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織田信長が【比叡山焼き討ち】した理由を世界一わかりやすく解説

今回のテーマは「織田信長」です。

この記事では「織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした理由」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

これを読めば「比叡山焼き討ちの理由」を、カンタンに理解できます。

「比叡山延暦寺焼き討ちの理由」は「比叡山が信長の敵をかくまった」ことと、「延暦寺が私腹を肥やす悪の巣窟」であったためです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」が「比叡山焼き討ち」を行なった理由とは?

「比叡山延暦寺」は、織田信長と敵対していた「浅井長政」と「朝倉義景」の軍を、比叡山の中へかくまって、信長と敵対したため

 

2,「比叡山延暦寺焼き討ち」の真の理由とは?

「比叡山延暦寺」は、その影響力と絶大な力によって、政治への口出し・介入を繰り返していた。そのため「平清盛」や「白河法皇」ですらも手を焼いていた。信長は「比叡山延暦寺」による政治介入をやめさせようとして焼き討ちにした

 

3,「比叡山延暦寺」は「悪の巣窟」だったのか?

比叡山延暦寺の僧侶たちは当時から、腐敗したその有様を批判されていた。既得権益を守り、行きすぎた金儲けを繰り返し、民衆にとっての害悪にもなっていた

織田信長が「比叡山・延暦寺焼き討ち」をした理由とは?浅井・朝倉をかくまった

1571年】、織田信長が延暦寺焼き討ちをした理由は、延暦寺が信長の宿敵「浅井長政」と「朝倉義景」の軍団を、比叡山にかくまったからです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

信長は「浅井長政」と「朝倉義景」の軍団を相手に死闘を演じていました。

苦戦した「浅井・朝倉連合軍」は、当時「聖地」とされていた「比叡山」へ逃げ込んだのです。

「浅井長政」と「朝倉義景」は、聖地・比叡山ならば、織田軍団は攻め込んでは来られないだろう、と考えたのでした。

この考えは的中します。



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信長は「浅井・朝倉連合軍」を比叡山へ逃がしてしまい、「聖地」へ攻撃をしかけるわけにもいかず、追撃できなくなります。

そこで信長は、「比叡山」へ手紙を送ります。

「浅井・朝倉連合軍を比叡山から追い出してほしい。

それが出来ないのなら、比叡山から退去していてほしい。

どちらにも味方せず、戦に介入しないでいただきたい。

もしも浅井・朝倉連合軍を比叡山の中にかくまい続けたら、山を焼き尽くす」

この手紙に、比叡山延暦寺は、なんと「1年」にわたって無視し続けたのでした。

激怒した信長は、1年待ったあと、聖地である「比叡山・延暦寺」への「焼き討ち」を無理やり実行したのでした。

この「比叡山焼き討ち」が原因で、信長は「魔王」と呼ばれることになります。

「比叡山焼き討ち」を行なった際に、先陣をきったのが「明智光秀」です。

「光秀」はこのときの功績により、比叡山のふもとに位置する「坂本」の地を与えられ、坂本城を築城するのです。

大河ドラマ「国盗り物語」や「秀吉」で、「明智光秀」は主君「織田信長」の「比叡山焼き討ち」を止めさせようとしているかのように描かれています。

しかし史実における「明智光秀」は、みずから積極的に「比叡山」を攻めています。

その功績がずば抜けていたため、「織田信長」は古参の家臣たちを差し置いて、「明智光秀」を織田家最初の「城持ち大名」にしているのです。

実は、織田信長が「比叡山焼き討ち」を実行した理由は、「浅井・朝倉連合軍をかくまったから」だけではないともいわれています。

 

「信長が魔王と呼ばれた・名乗った理由」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「延暦寺焼き討ち」の真の理由とは?「平清盛の仲良し戦略」と「白河法皇の名言」

織田信長が「延暦寺」を焼き討ちにした理由は、「浅井・朝倉連合軍」をかくまったからだけではなく、当時の「延暦寺」が政治に介入し、腐敗しきっていたからだと考えられます。

「延暦寺が腐敗していた」ということについては後述するとして、「延暦寺の政治介入」について解説します。

「平清盛」と「白河法皇」をご存知でしょうか?

「平清盛」といえば、「平家一門でないものは人でない」といわれるほどの栄華を極めた「平家」の棟梁です。

実はこの「平清盛」が、「比叡山延暦寺」に対して、かなり恐れを抱いていた可能性があるのです。

平清盛は、絶大な権力と財力を保持していながらも、「比叡山延暦寺」に対しては、いつもいつも融和的でした。

つまり「延暦寺」には優しかったのです。

1147年】、「祇園闘乱事件」と呼ばれる騒動が勃発します。

平清盛の家来たちが、祇園社の宝殿に矢を放った事件です。

このとき、延暦寺は「強訴(ごうそ)」と呼ばれる実力行使で、「平清盛」とその父「平忠盛」を流罪にせよと訴えたのでした。

結果として、「平忠盛」も「平清盛」も流罪をまぬがれはしたものの、比叡山延暦寺の力に恐れを成したと考えられます。

そのため、それ以後「平清盛」は、比叡山延暦寺にたいして、とても寛容になっていったのです。

おそらく「比叡山延暦寺」を敵に回すことは、得策ではないと考えたのでしょう。



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「鴨川の水、サイコロの目、山法師、この3つ以外は、全て私の思いのままだ」

この言葉を口にしたのは、「院政」という政治手法で、絶大な権力を握った「白河法皇」のものです。(「白河法皇」は「平清盛」の実父であるという噂がある)

「天下三不如意(てんかさんふにょい)」

天下で思いのままにならない3つのもの、という意味です。

「白河法皇」が、こんな言葉を残しているほど、延暦寺は権力を持っていたのです。

その発言力は「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた絶対権力者「白河法皇」でさえも、無視できなかったのです。

延暦寺は、その圧倒的な力をつかって、自分たちの都合の良い政治を権力者に行わせていました。

織田信長が「延暦寺焼き討ち」をした、もう一つの理由、それは「延暦寺による政治介入、つまり政治への口出しを防ぎたかったから」です。

戦国時代の「延暦寺」も、圧倒的な力を背景にして、やりたい放題言いたい放題やっていたのです。

本来なら、仏様にお祈りをして、世の中を良くすることが仕事のはずの寺社勢力が、「浅井・朝倉連合軍」に協力するなど言語道断。

挙句の果てには、政治に介入して、自らの利権を守ろうとする私利私欲まみれの行動。

その私腹を肥やす不良僧侶の態度に激怒した信長は、「延暦寺を焼き討ちにした」のだと考えられます。

 

「強訴(ごうそ)とは何か」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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比叡山は「悪の巣窟」だった?

戦国時代当時の「比叡山延暦寺」は、まさに「悪の巣窟」と言って良い状態でした。

「延暦寺焼き討ち」の前年【1570年】に、「多聞院日記」という歴史資料に記された一文に、こんなものがあります。

「比叡山の僧侶は、勉強をなまけて、山はもはや荒れ果てている有様だ」

さらに、「信長公記」という資料にも、こんな記録があります。

「比叡山延暦寺は、淫乱で、魚や鶏肉といった禁じられた食事をし、金儲けにふけって、浅井・朝倉連合軍をかくまい、やりたい放題だ」

当時の延暦寺は、「荘園」と呼ばれる莫大な領地を持っていました。

そこから手に入る収入のみならず、琵琶湖の水運業による収入や、高利貸しを行なって得た収入で、私腹を肥やしていたのでした。

「比叡山延暦寺」は、天皇が住んでいた「京都」の北東に位置するお寺です。

「鎮護国家の霊場」と呼ばれていました。



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北東とは「鬼門」、つまり不吉な位置であり、それを浄化するために「比叡山延暦寺」は「最澄」という僧侶によって建てられたのでした。

ところが、この「国家を守るために建てられたお寺」が、私利私欲のために腐敗していったのです。

「織田信長」が「比叡山延暦寺」を焼き討ちにしたあとも、「正親町天皇」は正式な抗議をしていません。

つまり天皇すらも、「延暦寺焼き討ち」を黙認したということです。

徳川幕府6代将軍「徳川家宣」に仕えた学者「新井白石」も、「比叡山延暦寺」の焼き討ちを評価して、こんなことを言っています。

「比叡山の僧侶の兇悪を取り除いた。

これは天下に功績がある出来事といえるだろう」

天皇ですらも口出しできない権力を振るって傍若無人な行動を取っていた「延暦寺」。

悪の巣窟と呼ばれても仕方ない有様だったのです。

この「比叡山は悪の巣窟だった」という説を、わかりやすく解説しているのが、マンガ「信長を殺した男」です。

明智光秀の末裔を自称している作家「明智憲三郎」さんの説を漫画化した作品です。

 

「本能寺の変」の真相に迫った作品で、とてもおもしろい作品でした。

 

「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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実は信長、「比叡山延暦寺」で「虐殺」などしていなかった?

「老若男女をとわず、3000人が虐殺された」と言われていた「比叡山延暦寺焼き討ち」ですが、近年の研究では「虐殺などおこっていない」ということがわかってきています。

近年の発掘調査によると、信長の「比叡山焼き討ち」で焼けたのは延暦寺の「根本中堂」と「大講堂」のみ。

それ以外では、焼き討ちが行われる前から、すでに廃棄された建物ばかりだった、とのことです。

  • 比叡山が全て焼き尽くされた。
  • 僧侶男女3000人が虐殺された。

などなど、これまでの通説の根拠がなくなったということです。

さきほどご紹介した「多聞院日記」には、こんなことが書かれています。

「比叡山延暦寺が焼き討ちされたとき、その僧侶の多くは、比叡山のふもとの坂本へ避難していた」

信長は、「延暦寺」の「根本中堂」と「大講堂」だけを焼き払い、これによって「焼き討ち」を完了したのでしょう。



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後世に語り継がれるような「大虐殺」は、その信長の攻撃に怒った延暦寺の不良僧侶たちが、わざと大げさにでっち上げた話しだと考えられます。

しかし、この「大げさなでっち上げ」が、信長に取っても都合が良かったのです。

「信長は、宗教勢力による政治への口出しを許さない。

下手に宗教勢力が政治に介入したら、延暦寺のような地獄をみることになるだろう」

その恐怖が、宗教勢力による政治への介入を阻止し、現代では当然の考えである「政教分離」を実現したのでしょう。

「平清盛」や「白河法皇」もできなかった「延暦寺という最大の宗教勢力を屈服させる」という大事業を、織田信長は最小限の被害で実現させたのかもしれません。

ちなみに余談ですが、「織田信長」は「平清盛」の末裔を自称していました。

「平清盛」は「白河法皇」の隠し子であるという逸話があるので、もしもその説が本当なら、「織田信長は白河法皇の子孫」ということにもなります。

 

「織田信長の先祖・家系図」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「織田信長のすべて」について、以下のリンク記事でくわしく解説しております。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」が「比叡山焼き討ち」を行なった理由は、織田信長と敵対していた「浅井長政」と「朝倉義景」の軍を、比叡山の中へかくまって、信長と敵対したため

 

2,「比叡山延暦寺焼き討ち」の真の理由とは、「比叡山延暦寺」が、その影響力と絶大な力によって、政治への口出し・介入を繰り返していたため。信長は「比叡山延暦寺」による政治介入をやめさせようとして焼き討ちにした

 

3,比叡山延暦寺の僧侶たちは当時から、腐敗していたその有様を批判されていた。既得権益を守り、行きすぎた金儲けを繰り返し、民衆にとっての害悪にもなっていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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