明智光秀が天下統一できなかった理由とは?織田信長が最期にしかけた罠

この記事では「明智光秀が天下統一できなかった理由」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「光秀が天下を取れなかった理由」を、カンタンに理解できます。

 

「光秀が天下を取れなかった理由」は「織田信長が仕掛けた罠」に引っかかったからなのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「明智光秀」が天下統一できなかった理由は、「織田信長」が仕掛けた罠にひっかかったため

 

2,信長が仕掛けた罠とは、「信長自身の首を明智光秀に渡さないこと」

 

3,「本能寺の変」の直後、「織田信長の首」を手に入れられなかった「明智光秀」は、「信長が死んだこと」を証明することができず、味方が全く増えないままに、「羽柴秀吉」にあっけなく敗北して亡くなった

光秀が天下統一できなかった理由とは?

光秀が天下統一できなかった理由、それは「織田信長が最期に仕掛けた罠」に光秀が見事に引っかかってしまったからです。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

天正10年(1582年)6月2日早朝】、「本能寺の変」が勃発。

 

「明智光秀」は主君「織田信長」を、京都「本能寺」で突如として襲撃したのです。

 

このとき明智光秀は、焼け落ちた「本能寺」で、必死に「あるもの」を捜索していました。

 

「織田信長の首」です。

 

ところが、光秀は「信長の首」を発見することができません。


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天正10年(1582年)6月13日】、「山崎の戦い」開戦。

 

中国地方で「毛利輝元」「清水宗治」と戦っていた「羽柴秀吉」が帰還し、明智光秀と激突。

 

この戦いで、光秀に味方する軍はほとんどいませんでした。

 

羽柴軍「4万」VS明智軍「1万3千」

 

実に3倍もの敵軍を相手にした明智光秀・・・。

 

結果は「明智光秀」の惨敗。

 

最期は「小栗栖(おぐるす)」という、京都の南で「落ち武者狩り」の襲撃を受けて亡くなります。

 

なぜ光秀は、あっけなく敗北したのか?

 

その理由は、「織田信長が最期に仕掛けた罠」に、光秀が見事に引っかかったためです。


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信長が光秀に仕掛けた最期の罠

「信長が光秀に仕掛けた最期の罠」とは、「自らの首・遺体を光秀に渡さないこと」です。

 

つまり「自分の首を光秀に取られない」ようにすることです。

 

「本能寺の変」が起こった際に、織田信長は、家来だった黒人の武将「弥助」や「森蘭丸」に対して、こんな指示を出しています。

「余の首を光秀にわたしてはならない」

もしも信長の首が光秀にわたれば、光秀は信長の首を「さらしもの」つまり「さらし首」にして、「信長が死んだ」ということを天下に宣伝したでしょう。

 

ところが、光秀は信長の首を発見することができませんでした。

 

その結果、どのようなことが起こったでしょうか?

 

光秀が信長の首を発見できなかったことにより、「羽柴秀吉」にそのことを利用されてしまいます。

 

光秀は信長を討ち果たした直後、近畿地方の武将たちに、「自分の味方になって、一緒に織田家の武将たちと戦ってほしい」と勧誘を開始します。

 

一方の秀吉は、同じく近畿地方各地の武将たちに、こんな手紙を送りまくっています。

「織田信長様は、本能寺を脱出し、京都の町に潜伏しておられる」

この手紙をみた武将たちは、「信長が生きているかもしれない」と思い、光秀に味方することをためらいます。

 

なぜなら、もしも信長が生きていたとしたら、「明智光秀に味方してしまった武将たち」を、決して許さないからです。

 

もしも光秀に味方して、その後「織田信長」が生きて姿を現したら、自分は殺されてしまう。

 

それを恐れた武将たちは、一斉に羽柴秀吉に味方したのでした。

  • 「細川藤孝」
  • 「細川忠興」
  • 「筒井順慶」
  • 「中川清秀」
  • 「高山右近」

だれ一人として、光秀に味方する者はいませんでした。

 

その結果、明智光秀は「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に惨敗したのです。

 

百戦錬磨の「織田信長」は、こうなることがわかっていました。

「自分の首が光秀に渡らなければ、光秀に味方するものはいなくなる。

そうなれば、織田家の誰かが自分の仇討ちを果たしてくれるはずだ」

そのように、信長はわかっていたからこそ、本能寺で自分の首を光秀に渡らないように、自ら「本能寺」に放火し、家来に「自分の首を光秀に渡してはならない」と言ったのです。

 

「さらし首にされる」ということは、武士にとって最大の恥であるとともに、「敵にとって最大の利益」となってしまうのです。

 

信長は、「明智光秀の利益になること」つまり「織田信長の首をさらす」ということを封じるために、最期の罠を仕掛けたのでした。


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光秀が天下を取れなかったその他の理由

光秀が天下を取れなかった理由は、「信長の首を手に入れられなかった」だけではありません。

 

もう一つ、光秀が天下を取れなかった理由をあげるとすれば、「光秀は天下を取るための準備を全くしていなかった」ことがあげられます。

 

光秀が起こした「織田信長・襲撃計画」は、あまりにも粗末なものでした。

 

織田信長は、当時わずか「100人」以下の部隊だけを引き連れて「本能寺」に宿泊していました。

 

これほど無防備になることは、今後二度とありえないといっても良いでしょう。

 

このときほど、「織田信長を襲撃するのに適した絶好の機会」はなかったのです。

 

光秀は、全く無計画に、そのチャンスに飛びつきました。

「信長を討てば天下が取れる」

そう勘違いしたのでしょう。

 

実際には、「織田信長」を討伐したあと、各地に存在する「織田家の重臣たち」を倒さなくては、天下は取れません。

 

「織田家の重臣」とは、すなわち

  • 中国地方の「羽柴秀吉」
  • 北陸地方の「柴田勝家」
  • 大坂に駐屯していた「織田信孝」「丹羽長秀」
  • 関東地方の「滝川一益」
  • 堺にいた東海道の支配者「徳川家康」

 

羽柴・柴田・丹羽・滝川・徳川

 

これらの軍団をあわせると、総勢で10万を超える大軍団となります。

 

光秀は、これらの敵を全て相手にしなくてはいけなかったのです。

 

ところが光秀は、これらの敵を倒すための準備も計画も、全くと言っていいほどしていません。

 

「いきあたりばったり」で、信長を討ってしまったのです。


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もちろん、「穴だらけの計画」ではあっても、無計画だったわけではありません。

 

「毛利」「上杉」「北条」「長宗我部」

 

羽柴らが戦っていた、これらの敵軍と光秀は連携して、「織田軍団」の動きを封じるということを考えたのでしょう。

 

しかし、もし計画が失敗して、一人でも京都へ戻ってきてしまったら、光秀の計画は一気に崩壊します。

 

実際、羽柴秀吉は「毛利輝元」と即座に和睦して、一気に姫路・山崎へと帰還しています。

 

これがもしも、「本能寺の変」をしって崩壊してしまった「織田信孝・丹羽長秀の軍」を除いて、「柴田」「滝川」「徳川」の軍であったなら、光秀は勝利できたでしょうか?

 

おそらく不可能だったでしょう。

 

光秀には、頼れる援軍もありませんでしたし、勝利は程遠かったと思います。

  • 「信長の首を取れず、味方を増やせなかった」
  • 「計画があまりにも粗末だった」

この二つが、光秀が天下を取れなかった最大の理由です。

 

ただ、明智光秀の末裔で作家の「明智憲三郎」氏がおっしゃる説によると

「光秀は、長宗我部元親・徳川家康と協力関係にあり、長宗我部と徳川の援軍を期待することができた」

とのこと。

 

もしもそうならば、光秀にも天下をとる機会があったとは思いますが・・・。

 

現実的に考えて、この「明智憲三郎」氏の説は、かなり難しい説だろうと思います・・・


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もしも光秀が「織田信長の首」を発見できていたら、歴史はどうなっていたのか?

もしも「明智光秀」が「信長の首」を発見できていたら、歴史はどのように変わっていたのでしょうか?

 

まず、「山崎の戦い」で、明智光秀はあれほどまでにあっけなく敗北することはなかったはずです。

 

信長の首が手に入っていたら

  • 「筒井順慶」
  • 「中川清秀」
  • 「高山右近」

などが、「羽柴秀吉」からの「信長は生きている」という手紙に惑わされることはなかったでしょう。

 

戦国武将は「勝てそうな方」に味方しようとします。

 

「筒井順慶」たちが、もしも「明智光秀のほうが勝ちそうだ」とおもったら、光秀は一気に味方を増やしたでしょう。

「光秀が勝つ!」

各地の武将に、そう思わせるためにも、信長の首は必要不可欠でした。

 

信長が生きていたら、全国に散らばっていた「織田軍団10万」が、信長のリーダーシップのもとで、一斉に明智光秀に襲いかかります。

 

そうなったら、光秀に勝ち目など、あろうはずがありません。


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しかし、信長が死んでいることが証明できたら、各地の織田軍団は、まとまりを欠いて、戦える状態ではなかったはず。

 

「本能寺の変で信長が死んだ」と知った「織田信孝・丹羽長秀」の軍団「3万人」が、噂だけで逃亡者が続出し、「4000人」にまで激減した事実をみても、それは明らかです。

 

信長の首を取り、誰にでもわかるように「信長は死んだ」ということを世間に証明できていたら、各地の織田軍団は戦わずに崩壊していた可能性もあります。

 

光秀の計画は、あまりにも粗末だったので、「信長の首を手に入れた」だけでは、「絶対に勝てる」といえません。

 

しかし、「信長の首」があれば、あれほどあっけなく負けることはなかったはず。

 

時間をかせぐことができれば、光秀は徐々に劣勢を挽回できたはずなのです。

 

時間

 

この「時間」を制した「羽柴秀吉」に、当時最高の名将だった「明智光秀」は、あっけなく敗北しました。

 

信長の首を取っていれば、「時間」を味方にできたはずなのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「光秀」が天下統一できなかった理由は、「信長の罠」にひっかかったため

 

2,信長の罠とは、「信長の首を光秀に渡さないこと」

 

3,「信長の首」を取れなかった「光秀」は、「信長の死」を天下に証明できず、味方を増やせないまま「秀吉」にあっけなく敗けて戦死した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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