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豊臣秀吉の業績とは?秀吉がしたことや功績をわかりやすく簡単解説

この記事では、豊臣秀吉の功績について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

これを読めば、豊臣秀吉がしたことを、カンタンに理解できます。

豊臣秀吉とは、100年以上も続いた内戦・戦乱を終わらせて天下統一を成しとげた人物なのです。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,豊臣秀吉とは、何をした人なのか?

戦国時代に天下統一を成し遂げ、100年以上も続く内戦・戦乱を終わらせた人物

 

2,そもそも秀吉とは、どこの誰なのか?

豊臣秀吉とは、現在の愛知県西部(尾張国おわりのくに)に生まれた百姓。織田信長の部下として数々の業績を残した名将だった。

 

3,秀吉は織田信長の部下として、どんな業績を残したのか?

墨俣一夜城すのまたいちやじょう金ヶ崎かねがさき退くち、中国地方の攻略、備中高松城びっちゅうたかまつじょうの水攻め、中国大返しなどの業績を残した


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目次

豊臣秀吉の業績を、ひとことで解説

豊臣秀吉とは、100年以上も内戦が続いた戦国という時代を、天下統一することによって終わらせた戦国武将です。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

歴史の教科書などに登場する豊臣秀吉の功績を、ひとことでいってしまうと

「天下統一を成し遂げた人物」

と言うことができます。

【1467年】、応仁おうにんの乱と呼ばれる大規模な内乱が京都で起こりました。

それ以降、日本では戦国大名または戦国武将と呼ばれる人たちが、それぞれの軍団をひきいて、各地で戦争を繰り返すという、いわゆる戦乱・内戦の時代が始まるのです。

秀吉は、そんな戦国時代に尾張国(愛知県西部)に誕生しました。

百姓という低い身分から出世を続けて、【1590年】に天下統一を達成するのです。

【1467年】から始まった戦国時代は、【123年後】の【1590年】、豊臣秀吉の手によってようやく終結したわけです。

戦国時代と呼ばれる【123年間】の時代を終わらせた豊臣秀吉の功績。

それはまさに時代を変えたといえる偉業なのです。

→→→→→【秀吉の天下統一までの道のり】についてくわしくはこちら


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そもそも豊臣秀吉とは、何者なのか?

豊臣秀吉とは、もともとは尾張国・中村という村で生まれた百姓、つまり農民でした。
(秀吉の父親・木下弥右衛門きのしたやえもんが、半農半兵だったため、農民とは言えず、武士とも言える身分だった)

秀吉の若い頃の名前は、藤吉郎とうきちろう

若かりし藤吉郎こと豊臣秀吉は、自らの故郷・尾張国を支配していた戦国大名・織田信長に部下としてつかえます。

秀吉は織田信長のもとで、名将・明智光秀と出世を競いながら、戦い続けます。

そして信長の天下統一を支えながら、織田家で出世を繰り返していくのです。


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秀吉の出世速度は凄まじく、ライバルだった明智光秀に次ぐものでした。

出世した秀吉は織田家という巨大組織の中で、明智光秀や柴田勝家などの名将・猛将と並ぶほどの身分を手に入れたのです。

【1582年6月】、主君であった織田信長が、秀吉の同僚・明智光秀に本能寺の変で討たれてしまいます。

秀吉は、誰よりも先に明智光秀を滅ぼし、織田信長を仇討ちに成功します。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

この功績によって、秀吉は織田信長の後継者としての地位を確かなものとします。

そして秀吉は、信長の死から8年が経過した【1590年】、主君・信長が夢見ていた天下統一に成功したのです。

→→→→→【豊臣秀吉の子孫】についてくわしくはこちら


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秀吉が織田信長の部下として、したこととは!織田家で残した功績

豊臣秀吉という武将の功績は天下統一だと申しましたが、その他にも、一夜城や水攻めなど、数々の功績を残しています。

豊臣秀吉といえば、創意工夫の達人として知られています。

秀吉は、とにかく働き者で、頭を使って結果を出す人として、後世にその名をとどろかせています。

織田信長の部下として秀吉が残した業績を、一覧で、カンタンに解説いたします。

  • 織田信長の草履ぞうりり(くつの管理係)であった秀吉は、寒い冬の最中、信長の草履をふところに入れて温め、信長を喜ばせた
  • 崩壊していた清州城の城壁を、わずか3日で修理することに成功した
  • 美濃国みののくに墨俣すのまたという場所に、わずか一日で城を築いた(墨俣一夜城)
  • 美濃国・斎藤家につかえていた天才軍師・竹中半兵衛重治たけなかはんべえしげはるを説得し、味方に引き入れることに成功した
  • 越前国えちぜんのくに金ヶ崎城かねがさきじょうからの撤退戦で最後尾の軍団(殿しんがり)を指揮し、主君・織田信長を守り通した(金ヶ崎の退き口)
  • 中国地方の覇者・毛利輝元を相手とする中国地方の方面軍司令官となり、播磨はりま因幡いなば但馬たじま美作みまさか備前びぜんなどの国を攻め落とした(中国攻め)
  • 毛利家の領地であった備中高松城を水攻めで攻め落とした(備中高松城の水攻め)
  • 中国大返しと呼ばれる猛スピードでの進軍を成功させ、山崎の戦いで信長のかたきである「明智光秀」を討ち果たした。

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織田信長が亡くなった後、秀吉は独立し、天下人つまり日本の支配者として、数々の業績を叩き出しています。

  • 刀狩りをすることによって、武士と農民の身分をハッキリと区別した
  • 太閤検地と呼ばれる土地の生産力調査によって、日本の生産力を調査し、明確にした
  • 惣無事令そうぶじれいという、戦国大名同士の戦争を禁止することによって、平和を目指した
  • 四国征伐・紀州征伐・九州征伐・小田原征伐・奥州仕置などを経て、天下統一に成功し、【123年】も続いた内戦を終わらせた
  • 朝鮮出兵をすることによって、スペインやポルトガルからの侵略を阻止しようとした(朝鮮出兵の目的については諸説あり)

豊臣秀吉が残した功績は、数しれないものがあります。

小説・太閤記では、豊臣秀吉は心優しい陽気な英雄として描かれています。

しかし実際のところ、豊臣秀吉は主君・織田信長が残した織田家という巨大組織を乗っ取った人物でもあるのです。

→→→→→【秀吉が朝鮮出兵をした理由】についてくわしくはこちら


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織田信長が死んだあとの秀吉!織田家を乗っ取り、信長の息子を死なせていた

実は豊臣秀吉は、織田信長が亡くなったあと、結構ひどいことをやっています。

主君・信長の息子・織田信孝のぶたかを死に追いやり、織田家という巨大な領地をもつ大組織を乗っ取っているのです。

史実における秀吉は、忠臣または心優しい人物であるとは、けっして言えません。

【1582年】、織田信長が本能寺の変で亡くなると、清須きよす会議と呼ばれる信長の後継者を決める会議が開かれます。

このとき、秀吉は信長の孫である三法師さんほうしという3歳の子供を指名したのです。

秀吉のライバル柴田勝家は、信長の三男・織田信孝を推薦しました。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、明智光秀を討って信長の仇討ちに成功していた秀吉は、その功績の大きさから、強大な発言権を持っていたのです。

結果として、秀吉が推した三法師が織田信長の後継者に決定します。

すると柴田勝家と織田信孝は、この決定を不服として、秀吉に戦いを挑むことになるのです。

その戦いというのが、【1583年】に起こった賤ヶ岳しずがたけの戦いです。

この戦いは

  • ❶織田家を乗っ取ろうとする秀吉の一派
  • ❷織田家を守ろうとする柴田勝家の一派

この両者の戦いでした。

つまり、織田家という巨大組織を真っ二つにした戦いだったわけです。

結果として秀吉が勝利し、柴田勝家は自害し亡くなります。(このとき、柴田勝家の後妻だった織田信長の妹・お市の方も一緒に自害して亡くなっている)

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

織田信長の息子である織田信孝も、秀吉に怨念の言葉を残して自害します。

こうして秀吉は、織田家を完全に乗っ取ることに成功。

織田信長の後継者であったはずの三法師(織田秀信ひでのぶ)も、いつの間にやら秀吉の部下に成り下がり、力を削ぎ落とされてしまいました。(三法師こと織田秀信は、【1600年】の関ヶ原の戦いで石田三成に味方して敗北。領地を没収されて、失意のうちに病死した)


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小説やドラマなどで、豊臣秀吉は主君・織田信長に忠節を尽くした忠臣、として描かれています。

しかし実際には、全く違います。

信長の死後、その支配地域を乗っ取り、信長の三男・信孝を死なせ、次男・織田信雄のぶかつや孫・三法師を没落ぼつらくさせた人物なのです。

当時は、実力あるものが支配者となる力こそ正義の時代でした。

力ある豊臣秀吉が天下を奪い取るのは、当時としては当然のことであったといえるでしょう。

しかし、秀吉は小説やドラマで描かれるような善人とは、とても言いがたい人物であると、筆者は考えています。

→→→→→【本能寺の変を完全解説】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 豊臣秀吉とは、100年以上も続く内戦・戦乱の時代である戦国時代に天下統一を成し遂げ、戦乱を終わらせた人物
  2. 豊臣秀吉とは、現在の愛知県西部(尾張国)に生まれた百姓。織田信長の部下として数々の業績を残した武将だった。
  3. 秀吉は織田信長の部下として、墨俣一夜城、金ヶ崎の退き口、中国地方の攻略、備中高松城の水攻め、中国大返しなどの業績を残した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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