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【武田信玄】織田信長との『戦い』がない理由!戦ったらどっちが勝つ?

戦国最強の名将「武田信玄」

天下統一目前までいった魔王「織田信長」

2人が一度も戦ったことがないのはなぜか?

もしも戦ったら、どっちが勝っていたのか?


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この記事を短く言うと

・一度も戦わなかったのは、「織田信長」が「武田信玄」を恐れて、戦いを避けていたから

・もしも戦っていたら、間違いなく武田信玄が勝利した

・武田信玄が病死しなかったとしても、織田信長を討ち取ることは、おそらく出来なかった


織田信長と武田信玄が、一度も戦わなかった理由

わかりやすく言うと、2人が一度も戦ったことがない理由は「織田信長がビビっていた」から。

言い換えれば、信長は「武田信玄」の恐ろしさがわかっていたため、「戦ったら必ず負ける」と理解していたのです。

そのため、信長は徹底的に武田信玄との戦いを避けたのです。

信長は自らの姪を養女とし、信玄の四男「武田勝頼」の妻に差し出して、同盟を締結。

その他にも度々贈り物を送って、信玄のご機嫌を伺っています。

信長の嫡男・信忠の許嫁は「信玄の6女・松姫」でしたが、この婚姻は結果的に破談。

ちなみに軍神・上杉謙信に対しても、信長は同様にご機嫌取りをしています。

しかし1573年、武田信玄は「足利義昭」による「信長討伐の要請」を受けて織田信長の領地へ向けて進軍を開始。

それまで良好な関係を保ってきた「織田信長」と「武田信玄」は、信長の「比叡山・延暦寺焼き討ち」を理由に関係が悪化。

何と言っても「武田信玄」は「天台座主」という「仏教の守護者」でしたから、激怒したのも無理はありません。

1573年「三方ヶ原の戦い」で、信長の同盟者「徳川家康」を打ち負かしているものの、織田信長と決戦する前に、信玄は病死。

この9年後の1582年、武田家は「天目山の戦い」で滅亡。

その数ヶ月後に「織田信長」もまた、「本能寺の変」で戦死してしまいました。



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信玄と信長が戦ったら、結果はどうなる?

もしも信玄と信長が戦っていたら、確実に「武田信玄」が勝利しています。

信長には到底勝ち目はありません。

理由は簡単で、信長は「軍人」ではなく、言うなれば「経営者」だから。

信長は「金儲けの天才」ではありましたが、「戦争」はそれほど上手ではありません。

対して武田信玄は、幼い頃から徹底的に訓練された「戦略家」であり「軍人」。

生涯の戦績も、3度しか敗北したことが無く、あの軍神「上杉謙信」に対しても「引き分け」に持ち込むほど戦争が上手でした。

信長は、信玄と戦争したら敗北するということを、誰よりもわかっていたのではないでしょうか。

そのため、信玄との戦いを徹底的に避け・・・信玄のいない「西日本へ勢力を拡大」するという戦略を取ったのでしょう。



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もしも信玄が病死しなかったら、歴史はどうなっていた?

信玄病死までの経緯

1573年、武田信玄は「西上作戦」・・すなわち「織田信長討伐作戦」を実行し、東海道を通って織田信長の領地を目指しました。

この時、信長は近江国(滋賀県)と越前国(福井県)に、「浅井長政」と「朝倉義景」という敵対勢力を抱えていました。

更には「石山本願寺」という宗教勢力とも敵対。

同盟者である「徳川家康」は、「三方ヶ原の戦い」で武田信玄にあっけなく撃破されました。

信長討伐まであと一歩まできたところで、1573年4月12日、武田信玄は信州駒場で病死。

原因は「胃がん」。

もしも信玄がの寿命がもう少し長かったら・・・・・どうなっていたのでしょうか?



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信玄が生きていたら、どうなっていたのか?

信玄が生きていたとしても、おそらく織田信長は殺害されることなく、巻き返していたのではないか?と思います。

理由は簡単で、最強・武田軍には「致命的な弱点」があるからです。

弱点とは「長期遠征が出来ない」ということ。

武田軍の兵士は、ほとんどが甲斐・信濃の半兵半農「土着の農民兵」。

つまり、「春の稲の種まき」時期には自分の土地で農作業しないと、武田家は年貢収入が絶たれ、農民は餓死しかねないのです。

対して織田軍は「兵農分離」が徹底されていたので、織田軍の兵士は「傭兵」が大半であり「長期遠征」が可能。

土着ではない傭兵だったため、織田軍は「命がけで戦う」という覚悟に乏しく、非常に弱い軍でした。

対して武田軍は、覚悟を決めた「最強軍団」ではありましたが、反面長期遠征は不可能。

武田信玄が三方ヶ原で、徳川家康を撃破したのが「1573年1月」。武田軍に残された時間は、この時点で3ヶ月ほど。

たった三ヶ月で、信玄が織田信長を打ち取れたとは思えません。

信長からすれば、堅城「岐阜城」に立てこもれば、武田軍は撤退していくことが明白。

武田軍との決戦を徹底的に避けて各城に籠城して軍を温存。

自軍の被害を最小限に抑え、武田が甲斐に撤退したら、浅井・朝倉・本願寺を各個撃破すれば良いのです。

信玄がもしも3ヶ月の間に織田信長を討ち取ったとしても、農民兵を抱える武田軍は、京都を支配して住み着くことは出来ません。

たとえ信長を討ち取ったとしても、信玄が信長のように「天下統一」へ大きく前進するとは、考えにくいのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・織田信長と武田信玄が一度も戦ったことがないのは、「織田信長が信玄を恐れて、戦いを避けていた」から

・もしも信長と信玄が戦っていたら、間違いなく武田信玄が勝利していた

・たとえ武田信玄が病死せず、寿命が尽きなかったとしても、信長を討ち取ることは難しく、天下統一も難しかっただろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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