天正10年(1582年)6月2日未明。京都・本能寺は、紅蓮(ぐれん)の炎に包まれていました。
天下統一を目前にした覇王・織田信長の夢が、明智光秀の謀反によって露(つゆ)と消えた瞬間です。
この事件で最も有名な謎といえば、「信長の遺体が見つからなかったこと」でしょう。しかし、歴史の陰でもう一つの大きなミステリーが存在することをご存知でしょうか。
それは、信長の最期を看取った側近中の側近、森蘭丸(もりらんまる)の遺体もまた、忽然と姿を消してしまったという事実です。
「燃え尽きて灰になったのか?」「忠臣が密かに持ち去ったのか?」「あるいは、実は生き延びていたのか?」
400年以上の時を経てもなお、歴史ファンの想像力を掻き立てるこの謎。もし、彼の遺体が何者かによって意図的に隠されたのだとしたら、そこにはどんなドラマがあったのでしょうか。
今回は、信長に愛された若き武将・森蘭丸の「遺体の行方」を軸に、その壮絶な最期と、現代にまで続く意外な子孫の物語について、史実と最新の研究を交えて徹底的に解説します。
- 森蘭丸の遺体が発見されなかった「科学的な理由」と「3つの説」
- 「絶世の美少年」は後世の創作?同時代史料が語るリアルな蘭丸像
- 実行犯・安田国継との一騎打ち!槍で突かれた瞬間の詳細な記録
- 実は家系が続いていた!森家の生き残りと「赤穂浪士」との意外な関係
森蘭丸とは?織田信長が愛した美少年小姓
森蘭丸。「らんまる」という響きだけで、凛々(りり)しく美しい若武者を想像してしまう方も多いでしょう。大河ドラマやゲームでは、決まって「絶世の美少年」として描かれます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
しかし、彼は単なる「顔の良いお気に入り」ではありませんでした。信長という気難しい天才が、なぜ最期の瞬間まで彼を側に置いたのか。まずはその人物像を、史実の側面から深掘りしてみましょう。
蘭丸は本当にイケメンだったのか?肖像画の真実
結論から申し上げますと、「森蘭丸が美少年であった」と断定できる同時代の一次史料(日記や手紙など)は、実は存在しません。
現在、教科書や資料集で見かける「森蘭丸の肖像画」も、彼が亡くなってから数十年〜百年以上経ってから描かれた「想像図」がほとんどです。ではなぜ、これほどまでに「美少年」のイメージが定着したのでしょうか。
そこには、戦国時代特有の文化と、後世の脚色(きゃくしょく)が大きく関わっています。
- 「小姓(こしょう)」という役職の性質:
主君の秘書兼ボディーガードである小姓には、教養があり、かつ容姿端麗な若者が選ばれるのが当時の通例でした。信長のお眼鏡にかなったのだから、当然美しかっただろうという推測が働いています。 - 『武功夜話(ぶこうやわ)』などの軍記物:
江戸時代に入って書かれた読み物の中で、悲劇性を高めるために「類まれなる美貌の持ち主」として描写されました。これが大衆に広まり、今日のイメージが完成したのです。
しかし、信長は実力主義の塊のような男です。単に顔が良いだけで、重要機密を扱う筆頭小姓に抜擢(ばってき)するでしょうか?
おそらく蘭丸は、清潔感のある顔立ちをしていたでしょうが、それ以上に「飛び抜けて頭の回転が速かった」ことこそが、彼が寵愛(ちょうあい)された真の理由だと考えられます。
信長との年齢差と主従を超えた絆
織田信長と森蘭丸。二人の年齢差は、現代の感覚で言えば「親子」そのものです。
| 織田信長 | 天文3年(1534年)生まれ 本能寺の変当時:数え49歳 |
| 森蘭丸 | 永禄8年(1565年)生まれ 本能寺の変当時:数え18歳 |
| 年齢差 | 約31歳差 |
蘭丸の父・森可成(よしなり)は、信長が尾張の小大名だった頃から付き従った最古参の家臣でした。可成が宇佐山城の戦いで討死した際、信長は人目もはばからず号泣したと伝わります。信長にとって蘭丸は、「自分のために命を捨てた戦友の忘れ形見」だったのです。
二人の信頼関係を示す、こんな有名なエピソードがあります。
ある日、信長が蘭丸に「隣の部屋の障子が開いているから閉めてこい」と命じました。
蘭丸が見に行くと、障子はすでに閉まっていました。しかし蘭丸は、あえて一度障子を開け、音を立ててピシャリと閉めてから戻ってきました。
信長が「閉まっていたのではないか?」と問うと、蘭丸はこう答えました。
「はい、閉まっておりました。しかし、私がそのまま戻って『閉まっていました』と報告すれば、信長様が見間違いをしたことになり、恥をかかせてしまいます。また、私が確認もせずに口答えをしたと思われるかもしれません。一度開けて閉め直せば、信長様の顔も立ち、私の任務も完了します」
これは「気配り」のレベルを超えた、高度な処世術です。相手が何を求めているかを瞬時に察知し、主君のメンツまで守る。この驚異的な察察(さっさつ)能力こそが、信長が彼を手放せなかった理由でしょう。
本能寺の変で森蘭丸はどのようにして死んだのか?

1582年(天正10年)6月2日。京都・本能寺に宿泊していた信長一行を、明智光秀率いる1万3千の大軍が襲撃しました。信長の手勢はわずか100人足らず。圧倒的な戦力差の中、蘭丸はどのように戦い、散っていったのでしょうか。
1582年6月2日、運命の夜明け
早朝、静まり返った本能寺に、鉄砲の音と兵士たちの叫び声が響き渡りました。
異変に気づいた信長が「これは謀反か、誰の仕業だ」と問いかけると、蘭丸は表の様子を窺(うかが)い、冷静かつ絶望的な報告を行います。
信長さん水色桔梗(みずいろききょう)の旗印が見えます。明智日向守(光秀)様の軍勢でございます。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
信長は「是非(ぜひ)もなし(仕方がない)」とだけ呟き、弓を取って応戦しました。蘭丸たち小姓衆もまた、槍や刀を手に取り、御殿の入口で明智兵を食い止めようと必死の抵抗を試みます。
この時、蘭丸の心中にあったのは「生き残る」ことではなく、「主君・信長が自害し、その遺体を隠すまでの時間を1秒でも長く稼ぐこと」だけだったはずです。
蘭丸は何歳で死んだ?享年18歳の壮絶な最期
森蘭丸が亡くなったのは、数え年で18歳(満16〜17歳)。現代なら高校2年生か3年生です。前途洋々たる若者が、歴史の奔流(ほんりゅう)に飲み込まれてしまいました。
さらに悲劇的なのは、この本能寺には蘭丸だけでなく、彼の下の二人の弟も小姓として仕えていたことです。
| 名前 | 享年(数え年) | 続柄 |
|---|---|---|
| 森 蘭丸(長定/成利) | 18歳 | 三男 |
| 森 坊丸(長隆) | 17歳 | 四男 |
| 森 力丸(長氏) | 16歳 | 五男 |
なんと、森家の将来を担うはずの10代の兄弟3人が、全員同じ場所で、同じ時に命を落としてしまったのです。彼らの母・妙向尼(みょうこうに)にとって、これほど残酷な知らせがあったでしょうか。
兄弟たちは互いに背中を預け合いながら、最後の瞬間まで戦い抜いたと伝えられています。
安田国継に討たれた瞬間の記録
では、蘭丸自身は誰の手によって討ち取られたのでしょうか。
『信長公記』やその他の記録によると、彼に致命傷を与えたのは、明智軍きっての猛将・安田国継(やすだくにつぐ/通称:作兵衛)でした。
安田国継は、「一番槍」の功名を狙って本堂へ突入しました。そこで立ちはだかったのが蘭丸です。蘭丸は十文字槍を振るって奮戦しましたが、歴戦の武士である安田との技量の差は歴然でした。
安田の繰り出した槍が、蘭丸の下腹部を深く突き刺します。
しかし、ここからの蘭丸が凄まじい。彼は激痛に耐えながら、刺さった槍を自らの手で掴んで引き寄せ、安田の顔面に一太刀浴びせようとした、あるいは首を取らせないために自ら炎の中へ飛び込んでいった、といった壮絶な最期が語り継がれています。
奇妙なことに、蘭丸を討った安田国継は、本能寺の変の15年後、蘭丸の命日と同じ「6月2日」に謎の死を遂げました。
頬にできた「悪性腫瘍(しゅよう)」が原因で亡くなったとされますが、当時の人々は「蘭丸がつけた刀傷が祟ったのだ」と噂しました。蘭丸の執念は、死してなお消えていなかったのかもしれません。
【最大の謎】森蘭丸の遺体はどこへ消えたのか?


戦闘が終わり、本能寺は焼け落ちました。勝利した明智光秀は、血眼になって信長の遺体(首)を探させます。しかし、灰の山をかき分けても、信長の遺体は見つかりませんでした。
そして同様に、森蘭丸の遺体もまた、はっきりとした形で発見されることはなかったのです。あれほど目立つ活躍をした彼の遺体が、なぜ消えてしまったのでしょうか。
本能寺の炎に消えた遺体発見の真相
最も科学的かつ現実的な説は、「高温の火災による完全な焼失(灰化)」です。
当時の寺院火災における中心部の温度は、1000度を軽く超えたと考えられます。さらに本能寺には、鉄砲隊が使う大量の火薬が保管されており、これらが誘爆して爆発的な火災が発生しました。
このような状況下では、人体は炭化するどころか、骨さえもボロボロの灰になってしまいます。さらに、崩落した巨大な屋根瓦や柱の下敷きになれば、誰の遺骨か判別することは現代の科学捜査をもってしても困難でしょう。
蘭丸は最期まで信長の側にいたため、最も火勢の強い奥御殿で、主君と共に灰になった可能性が高いのです。
信長の遺体も行方不明?遺体が見つからなかった理由
信長の遺体が見つからなかったことは、明智光秀にとって致命的でした。「信長の首」という証拠がなければ、世間は「信長は生きているかもしれない」と疑い、光秀に味方することを恐れるからです。
一説には、信長が自害する直前、蘭丸に次のような命令を下したと言われています。



わしの首を奴ら(明智)に渡すな。遺体は燃やしてしまえ。跡形も残すな。
蘭丸はこの主君の最期の命令を忠実に守り、信長の遺体に畳や障子を被せて火を放ち、自らもその炎の中で果てた……。
そう考えると、遺体が見つからなかったこと自体が、蘭丸が最期の任務を完璧に遂行したという「忠義の証(あかし)」とも言えるのです。
清玉上人が密かに埋葬した説の検証
一方で、京都には興味深い「遺体搬出の伝説」が残っています。それが「阿弥陀寺(あみだじ)」の住職・清玉上人(せいぎょくしょうにん)の物語です。
江戸時代中期の記録(『信長公阿弥陀寺由緒之記録』)によると、本能寺の異変を知った清玉上人は、僧侶たちを引き連れて現場へ駆けつけました。そして、顔なじみの武士の手引きで裏道から入り、信長の遺骨と、傍らにあった蘭丸らの遺灰を拾い集め、法衣に包んで持ち帰ったというのです。
帰り道、光秀の兵に「その包みは何か」と怪しまれましたが、「寺の宝物である」と言い張って切り抜け、寺に持ち帰って深く埋葬した……とされています。
この話はドラマチックですが、史料が書かれたのが事件から150年近く後であることや、包囲網の中を僧侶が出入りできるかという疑問点から、「史実である可能性は低い」と見るのが現代の研究者の一般的見解です。しかし、当時の京の人々が「信長様や蘭丸様の遺体は、どこかで安らかに眠っていてほしい」と願った想いが、こうした伝説を生んだのかもしれません。
森蘭丸の墓はどこにある?現在も残る供養の地


引用元「Wikipediaコモンズ」より
遺体が行方不明とはいえ、蘭丸を供養する墓や石碑は各地に存在します。ファンなら一度は手を合わせたい、代表的な場所をご紹介します。
岐阜県可児市「可成寺」に眠る蘭丸
森家の本拠地であった美濃国(現在の岐阜県可児市)にある「可成寺(かじょうじ)」。ここには、森家一族の墓所があります。
本能寺の変の後、生き残った森家の家臣たちが、主君である蘭丸たちの遺髪(髪の毛)や遺品を持ち帰り、ここに墓を建てて弔ったとされています。遺骨はないかもしれませんが、森家の魂が帰る場所として、ここが正式な菩提寺(ぼだいじ)と言えるでしょう。
京都「阿弥陀寺」に伝わる埋葬伝説
先ほどご紹介した、清玉上人が遺骨を持ち帰ったとされる京都の「阿弥陀寺」。ここには現在も「織田信長公本廟」があり、そのすぐ脇に森蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟の墓石が仲良く並んでいます。
毎年6月2日には「信長忌」が行われ、全国から多くの歴史ファンが焼香に訪れます。信長のすぐ側で眠り続けていることこそ、蘭丸にとって一番の供養なのかもしれません。
弟・坊丸と力丸も一緒に葬られた理由
どの墓所に行っても、蘭丸の墓は必ず弟の坊丸(ぼうまる)、力丸(りきまる)とセットになっています。まだあどけない十代の兄弟が三人揃って並ぶ墓石を見ると、戦国の世の無常さを感じずにはいられません。
彼らは生まれた時も一緒ではありませんでしたが、死ぬ時と、死後の永遠の眠りは一緒でした。彼らの墓前に立つと、兄弟愛の強さと、乱世の厳しさが同時に胸に迫ってきます。
森蘭丸には嫁や子孫がいたのか?
18歳という若さで散った蘭丸。彼には結婚した妻や、血を分けた子供はいたのでしょうか?
「もし蘭丸の子供が生きていたら…」と想像したくなりますが、史実はどうなっているのでしょうか。
蘭丸に結婚相手はいなかった
結論から言うと、森蘭丸には妻もおらず、子供もいませんでした。
当時の武士は15歳前後で元服し、早ければ10代で結婚することも珍しくありません。しかし、蘭丸は信長の側近として24時間体制で仕える激務の中にあり、身の回りの世話から秘書業務、さらには取次役(とりつぎやく)として大名との交渉までを一手に引き受けていました。
彼には恋愛を楽しんだり、家庭を持ったりする時間的余裕は全くなかったと考えられます。彼はその短い生涯のすべてを、信長というカリスマに捧げたのです。
兄・森長可が継いだ森家の血筋
蘭丸の直系子孫はいませんが、森家の血筋が絶えたわけではありません。
蘭丸の上には、「鬼武蔵(おにむさし)」の異名を持つ猛将の兄・森長可(ながよし)がいました。
この長可、蘭丸とは対照的に気性が荒く、戦場では「人間無骨(にんげんむこつ)」という恐ろしい名前の槍を振るって敵を殺戮(さつりく)したバーサーカーのような武将でした。しかし彼もまた、本能寺の変の2年後、「小牧・長久手の戦い」で徳川家康軍と戦い、27歳の若さで眉間(みけん)を撃ち抜かれて討死してしまいます。
長男も、次男も、三男(蘭丸)も、四男も、五男も……。森家の男たちは次々と戦場で散っていきました。まさに「呪われている」と思えるほどの壮絶な家系です。
森蘭丸の子孫は現在どうなっている?
では、森家は滅んでしまったのでしょうか?いいえ、違います。唯一生き残った末弟・森忠政(ただまさ)が奇跡的に家督を継ぎました。
忠政は兄たちの武勇とは異なり、政治的な駆け引きに長けた人物でした。彼は豊臣政権下を生き抜き、徳川家康にもうまく立ち回り、最終的に美作(みまさか)津山藩18万6千石の大名へと大出世を果たします。
この忠政の家系(および養子縁組による継承)を経て、森家は江戸時代を通じて大名として存続し、その血脈は現代にまで続いています。蘭丸自身の子供ではありませんが、蘭丸が命を懸けて守ろうとした「森家の誇り」は、今も確かに受け継がれているのです。
森蘭丸の死が残した歴史への影響
たった18年の短い生涯でしたが、蘭丸の死は歴史に何を残したのでしょうか。もし彼が生きていたら、歴史は変わっていたのでしょうか。
蘭丸が予言していた?本能寺の変の予兆
「蘭丸は本能寺の変が起こることを知っていた」というミステリアスな噂があります。ある日、蘭丸が信長の爪を切っていると、突然「光秀殿の謀反に備えるべきです」と進言したという逸話です。
しかし、これは後世の創作である可能性が高いでしょう。もし本当に予知していたなら、あのような無防備な状態で本能寺に宿泊するはずがありません。ただ、蘭丸が光秀に対して何らかの不信感を抱いていた、あるいは光秀の焦りを感じ取っていたというエピソードは多く、彼の「勘の鋭さ」を物語っています。
蘭丸の死が光秀の運命を決めた理由
歴史の「if」ですが、もし蘭丸が生き延びて信長を逃がしていたら、あるいは蘭丸自身が脱出して羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとへ「信長様は生きている」と嘘の情報を流していたら、明智光秀の「三日天下」はもっと早く、悲惨な形で終わっていたかもしれません。
しかし、現実は残酷でした。蘭丸たち小姓衆が全滅するまで戦い、時間を稼いだことで、信長の遺体を隠す時間が生まれました。結果として「信長の首がない」という事実は光秀を精神的に追い詰め、味方が集まらない原因の一つとなりました。
蘭丸の奮戦は、結果的に光秀の天下を阻む最初の一手となったのです。
なぜ蘭丸は後世まで語り継がれるのか
武功を挙げたわけでもなく、大名として国を治めたわけでもない一人の若者が、なぜ400年以上経った今でもこれほど愛され続けるのでしょうか。
それは、彼の生き様が日本人の琴線に触れる「滅びの美学」を体現しているからではないでしょうか。権力欲や金銭欲ではなく、ただひたすらに「敬愛する人のために死ぬ」。その純粋で一途な忠誠心が、いつの時代も私たちの心を揺さぶり続けるのです。
森蘭丸の家系図と森家のその後
最後に、激動の森家の流れを整理しておきましょう。これを見れば、いかに森家が壮絶な一族だったかがわかります。
父・森可成から続く武将の血筋
森家の強さのルーツは、父・森可成(よしなり)にあります。彼は槍の名手として「攻めの三左(さんざ)」と恐れられた猛将でした。
その息子たちが、鬼武蔵・長可であり、忠臣・蘭丸でした。父譲りの武勇と、母・妙向尼(熱心な一向宗信徒)譲りの信仰心。この二つが、森家の子供たちを「恐れを知らぬ戦士」へと育て上げたのでしょう。
兄弟たちのその後と赤穂藩主への道
蘭丸たちの死後、家を継いだ末弟の忠政は、津山藩主となります。その後、森家は転封(領地替え)を繰り返しますが、その分家の一つがなんと「播磨赤穂藩(はりまあこうはん)」の藩主となりました。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
「赤穂」と聞いてピンと来た方もいるでしょう。そう、あの『忠臣蔵』の舞台です。実は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)がお家取り潰しになった後、赤穂藩に入って治めたのが、この森家なのです。
主君への忠義で散った蘭丸の家系が、後に「忠臣蔵」の舞台となる土地を治めることになるとは。歴史の不思議な縁(えにし)を感じずにはいられません。
森家が現代まで続く奇跡
父と兄3人が戦死するという壊滅的な危機を乗り越え、森家は大名として明治維新まで存続しました。そして子爵(ししゃく)となり、現代へと続いています。
森蘭丸の遺体は永遠に見つからないかもしれません。しかし、彼が守ろうとした「森家の名」と「信長への忠義の物語」は、決して消えることなく、私たちの心の中に生き続けているのです。
まとめ:森蘭丸の遺体は消えたが、その忠義は永遠に残った
ここまで、森蘭丸の遺体にまつわるミステリーと、彼の壮絶な生涯について解説してきました。最後に、今回の記事の重要ポイントをもう一度振り返ってみましょう。
- 遺体消失の謎:
本能寺の変の激しい火災により、蘭丸の遺体は信長と共に「完全に焼失(灰化)」した可能性が高い。阿弥陀寺の清玉上人による「持ち出し・埋葬説」も存在するが、史実としての確証は低い。 - 人物像の真実:
「絶世の美少年」という記述は同時代の史料にはなく、後世の創作の影響が大きい。しかし、信長に愛された理由は「容姿」以上に、相手の意図を汲み取る「天才的な察知能力」と「献身性」にあった。 - 壮絶な最期:
享年18歳。明智軍の猛将・安田国継と渡り合い、下腹部を槍で突かれて討死した。その際、信長の遺体を守るために自ら炎の中へ飛び込んだとも言われている。 - 森家のその後:
蘭丸と二人の弟は討死したが、末弟・森忠政が家督を継ぎ、津山藩主として大成。その分家は後に「赤穂藩」の藩主となり、忠臣蔵の舞台とも関わりを持った。
森蘭丸の遺体が見つからなかったこと。それは、彼が「信長の遺体を敵に渡さない」という最後の任務を、命を懸けて完遂した証拠に他なりません。
物理的な肉体は炎とともに消え去りましたが、その「滅びの美学」と「主君への絶対的な忠誠」は、400年の時を超えて、今も私たちの心に強く訴えかけてきます。京都・本能寺跡や阿弥陀寺を訪れる際は、ぜひこの若き忠臣の想いに、静かに手を合わせてみてください。
森蘭丸に関する「よくある質問」と意外なトリビア
記事本編では紹介しきれなかった、森蘭丸にまつわる細かい疑問や、歴史ファンなら知っておきたいトリビアをQ&A形式で紹介します。
A. 「不動行光(ふどうゆきみつ)」という短刀が有名です。
織田信長は大変な「刀剣マニア」であり、秘蔵のコレクションを多数所有していました。その中でも特に気に入っていたのが、鎌倉時代の刀工・藤三郎行光(とうさぶろうゆきみつ)が打った短刀「不動行光」です。
信長は酔っ払うと「不動行光、九十九髪茄子(つくもなす:茶器の名品)、人には五郎左(丹羽長秀)」と自慢したという逸話があるほどです。この大切な短刀を、信長は蘭丸に譲り渡したとされています。これは蘭丸への信頼がいかに厚かったかを示す決定的な証拠と言えるでしょう。この刀もまた、本能寺の変で焼失したと考えられています。
A. 確実なものは残っていません。
残念ながら、蘭丸本人が詠んだと確定できる辞世の句は伝わっていません。本能寺の変は早朝の奇襲であり、歌を詠む余裕など全くない緊急事態だったからです。
ただし、後世の創作(軍記物など)では、以下のような句が蘭丸のものとして紹介されることがあります。
「雨降らば 雨降るままに 風吹かば 風吹くままに 身を任すかな」
これは「どんな運命(天候)になろうとも、あるがままに受け入れて信長様に従う」という、彼の生き様を表現した後世の人々の想像による歌だと考えられます。
A. 公式の場ではありえませんが、プライベートではかなり親密だったようです。
信長は形式や礼儀作法に厳しい人物でしたが、心を許した相手には非常にフランクでした。蘭丸は信長の爪を切ったり、着替えを手伝ったりするほど私生活に入り込んでいたため、二人きりの時には砕けた会話をしていた可能性は十分にあります。
また、信長は蘭丸のことを「お蘭(らん)」と呼んで可愛がっていたという記録もあります。恐怖で人を支配した魔王・信長が、唯一心を許して甘えられた相手、それが森蘭丸だったのかもしれません。
歴史の闇に消えた若き美少年、森蘭丸。その真実を知ることで、本能寺の変という事件が、より深く、より人間味あふれるドラマとして見えてくるはずです。









コメント
コメント一覧 (3件)
先日TVを見ていたら、本能寺を発掘した方が、本能寺は燃えていなかったとおっしゃっていました。なので焼死体うんぬんは成立するのでしょうか
この度は当サイトをご利用いただきありがとうございます。
また、貴重なコメントをいただきましたことにも御礼を申し上げます。
おっしゃること、ごもっともです。
本能寺にて火災はなかったという説もありますので、その場合「焼死体」がそもそも存在しないことになってしまいます。
ただ、明智光秀が信長の遺体を手に入れていないことだけは事実であるため、遺体がどこか行方をくらましたことだけは事実かと思います。
一説によると、黒人武将の弥助が信長の命令で、信長の首を墓地の「とば」を使って火葬し、阿弥陀寺の青玉上人が埋葬した、という話があるようです。
これならば、「本能寺は焼けていない」という説とも辻褄が合いますので、「本能寺は焼けていない説」を採用する場合、こちらの方が信憑性があるかもしれません。
今回は「本能寺は焼けた」という前提で一説を申し上げましたが、いつの日にか、今回教えていただいた通り、「本能寺は焼けていない」という前提での説を検証してみたいと思います。
この度は貴重な情報とお言葉をいただき、心よりお礼を申し上げます。
またよろしければ、是非とも当サイトをお役立てくださいませ。
ありがとうございました。
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