信雄」の子孫である「織田信美(のぶかず)」。
この「織田信美」が、【1831年】から約【40年】のあいだ、藩主として「天童織田藩」を支配していたのです。
当時の「天童織田藩」の石高は「2万3千石」。
このとき、「天童織田藩」に「織田家の菩提寺」としてつくられたのが「三宝寺」です。
三宝寺には、織田家の歴代当主たちの位牌がおさめられています。
当然「織田信長」の位牌もあります。
そしてそれらの「位牌」と一緒に、この「織田信長の似顔絵」が伝えられてきたといわれています。
「織田信雄」については、以下のリンク記事をどうぞ。
この「似顔絵」は、本当に信長なのか?
結論からいえば、この似顔絵は「織田信長」の顔で間違いないと思います。
【1835年】、この「似顔絵」を「天童織田藩」が所持していた記録が、はっきりと残っているのです。
しかし、実はこの「似顔絵」、いったい誰が描いたものなのか、正確にはわかっていないのです。
当時の日本には、「西洋の写実画」を描く技術を持つ人が、一人だけいました。
ナポリ出身のイタリア人画家「ジョバンニ・ニコラオ」という人物です。
「ジョバンニ・ニコラオ」は、【1583年】に日本へ渡り、【1614年】に「禁教令」によってマカオへ追放され、【1623年】に亡くなった画家です。
信長の次男「織田信雄」が、この「ジョバンニ・ニコラオ」に対して、父「織田信長」の肖像画の作成を依頼した、と推測されています
ただし、「ジョバンニ・ニコラオ」は「織田信長」と会ったことがありません。
織田信長は【1582年】に、「本能寺の変」で亡くなっています。
「ジョバンニ・ニコラオ」が来日したのは、織田信長が亡くなった翌年【1583年】です。
つまり「ジョバンニ・ニコラオ」は、「織田信長」の顔を知らないままに、その似顔絵を描いているのです。
とはいえ、もしもこの似顔絵を描かせたのが信長の次男「織田信雄」であるとすれば、「似ていない似顔絵」を、後世に残すはずがありません。
信雄は、「ジョバンニ・ニコラオ」が作成したこの肖像画をみて、「父・信長に似ている」と認めたため、後世に残したのでしょう。
ただし、「織田信雄が、父・信長の似顔絵の作成を、ジョバンニ・ニコラオに依頼した」という確かな記録はありません。
あくまでも憶測でしかないのです。
しかし、憶測とはいえ、もっとも可能性が高い推理であるとは思います。
《織田信長の次男「織田信雄」が「ジョバンニ・ニコラオ」に、父の似顔絵の作成を依頼した》
この憶測が正しいとしたら、「織田信長の似顔絵」として伝わっているこの肖像画の人物は、「織田信長」ということになります。
可能性は極めて高いと言っていいのではないでしょうか。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の「肖像画」と「似顔絵」を比較してみた!
織田信長の「似顔絵」は、本当に「織田信長」の顔と似ているのかどうか、有名な「信長の肖像画」と比べてみました。
左の肖像画は、教科書などにも掲載されている、有名な「愛知県豊田市・長興寺」所蔵の「織田信長・肖像画」です。(引用元ウィキペディアより)
この肖像画も、信長の死後に描かれたものといわれています。
2つ並べてみると、筆者の感覚ですが、よく似ている気もします。
実は、右の肖像画には、「織田信長」にはない特徴が、一つ付け加えられていると考えられます。
それは「ヒゲ」。
宣教師「ルイス・フロイス」の残した「日本史」という記録には
「織田信長は、ヒゲが薄かった」
と記されています。
ところが「織田信長の似顔絵」には、ヒゲがとても濃く描かれています。
もしかすると次男「信雄」が、父の肖像画の威厳を高めるために、ありもしなかったヒゲを付け加えて描かせたのかもしれません。
それを除けば、「面長な顔の輪郭」、「切れ長な目元」、「通った鼻筋」など、とても良く似ていると思います。
やはり「三宝寺」に伝わる「織田信長の似顔絵」は、本物なのではないでしょうか。
「戦国一の美女」と呼ばれた「お市の方」と、父も母も同じくする「織田信長」。
「妹」が評判の美人だったのですから、「信長」自身もおそらく当時は、今でいう「イケメン」として評価されていたのではないでしょうか。
「織田信長は、イケメンかどうか」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の「顔写真・似顔絵」は、現在「山形県天童市」の「三宝寺」というお寺が所蔵している
2,「織田信長の顔写真・似顔絵」が、「山形県天童市」にある理由は、「織田信長」の次男「織田信雄」の末裔が、江戸時代にこの「山形県天童市」に位置していた「天童藩」を治めていたから。そのときの「織田家の菩提寺」が「三宝寺」であり、「織田信長の位牌」も存在している。
3,織田信長の「似顔絵」は、おそらく本当に「織田信長」の顔を描いた代物だろう。しかし、誰がいつ描いた物なのかは、ハッキリしていない。
以上となります。
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ありがとうございました。
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