【斎藤道三】織田信長との関係とは?道三が信長に託した3つの遺産

皆さんは「斎藤道三と織田信長が、どういう関係なのか」を、ご存知でしょうか?

 

実は「道三と信長の隠された絆(きずな)」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「道三と信長が、本当は互いをどのように思っていたのか」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「道三と信長」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「斎藤道三と織田信長の絆」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「道三と信長」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「斎藤道三」と「織田信長」は、「姑(しゅうと)」と「娘婿(むすめむこ)」という関係。それだけではなく、2人は、「宿敵関係」にあった

 

2,信長は、生涯にわたって「今川義元」と「斎藤道三」の二人を尊敬していたと考えられる

 

3,斎藤道三は、死ぬ前に娘婿「信長」にたいして「美濃の国」「二人の息子・利堯と利治」「明智光秀」という高価な遺産をのこした

「斎藤道三」と「織田信長」の関係とは?

「斎藤道三」と「織田信長」は、「姑(しゅうと)」と「娘婿(むすめむこ)」という関係です。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

 

斎藤道三の娘「帰蝶(通称・濃姫)」が、織田信長に嫁いでいるのです。

 

それだけではありません。

 

実は「織田信長」の父「織田信秀」と「斎藤道三」は、何度も戦った宿敵同士。

 

しかも「信秀」は、「道三」に一度たりとも勝利したことがない、いわば信長にとって「道三」は、「親の仇」も同然の相手なのです。

 

ところが、「道三と信長」、この2人は歴史に残るほど「強い絆(きずな)」で結ばれた関係なのです。


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信長が生涯にわたって尊敬した「2人の名将」

信長には、生涯をつうじて尊敬していたであろう武将が「2人」いました。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

不思議なことに織田信長は、自らの父「信秀」や、味方の名将たちではなく、「宿敵」を尊敬していたのです。

「今川義元」

信長は、生涯にわたって宿敵「今川義元」を尊敬していたと考えられます。

 

今川義元といえば、【1560年】、「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討ち取られた東海道の支配者です。

 

当時は「日本最大の勢力」と呼ばれていた「東海道の今川家」を支配していたのが、名将「今川義元」なのです。

 

「義元」といえば、お歯黒をしている太っちょなお公家さんで、「4万人」もの大軍団を率いていたのに、「3千人」の兵士しか連れていない「織田信長」に負けた愚将・・・というイメージを持たれているかもしれませんね。

 

ところが、実際の義元は、「武田信玄」「北条氏康」などの名将にも負けない、名君の中の名君。名将の中の名将なのです。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

信長は、そんな「今川義元」を尊敬していました。

 

その証拠に、信長は「今川義元」を討った際に、義元が持っていた刀を奪い、自らの愛刀として、生涯肌身はなさず持っていました。

 

その刀の名前は「義元左文字(別名・宗三左文字)」。

 

この刀は、信長が亡くなった後「徳川家康」の手に渡りましたが、現在は信長を祀る神社「建勲(たけいさお)神社」に納められています。

「斎藤道三」

もうひとり、信長が尊敬していたのは、「斎藤道三」でしょう。

 

斎藤道三は、【1556年】に、「長良川の戦い」で、息子「斎藤義龍」に攻め滅ぼされています。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

このとき信長は、道三を救出するため、援軍を差し向けて、「斎藤義龍」のひきいた大軍団を相手に、必死に戦っています。

 

信長と道三は、この「長良川の戦い」の3年前、「正徳寺(聖徳寺)」という場所で、初めて顔をあわせています。

 

当時、信長はそのバカなことを繰り返していたため、「尾張のうつけ(馬鹿者)」と呼ばれていました。

「信長とかいう若殿様。あいつかなりバカなことばっかりやっているけど、本当に大丈夫なのか?」

と国中で噂になるほど、信長のバカな行動は目立っていたのです。

 

誰もが「信長はバカだ」と思っていた中、道三だけは「信長」の才能を見抜いた、高く評価していたのでした。

 

もしかすると信長は、自分の才能を認めてくれた唯一の人物である「斎藤道三」のことが、好きだったのかもしれません。


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道三が信長にのこした「3つの遺産」とは何か?

道三は、娘婿「織田信長」にたいして、「3つの遺産」を残しています。

 

託した・・・・と言ってもいいかもしれません。

「美濃の国」

道三は、息子「義龍」に殺害される前、「国譲(ゆず)り状」と呼ばれる遺書を、娘婿「信長」に託しているのです。

 

この「国譲り状」には、こう書かれていました。

「美濃一国を、娘婿の織田信長殿にゆずる」

道三は、生涯をかけて手に入れた「美濃」という豊かな国を、息子ではなく、娘婿の「織田信長」に託したのでした。

 

信長は、道三が亡くなった「11年後」に、美濃国を斎藤家から奪取。

 

豊かな「濃尾平野」と「尾張国の海運」から得た資金をもとにして、信長は「京都」を支配することに成功するのです。

 

ちなみに、国譲り状は「京都・妙覚寺」と「大阪城天守閣」に合計2通保管されています。

 

おそらくどちらかが「写し」で、もう一方が「原本」なのでしょう。


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道三の2人の息子「斎藤利堯」「利治」

信長は、斎藤道三が「義龍」に殺害されたのち、道三の子「斎藤利堯(としたか)」と「利治」という兄弟を家来にしています。

 

2人は、信長の妻「帰蝶」の兄弟でもあるので、織田家で重く用いられます。

 

「斎藤利堯」も「利治」も、信長の期待に応えて手柄をたてつづけています。

 

兄「斎藤利堯」は、「本能寺の変」で信長が亡くなった後、信長の三男「織田信孝」につかえました。

 

しかし、【1583年】、「賤ヶ岳の戦い」で「織田信孝」が亡くなると、その後は誰にも仕えることなく、静かに生涯を終えています。

 

おそらく織田家を乗っ取った「豊臣秀吉」に仕える気になれなかったのでしょう。

 

弟「利治」は、「本能寺の変」が起こった際に、信長の子「信忠」とともに戦死。

 

道三がのこした「国譲り状」は、この「利治」が信長に渡した可能性が高いとのことです。

 

この2人の兄弟は、信長に忠誠を誓い続け、信長も2人を信頼し、生涯に渡って重要視していました。


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名将「明智光秀」

道三がのこした最大の遺産といえば、「明智光秀」です。

 

名将「明智光秀」

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

織田信長が最も信頼した名将であり、「足利義昭」を信長に引き合わせるという、「織田信長・最大の飛躍」を後押しして支えた人物です。

 

光秀は、信長から最も信頼された部下であり、その関係の強さは、他の織田家家臣など、全く歯がたたないほどでした。

 

そんな「明智光秀」も、信長の信頼に応え、難攻不落の「丹波国」を攻略するなど、大活躍を見せます。

 

この「明智光秀」は、斎藤道三の妻「小見の方」の甥。

 

光秀は、若い頃、道三に仕えていた・・・という説もあります。

 

道三は、明智光秀という武将を育て上げ、光秀は、最終的に信長に仕えた・・・そんな可能性もあるのです。

 

まさか信長が最も尊敬した「斎藤道三」がのこした才能「明智光秀」によって、「織田信長」が滅ぼされるとは・・・・。

 

歴史の皮肉を感じずにはいられません。


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『斎藤道三と織田信長』について「ひとこと」いいたい

斎藤道三と織田信長。

 

信長は、かなり本気で「斎藤道三」のことを尊敬していたのではないかと思います。

 

信長は、「道三の仇討ち」に、かなり執念を燃やしているからです。

 

  1. 「道三の敵討ち」
  2. 道三がのこしてくれた「美濃国」の奪取

 

信長は、この2つの目標を達成することを最重要課題としていました。

 

1560年】、「今川義元」を「桶狭間の戦い」で破ったわけですが、弱体化した「今川家」の領地に、信長は見向きもしていません。

 

「徳川家康」と「清洲同盟」を締結して「今川家」の領地奪取を完全にまかせてしまい、自分は「美濃国」の攻略に集中するのです。

 

おそらく信長が本気になっていれば、「桶狭間の戦い」のあと、三河・遠江・駿河という豊かな3カ国は、信長のものとなっていたはず。

 

ところが信長は、それをせず、「道三がゆずってくれた美濃」を手に入れることに全力を注ぐのでした。

 

信長にとっては、「道三の遺言」は、それだけ大切なものだったのでしょう。

 

道三と信長、2人は互いを認めある戦友同士であるだけでなく、「友」と呼べる間柄であったように思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「斎藤道三」と「織田信長」は、「姑(しゅうと)」と「娘婿(むすめむこ)」という関係。それだけではなく、2人は「宿敵関係」にあった

 

2,信長は、生涯に渡って「今川義元」と「斎藤道三」の二人を尊敬していたと考えられる

 

3,斎藤道三は、死ぬ前に娘婿「信長」にたいして「美濃の国」「二人の息子・利堯と利治」「明智光秀」という高価な遺産をのこした

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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