1582年「本能寺の変」で亡くなった戦国の覇者「織田信長」。
その「織田信長の遺体」がどこへ行ったのか、ご存知でしょうか?
実は「信長の遺体」は、まるで煙のように消えてしまった・・・と、通説では言われているのです。
今回は「織田信長の遺体がどこへ行ったのか」について、わかりやすく解説をいたします。
実は「信長の遺体」は、行方不明でもなんでもなく、「本能寺」にそのままあったと考えられます。
これを読んでいただければ、「信長の遺体の行方」について、簡単に理解できるはずです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 「織田信長」の遺体は、そもそも行方不明にはなっておらず、本能寺の炎により「焼死体」が複数あったため、どれが信長の遺体か特定が出来なかっただけ。
- 信長の遺体の行方について、これまでの定説では「清玉上人が遺体を持ち去った」「炎で焼失してしまった」という説が存在した。
- 「信長の遺体」を発見できなかった光秀は、そのせいで味方を増やすことが出来ず、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」にあっけなく敗北してしまった。
本能寺の変で織田信長の遺体はどこにいったの?
結論から言いますと「織田信長の遺体」は、そもそも行方不明ではありません。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
遺体は「本能寺」から発見されているはずです。しかし、焼死体が複数あったため、どの遺体が信長の遺体なのか、判別がつかなかったのです。
「本能寺の変」を起こして織田信長を討ち取った「明智光秀」は、「信長の首」を討ち取ることができませんでした。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
当時、敵将の首を取ることは、「勝利した」ことを内外に知らしめるための当然の風習。
ところが明智光秀は「本能寺の変」において、「信長の首」を手に入れることが出来なかったのです。
なぜ光秀は、信長の首を取ることが出来なかったのでしょうか?
- 「信長の遺体が本能寺の火災によって焼失してしまった」
- 「本能寺から信長の遺体を持ち去った人間がいた」
などなど、「信長の遺体」のゆくえには、諸説あります。
しかし実際には、信長の遺体は行方不明になどなっていません。
正確に言えば、遺体は存在していたが、明智光秀は「本能寺の焼跡にいくつもあったご遺体の中から、織田信長の遺体を特定できなかった」ということです。
これについては、明智光秀の末裔である「明智憲三郎」さんの著書「本能寺の変 431年目の真実」でも紹介されている説です。
|
DNA鑑定や血液型鑑定がなかった当時は、今よりもさらに「焼死体が誰なのか」を特定することが難しかったのです。
現代でも、火事で焼死体が発見されると、そこの住民が亡くなったことが明らかであったとしても「身元確認」がされるまでは「身元不明」と報道されますからね。
信長の遺体の行方について、これまでの通説を解説
信長の遺体について、これまでの通説では
- 「部下や僧侶が遺体を持ち去った」
- 「本能寺の炎上で遺体が消失した」
と言われていました。
今から、この2つの説について解説いたします。
その前に、まずは【信長の首を黒人武将「弥助」が持ち去った】・・・・という説について、リンク記事にてご紹介いたします。
「黒人武将・弥助」と「信長の首」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
清玉上人が遺体を持ち去った説
まず「部下や僧侶が遺体を持ち去った」という説について解説いたします。
「本能寺」を襲撃された織田信長は、死の運命から逃れられないことを知って切腹。
その遺体を明智光秀に奪われたり、さらし首にされる恥辱を受けないように、部下にたいして「自らの遺体を光秀に奪われないように」と指示したのです。
この命令を受けた部下が、本能寺の中で信長の遺体を焼却。
そこへ、本能寺の騒ぎを聞いて駆けつけた「清玉上人」という僧侶が、信長の遺骨を受け取って埋葬。
清玉上人は京都の「阿弥陀寺」へ、信長の息子「織田信忠」とともにお墓を建てたと言われています。
この説は、作家「加藤廣」さんの小説「信長の棺」で採用されている説です。
|
清玉上人が本能寺の犠牲者を供養したのは本当でしょう。
しかしおそらく清玉上人は、織田信長の遺灰を埋葬したのではなく、本能寺で亡くなった人間すべての供養をするとともに、本能寺の灰をもって信長の遺灰の代わりとし、埋葬したのでしょう。
なぜなら、「明智光秀」の軍団に隙間なく包囲された「本能寺」へ、清玉上人が自由に出たり入ったりしたとは、ちょっと考えにくいからです。
炎で遺体が燃え尽きた説
もう一つは、本能寺の炎で信長の遺体が焼失したという説。
つまり「灰になって無くなってしまった」という説です。
しかしこれは科学的に考えてもありえません。
信長は「明智光秀」に遺体を奪われて「さらし首」になることを防ぐために、「本能寺」に自ら放火。
その炎で遺体を焼失させた・・・・というのですが、そもそも「木造建築」の火災温度で、人間の身体は無くなりません。
そのことは、「明智憲三郎」さんの著書「本能寺の変 431年目の真実」でも解説されています。
|
遺体が見つからなかったことで、光秀はその後「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で大敗することとなります。
明智光秀は、織田信長の遺体を発見できなかったから、羽柴秀吉に負けた
光秀は「信長の遺体」を見つけられなかったため、味方を増やすことが出来ずに「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」であっけなく敗北したのです。
実は秀吉、信長が「本能寺の変」で亡くなったことを知ると、京都周辺にいた光秀ゆかりの戦国武将たちに「自分に味方して一緒に明智光秀を倒そう」という多数派工作のための勧誘の書状を乱発しています。
その手紙には、こう書かれていました。
「織田信長公は本能寺から脱出し、京都の街に隠れ、今も生きておられる」
信長はこのとき、確実に亡くなっていました。
秀吉はそれを知っていながら、なおこのような偽情報を流して「味方」を増やそうとしたのです。
もしも信長が本当に生きていたら、明智光秀に味方した戦国武将たちは、その後とんでもない罰を与えられるでしょう。
確実に死罪です。
なんといっても「信長を裏切った敵」に味方したのですから、生きていられるはずがありません。
信長は、そのことを理解していたからこそ、自分の遺体を光秀に渡さないように、自ら本能寺に放火して、遺体の特定ができないようにしたのです。
「森蘭丸」の遺体について
実はこの「本能寺の変」で、美少年として有名な信長の側近「森蘭丸」も戦死しています。
蘭丸の遺体は、どこへ行ったのでしょうか?

《森蘭丸》
「引用元ウィキペディアより」
結論から言いますと、森蘭丸の遺体も、本能寺の炎で焼かれ、「身元不明のご遺体」となったと考えられます。
森蘭丸は、明智光秀の部下で「明智三羽烏」と呼ばれた猛者の一人「安田国継(天野源右衛門)」に討ち取られました。
この天野源右衛門は、「織田信長」に一番槍・・・つまり最初の手傷を負わせた武将として有名です。
蘭丸は、弟の「力丸」「坊丸」とともに戦死。
その後は父「森可成(もり よしなり)」と同じ岐阜県可児市の「可成寺」にて供養され、今も墓が残っています。
また信長・信忠が眠る京都「阿弥陀寺」にも、「蘭丸」「力丸」「坊丸」の墓があります。
両方の寺ともに、遺体を発見できなかったはずですが、供養のために墓石が建立されたのでしょう。
ちなみにこの「本能寺の変」の後、蘭丸の兄「森長可(もり ながよし)」は、「小牧・長久手の戦い」で「徳川家康」によって妻の父「池田恒興」とともに敗死しています。
【歴史のIF】光秀が信長の遺体を発見していたら、歴史は違っていた?
もしも光秀が信長の遺体を発見できていたら、歴史はどのように変わっていたのでしょうか?
結論から言えば、おそらくあれほどあっけなく秀吉に負けることは無かったのではないか・・・と思います。
信長の遺体を見つけられなかったことは、光秀の「多数派工作」を失敗させ、味方を激減させた大きな要因です。
もしも遺体を発見して、信長の首を大衆にさらすことができたら、もっとたくさんの武将が光秀に味方していたでしょう。
「三日天下」
光秀のあっけない最期は、後世にこの「三日天下」という言葉を生むこととなりました。
実際には【1582年6月2日】に「本能寺の変」を起こし、その11日後の【6月13日】に光秀は戦死しています。
おそらく、遅かれ早かれ光秀は、織田家の重臣たち「柴田勝家」「丹羽長秀」「滝川一益」、または信長の子「織田信雄」によって討伐されていたでしょう。
それにしたって、遺体をさらすことが出来ていたら、11日という短い間に亡くなることはなかったと考えられます。
「本能寺の変」について「ひとこと」言いたい!
歴史学者「磯田道史」さんが言っていたことなのですが、明智光秀は「本能寺」を襲撃した際、本能寺を包囲したものの、夜が明けるのを待ってから攻撃を開始したのだとか。
その理由は、「夜の闇に紛れて、信長が本能寺を脱出することを防ぐため」だったのだとか。
実に緻密で綿密な戦術です。
「是非に及ばず」
この「是非に及ばず」とは、現代語に訳する「仕方のないことだ」という意味です。
信長は、光秀が裏切ったと知ると、この言葉を口にして、生き残ることを諦めたと言われています。
実は信長、光秀がどれほど「緻密な人物なのか」を、嫌というほど知っていたのです。
なんといっても光秀は、信長がもっとも信頼した家来なのですから。
光秀に裏切られた信長は、かなりのショックを受けたはずです。
今で言うなら「本能寺の変」は、「総理大臣」が最も信頼していた「副総理大臣」に暗殺されるような大事件。
もしも「織田信長」と「明智光秀」が、天下統一までしっかりと協力していたら、歴史はどのようになっていたのか。
もしかすると、「信長による中国大陸への侵略戦争」が「明智光秀」を先頭にして行われていたかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「織田信長の遺体」は、行方不明ではない。本能寺の火災で「焼死体」がいくつもあったため、どれが「信長の遺体」なのか特定できなかった。
- 信長の遺体の行方は、定説では「僧侶・清玉上人が遺骨を持ち去って埋葬した」「本能寺の炎で無くなってしまった」とされていた。
- 「信長の遺体」を確保できなかった光秀は、そのせいで味方を増やせず、「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で、あっけなく敗北してしまった。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「織田信長」関連記事
こちらの記事では「織田信長」の「逸話」や「功績」が簡単に理解できますように、極めてわかりやすく解説しております。
このリンクが皆様のお役に立ちましたら幸いです。
コメント
コメント一覧 (2件)
先日TVを見ていたら、本能寺を発掘した方が、本能寺は燃えていなかったとおっしゃっていました。なので焼死体うんぬんは成立するのでしょうか
この度は当サイトをご利用いただきありがとうございます。
また、貴重なコメントをいただきましたことにも御礼を申し上げます。
おっしゃること、ごもっともです。
本能寺にて火災はなかったという説もありますので、その場合「焼死体」がそもそも存在しないことになってしまいます。
ただ、明智光秀が信長の遺体を手に入れていないことだけは事実であるため、遺体がどこか行方をくらましたことだけは事実かと思います。
一説によると、黒人武将の弥助が信長の命令で、信長の首を墓地の「とば」を使って火葬し、阿弥陀寺の青玉上人が埋葬した、という話があるようです。
これならば、「本能寺は焼けていない」という説とも辻褄が合いますので、「本能寺は焼けていない説」を採用する場合、こちらの方が信憑性があるかもしれません。
今回は「本能寺は焼けた」という前提で一説を申し上げましたが、いつの日にか、今回教えていただいた通り、「本能寺は焼けていない」という前提での説を検証してみたいと思います。
この度は貴重な情報とお言葉をいただき、心よりお礼を申し上げます。
またよろしければ、是非とも当サイトをお役立てくださいませ。
ありがとうございました。