「征夷大将軍」とは何かをご存知でしょうか?
「幕府」というワードもよく耳にしますが、どういう意味なのか?
「征夷大将軍」とは「武士たちのボス」。
「幕府」とは「征夷大将軍」の「本拠地」のこと。
この記事で「征夷大将軍」や「幕府」について、わかりやすく解説いたします。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」とは、元々は「外敵を倒す」という仕事をおこなう職だったが、徐々に「朝廷の政治代行」を行うようになった
・「幕府(ばくふ)」とは、征夷大将軍がいる場所・征夷大将軍が政治を行う場所のこと。征夷大将軍の本拠地。例えば、徳川家康は「江戸」。足利尊氏は「京都」に幕府をおいた
・征夷大将軍は、朝廷から政治をおこなう権利を与えられることで「幕府」を設置(開く)することが可能となる
《征夷大将軍のお仕事って何?》
征夷大将軍は朝廷の役職の一つ。
本来は東北地方の蝦夷(えみし)と呼ばれている、「朝廷に従わない人たち」を征服するために指揮官として任命された役職でした。
蝦夷地で戦っていると、現地で兵力や食料や資金が不足します。
これを京の都まで伝えるには、かなりの時間がかかります。
それを「征夷大将軍」は、天皇の名で現地調達できる権利がありました。
この時代では天皇のみが、徴税や徴兵の権利を持っていました。
それを代わりに行える特別な役職が「征夷大将軍」です。
つまり、「天皇の許可をもらうことなく、自分の判断で政治おこなうことができる役職」それが「征夷大将軍」なのです。
源頼朝は「征夷大将軍」という役職を少しずつ変えていき、政治を行うようになりました。
《幕府って何?》
「幕府」という言葉の由来は、もともと中国から来た言葉だと言われています。
中国では将軍が戦いの指揮を取るための陣地を「幕府」と呼んでいました。周囲を幕で囲んだ場所のことです
日本で「幕府」とは、蝦夷との戦いを指揮していた「征夷大将軍」の基地・指令本部のこと。
または「征夷大将軍」の住むところを、「幕府」と呼んでいたそうです。
源頼朝は「征夷大将軍」という役職を使い朝廷とは別に、自分が思った政治を行うようになりました。
つまり、「幕府」とは、言いかえれば「臨時の政府」とも言えるのです。
「本当の政府」は「朝廷」ですが、「幕府」は「臨時の政府」。
武士たちは、「幕府」という「臨時の政府」をつくることによって、天皇や公家に邪魔されない、自分たちにとって都合の良い政治を行っていたのです。
その幕府は鎌倉時代、室町時代、江戸時代と続きそれぞれ「鎌倉幕府」、「室町幕府」、「江戸幕府」と呼ばれています。
幕府は江戸幕府を最期に、終わりを迎えます。
「幕府とは何か」について、以下のリンク記事で、「朝廷」とくらべながら、とてつもなくわかりやすく解説いたしました。
《なぜ征夷大将軍は、幕府を開けるの?》
昔の日本では、朝廷があらゆる権限を持っていました。
その権限を、朝廷に代わって取り行うことができたのが征夷大将軍です。
征夷大将軍は、「異民族」を討伐することが仕事です。
すなわち、征夷大将軍は「遠いところにいる敵を倒すことが役目」ということです。
遠くにいる敵を倒すのに、何から何までいちいち「朝廷」に許可を得ていたら、勝てる戦いも勝てなくなります。
そのため、征夷大将軍には
「自分の判断で戦争をしていいし、本拠地の周辺における政治を勝手に行っていい」
という権限が与えられていました。
つまり「征夷大将軍」は、「朝廷に代わって、自分勝手に政治を行ってもかまわない役職」なのです。
これは言い換えると「征夷大将軍は、朝廷という本来の政府とは別の、臨時政府をつくってもよい役職」ということになります。
だから、征夷大将軍は「幕府」という「臨時政府」を開くことが出来るのです。
「征夷大将軍」という役職について、日本史をさかのぼり「関白」と比較しながら、以下のリンク記事でさらに詳しく解説いたしました。
《『征夷大将軍』について、ひとこと言いたい》
征夷大将軍はよく「武家の棟梁(とうりょう)」と呼ばれます。
つまり征夷大将軍は「武士たちのトップに君臨する役職」ということでしょう。
鎌倉幕府を倒した「後醍醐天皇」は、部下の「足利尊氏」を征夷大将軍にすることを、極端に嫌がりました。
なぜなら、足利尊氏を「征夷大将軍」にすれば、それは足利尊氏を「武士の棟梁」に任命することとなり、武士たちは尊氏を中心にしてまとまり、自分に反抗し始めるだろう、と考えたからです。
征夷大将軍という称号には、「武士たちに命令する権限」を持ち、日本中の武士たちを従わせる威厳を持っていたのです。
案の定「征夷大将軍」の称号を北朝からもらった足利尊氏は、幕府を開いて南朝の後醍醐天皇に対抗しています。
実は「後白河法皇」も、「源頼朝」に「征夷大将軍」の称号を与えることを嫌がっていました。
「後白河法皇」も「源頼朝」に幕府を開かれることが嫌だったのです。
そのため、後白河法皇が亡くなった年になって、やっと「源頼朝」は「征夷大将軍」に就任しています。
「1192年」
この年は、「源頼朝」が「征夷大将軍」に就任した年です。しかしそれだけではなく、「後白河法皇」が亡くなった年でもあるのです。
後白河法皇が亡くなった直後に、源頼朝は征夷大将軍に就任しています。
征夷大将軍の称号は、武士たちの憧れ、武家の最高位の称号でした。
そんな「征夷大将軍」は、「徳川慶喜」を最後にして消滅いたします。
慶喜は「大政奉還」で政権を朝廷に返します。
「大政奉還」とは「政治を行う権限を朝廷に返上する行為」のこと。
「返上する」という言葉でわかる通り、元々政治を行う権限は「朝廷」が持っていました。
将軍はあくまでも「政治代行」なのです。
「大政奉還」についてくわしくは、以下のリンク記事で解説しております。
大河「青天を衝け」の一コマ!なぜ水戸徳川家からは、将軍が出なかったの?
実は、徳川慶喜は、徳川幕府の分家である水戸徳川家からでた、はじめての征夷大将軍でした。
【2021年2月14日】に放送された大河ドラマ「青天を衝け」にて、竹中直人さんが演じる徳川斉昭が、こんなことを言っていました。
「七郎麻呂(徳川慶喜)は、水戸徳川家はじめての征夷大将軍になるかもしれない」
なぜ、水戸徳川家からはそれまで征夷大将軍が出なかったのでしょうか?
それは江戸幕府の初代・征夷大将軍の徳川家康が、【水戸徳川家からは征夷大将軍を出さないように】、というルールを決めていたからです。
徳川家康は、江戸幕府をつくるにあたり、征夷大将軍を決めるルールを定めていました。
「もしも徳川本家に征夷大将軍となる後継者がいなかった場合、分家の尾張徳川家または紀伊徳川家のどちらかから養子をもらってきて、その人物を次の征夷大将軍とせよ。
尾張徳川家・紀伊徳川家のどちらの人間を征夷大将軍とするかは、水戸徳川家が決めるものとする」
徳川家には、3つの分家がありました。
- 尾張徳川家
- 紀伊徳川家
- 水戸徳川家
この3つの家を徳川御三家(とくがわごさんけ)と呼びます。
つまり、征夷大将軍となることが出来たのは、尾張徳川家と紀伊徳川家の人間のみ。
水戸徳川家の人間は、征夷大将軍になることは出来ないルールだったのです。
なぜ水戸徳川家の人間は、征夷大将軍になれなかったのか?
- 紀伊徳川家の最初のお殿様・紀伊頼宣(徳川頼宣)
- 水戸徳川家の最初のお殿様・水戸頼房(徳川頼房)
この二人は、ともに徳川家康とその側室・お万の方の息子であり、父も母も同じ兄弟なのです。
(尾張徳川家を開いた尾張・徳川義直の母は、家康の側室・お亀の方。つまり尾張の徳川義直は、頼宣・頼房の異母兄)
水戸頼房は紀伊頼宣の同父母弟であり、実弟ということです。
紀伊徳川家は、二代将軍・徳川秀忠が継いだ徳川本家の分家ですが、水戸徳川家はその紀伊徳川家のそのまた分家というわけです。
当時の風習からすると、兄と弟である紀伊頼宣と水戸頼房の二人を、対等にあつかうわけにはいかなかったのです。
そのため、水戸藩を継いだ弟・水戸頼房を、征夷大将軍にはなれない身分とすることで、兄・紀伊頼宣とのあいだに差をつけたのでした。
さて、この「尾張徳川家と紀伊徳川家から、後継者を決める」というルールによって誕生したのが、暴れん坊将軍で有名な八代目の征夷大将軍・徳川吉宗です。
実は徳川家では、7代目の征夷大将軍・徳川家継が亡くなったことで、徳川本家の血筋が途絶えてしまったのです。
そのため、8代目の征夷大将軍を誰にするのかが問題になりました。
このとき、候補としてあがったのが、紀伊徳川家の当主だった徳川吉宗と、尾張徳川家の当主だった徳川継友(つぐとも)でした。
この激しい後継者争いに勝利した徳川吉宗が、江戸幕府八代目の征夷大将軍に就任したのです。
実はこの徳川吉宗という人こそ、幕末に活躍する最後の将軍・徳川慶喜が征夷大将軍になれる可能性をつくった人物なのです。
徳川御三卿(とくがわごさんきょう)というものをご存知でしょうか?
この御三卿とは、徳川吉宗が新しくつくった徳川家の分家のことです。御三家(ごさんけ)に対して、御三卿(ごさんきょう)と呼びます。
吉宗は、尾張徳川家と紀伊徳川家がライバル関係にあり、とても仲が悪かったことを心配していました。
尾張徳川家と紀伊徳川家は、家康から100年もの時間が経過しており、血縁がうすれていたためなのか、とてもライバル意識が強く、険悪な関係だったのです。
いつの日にか、両家が次の征夷大将軍の座を争って戦争をはじめ、平和な時代が終わるのではないか・・・・。
そのため徳川吉宗は、征夷大将軍になれる人物を生む分家を増やすことにして、尾張家と紀伊家の後継者争いを、未然に防ごうとしたのです。
吉宗は自分の次男・徳川宗武(むねたけ)と、三男の徳川宗尹(むねただ)、さらに孫の徳川重好(しげよし)に、3つの分家を起こさせたのです。
- 次男・徳川宗武は【田安徳川家】
- 三男・徳川宗尹は【一橋徳川家】
- 孫・徳川重好には【清水徳川家】
実際に、徳川吉宗の孫で10代目の征夷大将軍・徳川家治が後継者を残さずに亡くなったとき、一橋徳川家(一橋家)の徳川家斉が11代目の征夷大将軍となっています。
この一橋徳川家が誕生したおかげで、徳川慶喜は15代目の征夷大将軍になることが出来ました。
徳川吉宗の時代から、約100年後、一橋徳川家において、後継者が断絶するという大問題が発生しました。
そのため一橋徳川家は、同じ徳川家康の血を引く人物を養子として迎え入れて、お家の存続をはからなくてはならなくなったのです。
このとき、水戸徳川家の当主だった徳川斉昭の息子・七郎麻呂が、一橋徳川家の養子となって、一橋家を存続させます。
これにより、それまでただの一人も征夷大将軍を出すことができなかった水戸徳川家から、初めての征夷大将軍となれる可能性が生まれたのです。
なぜなら征夷大将軍になれない水戸徳川家の血を引く徳川慶喜が、征夷大将軍になることができる一橋徳川家の当主になったのですから。
七郎麻呂は、とても優秀で評判の人物でした。
12代目の征夷大将軍・徳川家慶は、病弱で才能に乏しかった息子・徳川家定よりも、この優秀な七郎麻呂を後継者にしようと考えたほどでした。
そのため徳川家慶は、自分の名前の「慶」という一文字を七郎麻呂にあたえて、徳川慶喜、と名乗らせたのです。
慶喜という名前は、よろこぶ、という文字が2つも重なった、とても演技の良い名前でした。
実は、このときの幕府の実力者だった阿部正弘は、優秀な徳川慶喜を将来的に征夷大将軍へ就任させようと考えていました。
(とはいえ、徳川家慶が次期将軍を息子の家定ではなく慶喜にしようとした時、阿部正弘は反対している。おそらく長子相続という古くからのしきたりを破ることで、反対勢力の反発が予想されたため反対したのだろう)
そのため、阿部正弘は徳川慶喜を、征夷大将軍になることができる一橋徳川家へと養子入りさせたのでした。
実はこのとき、阿部正弘のほかにも、薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)もまた、徳川慶喜を次期将軍にしようと考えていました。
なぜ、みんな徳川慶喜を征夷大将軍にしようとしたのでしょうか?
その理由は、日本を諸外国から守るためです。
天才・徳川慶喜を征夷大将軍に就任させて、その天才的な能力によって、日本を西欧列強の外国から守る
このミッションを成功させるために、西郷隆盛や大久保利通、そして名君・島津斉彬やその養女・天璋院篤姫らが暗躍することとなるのです。
まさかこの徳川慶喜が、西郷隆盛や大久保利通にとって、明治維新を邪魔する最強最悪のライバルになるとは。。。この時の西郷や大久保には全く夢にも思っていませんでした。
西郷隆盛・大久保利通にとって、徳川慶喜は最強最悪のライバルになる・・・という点について、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・「征夷大将軍」とは、当初「外敵を倒すこと」が仕事だったが、徐々に役目を変えて、「朝廷に代わって政治を行うための役職」となっていった
・幕府とは、征夷大将軍が政治を行う場所。征夷大将軍が本拠地と定めた場所。
・征夷大将軍は、朝廷から「政治を代行する」権限を与えらえることで「幕府」を設置・・・つまり幕府を開くことができるようになる
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント
コメント一覧 (1件)
いいね
⑴文章と文章の間隔があり、読み易い。
⑵文中に2021年2月14日とあり、記事が新しい。(2月14日、バレンタインデーか。幕末の人物を調べると、岡田以蔵の誕生日らしい)
⑶文中に、西郷や大久保には全く夢にも思っていませんでした。「〇〇は」と「〇〇には」の違いを勉強することが出来た。