こちらでは、2024年の大河ドラマ「光る君へ」の登場人物の子孫について、解説する記事を、一覧でまとめてご紹介いたします。
「光る君へ」の登場人物たちの子孫にどのような人たちがいるのか。
そして現在、その子孫たちは続いているのかを、わかりやすく解説いたします。
「光る君へ」キャスト相関図
紫式部とその家族
紫式部(吉高由里子)
千年もの長きにわたり語り継がれる物語「源氏物語」の作者。
才色兼備の人物で、一条天皇の中宮・藤原彰子に、女房としてつかえた。
もともと源氏物語は、彰子のもとへ一条天皇が通うように、その興味を引く為に記したものだという説がある。
夫は藤原宣孝。
父は藤原為時。
藤原惟規は兄または弟。
彰子の父である藤原道長の愛妾だったという説があるが、真相は不明。
子孫は、皇室および平家一門へ引き継がれている。
藤原為時(岸谷五朗)
紫式部の父。
藤原惟規の父でもある。
越前守や越後守を歴任。
筋金入りの学者だが、花山天皇が出家すると、職を失ったという。
藤原道長が権力を握ると、越前守に就任して越前へおもむく。
その後、越後守となって、息子の藤原惟規をともなって越後へ。
しかし、現地で惟規が病死してしまう。
その後、1014年に、任期を残して越後から都へ帰還。
急遽京都へ戻った理由は不明だが、娘の紫式部が亡くなったためではないかといわれている。
子孫は平家一門に引き継がれ、鉄砲伝来の地である種子島の領主である種子島氏が、その子孫であるといわれている。
藤原宣孝(佐々木蔵之介)
紫式部の夫。
妻・紫式部とのあいだに、藤原賢子(別名・大弐三位)をもうけた。
紫式部とは20歳も歳の離れた夫婦だったという。
結婚してからわずか3年で病死。
紫式部集には、その死を悲しむ紫式部の歌が収められている。
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
親しかったあなたが、煙となって消えてしまった夕方のあと、陸奥の塩焼きの煙すらも親しく感じられます
紫式部とのあいだに生まれた娘を通じて、子孫は平家一門につながっている。
他の妻とのあいだに生まれた子を通じて、子孫は現在も続いている。
その子孫からは、元内閣総理大臣も輩出している。
藤原道長とその家族
藤原道長(柄本明)
平安時代中期において、最大の権力を握った人物。
通称・御堂関白。(あだ名に反して、道長は関白に就任したことがない)
三人の娘を天皇の后とし
- 皇后(現在の天皇の后・後一条天皇に入内した藤原威子)
- 皇太后(先代の天皇の后・三条天皇に入内した藤原姸子)
- 太皇太后(先々代の天皇の后・一条天皇に入内した藤原彰子)
を、すべて自分の娘で独占してしまうという、前代未聞の一家三立后を達成した。
圧倒的な権力を独占したことにより、望月の歌と呼ばれる歌を残す。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしとおもえば」
この世はまるで私のためにあるかのようだ。満月のように欠けたところもない。
紫式部を愛妾としたという説があるが、詳細は不明。
子孫は皇室へ引き継がれているほか、五摂家へと継承され、内閣総理大臣や明治神宮の宮司などを輩出している。
源倫子(黒木華)
藤原道長の正室。
彰子・頼通・姸子・威子などの母親。
左大臣・源雅信の娘。
父の雅信は、娘の源倫子を天皇に入内させるつもりだったという。
しかし妻・穆子に反対され、挙げ句の果てには妻の独断で、道長と結婚させてしまったという。
紫式部とは良き友人だったという説がある。
朝露の染み込んだ綿を紫式部へ送り、肌への保湿を忘れぬようにと注意した逸話がある。
これは、夫・藤原道長と紫式部が、ただならぬ関係であることに源倫子が嫉妬したためという説がある。
子孫は夫・藤原道長とのあいだに生まれた子どもたちを通じて、現在は皇室や五摂家に引き継がれている。
源明子(瀧内公美)
藤原道長の妾妻。
道長の最初の妻という説があり、正室である源倫子より先に道長へ嫁いだとされている。
父・源高明は、政変によって失脚していた。
父を失脚させたのは藤原氏だという説があるが、真相は不明。
兄・源俊賢は、藤原道長の政治を支えた「一条朝の四納言」のひとり。
道長とのあいだに生まれた子を通じた子孫には、三井財閥で有名な三井家があり、現在も続いている。
藤原兼家(段田安則)
藤原道長の父。
一条天皇の祖父であり摂政でもある。
道隆・道兼・詮子の父でもある。
数々の権力闘争を勝ち抜き、権力独占に成功した。
寛和の変で、花山天皇を罠にかけ、無理やり出家させ、孫の一条天皇を即位させるなど、手段を選ばない人物だった。
孫の一条天皇が即位すると、その摂政となり、権力の絶頂を極めた。
晩年は関白に就任したものの、わずか数日で長男・道隆に関白職をゆずった。
子孫は、現在の五摂家のほか、元寇や戦国時代に活躍した宇都宮氏などへ引き継がれている。
藤原道隆(井浦新)
藤原道長の長兄。
藤原兼家の息子。
藤原伊周・定子・隆家の父。
父である藤原兼家から関白職をゆずられた。
兼家のあとを引き継ぎ、藤原氏の栄華をさらに強めようと、甥である一条天皇に、娘の定子を入内させた。
ところが、父が亡くなったわずか5年後、道隆も亡くなってしまう。
道隆は、自らの一族の権力基盤をかためることができないまま亡くなった。
道隆の家である中関白家は、道隆の弟である藤原道長の御堂関白家と、泥沼の権力闘争を強いられることになる。
子孫は現在の皇室や五摂家につながっている。
さらに平清盛の継母である池禅尼を通じた子孫が、現在の池氏につながって各地に広がっているという。
明治維新を成し遂げた西郷隆盛も、藤原道隆とその子・隆家の子孫を自称していた。
西郷さんの子孫は、現在もつづいている。
藤原道兼(玉置玲央)
藤原道長の次兄。
藤原兼家の息子。
藤原道隆の弟。
父が亡くなると、その後継者は自分であると自負していたらしく、酒宴を開いて憂さ晴らししたという。
兄・道隆に、つねに諭すような態度で、兄を敬うことをしなかった。
見た目が醜く毛深かったとされており、気性が荒い人物だったといわれている。
兄・道隆が病死すると、そのあとを継いで関白となった。
しかしわずか数日で病死した為、「七日関白」とあだ名された。
子孫は、北関東で勢力を拡大した宇都宮氏という武家に引き継がれ、今も続いている。
宇都宮氏は、元寇や戦国時代に活躍した武士で、坂東一の弓取りや、奇蹟の武人と呼ばれるほどの名将も輩出した。
また、息子が紫式部の娘と結婚したという説がある。
藤原詮子(吉田羊)
円融天皇の女御。
一条天皇の母。
藤原兼家の娘。
藤原道長の姉。
円融天皇に女御として入内し、一条天皇を出産。
円融天皇と父・兼家の関係が悪かったためか、円融天皇との夫婦関係はよくなかったともいわれている。
一条天皇の即位後は、国母として権力を振るった。
弟の藤原道長を常に擁護。
弟・藤原道長と、甥である藤原伊周との間で権力闘争が起こると、道長の味方に回った。
そのため藤原伊周の家である中関白家は、急速に没落していくこととなる。
子孫は一条天皇を通じて、現在の天皇陛下と皇室に引き継がれている。
徳川慶喜の子孫、千利休の子孫、浅野長政の子孫、五摂家筆頭の近衛家などに、その血筋が引き継がれている。
天皇
円融天皇(坂東巳之助)
一条天皇の父。
藤原道長の姉である藤原詮子とのあいだに、一条天皇を儲けた。
道長や詮子の父である藤原兼家と仲が悪く、権力闘争を繰り広げた。
しかし、兼家との権力闘争の末に、花山天皇に位をゆずって上皇となる。
花山天皇の次に、息子の一条天皇が即位すると、院政を開始しようとして、摂政の藤原兼家と再び対立。
その後、わずか33歳という若さで崩御した。
子孫は現在の皇室へと引き継がれている。
現在の天皇陛下は、円融天皇の子孫。
また、最後の将軍・徳川慶喜の子孫にも、現在その血筋は引き継がれている。
花山天皇(本郷奏多)
円融天皇の甥。
円融天皇から位をゆずられて天皇に即位した。
後ろ盾がなかったため、その地位は脆弱なものだったという。
藤原斉信の妹である藤原忯子を異常に寵愛し、その死によって出家を決意する。
兼家とその子である道兼に騙されて出家してしまう。(寛和の変)
その後も女性問題をいくつも引き起こした。
藤原伊周の愛妾に手を出したと勘違いされ、伊周の弟である隆家から袖を矢で射抜かれている。(長徳の変)
子孫は皇室には引き継がれていない。
花山天皇の子孫は、白川伯王家と品川家に引き継がれている。
一条天皇(塩野瑛久)
円融天皇の子。
母は、藤原道長の姉・詮子。
藤原兼家の孫にあたる。
兼家が権力を握るためには、一条天皇を即位させる必要があった。
そのため花山天皇を強引に出家させて、一条天皇を即位させた。(寛和の変)
その後、藤原兼家・道隆・道兼が次々に亡くなると、道長と伊周がのあいだで叔父と甥の関係でありながら、権力闘争が行われる。
その権力闘争の中心には、常に一条天皇がいた。
道長の娘・彰子と、伊周の妹・定子が、ともに一条天皇に入内。
伊周が権力闘争に敗れて失脚したため、彰子が産んだ後一条天皇と後朱雀天皇が即位。
一条天皇は定子を寵愛し、彰子との関係は良くなかったといわれている。
猫好きで有名。
子孫は現在も皇室に引き継がれており、現在の天皇陛下は一条天皇の子孫にあたられる。
また、徳川慶喜の子孫や、千利休の子孫である裏千家、浅野家や近衛家にも、その血を引く子孫がいる。
一条朝の四納言
藤原公任(町田啓太)
太政大臣・藤原頼忠の子。
藤原道長と一条天皇の政治体制を支えた四人の大納言のひとり。
元々、藤原頼忠と公任の藤原氏小野宮流は、藤原兼家・道長親子の藤原氏九条流と、権力を争っていたライバル関係だった。
ところが藤原兼家が、寛和の変で一条天皇を即位させて、自ら摂政となったことで、一気に九条流が権力を独占。
その後、藤原公任は藤原兼家の後継者である道隆に反発し、道隆の弟・道兼に接近したという。
道隆と道兼が亡くなり、長徳の変で道隆の子である伊周と隆家が失脚すると、公任は今度は藤原道長に接近。
その後、藤原斉信・源俊賢・藤原行成とともに、一条朝の四納言と呼ばれることとなる。
一条朝の四納言は、藤原道長と一条天皇の政治を支え続けた。
藤原斉信とは、ライバルであると同時に親友でもあったという。
子孫は益田氏として、毛利家と長州藩につかえ、現在も続いている。
また、益田氏の子孫である騎手・御神本訓史さんは、藤原公任の子孫。
藤原斉信(金田哲)
藤原道長と一条天皇を支えた、一条朝の四納言のひとり。
太政大臣・藤原為光の子。
花山天皇から寵愛を受けた藤原忯子の兄。
妹の忯子が、花山天皇の子を身ごもったまま亡くなったため、忯子の子を天皇に即位させて権力を独占することはできなかった。
その後は藤原道隆に接近し、その死後は、道隆の弟である藤原道長に接近。
一条天皇の時代に道長を支え、一条朝の四納言と呼ばれた四人の中でも、藤原公任を抜いて筆頭に躍り出た。
藤原道長の子である長家に、自分の娘を嫁がせたという。
しかし、斉信の娘と長家のあいだに生まれた子は、早産であった上に、生まれてすぐに亡くなってしまう。
さらに、斉信の娘も亡くなってしまい、失意のどん底に叩き落とされる。
子宝に恵まれず、弟の公信を養子として家名を存続。(公信は、紫式部の娘を妻とした人物)
晩年、ライバルであり親友でもあった藤原公任と共に、互いに娘を亡くした悲しみを慰め合ったという。
子孫には、養子を通じて平家一門、そして源頼朝の命を救った池禅尼などがいる。
可能性は限りなく低いが、織田信長も子孫かもしれない。
その他の登場人物
清少納言(ファーストサマーウイカ)
平安時代を代表する女流歌人。
随筆「枕草子」の作者。
藤原道長のライバルである藤原伊周の妹・定子の女房だった。
藤原定子は、一条天皇の皇后。
それに対して、紫式部が女房としてつかえていたのが、一条天皇の中宮・藤原彰子。
定子の兄・伊周と、彰子の父・藤原道長は、甥と叔父という関係でありながら、権力をめぐるライバル関係だった。
そのため、定子と彰子は、一条天皇の寵愛をめぐるライバルのような関係であったと考えられる。
さらに、定子につかえた清少納言と、彰子につかえた紫式部も、ライバルのような関係であったと推測されてきた。
近年では、清少納言と紫式部のあいだには、面識がなかったとされている。
子孫は、最初の夫である橘氏を通して続いたが、その後は消息不明。
藤原実資(ロバート秋山竜次)
通称・賢人右府。
藤原道長の先輩であり、ライバルでもあった人物。
藤原北家・小野宮流の人物。
小野宮流の右大臣が記した日記ということで、「小右記」と呼ばれる日記を残したことで有名。
その日記の中には、藤原道長が残した「この世をば 我が世とぞ思う 望月の・・・」という望月の歌も記録されている。
望月の歌を後世に伝えた功労者であると同時に、当時の治世において筋の通った意見を口にした人物だったため、賢人と呼ばれた。
子孫としては、千古という娘がいる。
藤原忯子(井上咲楽)
花山天皇の女御。
四納言のひとりである藤原斉信の妹にあたる。
花山天皇から異常な寵愛を受け、身ごもった。
体調不良で実家へ戻ったが、花山天皇に強引に呼び戻された。
その後、身ごもったまま亡くなってしまったという。
その死を悲しんだ花山天皇は、出家したいと言い出す。
しかし側近であり叔父でもあった藤原義懐たちに説得されて、思いとどまっていた。
花山天皇から一条天皇へ、一刻も早く位をゆずらせたい藤原兼家は、息子の道兼に命じて、花山天皇を騙し、出家させることに成功。
藤原忯子の死で、出家を志すようになった花山天皇を利用した兼家は、権力を独占することとなる。
藤原忯子は子供を産まないまま亡くなったため、直系子孫はいないが、兄の斉信や、弟の公信を通じて、子孫が続いている。
忯子の弟・藤原公信は、紫式部の娘と結婚し、子供を残している。
可能性は低いが、織田信長は、その子孫であると主張していた。
フィギュアスケートで活躍した織田信成さんは、藤原忯子の弟の子孫かもしれない?
安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)
平安時代の陰陽師。
名前は「せいめい」と読むことが多いが、「はるあきら」とも呼ばれており、はっきりしていない。
賀茂氏の門下生として、陰陽道を学ぶ。
花山天皇の命令で那智山の天狗を封じる儀式を行ったおこなったという。
一条天皇が病気になった時は、禊を行い、あっという間に回復させた。
伝説的な陰陽師として、その名を歴史に刻んでいる。
子孫は土御門と名乗り、現在も続いている。
男系子孫は途絶えたが、女系子孫は各家に広まり、岩倉具視や、現在芸能人として活動している人物にその血が引き継がれている。
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