この記事では「織田信長の側室」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長の側室」を、一覧表でカンタンに理解できます。
「信長」には「正室・側室あわせて12人もの妻がいた」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の側室は、何人いたのか?
信長には、判明しているだけで「生駒吉乃」や「お鍋の方」など「11名」の側室がいた
2,「信長の側室」は、11名だけだったのか?
信長には、この「11名の側室」以外にも「愛妾」がいたと考えられる。信長は「男性」にも手を出していた
3,「信長」と正室「帰蝶(濃姫)」は、仲が良かったのか?
2人は当初、それほど仲が良くなかったのではないか。【1567年】に信長が「美濃国」を奪取したあとは、関係が修復された可能性もある
「織田信長」の側室一覧
「織田信長」には、「側室」つまり「正妻以外の妻」が「11名」もいたといわれています。
信長の正室「帰蝶」こと「濃姫」を加えると、「12名」の妻がいたことになります。
側室の名前一覧は、以下のとおりです。
- 「生駒吉乃(別名・類)」
- 「坂氏」
- 「養観院」
- 「お鍋の方」
- 「土方氏」
- 「原田氏」
- 「春誉妙澄大姉」
- 「慈徳院」
- 「三条西実枝の娘」
- 「六男・信秀の母」
- 「つまき殿」(明智光秀の妹または義妹)
この中で、とくに有名なのが「生駒吉乃(いこま きつの)」でしょう。
「吉乃」または「類(るい)」と呼ばれたこの女性は、信長からもっとも愛された女性です。
「信忠」、「信雄」、「徳姫」と、三人の子を産んでいます。
ただ、「吉乃」は3人目の子供を産んだあと、体調を崩して亡くなっています。
「吉乃」が産んだ長男「信忠」は、母が亡くなったあと、信長の正室「帰蝶」の養子となって、美濃・尾張の2カ国を信長から継承しています。
側室は「11人」だけではなかった!信長は「男性」も好んでいた
信長の側室は、ご紹介した「11名」だけではなかった可能性が高いです。
信長には、他にも「愛妾」「愛人」と呼べる人が、たくさんいたはずです。
織田信長の側室として知られている女性たちは、そのほとんどが、「武士」や「公家」の親族。つまり身分が高い女性ばかりなのです。
当時は気に入った女性ならば、農民や浪人の娘など、「身分が低い女性」をそばに置いておくことも、結構あったようです。
「加藤清正」や「浅野幸長」も、遊女などの身分の低い女性と関係を持っていたようです。(それが原因で、病死したと考えられている)
そして信長といえば、男性にも手を出していたことで有名です。
寵愛した小姓「森蘭丸」、または猛将「前田利家」と関係があったことは、有名ですよね。
「森蘭丸」または「前田利家」のような美男子を、信長は愛し、戦場でそばに置いていたと言われています。
当時、同性で関係を持つことは、それほど珍しいことではなかったと言われています。
「森蘭丸」「前田利家」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長と正室「帰蝶」こと「濃姫(鷺山殿)」のその後!2人は仲が良かったのか?
織田信長と正室「帰蝶」の仲は、それほど良くなかったのではないでしょうか。
帰蝶は、信長の宿敵「斎藤道三」の娘です。
そして当時としては常識ですが、帰蝶は「織田家」の情報を実家「斎藤家」へ知らせる「スパイ」の役を担っていたのです。
信長は帰蝶がスパイであることを、当然知っていました。
そのため信長は、妻「帰蝶」に対して「偽情報」を流して「斎藤道三」を混乱させた、という逸話が残っているのです。
【1556年】、「斎藤道三」は息子の「斎藤義龍」に「長良川の戦い」で討たれて亡くなっています。
それ以降、「帰蝶」は異母兄「斎藤義龍」を、父の仇として憎み、信長による「父・道三の仇討ち」を後押ししたのだとか。
しかしいくら父の仇とはいえ、実家「斎藤家」の滅亡を、そう簡単に願うことができるものでしょうか?
「信長」と「帰蝶」の間には、子供がいません。
信長は、おそらく「道三」のスパイであった「帰蝶」を警戒し、そばに置かなかったのでしょう。
そして「道三」が亡くなったあとも、異母兄「斎藤義龍」とのつながりを恐れて、帰蝶を遠ざけたのではないでしょうか。
【1567年】、織田信長は「斎藤家」を滅ぼして、稲葉山城(岐阜城)を奪い取ることに成功します。
おそらく信長は、そのとき初めて、妻「帰蝶」への警戒を解いたはず。
しかしその時、帰蝶はすでに【33歳】です。
信長の子供を産むには、少し歳を取りすぎていたのでしょう。
帰蝶と信長。2人の関係は、単純な夫婦のものとは異なり、それほど仲むつまじい関係ではなかったのではないでしょうか。
「帰蝶」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の側室「つまき殿」と「明智光秀」の関係!2人は結婚するはずだった?
信長の側室のなかで、最近有名になってきているのが「つまき殿」です。
この女性は「明智光秀の妹」と言われています。
光秀の妻「ひろ子」の「妹」、という説もあります。
光秀の妻「ひろ子」は「妻木」という苗字でしたので、「つまき殿」とは、光秀の妻の実家の名前を指していると考えられるのです。
実はこの「つまき殿」、信長の側室ですが、「明智光秀の妻になっていたかもしれない女性」なのです。
「光秀」と婚約していた「ひろ子」は、結婚直前に「天然痘」にかかって、顔に「あばた」と呼ばれるアザが出来てしまいました。
それを恥ずかしいと思った「ひろ子」の両親は、光秀に対して「ひろ子」とよく似た「ひろ子の妹」を差し出したのだとか。
しかし光秀は、頑としてこれを受けず、あくまでも「ひろ子」を妻として求めたと言われています。
この「光秀」に差し出された「ひろ子とよく似た妹」が、「織田信長の側室・つまき殿」かもしれないのです。
「つまき殿」は、信長と光秀の間を上手に取り持って、2人は良好な関係を続けていました。
ところが、この「つまき殿」が病死してしまうと、光秀と信長の関係は悪化。
ついに「本能寺の変」が起こってしまうのでした。
「明智光秀の妻」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」には、判明しているだけで「生駒吉乃」や「お鍋の方」など「11名」の側室がいた
2,信長には、「11名の側室」以外にも「愛妾」がいたと考えられる。信長は「男性」にも手を出していた
3,「信長」と正室「帰蝶(濃姫)」は当初、それほど仲が良くなかったのではないか。【1567年】に信長が「美濃国」を奪取したあとは、関係が修復された可能性もある
以上となります。
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ありがとうございました。
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