名城『大阪城』はいったい誰がつくったのか?気になる歴代城主も、わかりやすくご紹介します。
現在大阪市にそびえる大阪城は、「豊臣秀吉」ではなく「徳川秀忠」がつくったものだった!
秀吉がつくった大阪城は「大阪夏の陣」で炎上。その後「秀忠」が再建し、今に至るのです。
大阪城の地下で発見された「石垣」の秘密とは?
そして最強の城「大阪城」は、なぜ落城してしまったのか?
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この記事を短く言うと
大阪城を作った人は誰?秀吉ではなく、秀忠!
大阪城をつくった人は誰なのか?
今現在、大阪市にある「大阪城」を作らせたのは「豊臣秀吉」ではなく、二代将軍「徳川秀忠」です。
どういうことなのか?大阪城は「太閤・豊臣秀吉の城」なのではないのか?
大阪にはもともと「石山本願寺」という、大きな寺社が建てられていました。
石山本願寺は、織田信長と激しく対立し、血で血を洗う死闘を繰り広げていたのです。
1580年、10年にわたる「石山戦争」が、織田信長の勝利に終わると、信長は「石山本願寺」という重要拠点の立地に注目。この地に巨大な城をつくろうとします。
しかし「1582年」、織田信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれると、その翌年の「1583年」、信長のあとを継いだ「豊臣秀吉」が、大阪城の築城を開始します。秀吉の命令をうけた軍師「黒田官兵衛」は、信長の居城であった「安土城」を参考にして、巨大な大阪城の建築をすすめたのでした。(安土城は、信長の部下「丹羽長秀」が築城を担当した)
大阪城の築城は、秀吉が亡くなる「1598年」まで続けられ、比類なき巨大な城となります。
しかし秀吉の死から17年後の「1615年」、「大阪夏の陣」によって、秀吉が全力を尽くしてつくりあげた名城「大阪城」は落城し、炎上してしまいます。
大阪城が落城した翌年「1616年」、徳川家康が亡くなり、二代将軍「徳川秀忠」が、大阪城の再建を始めたのでした。
焼け落ちた「秀吉の大阪城」を土で埋め立て、その上に、新しい大阪城を築城したのです。この「新しい大阪城」の築城を担当したのが、築城の名手「藤堂高虎」。
藤堂高虎が築城した大阪城は、秀吉の大阪城に比べると「天守閣」は大きくなったものの、城郭の規模は「4分の1」へと、大幅に縮小。
現在の大阪城は1931年から「再建」が始まり、さらに「1995~1997年」に大改修が行われ、現在「国の登録有形文化財」に登録されています。
大阪城の石垣!大阪市の地下に眠る「石垣」の秘密
「昭和39年」と「昭和59年」、現在の大阪城の地下から、「謎の石垣」が発掘されました。この「地下から発掘された石垣」は、いったい何なのでしょうか?
地下から発掘された石垣は、「豊臣秀吉がつくった大阪城の石垣」であると考えられています。
さきほどご説明したとおり、現在の大阪市にそびえたつ大阪城は、二代将軍「徳川秀忠」が、「大阪夏の陣」で炎上した大阪城を土に埋めて、その上に築いたお城。
つまり、「秀吉」がつくった大阪城は、現在「土の中に眠っている」状態なのです。
「大阪夏の陣」から400年の間、地中で眠っていた大阪城の石垣・・・。その一部である「石垣」は、一般公開の準備が進められています。
大阪城の城主・持ち主は誰?江戸時代に「城主」はいなかった
大阪城の城主は、いったい誰なのでしょうか?つまり「大阪城」は誰が持ち主なのか?
当然「豊臣秀吉」ですよね。その後、息子「豊臣秀頼」に受け継がれ、1615年「大阪夏の陣」で、大阪城は落城したわけです。
「江戸時代」・・・・大阪夏の陣で「豊臣家」が滅亡し、大阪城が徳川家に攻め滅ぼされたあと、「大阪城の城主」は、いったい誰になったのでしょうか?
「松平忠明」・・・・・徳川家康と同じ一族の武将です。家康の家臣で「大阪夏の陣」の直後「大阪藩・10万石」をあたえられて大阪城をおさめる領主となります。
秀頼のあと、大阪城の城主となったのは、この「松平忠明」です。
しかし「1619年」、松平忠明は現在の奈良県「大和郡山藩」へ移動となり、「大阪藩」は廃止されます。
その後、「大阪城」には「城代」、つまり「城主の代理」が置かれるようになります。「大阪城」の城主は「歴代徳川将軍」が代々つとめるものの大阪城には入場せず、「城代」が大阪城を預かる形でおさめられるようになったのです。
「1619年~1868年」までの「249年間」、大阪城は城代がおさめ、1868年の「明治維新」をむかえることになります。
249年間、歴代70人の城代が大阪城をおさめてきたわけですが、『大坂城代』という役職は、幕府最高の役職である「老中」への通過点という「出世コース」という意味合いを持っていたようです。
大阪城の堀!「障子堀」のとてつもない威力
秀吉がつくりあげた「大阪城」の「堀」。
その防御力は、非常に優れていました。
「豊臣家・大阪城」の堀は「障子堀(しょうじぼり)」といって、堀が区分けされているという、変わった形をしているのです。
以下に、「山中城跡」の「障子堀」の画像をご用意いたしました。
写真の左側に縦に掘られた「堀」が見えると思いますが、堀が土壁で等間隔にしきられているのがわかるとおもいます。
この「障子」のような「しきり」のおかげで、堀の中に入った兵士は身動きが取れず、弓や鉄砲の的にされてしまうのです。
では堀の中に入らず、障子の上を歩けば良い・・・とおもうかもしれませんが、細い障子のうえを歩けば、それこそまっすぐ前にしか動けないので、鉄砲の的になってしまうのです。
秀吉はこの「障子堀」が、北条氏の「山中城」や「小田原城」にほどこされていることを知り、大阪城にも採用したと考えられます。
この「障子堀」が、「大阪冬の陣」で「徳川家康」をおおいに苦しめ、秀吉の子「秀頼」を守ることとなるのです。
大阪城の特徴!「総構え」に家康もお手上げだった
障子堀のほかにも、大阪城には大きな特徴があります。
「総構え(そうがまえ)」です。総構えとは、「お城の周りに配置されている町が、城壁と堀に囲まれており、町ごと大きな城となっているかまえ」のこと。
小田原城・・・・・・・関東の覇者「後北条氏」と「小田原征伐」で戦った秀吉は、この名城「小田原城」が、周囲の町を城壁と堀で囲っている様子をみて、驚きます。
町が城の中にあることで、住民を守りながら戦うことができるうえに、戦国時代に当然のように行われていた「略奪」が出来ず、敵は町から食料を略奪することが出来ないのです
守る側は、街が城の中にあることで、商人や職人を確保することができるため、食料などの物資を入手しやすいというわけです。
秀吉は、「小田原城」がほどこしていた「総構え」を、大阪城にもほどこします。
この「総構え」もまた、「障子堀」とともに、家康を手こずらせることとなるのです。
しかし、大阪冬の陣が終わると同時に、「総構え」は、家康に破壊されてしまうのです。
名将「真田幸村」の城「真田丸」とは、どんなもの?
大阪城には、名将「真田幸村」がつくりあげた防衛施設「真田丸」がありました。
そもそも「真田丸」とは、いったい何なのでしょうか?
下の画像を御覧ください。1614年「大阪冬の陣」の布陣図です。
大阪城の右下に「真田信繁(真田幸村)」が布陣。「真田丸」と呼ばれる「曲輪(くるわ)」、つまり「出城(でじろ)」をつくり、そこへ立てこもったのです。
出城とは、城から突き出た「砦」のことです。敵を迎撃しやすいように、前に突き出た形をしているわけです。
難攻不落の大阪城には「南側に弱点がある」と言われていました。
上の画像をご覧いただければ、おわかりいただけると思いますが、大阪城の「東西北」は、巨大な川が流れていて攻めにくいのですが、南は平坦な大地が続き、大軍団を布陣しやすい形になっています。
真田幸村は、この「南側の弱点」を補うために、「真田丸」という強力な「砦」をつくり、大阪城南側の防御力を高めたのでした。
幸村の天才的な采配力もあって、徳川軍は「真田丸」に大苦戦。
大阪冬の陣で、家康はついに「真田丸」を攻め落とすことができなかったのです。
とはいえ、この真田丸も「大阪冬の陣」が終わると「障子堀」や「総構え」とともに、家康によって破壊されてしまうことになります。
落城!難攻不落の「大阪城」は、なぜ落城したのか?
「大阪冬の陣」の翌年、1615年「大阪夏の陣」で「大阪城」は落城します。
「障子堀」「総構え」「真田丸」
これら最強の防御力を誇った「大阪城」は、どうして落城してしまったのでしょうか?
徳川家康は、1614年「大阪冬の陣」で大阪城を攻撃。しかし「障子堀」「総構え」「真田丸」に阻まれ、大阪城を攻め落とすことが出来ません。
家康は作戦を変更。大阪城の天守閣にむけて「射程距離6800m」の大砲「カルバリン砲」を発射。これに驚いた豊臣秀頼の母「淀殿」は、家康と「講和」を模索し始めます。
家康の思惑通りでした。講和の条件として、家康は淀殿と秀頼にこう言います。
「講和が成立すれば、もう戦はないのだから、戦をしない証として、大阪城の障子堀を埋め、総構えの城壁を破壊し、真田丸を破壊してほしい」
豊臣方は、その条件を受け入れてしまいます。
講和が成立した直後、家康はとてつもない早さで真っ先に「真田丸」を破壊。大阪城の障子堀を埋め立て、総構えを壊し、大阪城を丸裸にしてしまいます。
「大阪城」という最強の防御力を誇る城を失った豊臣軍は、もはや徳川軍の敵ではありませんでした。
秀吉がその生涯を捧げて、息子「秀頼」を守るために工夫を重ねた名城「大阪城」は、こうして機能停止したのです。
「大阪冬の陣」から半年後、秀頼は家康に騙されたことを悟り、堀をふたたびほりかえそうとします。
これを「講和の約束違反」とした家康は、「秀頼」と大阪城を攻撃。この「大阪夏の陣」で、豊臣家は滅亡するのでした。
『大阪城』について「ひとこと」言いたい!
最強の城「大阪城」。
もしも「大阪冬の陣」で、秀頼や真田幸村が講和せず、「障子堀」や「真田丸」を維持したまま戦争を続けた場合、家康はどうなっていたでしょうか?
おそらくですが、大阪城を攻め落とすことが出来ず、戦いは長期化していたでしょう。家康は「大阪夏の陣」の翌年1616年に病死するわけですが、もしかしたら豊臣家が滅亡する前に、家康が亡くなっていたかも知れません。
家康が亡くなると、徳川幕府は二代目「秀忠」が引き継ぐことになります。
秀忠は「秀頼」の妻「千姫」の父。家康よりも秀頼に好意的だったかもしれません。
いくら難攻不落の大阪城といえど、永遠に籠城することは出来ません。かといって、徳川家の本拠地「江戸城」を攻略する力が「豊臣家」にあったとも思えません。
おそらく「大阪城が落城」しなかったとしても、「講和」が結ばれ、秀頼は大阪城を退去させられていたでしょう。
講和条件として、「大阪城退去」が成功していたとしたら、秀頼はすでに戦う力を失い、徳川家にとってコワイ相手ではなくなります。
秀忠の娘婿である関係からも、「地方の一大名」として扱われ、もしかしたらそのまま存続することも出来たかも知れません。
返す返すも「大阪冬の陣」で、「障子堀」「総構え」「真田丸」を破壊したことが悔やまれます。大阪城という「最強の盾」さえ捨てなければ、もっと有利な条件で講話することが出来たかもしれません。
豊臣家存続の道も、開けたかも知れないのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 大阪城は「豊臣秀吉」がつくり、大阪夏の陣で炎上。その後「徳川秀忠」が再建した
- 大阪城の城主は「豊臣秀吉」「豊臣秀頼」「松平忠明」がつとめ、「徳川幕府」のもとでは「明治維新」までの249年間「城代」がおかれた
- 大阪城は「障子堀」「総構え」「真田丸」などの防御施設を有していたが、大阪冬の陣で破壊され、翌年の『大阪夏の陣』で落城した
以上となります。
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