今回は、【吉田松陰】の義弟であり、愛弟子でもあった秀才【久坂玄瑞(くさか げんずい)】の
- 功績
- 子孫と家系図
- 辞世の句とその意味
について、わかりやすく解説いたします。
250年続いた江戸幕府を、終わらせたのが、この久坂玄瑞という人です。
そんな久坂玄瑞の子孫ですが、現在どこにおられるのでしょうか?
今回は、久坂玄瑞の項籍や子孫・家系図について、可能な限りわかりやすく、簡単に解説してみました。
この記事を読んで頂き、久坂玄瑞についての疑問をスッキリと解消していただけましたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・久坂玄瑞とは、禁門の変で亡くなった吉田松陰の弟子にあたる人物
・久坂玄瑞の子孫は、久坂の死後150年の慰霊祭に参加しておられた
・久坂玄瑞の辞世の句は、こちら【ホトトギス 血に鳴く声は 有明の 月より他に 知る人ぞ無き】
久坂玄瑞の【子孫の現在と家系図】
久坂玄瑞の現在の子孫・末裔は、久坂玄瑞の玄孫(孫の孫)にあたられる久坂佳照さんという方です。
調査してみました。
久坂の妻は、吉田松陰の妹・文(ふみ)という女性です。
文と久坂の間に、子供はいませんでした。
しかし京都の芸妓・辰という人が、久坂の死後に、秀次郎という男の子を産んでいます。
久坂の息子・秀次郎は、久坂家を相続しています。
そのあと秀次郎は、台湾の大倉組という会社で勤務しています。
久坂の子孫として有名なのは、久坂家略伝という作品を記した、久坂玄瑞のひ孫にあたる久坂恵一さんというお方。
そして現在も生きておられるのが、久坂玄瑞の玄孫(孫の孫)・久坂佳照さん。
この久坂佳照さんは、山口県で行われた久坂玄瑞の死後150年に行われた慰霊祭に参加しておられます。
ちなみに久坂玄瑞と、妻・文の間には子供がいなかったため、文の姉である寿(ひさ)とその夫・小田村伊之助(楫取素彦)の息子・粂太郎を養子としています。
しかし辰と久坂の間に、長男の秀次郎が生まれたため、粂太郎は文の再婚相手であり実の父親でもあった小田村伊之助(楫取素彦)の元へ戻り、楫取道明(かとり みちあき)と名乗ります。
この楫取道明は、台湾で起きた芝山巌事件で殺害され、亡くなっています。
久坂玄瑞が残した【功績】とは?
幕末の偉人・久坂玄瑞(くさか げんずい)。
久坂玄瑞は吉田松陰がもっとも愛した弟子であり、吉田松陰の妹と結婚しています。
久坂玄瑞が残した功績を短く解説いたしますと、以下のとおりです。
- ・攘夷を主張し、奇兵隊の前身である光明寺党をひきいて、四国艦隊下関砲撃事件を起こした
- ・禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩をひきいて京都御所へ進軍し幕府軍と戦い、江戸幕府250年の平和を終わらせた
外国人を武力で討伐して追い出すことを【攘夷(じょうい)】といいます。
その攘夷運動の先頭に立って活躍したのが、久坂玄瑞です。
歴史家の磯田道史さんが言うには、久坂玄瑞は
江戸幕府を終わらせた男
なのだそうです。
なぜなら、久坂玄瑞が軍をひきいて幕府軍と戦った禁門の変(蛤御門の変)は、それまで藩が幕府に対して戦争を仕掛けたことがない250年の平和を終わらせた大事件だったからです。
久坂玄瑞の【辞世の句】の全文と現代語訳?
久坂玄瑞の最期!禁門の変(蛤御門の変)
それまで長州藩は、攘夷をするべきであると、どこの藩よりも強く主張していた藩でした。
朝廷と孝明天皇は、そんな長州藩の強烈で過激な攘夷の主張を、とても危ないものであると感じていました。
そのため長州藩は、会津藩と薩摩藩によって、京都から追い出されてしまいます。(八月十八日の政変)
さらにその直後、新選組で有名な池田屋事件が起こり、長州藩は吉田稔麿(よしだ としまろ)などの優秀な人材を失うことになります。
八月十八日の政変や池田屋事件に激怒した長州藩は兵を京都へ送り、薩摩・会津と開戦。(禁門の変)
久坂玄瑞は軍をひきいて、この禁門の変で戦うことになるのです。
禁門の変で、長州藩は敗北します。
そして久坂玄瑞も亡くなるのです。
【元治元年7月19日(1864年8月20日)】、久坂玄瑞自害。
享年25歳(満年齢24歳)
最期は、ともに戦った寺島忠三郎と、刺し違える形で自害したとのことです。
会津藩と薩摩藩に敗北した長州藩は朝廷から、【日本全国の敵】を意味する【朝敵】とされてしまうのでした。
久坂玄瑞の【辞世の句】全文
久坂玄瑞が残した辞世の句には、久坂の無念の想いが強く込められています。
「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾 知る人ぞ那起 」
(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)
実はこれ、久坂のとてつもなく悲痛な想いが込められています。
まず、この歌に登場するホトトギスという言葉の意味を解説したいと思います。
実は、童謡【ホトトギスの兄弟】を知っていないと、この辞世の句に込められた意味が理解できないのです。
ですので、まずは童謡【ホトトギスの兄弟】について解説いたします。
童謡【ホトトギスの兄弟】
昔々あるところに、とても兄想いの優しい優しい弟がいました。
優しい弟は、目が見えない兄を介護し、いつもいつも栄養のある「やまいも」を兄に食べさせていました。
弟は兄のために「やまいも」を取ってきて、いつも「やまいも」のおいしい部分を兄に食べさせて、マズいところを自分が食べていたのです。
ところが兄は、目が見えないせいもあって
弟が【やまいも】のおいしいところを食べて、自分が【やまいも】のマズいところを食べさせられている
と勘違いしてしまいます。
その結果、目の見えない兄は、優しい弟を強く強く恨むようになるのです。そして悲劇が起こります。
なんと目が見えない兄は、優しい弟を殺害してしまったのです。
弟を殺した兄は、弟の腹の中を手探りで調べ、真実を知ってしまうのです。
つまり、弟が【やまいも】のマズいところばかりを食べていたことを思い知ったのです。
兄は愕然とします。
後悔の念に押しつぶされて、失意のうちに兄もまた亡くなってしまいます。
兄はついにホトトギスに身を変えて、泣き続けます。
オトウトヲコロシテシマッタ(弟を殺してしまった)
オトウトヲコロシテシマッタ(弟を殺してしまった)
ホトトギスは、血を吐くまで泣き続けます。
いつまでも、いつまでも。
【辞世の句】の意味を現代語訳で解説
「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾 知る人ぞ那起 」
(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)
この辞世の句の意味を現代語にすると、以下のとおり
「昔話のホトトギスのように、血を吐きながら嘆くほどの、私の無念の想いと志(こころざし)は、有明の月(夜が明けても消えないお月さま)を除けば、誰にもわからないだろう。
それほどまでに、私は無念なのだ・・・。」
【血を吐くほどに無念だ】と、久坂は言いたかったのでしょう。
これほどまでに、無念をにじませた久坂玄瑞。
その志は、久坂と並んで松下村塾の双璧と称えられたもう一人の英雄・高杉晋作に託されることとなるのです。
【高杉晋作の活躍】については、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・久坂玄瑞は、禁門の変(蛤御門の変)で幕府軍と戦い、250年の平安を終わらせた
・子孫は、久坂玄瑞死後150年の慰霊祭に参加しておられた
・久坂玄瑞が残した辞世の句には、強烈な無念の想いが込められている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
吉田松陰・高杉晋作について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント
コメント一覧 (2件)
〇〇に二言はないという。一日に一回の投稿という約束を破っての投稿です。理由は、久坂玄瑞を調べると1行目に辞世の歌とある。普通は辞世の句というのに辞世の歌と書かれれているということは、筆者は同じと考えられる。ということは、意見(異見)は、採用されることはないように思う。早く、違う方の記事に進みたく投稿しました。
2行目にホトトギスとカタカタ表記に違和感があり、調べてみた。最初は、ホトトギスというカタカナを高杉晋作が使ったのかという疑問からスタートしました。記事を読み進むと「時鳥」と書いてあるので、採用されないと思うが、「ホトトギス」という表記はまずいと思う。私は、ホトトギスという漢字は、「時鳥」・「不如帰」・「子規」という漢字があることを知り、勉強になったが。
4行目に叫びながらも亡くなった久坂とある。叫びながらもの「も」は、何だろう。普通は叫びながら亡くなったと書くと思うが、
5行目にその久坂の子孫は、現在も福岡県で生きていた。この書き方にも違和感を感じた。読み進むと、子孫と家系図の説明文にも、久坂玄瑞の子孫、末裔は、今も残っている(物ではありませんよ)のでしょうか。と書いてある。
私ならば、歴史上の人物には敬意を払い、このような表現はしない。ましてや吉田松陰(先生)の門下生であり、三秀とまで言われ、私など足元にも及ばない方である。ご存命とか最大の敬意を払った言葉を用いるが、これも見解相違というか歴史家と私みたいな歴史好きの違いかな。
この記事を短く言うと2行目に芸?妓とあるが、間の?は何だろう。
「禁門の変」への経緯5行目に汚名を注ぐ
以前にも書いたが、これは日本語検定にも出題されたように、注ぐは液体を流し入れることで誤りです。正しくは、雪ぐである。
辞世の意味
久坂玄瑞、、、「誰にも理解できないほど、血を吐いてそれでも泣き続けたホトトギスほど、、、」とあるが、鳴いてが正しいと思う。
いつも投稿する際は、①と書き始め③と書くのであるがこの投稿に限りそうはしない。多分、この記事を書かれた方には採用されないとは思う。ただ、子孫に関する用語だけは検討してほしく敢えて投稿しました。
いつもありがとうございます
事情がありまして、採用できるかどうか、ご期待にはこたえられないかもしれませんが、どうかお許しくださいませ。
今後ともどうかよろしくお願いいたします。
今回もありがとうございました。