【織田信長と長篠の戦いまとめ】鉄砲の嘘と戦法の真実を簡単に解説!

この記事では「」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「」を、カンタンに理解できます。

 

「」は「〇〇」なのです。


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この記事を短く言うと

 

1,【1575年】の「長篠の戦い」で、「織田信長」による「鉄砲三段撃ち」は、なかったのか?

近年の研究で、「長篠の戦い」で「鉄砲三段撃ち」はなかった、ということが明らかになっている

 

2,「織田信長」は、どのようにして「長篠の戦い」で勝利したのか?

「信長」は、大土木工事をおこない、戦場に「陣城」と呼ばれる防御陣地をつくり、そこへ武田軍を攻め込ませて勝利した、と考えられる。

 

3,「織田信長」は、「武田勝頼」を恐れていた?

信長は、「武田信玄」とその息子「武田勝頼」を極端に警戒し、恐れていた。そのためか、勝頼の首に対して暴言を吐き、暴挙に出て、「本能寺の変」を招いてしまった可能性がある。

「長篠の戦い」での通説「鉄砲三段撃ち」は嘘?存在しなかった!

織田信長の「鉄砲三段撃ち」で有名な【1575年】の「長篠の戦い」。

 

実はこの戦いで「鉄砲三段撃ちは、存在しなかった」ということが、近年の研究で明らかになっています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「長篠の戦い」が行われた場所「設楽ヶ原(しだらがはら)」は、田畑が多く、前日に降った雨の影響もあって泥まみれで、ぬかるんだ地形でした。

 

この「足元がぬかるんだ状態」で、前後の兵士が入れ替わる「鉄砲三段撃ち」は、とても不可能だったのです。

 

ちなみに、「鉄砲三段撃ち」は織田信長が考案した画期的な戦法、というのも間違いであると考えられます。

 

鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の必殺「釣瓶(つるべ)撃ち」は、五段構えでした。

 

「長篠の戦い」は、後世で言われているような「画期的な戦い」ではなかったと考えられています。

 

実は「武田騎馬軍団」すら、存在しなかったという説もあるほどです。

 

では、織田信長はどのようにして、「武田勝頼」ひきいる「武田軍」に勝利したというのでしょうか?

 

「武田騎馬軍団すら存在しなかった説」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

長篠の戦いの真実と布陣を解説!実は騎馬隊も鉄砲三段撃ちもなかった』の記事はコチラ

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「織田信長」は防御陣地で戦った!「司馬懿仲達」の名言と鉄砲の特徴

「戦って(攻撃して)勝利できないなら守れ。

守って勝利できないなら逃げろ。

逃げて勝利できないなら降伏せよ。

降伏すら出来なければ、死あるのみ」

「三国志演義」に登場する天才軍師「諸葛亮孔明」のライバル「司馬懿仲達」が、燕国「公孫淵」を倒したときに残した名言です。

 

戦いとは、「戦(攻)・守・逃・降・死」の5段階があり、それぞれの場面に適した戦い方をすべきである、という意味です。

 

「孫子の兵法」には、「城を攻めることは、最大の愚策である」と記されています。

 

つまり、「守りを固めた相手を攻撃してはいけない」という意味です。これを反対解釈すると、「攻撃を仕掛けてくる敵に対しては、守りを固めて迎撃すればよい」という意味になります。

 

信長は、この兵法の基本を忠実に守って、「長篠の戦い」を勝利に導きました。

 

信長は、「設楽ヶ原」に巨大な「陣城(じんじろ)」と呼ばれる防御施設を構築し、武田軍を迎え撃ったのです。


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陣城とは、言いかえると「巨大な砦」。

 

信長はこの「陣城」に、4万近い軍団を入れて、2千~3千丁の鉄砲を装備させ、武田軍団を迎撃したのでした。

 

鉄砲には「敵に攻め込むときよりも、迎撃戦・防御戦のほうが威力を発揮しやすい」という特徴があります。

 

信長は、「陣城」をつくって、そこで鉄砲を使うことで、鉄砲の能力を最大限に引き出したのでした。

 

武田勝頼は、この信長の陣城へ、無謀な突撃を繰り返し、「武田信玄」以来の名将たちを次々と失います。

 

「馬場信春」、「山県昌景」、「内藤昌秀」、「真田信綱」などなど。

 

信長は「鉄砲三段撃ち」で武田軍に勝利したのではなく、「陣城」という巨大な防御陣地によって、勝利したのでした。

 

「武田勝頼」は、この戦いから衰退を始め、【1582年】の「甲州征伐」「天目山の戦い」で亡くなったのです。

 

余談ですが、「司馬懿仲達」は、人気漫画「キングダム」に登場する名将「司馬尚」の末裔・子孫であるといわれています。

 

「武田勝頼の最期」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『武田勝頼の最後の場所はどこ?子孫は足利の血を継ぎ昭和まで存続!』の記事はコチラ
「司馬尚」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
『キングダム・司馬尚をwiki風解説!三国志の司馬懿・司馬炎の先祖』の記事はコチラ

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信長は「武田勝頼」に恐怖していた!父「信玄」との戦いがない理由

織田信長は、「武田勝頼」を極端に恐れていました。

「武田勝頼は、油断のならない武将である」

信長はそう言って、「勝頼」を警戒していたのです。

 

「長篠の戦い」で圧倒的な勝利を得た織田信長でしたが、実際に武田家を滅ぼしたのは、その【7年後】です。

 

1582年】の「甲州征伐」で、信長は「武田勝頼」と名門「武田家」を滅亡させています。

 

滅亡させたと言っても、信長は出陣していません。

 

「武田家」を滅亡させたのは「徳川家康」と「滝川一益」、そして織田信長の嫡子「織田信忠」です。

 

信長は、意外にも臆病です。

 

「上杉謙信」との「手取川の戦い」にも出陣していませんし、「武田信玄」との戦いも徹底的に避けています。

 

織田信長は、「武田信玄」が死んだにも関わらず、その息子「武田勝頼」を恐れ、「武田」との戦いを避けていた節があるのです。

 

用心深かった、とも言えるかもしれません。

 

「武田信玄と織田信長の関係」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【武田信玄】織田信長との『戦い』がない理由!戦ったらどっちが勝つ?』の記事はコチラ

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信長が「勝頼の首」に対してやってしまった失敗と油断!「本能寺の変」の予兆とは

「勝頼の首を足蹴にして、罵声を浴びせた」

織田信長は、武田勝頼の首に対して、とんでもなくバチあたりなことをやらかしたといわれています。

 

当時は、敵将とはいえ、その首に対しては敬意を払うのが、当然のことでした。

 

「信長」は、おそらく「武田信玄」と「武田勝頼」という、人生において最も苦しめられた宿敵を討ち果たしたことで、心底安心したのでしょう。

 

敵将「武田勝頼」に対して、このような暴挙に出たのは、裏を返せば、それだけ武田信玄・勝頼親子を恐れていたとも言えるのかもしれません。

 

そんな「信長」の行動と油断は、「武田勝頼の首」を足蹴にした3ヶ月後に、とんでもない形で信長自身へ災いとしてかえってきます。

 

「本能寺の変」です。


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「武田勝頼」を滅ぼした「甲州征伐」の3ヶ月後、信長は「本能寺の変」で重臣「明智光秀」に滅ぼされているのです。

 

歴史家「小和田哲男」先生は、「明智光秀」が「織田信長」を襲った動機について、「信長の非道を阻止するためだった」とおっしゃっておられました。

 

その「信長の非道」とは、明智光秀が見た「武田勝頼の首に対する暴挙」も含まれているのです。

 

また、歴史家「磯田道史」先生は、「織田信長」の非道な虐殺行為を、強く批判しておられました。

 

実は、明智光秀は「本能寺の変」の動機について、以下のような言葉を手紙に残しているのです。

「(信長・信忠)親子の悪逆は、天下の妨(さまた)げである」

この言葉は、「武家事記」という資料に残された「明智光秀の手紙の写し」によるものです。

 

信長は、長く恐れ続けてきた宿敵「武田」を滅ぼしたことで気が緩み、油断しました。

 

そのため、緊張の糸がきれて、「武田勝頼」の首を足蹴にするなどという、暴挙に出たのかもしれません。

 

信長は、この時から、「自分こそが天下でもっとも強く偉いのだ」と、実感したのでしょう。

 

3ヶ月後、警護の軍団も付けず、わずか100名ほどで京都の「本能寺」に宿泊するという、油断しきった行動をみせるのです。

「信長は油断した!

こんな油断をするようでは、織田信長は大した人ではない!」

歴史家「磯田道史」さんは、そのように言って、織田信長の油断を批判していました。

 

この油断を突いて、「明智光秀」は「織田信長」を、「本能寺の変」で討ち取ってしまうのです。

「武田勝頼の首に対する油断と失敗」

それが自らの死を招く致命的な失敗だったとは、このとき信長は全く気がついていなかったはずです。

 

ちなみに「徳川家康」は、武田勝頼の首に対して、慰めの言葉をかけ、とても丁重に扱ったといいます。

 

家康がその後、天下を制したことは、言うまでもありません。

 

「本能寺の変」と「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
『明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,【1575年】の「長篠の戦い」で、「織田信長」による「鉄砲三段撃ち」は、なかった、ということが明らかになっている

 

2,「信長」は、戦場に「陣城」と呼ばれる防御陣地をつくり、そこへ武田軍を攻め込ませて勝利した、と考えられる。

 

3,「織田信長」は、「武田勝頼」と「武田信玄」を極端に警戒し、恐れていた。そのためか、勝頼の首に対して暴言を吐き、暴挙に出て、「本能寺の変」を招いてしまった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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