MENU

帰蝶は信長の死後に再婚したのか?彼女の最後と死因を調査!

織田信長の正室「帰蝶」

 

信長の死後「帰蝶」は誰かと再婚したのか?

 

彼女の最後と死因を調査してみました


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・帰蝶が「本能寺の変」で織田信長が死んだあと、再婚したとは思えない。行方も不明

 

・帰蝶の死因は「戦死」「老衰」の2つの説がある

 

・信長のことを、とても高く評価していた美濃国領主「斎藤道三」。その娘が「帰蝶


信長の死後、正妻「帰蝶」はどこへ?再婚した?

織田信長の正妻「濃姫」こと「帰蝶(きちょう)」

 

消息が謎に包まれた女性。

 

そんな「帰蝶」は、信長の死後、どこへ行ったのか?

 

帰蝶の記録は、彼女の父親の肖像画を、実家の菩提寺・常在寺に寄進したことを最期に途絶えています。

 

この「肖像が寄進」が、いつのことなのかすらわかりません。

 

そもそも信長よりも長生きしているのか?

 

織田信長は【1582年6月2日早朝】に、「明智光秀」に襲撃されて、「本能寺の変」で亡くなっています。

 

帰蝶は、本能寺以前に亡くなった・・・それ以後も生きていた・・など、いろいろな説が存在しています。

 

もし万が一、彼女が生きていたとしたら、信長死後に再婚なんてしているのでしょうか?

 

おそらくですが、再婚の可能性は低いです。

 

理由は年齢。

 

帰蝶は、信長より1歳年下でしたから、「本能寺の変」が起こった時、彼女は「48」歳。

 

この年齢で再婚はないでしょう。そんな記録ももちろんありません

 

おそらく夫・信長の菩提を弔う生活を続けたのではないでしょうか。

 

行方については、全く手がかりがないので、不明です。


本能寺の変」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。



スポンサーリンク


帰蝶の最期と死因とは?

帰蝶の最期と、その死因は何だったのでしょうか?

 

彼女の死に方については、2つの説が存在しています。

 

  • 「1582年死去」
  • 1612年死去」

「1582年死去」説

まず「1582年死去」の説ですが、これは信長が亡くなった「本能寺の変」と一緒に帰蝶も亡くなった・・・という説です。

 

一説によると、帰蝶は薙刀(なぎなた)で、明智光秀の兵士と戦ったと言われています。

 

そこで戦死した・・・とのことですが・・・そもそも帰蝶と明智光秀は「いとこ同士」の幼馴染という説があります。

 

常識人とも言われている明智光秀が、「いとこ」である「帰蝶」を殺害するか?と疑問が残りますけどね。

「1612年死去」説

もう一つの「1612年死去」の説は、78歳まで天寿を全うした・・・つまり「老衰」で亡くなったという説。

 

京都の大徳寺には、帰蝶のものと考えられる供養塔があるみたいですね。

 

ということは、京都で亡くなった・・・ということになります。

その他の説とは?

帰蝶の消息については、他にも幾つもの説があります

 

本能寺の変前に、病死した」という説

 

信長から離婚された」という説・・・・・これは信長の側室「生駒吉乃」が妊娠した1556年頃に、帰蝶は用済みとなって追放された・・という説です。

 

このころ、織田家と帰蝶の実家・斎藤家の同盟は破綻していましたからね。

 

生存説」もあります。

 

「本能寺の変」の翌年【1583年】、信長夫人が、信長の一周忌を行った・・・・という記録があるのです。

 

又は「安土殿」説も・・・。

 

1587年の「織田信雄分限帳」という記録に「安土殿」という、身分の高い女性についての記録があるのです。

 

この「安土殿」が「帰蝶」だったという可能性があります。

 

しかし全て、確たる証拠がないので、はっきりしたことはわかりません。

 

帰蝶は「謎の女性」と位置づけられているのです


明智光秀」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。



スポンサーリンク


そもそも「帰蝶」こと「濃姫」とは何者?

そもそも「帰蝶」って何者なのでしょうか?

 

彼女は、織田信長の父・織田信秀の宿敵だった、美濃国の領主「斎藤道三」の娘。

 

斎藤道三とは、元々は商人をしていた人物で、策略を駆使して美濃国領主となった人物。

 

この斎藤道三が、同盟の証として信長に嫁がせたのが「帰蝶」姫。

 

「美濃国」から来た姫なので、彼女は後に「濃姫(のうひめ)」と呼ばれました。

 

斎藤道三は、息子「斎藤義龍」のクーデターによって戦死。

 

最期に斎藤道三は、娘婿「織田信長」に「美濃国をゆずる」と遺言書を残していました。

 

道三は信長を、高く評価していたのです。

 

信長はそれを大義名分として美濃国へ侵攻。

 

この時、濃姫は「斎藤道三の娘」として、信長が美濃国を支配する正当性を証明する重要人物だったことでしょう。

 

濃姫は、実の兄に父を殺害されたため、帰る実家を失ったとも考えられています。

 

信長は、斎藤道三が亡くなった11年後の1567年に、美濃国を制圧。

 

この「美濃国・尾張国」を基盤として、翌1568年には京都を制圧して一気に勢力を伸ばしています。

 

ある意味で濃姫は、信長の勢力拡大を影で支えたとも言えるのです。


織田信長の妻たち」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

「帰蝶(濃姫)」について、以下のリンク記事で、可能な限り詳しく、全てを解説しております。


スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

・濃姫は再婚せず、本能寺の変後、確かな消息は不明

 

・濃姫には「戦死説」と「老衰死説」の2つがある

 

・彼女は信長を高く評価していた「斎藤道三」の娘で、信長の「美濃国攻略」を影で支えた

 

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

『織田信長』関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次
閉じる