明智光秀の領地と石高をカンタン解説!動員兵力は2万人で重税だった

皆さんは「明智光秀が支配していた領地と、その石高(生産高)」を、ご存知でしょうか?

 

実は「光秀の領地」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「光秀がどこの領地を支配していたのか、その領地の石高はどれくらいなのか、動員できた兵力はどれくらいなのか」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「光秀の領地」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「光秀が支配した領地」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「明智光秀の領地と石高」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「明智光秀」の領地は「近江国・坂本」と「丹波国」、現在の「滋賀県大津市」と「京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部」を、【11年】のあいだ支配した

 

2,光秀の領地における「石高」は「34万石」。最大動員兵力は「20400人」。与力大名も含めると「240万石」となる

 

3,光秀の死後、領地であった「坂本城」は「羽柴秀吉」に支配され、「大津城」が築城されると廃城となった。「丹波」は「秀吉」が支配したあと、織田信長の弟「織田信包(おだ のぶかね)」や「谷衛友(たに もりとも)」らによって治められて、明治維新まで続いた。

明智光秀の「領地」はどこ?

明智光秀が支配していた領地は、「近江・坂本」と「丹波国」です。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

「近江・坂本」とは、現在の「滋賀県大津市」のこと。

《滋賀県大津市の地図》
「引用元ウィキペディアより」

 

「丹波国」とは、「京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部」

《丹波国の地図》
「引用元ウィキペディアより」

 

明智光秀は、この「近江・坂本」と「丹波の国」を

 

1571年】の「比叡山焼き討ち」直後から

 

「山崎の戦い」で亡くなる【1582年】まで

 

【11年】の間、支配していたのです。


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明智光秀の支配した地域の「石高」と、「最大兵力」はどれくらい?

光秀が支配した領地の石高は、合計で「34万石」です。

 

1石につき米俵「2.5俵」ですから、年間85万俵のお米が収穫できる計算になります。

 

また、この生産力を財源として、光秀はどれくらいの「軍団」「兵力」を持っていたのでしょうか?

 

光秀は「100石につき6人」の兵役を課していたので、「34万石」で「20400人」となります。

 

つまり光秀は「20400人」の軍をひきいていたことになります。

 

江戸時代に近づくと、兵役は「100人につき2.5人」程度が当たり前になっていたので、光秀の「兵役」は2倍以上。

 

かなり重い兵役であることがわかります。

 

また、光秀には、信長から「与力大名」と呼ばれる「応援部隊」がつけられていました。

 

その与力大名の石高もあわせると、合計「240万石」。

 

これは、ライバル「羽柴秀吉」の「120万石」の2倍。

 

最大動員兵力は、「100石で6人」で単純に考えると、「144,000人」・・・。

 

おそらく現実には、これほどの兵力を動員できたわけではないと思います。

 

それにしてもこれだけの石高を任されていた「明智光秀」への「織田信長」の深い信頼度がうかがえます。


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光秀の領地「丹波国」と「近江・坂本城」のその後

光秀が滅ぼされた後、領地の「丹波国」と「坂本」は「羽柴秀吉」に支配されます。

 

「丹波国」はその後、信長の弟「織田信包」に治められ、次に「谷衛友(たに もりとも)」を藩主とする「丹波山家藩(たんばやまがはん)」が支配。

 

「坂本城」は、直後に建てられた「大津城」によって廃城に追い込まれ、「大津城」も「関ヶ原の戦い」のあと、「彦根城」が築城されたことで、廃城となっています。

 

大津市はその後、「京都」と琵琶湖を結ぶ重要な港町として発展を続けます。

 

現在では、「滋賀県」の県庁所在地として、約「34万人」の人口をもつ中核都市となっています。


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『明智光秀の領地支配』について「ひとこと」いいたい

光秀の領地支配は、「100石につき兵役6人」と、かなり重い兵役を課されていたと申しました。

 

しかし、光秀は領民を大切にする政治をおこなっていたようです。

 

「丹波」「坂本」では、今も領主であった「明智光秀」を慕う風習が残されています。

 

反逆者・謀反人であり、江戸時代を通じて「極悪人」として日本中に語り継がれた明智光秀。

 

しかしその領地では、名君「光秀」を祀る風習がつづき、今も人気を集めています。

 

源義経」や「真田幸村」のように、圧倒的な強者に挑みかかって敗北した「光秀」に同情しているのかもしれません。

 

そうであったとしても、光秀の善政が民に慕われていただけは、確かなようです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「明智光秀」の領地は「近江国・坂本」と「丹波国」、現在の「滋賀県大津市」と「京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部」にあたり、光秀は【11年】のあいだこの一帯を支配した

 

2,光秀の領地における「石高」は「34万石」。年間「85万俵」の米が収穫できた。最大動員兵力は「20400人」。与力大名も含めると光秀の支配地域は、織田家でも最大の「240万石」となる

 

3,光秀の死後、居城「坂本城」は「羽柴秀吉」に支配され、「大津城」が築城されると廃城となった。「丹波国」は「秀吉」が支配したあと、信長の弟「織田信包」や「谷衛友」が統治して、明治維新まで続いた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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