『明智光秀』ゆかりの地を一気に紹介!京都・岐阜周辺の地まとめ

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明智光秀は現在の岐阜県に生まれ育ち、福井県で朝倉義景に仕官したのち、織田信長に仕えました。

 

織田家臣の中でも信長の光秀に対する信頼は非常に深く、畿内の重要拠点を任せられていたのです。

 

光秀が生涯のあいだに関わったゆかりの地は、岐阜県、京都府、滋賀県に数多く残されており、現在もその足跡を偲ぶことが可能です。

 

この記事では、そうした光秀ゆかりの地をご紹介します。

 

これを読んで、光秀ゆかりの地を巡る際の参考にしてくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,京都周辺には、明智光秀が関係しているゆかりの地として「本能寺」「福知山城」「亀山城」「山崎合戦場」「明智藪」などの地が残されている

 

2,岐阜周辺には、「明智城」や「天龍寺」など、光秀の出身地とされるゆかりの地が数多く存在している。

 

3,光秀には「生存説」があり、1582年の「山崎の戦い」で死なず、生き延びて「南光坊天海」として徳川家康の参謀・ブレーンをつとめた、という逸話がある

 

4,「南光坊天海」のゆかりの地としては、「会津黒川城(若松城)」「川越市・喜多院」「明智平」「弘前」など、東北・関東を中心として、全国に縁のある地が存在している


『明智光秀』ゆかりの地・・京都周辺

明智光秀は、織田信長の家臣となってから畿内の重要な拠点を任されたため、近畿地方、特に京都府と滋賀県には、ゆかりの地が多く残されています。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

光秀の近畿地方での足跡を追いながら、ご紹介していきますね。

 

本圀寺

京都市山科区。

1568年に足利義昭が上洛した際の宿所だった。

義昭に随行した光秀は、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の襲撃に応戦。

光秀の名が『信長公記』に初めて現れた場所となった。

 

宇佐山城

滋賀県大津市。

信長の家臣・森可成が築城した山城。

《森可成》
「引用元ウィキペディアより」

1570年の宇佐山城の戦いで森可成が亡くなった後、光秀は信長からこの城を与えられ、改修して居住した。

この後、光秀が坂本城を築城し移転したため、廃城となった。

現在は本丸跡地に、NHKと民放のアンテナが建設されている。

 

比叡山延暦寺

《比叡山延暦寺》
「引用元ウィキペディアより」

滋賀県大津市。

1571年、比叡山焼き討ちの中心実行部隊として武功を上げた光秀は、近江国滋賀郡を所領として与えられた。

この頃、正式に織田家家臣となったと考えられている。


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西教寺

滋賀県大津市。

1571年の比叡山焼き討ちで焼失したお寺「西教寺」。

坂本城に近く、この寺の再建には、光秀の援助があったと言われている。

光秀が戦死した部下のために供養米を寄進した記録が残り、境内には光秀の供養塔と一族の墓所がある。

 

坂本城

滋賀県大津市。

比叡山焼き討ちの武功で与えられた近江国滋賀郡坂本、琵琶湖畔に位置するこの場所に、光秀が築いた城。それが「坂本城」。

《坂本城跡の明智光秀銅像:夢さんさんによる写真ACからの写真》

天守閣内部から琵琶湖に出ることができただけでなく、豪華壮麗な坂本城を宣教師「ルイス・フロイス」は、「安土城に並ぶ名城」と絶賛した。

光秀の正室・煕子が病死した場所であり、畿内で光秀が一番長く居住した城。

山崎の合戦で光秀が敗れた後、明智秀満が城に火を放ち、自身の妻子と光秀の妻子を殺害し、自身も自害して坂本城は焼失した。

のち、丹羽長秀が再建し城主となったが、1586年の大津城築城にともない廃城。

 

黒井城

兵庫県丹波市。

1575年、信長に丹波平定を命じられた光秀が攻撃した城。

しかし、味方だった八上城の城主「波多野秀治」の裏切りにより敗走。

光秀は危うく命を落とすところだった。

 

天王寺砦

大阪市天王寺区。

月江寺の境内あたりにあったと言われているが、遺構は残されていない。

1576年、石山本願寺との戦いで光秀はこの砦を攻められ、信長の援軍で窮地を脱した。

その後、光秀は過労で倒れ療養生活を送る。

「天王寺砦の戦い」直後の【1576年11月】、坂本城で正室・煕子が病死。


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信貴山城

奈良県生駒郡。

1577年、突然信長に謀反を起こした「松永久秀」を、光秀はその居城である信貴山城で攻め滅ぼした。

信貴山城は落城後、廃城。

《松永久秀》
「引用元ウィキペディアより」

亀山城

京都府亀岡市。

1577年、信貴山城が落城した後に、丹波攻略を再開した光秀が丹波攻略の拠点とした城。

1578年に築城。

江戸時代に大改修され、明治時代の初めに撮影された天守閣は、この大改修時のもの。

1862年に撮影された丹波亀山城天守閣:Wikipediaよりパブリックドメイン

亀山城は光秀が「本能寺の変」の際、出陣した城。

1877年に廃城され、1919年、民間に払い下げられて荒廃した亀山城を「出口王仁三郎」が買い取り、宗教法人「大本」の本拠地とした。

現在も「大本」の本拠地だが、立入禁止区域を除けば見学可能。

 

福知山城

《福知山城》
「引用元ウィキペディアより」

京都府福知山市。

1579年、丹波国を平定した光秀は、細川藤孝の協力を得て、となりの丹後国も平定。

この光秀の働きを、信長は絶賛した。

光秀は塩見氏の居城だった横山城を「福知山城」と改名し、城の改修をすすめて、明智秀満を城代として置いた。

1871年の廃城令で解体されたが、福知山市民の熱意により1986年に再建。

福知山城のゆるキャラは、光秀と正室・煕子をモデルにした「光秀くんとひろこさん」だが、正室・煕子はこの城には居住していない。


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明智戻り岩

京都府亀岡市。

丹波攻略に向かう光秀が、山中の巨岩に行く手を阻まれ、引き返した場所。

毛利家との戦いをしていた「羽柴秀吉」への援軍を命じられた光秀が、ここで進路を京都方面に変えたという伝承もある。

現在は、近年の台風の影響で明智戻り岩に近づくことは、困難になっている。

 

愛宕神社

《愛宕神社》
「引用元ウィキペディアより」

京都市右京区。

1582年5月、信長から毛利攻めの援軍を命じられた光秀が、毛利征伐の戦勝祈願で参詣した神社。

だが、一説には信長討伐の戦勝祈願と、吉凶を占うために行ったのではないかと言われている。

光秀は3回おみくじを引き、2回続けて「凶」を、3回目にやっと「大吉」を引いたと言われる。

戦前はケーブルカーがあったが、現在は麓から歩いて登る以外に参詣できない。

 

明智越え

京都府亀岡市?京都市右京区。

1582年6月、亀山城を出立した光秀は軍を3つに分け、亀岡から山を越え、京都に入った。

3隊が超えたルートは

  • 唐櫃越え
  • 老ノ坂峠越え
  • 明智越え

と呼ばれている。

以前、歴史バラエティ番組でスタッフが実際に甲冑を身に着けて歩いていた。

そのときに歩いていた場所は、現代において整備された国道9号線と重なる新道の「老ノ坂峠越え」であり、当時は当然「舗装」などもなく、歩くのはとても危険。

光秀本人が通ったルートが「明智超え」と呼ばれているが、標高は低くても、登りのきつい山道となっており、ハイキングコースと言うのが憚られるほど。

台風の影響で倒木も多いため、歩くのならそれなりの準備・装備が必要。


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本能寺

《京都・本能寺跡:あけびさんによる写真ACからの写真》

京都市中京区。

1582年5月、信長は光秀を徳川家康の饗応役を解任し、毛利征伐を行う秀吉への援軍を命じた。

6月、光秀は亀山城から出陣、中国方面に向かわず京都・本能寺に宿泊していた信長を攻め滅ぼした。

現在の本能寺は、秀吉が区画整理で移転させた場所にあり、元々の本能寺があった場所は、現在「老人福祉施設」となっている。

 

二条城

京都市中京区。

本能寺で信長を攻め滅ぼしたのち、光秀は二条城にいた信長の嫡男・織田信忠も攻め滅ぼした。

 

安土城

《安土城》
「引用元ウィキペディアより」

滋賀県近江八幡市。

信長が築城した豪華壮麗な城。信長を攻め滅ぼした光秀は、いったんは坂本城に入って近江国を平定。

その後、安土城に入り、対朝廷工作を行った。

しかし、姻戚関係にあった細川藤孝(幽斎)から協力することを拒絶され、筒井順慶、高山右近らも光秀に反旗を翻し、光秀は孤立を深める。

「山崎の合戦」で光秀が秀吉に敗れたあと、安土城を守っていた秀満が坂本城に退却する際、火事によって天守閣などが消失。

その後も織田氏の居城として使われていたが、秀吉が養子「秀次」の居城とするために、1585年に八幡山城を築いた際、廃城とされた。


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山崎の合戦場

『天王山より山崎合戦地を望む:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

京都府長岡京市?乙訓郡。

1582年6月、毛利攻めから中国大返しで畿内にとって返した秀吉と、光秀が激突した場所。

しばらく両軍のにらみ合いが続いたが、池田恒興が淀川沿いに軍を進め、光秀軍に奇襲をかけたことで雑兵が逃げ出し、光秀軍は総崩れとなってしまい、光秀は勝竜寺城に退却を余儀なくされた。

 

勝龍寺城

勝龍寺城:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真

京都府長岡京市。

光秀の娘「珠(細川ガラシャ)」が祝言をあげた城として知られている。

山崎の合戦で敗れた光秀が退却した城。

しかし、勝竜寺城は平城で多くの兵を収容できず、兵が離散して最終的に光秀に従っていたのは700人程度になってしまった。

秀吉の追撃をうけた光秀は勝龍寺城を脱出し、坂本城を目指した。

 

明智藪

京都市伏見区。

小栗栖の住宅地内に石碑がある。

勝龍寺城を脱出した光秀は、この藪を抜けている最中、落ち武者狩りに襲われ、農民にヤリで刺され、切腹したとも言われているが、光秀の最期ははっきりしていない。


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明智光秀胴塚

京都市山科区。

小栗栖で農民に襲撃され、最期を悟った光秀は自刃し、介錯(かいしゃく・とどめの一撃)を家臣「溝尾庄兵衛」に頼んだ。

首は庄兵衛が隠し持ち、胴はこの地に埋めたと伝えられている。

伝承に基づき、1970年に建立された。

 

明智光秀首塚

京都市東山区。

最期のはっきりしていない光秀の首塚と伝わる。

光秀と家臣・斎藤利三(春日局の父)の遺体が晒(さら)された京都・粟田口の東側にあり、『兼見卿記』、『言経卿記』に書かれた光秀と利三の遺体が晒されたのち、埋葬された場所と一致することから、信憑性が高いと考えられている。

 

谷性寺

京都府亀岡市。

通称「光秀寺」または「桔梗寺」。

小栗栖で切腹した光秀の首を、介錯した家臣がこの寺に運び、埋葬したと伝えられる。

現在、寺内にある光秀の首塚は、幕末に光秀を偲んで作られたもの。

 

小畠川(明智川)

京都市西京区。

本能寺で信長を討ち果たした光秀は、亀山城に戻る途中で落馬し、農民に介抱された。

「東に見える火事がどこかわかるか」と光秀は農民に聞き、「当てたら褒美をあげよう」と言ったところ、農民は即座に「本能寺」と答えた。

水不足で困っているので水を通してほしい、という農民の要望を聞き入れ、すぐ用水路を着工したと伝えられている。

しかし、光秀はそれから間もなく「山崎の合戦」で敗れており、この話は後世の創作だと考えられている。


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『明智光秀』ゆかりの地・・岐阜周辺

京都に次いで、光秀の生まれた岐阜県周辺にある「光秀ゆかりの地」をご紹介します。

 

明智城

《明智光秀出生地と伝わる明智城跡:Wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ3.0》

岐阜県可児市。

諸説ある光秀出生地の最有力候補地と考えられている。

尾根や谷をうまく利用してつくられた山城で、1342年に築城されて以来、明智氏の居城だった。

光秀はこの城で生まれ、1566年に「斉藤義龍(斎藤高政)」に攻め滅ぼされた時まで過ごした。

落城時、城代「明智光安」は、明智家再興を光秀に託して逃し、自身は自害。

光秀は身重の妻「煕子」を背負って落ち延びたと伝わる。

 

天龍寺

岐阜県可児市。

明智城の近くにある寺で、明智氏歴代の墓所がある。

 

お牧の方墓所

岐阜県恵那市。

光秀の母「お牧の方」の墓所。

光秀は丹波攻めの際、降伏して織田信長に謁見する八上城城主「波多野」氏の身の安全を保証するため、母を人質として差し出した。

母が人質となっているにもかかわらず、安土城へと送られた波多野秀治らは、信長によって処刑された。

その仕返しとして、波多野の家臣により「お牧の方」は虐殺されたと伝えられる。

実はこの「光秀の母親の処刑」は後世の創作とも言われるが、光秀が織田信長に遺恨を抱き、本能寺の変の一因となったとの指摘もある。

 

落合砦

岐阜県恵那市。

光秀の母「お牧の方」の墓所近くにある砦跡地で、光秀生誕伝説がある。

光秀の産湯に使ったと言われる井戸が残っている。

 

天神神社

岐阜県恵那市。

京都の北野天満宮から分祀した天満社で、光秀が若い頃に、京都の嵯峨「天竜寺」の学僧「勝恵」を招き、学問に励んだという伝承が残る。


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越前称念寺

福井県坂井市。

明智城が落城した後、光秀は越前国(福井県)へと落ち延び、「称念寺」前で寺子屋を営み、家族と暮らした。

その後、称念寺の和尚の推薦で「朝倉義景」に仕官した。

 

一条谷朝倉遺跡

《一乗谷城》
「引用元ウィキペディアより」

福井県福井市。

朝倉義景の居城で、光秀はここで足利義昭と出会い、義昭に義景ではなく織田信長を頼れと伝えた。

光秀の人生を好転させた、もっとも重要な場所。

 

立政寺

岐阜県岐阜市。

光秀と細川藤孝の仲介で、信長は足利義昭をこの寺に迎えた。


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桔梗塚

岐阜県山県市。

「山崎の合戦」で敗れた光秀がこの地に落ち延び、「荒深小五郎」と名を変えて暮らしたという伝承が残る。

小五郎と名を変えた光秀の墓所と言われている。

 

妻木城

岐阜県土岐市。

光秀の正室・熙子の出身氏族である妻木氏の居城。


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「光秀生存説」を簡単解説

光秀は小栗栖では亡くならず、生き延びたという伝承があります。

 

亡くなったのは影武者だったため、光秀の首を秀吉に差し出した農民は、褒美をもらうどころか、処罰されたと伝えられているのです。

 

つまり「偽物の首」を持ってきたことに、秀吉が激怒したということでしょう。

 

一説によれば光秀は、ゆかりの地「岐阜」でお伝えした、「桔梗塚」のある「岐阜県山県市」に落ち延び、そこで「荒深小五郎」と名を変え、暮らしたと言われています。

 

桔梗塚には、明智家の家紋である桔梗紋もあるので、本当に岐阜に落ち延びたような気もしてきますね。

《明智家の家紋「桔梗の花」ふぉと忍者さんによる写真ACからの写真》

さらに、荒深小五郎には、「関ヶ原の戦いに参戦しようとしたけれど、雨で川が増水して渡れず諦めた、という伝承まで残っているのです。

 

もし荒深小五郎が光秀本人だったとしたら、「関ヶ原の戦い」で東軍の「徳川家康」に味方するつもりだったのでしょうか?

 

しかし筆者は、「荒深小五郎」という人物は、「山崎の合戦から逃げ延びた明智家の重臣だった」と考えています。


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荒深小五郎は、「山崎の合戦」の際に「光秀」が死なずに生き延びたことを知っており、万一にも秀吉の追手に光秀が見つからないよう、「自分が光秀である」とほのめかすことによって、光秀を守る「かえだま」を勤めていたような気がするのです。

 

余談ですが、作家「江戸川乱歩」の生んだ名探偵「明智小五郎」の名前の由来は、「明智光秀」と「荒深小五郎」の名前から、とも言われていますよ。

 

話を戻しましょう。

 

では、光秀が生き延びたとして、その後どうなったのでしょう?

 

光秀は僧侶となり、「南光坊天海」僧正となって徳川家康のブレーン(参謀・軍師)になったと言われています。

《南光坊天海》
「引用元ウィキペディアより」

光秀と天海僧正には、前半生がはっきりしないという共通点があり、また、ほぼ同時代に生きた人物でありながら、史料上では同時期に登場しません。

 

天海僧正が史料上にその名を初めて現したのは、1588に埼玉県川越市の「喜多院・無量寿寺」の住持となってからでした。

 

光秀が山崎の合戦で亡くなったと言われる、「1582」のあとなのです。


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天海僧正は光秀と入れ替わるように、歴史にその名を現し、家康のそばで活躍し始めました。

 

これらのことが一因となり、光秀は天海僧正となったと言われているのです。

 

伝承によれば、山崎の合戦から落ち延びた光秀は、宇治で匿われ、それから息子「玄琳」を頼り、京都の妙心寺を訪れました。

《京都・妙心寺》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、玄琳はすでに摂津国大坂・鳥羽(現在の貝塚市)で大日庵(海雲寺)を開き、そこで修行していたために対面できず、光秀は玄琳を追って摂津国に向かいます。

 

南国梵桂と名を改めた息子と合流した光秀は、出家して僧侶となりました。

 

戦乱で海雲寺は消失してしまい、親子は現在の岸和田市に移り、そこで新たに寺を建立し、本徳寺と名付けたのです。

 

この本徳寺には、現存する唯一の光秀の肖像画が残されています。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

「光秀の肖像ではないのではないか」という指摘もありますが、その風貌は光秀の三女「細川ガラシャ」の肖像に似通っており、ガラシャは父親に似たのだろうなと、筆者は見るたびに思わされました。

 

「光秀の娘・細川ガラシャの肖像画」は、こちらのリンクからご覧いただけます。

 

さて、その唯一の光秀肖像画には「放下般舟三昧去」と書かれています。

 

これは「仏門に入って去っていった」という意味ですから、素直に解釈すると、「光秀が僧侶となってこの地を去っていった」、ということになりますよね。

 

それから、信長の命令で光秀も「比叡山焼き討ち」に参戦しています。


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その比叡山には、俗名を「光秀」という僧侶がいたという記録が残り、さらに「山崎の合戦」後に亡くなったはずの1582年よりあとに光秀が寄進したという石碑が、今も残されているのです。

 

さらに、本徳寺には「光秀の位牌」が残されていますが、「当寺開基慶長四己亥」と書かれていますが、これは「この寺を慶長4年に開基した」という意味です。

 

慶長4年は1599です。

 

1582年「山崎の合戦」の17年後に光秀が生きていて、本徳寺を開基した・・・・・という摩訶不思議な記述になっているのです。

 

山崎の合戦を落ち延びた光秀は、僧侶・天海となり、比叡山で修行したのち、家康の関東転封に伴い、その拠点を関東に移したのでしょう。

 

次の項で、天海僧正のゆかりの地をご紹介します。


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『南光坊天海』のゆかりの地を解説

先述したとおり、天海僧正の前半生ははっきりしておらず、確実にその存在を確認できる史料は、1588年に川越市・喜多院の住持となった時からです。

 

天海僧正を陸奥国会津郡(現在の福島県会津市)出身とする史料もあります。

 

しかし、その史料の中には

「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」

(天海僧正について、仏門に入る前のことを聞いたが、本当の名前も年齢も忘れた)

その他にも、(天海僧正は)何も答えなかった・・・ともあるのです。

 

天海は、氏素性を隠したかったのではないでしょうか。

 

天海僧正が会津で生まれ育ったと言われる確実な史料は存在せず、伝承の域を出ませんが、その伝承を交えて、天海僧正ゆかりの地をご紹介していきます。

 

 

龍興寺

福島県会津市。

舟木景光と葦名氏の娘との間に生まれた舟木兵太郎は、1546年に龍興寺で得度し、随風という僧侶となった。

龍興寺の境内には兵太郎の両親のものではないか、と言われている墓も存在している。

この「舟木兵太郎」という人が、「南光坊天海」のことなのではないか、と言われている。

しかし天海僧正と龍興寺、葦名氏の結びつきを示す史料は存在せず、伝承に過ぎないと考えられている。

 

粉河寺

栃木県宇都宮市。

14歳になった「随風(南光坊天海のこと)」が天台宗を学んだとされる。

江戸時代には徳川家の手厚い援助で栄えたが、明治元年の宇都宮戦争で焼失、廃寺となった。

 

比叡山延暦寺、園城寺

《比叡山延暦寺》
「引用元ウィキペディアより」

滋賀県大津市。

粉河寺で学んだ随風(南光坊天海のこと)が、さらに天台宗の研鑽を積むために学んだとされるが、それを示す史料は存在しない。

 

興福寺

奈良県奈良市。

随風(南光坊天海のこと)は延暦寺、園城寺だけではなく、学問を修めたと言われる。

しかし、それを示す史料は存在しない。

1571年、比叡山焼き討ちで焼け出された随風は、比叡山延暦寺を甲斐で再興しようとする武田信玄の招きで、甲斐国に移住したと言われる。

 

黒川城(若松城)

福島県会津若松市。

1573年、随風(南光坊天海のこと)は会津領主・蘆名盛氏の求めにより、会津に帰郷し、黒川城内にあった稲荷堂の別当になったと言われる。

 

長楽寺

群馬県太田市。

喜多院の住持になる前、随風(南光坊天海のこと)が属したと伝えられている。

 

喜多院無量寿寺

《川越市・喜多院無量寿寺》
「引用元ウィキペディアより」

埼玉県川越市。

創建は平安時代の淳和天皇の御世に遡る古刹。

天海僧正の足跡が史料上ではっきり確認できるのは、1588年にこの喜多院の住持となった時。

随風はこの時から「天海」と名乗るようになったと言われる。

1599年、天海が住職となり、1613年に江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」によって、関東天台総本山となった。

1616年に家康が亡くなり、久能山に葬られた遺体が日光に改葬される際、天海僧正が導師として大法要が営まれたので、境内には仙波東照宮が祀られている。

1638年の川越大火で伽藍を焼失するが、3代将軍「徳川家光」の命令により、江戸城の建物が移築され、現在も「家光誕生の間」、「春日局化粧の間」などがあり、当時を偲ぶことができる。

境内には天海僧正の墓所・慈眼堂がある。

 

江戸崎不動院

茨城県稲敷市。

1591年から約17年間「天海僧正」が住職を勤めた。

1599年に喜多院無量寿寺の住職にもなっているので、両寺の住職を兼任していたことになる。

 

東叡山寛永寺

東京都台東区。

1622年、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を建設したいと考えていた天海僧正の気持ちを知った2代将軍・秀忠が、現在の上野公園にあたる地域の土地を与え、江戸の鬼門を守るための寺院建立を許可。

1625年、秀忠隠居後の家光の時代に建立。

寺名を年号から「寛永寺」、東の比叡山という意味で山号を「東叡山」とした。

広大な寺域と伽藍を持つだけではなく、徳川歴代の将軍墓所であったが、1868年の「上野戦争」の際に主要な伽藍を焼失、さらに第二次世界大戦の東京大空襲で徳川家霊廟など残された建物も焼失。

現在は上野公園内に、これらの大火を免れた建物が点在する。

 

日光山輪王寺

栃木県日光市。

創建は奈良時代に遡る古刹。

戦国時代に一時期荒廃していた輪王寺を、貫主となった天海僧正が復興した。

家康死後の神号を「大明神」とするか「大権現」とするかで幕臣ともめた天海僧正は、豊臣秀吉が「大明神」となって豊臣家が滅亡したことを指摘し「大明神は不吉である」と主張。

家康の神号は「東照大権現」と決まる。

家康の遺体は、久能山から日光山に運ばれて改葬され、東照宮が作られて祀られた。

世界遺産であり、世界の観光客を集めている。

家光の墓所「大猷院」、天海僧正の墓所「慈眼堂」がある。

天海僧正が実際に埋葬されたのは、日光輪王寺内の慈眼堂。

 

明智平(あけちだいら)

栃木県日光市。

中禅寺湖に向かっていろは坂を登りきった、見晴らしの良い風光明媚な場所。

「明智平」と命名したのは天海僧正で、俗名「光秀」だった天海僧正が、「明智」の名を残すために命名したと伝えられている。

明智光秀の末裔「明智憲三郎」氏は、「明智平」という地名は、近代になって名付けられたものである、と言っていた。

 

弘前(ひろさき)

《弘前城》
「引用元ウィキペディアより」

青森県弘前市。

元々は「鷹岡」という名前だったが、1611年に弘前城が完成したに城主の「津軽信牧」が、帰依していた天海僧正に依頼し、「弘前」と改名したと言われる。

 

慈眼堂

滋賀県大津市。

比叡山の恵日院境内にある、3つある天海僧正の墓所のひとつ。

天海僧正が遷化した1643年の翌年、1644年に家光の命令によって建立された。

光秀が畿内で一番長く暮らし、山崎の合戦後に妻子が悲劇的な最期を遂げた坂本城から徒歩30分ほどの距離にある。

天海僧正が会津出身なら、会津に慈眼堂が作られてもおかしくはないのに、なぜか会津には慈眼堂が存在しない。

坂本の慈眼堂は、「光秀=天海僧正説」の根拠の1つであると考えられている。


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「光秀とゆかりの地」について「ひとこと」いいたい

光秀と天海僧正のゆかりの地を、簡単にご紹介してきました。

 

2020に大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されますから、これから「ゆかりの地」は、ドラマを見て光秀が実際にいた場所を見てみたい、という観光客によってごった返すでしょう。

 

しかし、ここで注意すべきことが。

 

街中にあって見学しやすいゆかりの地は良いのですが、問題は山城の跡地です。

 

京都を囲む山は、てっぺんのあたりは「なだらか」なのですが、登り始めの勾配は結構きつい山が多いのですね。

 

しかも、2019の夏から秋にかけての台風の影響で、倒木で城までの道がふさがったりしている場合もあるようです。


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明智越えも、2019に越えた方のブログ写真を拝見したのですが、画像を見るとかなり道が荒れていました。

 

標高は低くとも、山は山です。

 

山城の跡地を見学したり、明智越えに挑戦したりする場合は、

  • 食料
  • 地図
  • 方位磁石
  • 雨具

などを用意し、トレッキングシューズを履いて行くようにしましょう。

 

決して、パンプスやサンダル履きで行かないよう、山歩きに慣れていないのであれば、決して1人では行かず、山歩きの経験者に同行してもらうように。

 

山に入って自力で下山できなくなることを「遭難(そうなん)」と呼びます。

 

見学の際は、「遭難者」にならないよう、十分ご注意ください。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,京都周辺には、明智光秀ゆかりの地として「本能寺」「福知山城」「亀山城」「山崎合戦場」「明智藪」などがある

 

2,岐阜周辺には、「明智城」「天龍寺」ほか、光秀の出身地などのゆかりの地が数多く存在している。

 

3,光秀には「生存説」がある。1582年「山崎の戦い」で敗死したことになっている光秀が、実は生き延びて「南光坊天海」となって徳川家康の参謀をつとめた、という逸話がある

 

4,「南光坊天海」ゆかりの地には、「埼玉県川越市・喜多院」「明智平」「青森県弘前市」など、東北・関東に縁のある地が存在している

この記事では、光秀=天海僧正という前提で、光秀・天海の「ゆかりの地」をご紹介してきました。

 

明智光秀は岐阜県に生まれ育ち、越前で朝倉義景に仕えたのち、織田信長に仕えます。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

とはいえ、光秀の前半生も、出生地候補がいくつもあり、あまりはっきりしていません。

 

信長の信頼も篤く、畿内の重要拠点を任されていた光秀は、京都・滋賀周辺にその足跡を多く遺しています。

 

しかし、1582に「本能寺の変」を起こして、主君「織田信長」を討ち果たしたのち、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、亡くなったと言われています。

 

一方、前半生が伝承だらけの天海僧正の足跡がはっきり史料で確認できるのは、1588に喜多院無量寿寺の住持となってからでした。

 

ともに前半生がはっきりしない、ほぼ同時代に生きた2人は史料上にそろって登場することはなく、光秀が退場したあとに天海僧正が登場するのです。

 

それも、光秀が饗応役を命じられていた、徳川家康のブレーンとして。

 

私には、光秀は天海僧正となって家康を補佐したのだと思えるのですが、さてどうでしょう?

 

ゆかりの地を巡って、考えるもの良いですね。

 

しかし、山城跡の見学や明智越えに挑戦する場合は、準備・装備を怠らないようにして下さい。

《福知山城・天守と桜  ROKUDANDAさんによる写真ACからの写真》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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