皆さんは「斎藤道三と織田信長が、どういう関係なのか」を、ご存知でしょうか?
実は「道三と信長の隠された絆(きずな)」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「道三と信長が、本当は互いをどのように思っていたのか」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「道三と信長」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「斎藤道三と織田信長の絆」に詳しくなれます。
この記事を読んで、「道三と信長」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「斎藤道三」と「織田信長」は、「姑(しゅうと)」と「娘婿(むすめむこ)」という関係。それだけではなく、2人は、「宿敵関係」にあった
2,信長は、生涯にわたって「今川義元」と「斎藤道三」の二人を尊敬していたと考えられる
3,斎藤道三は、死ぬ前に娘婿「信長」にたいして「美濃の国」「二人の息子・利堯と利治」「明智光秀」という高価な遺産をのこした
「斎藤道三」と「織田信長」の関係とは?
「斎藤道三」と「織田信長」は、「姑(しゅうと)」と「娘婿(むすめむこ)」という関係です。
斎藤道三の娘「帰蝶(通称・濃姫)」が、織田信長に嫁いでいるのです。
それだけではありません。
実は「織田信長」の父「織田信秀」と「斎藤道三」は、何度も戦った宿敵同士。
しかも「信秀」は、「道三」に一度たりとも勝利したことがない、いわば信長にとって「道三」は、「親の仇」も同然の相手なのです。
ところが、「道三と信長」、この2人は歴史に残るほど「強い絆(きずな)」で結ばれた関係なのです。
信長が生涯にわたって尊敬した「2人の名将」
信長には、生涯をつうじて尊敬していたであろう武将が「2人」いました。
不思議なことに織田信長は、自らの父「信秀」や、味方の名将たちではなく、「宿敵」を尊敬していたのです。
「今川義元」
信長は、生涯にわたって宿敵「今川義元」を尊敬していたと考えられます。
今川義元といえば、【1560年】、「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討ち取られた東海道の支配者です。
当時は「日本最大の勢力」と呼ばれていた「東海道の今川家」を支配していたのが、名将「今川義元」なのです。
「義元」といえば、お歯黒をしている太っちょなお公家さんで、「4万人」もの大軍団を率いていたのに、「3千人」の兵士しか連れていない「織田信長」に負けた愚将・・・というイメージを持たれているかもしれませんね。
ところが、実際の義元は、「武田信玄」「北条氏康」などの名将にも負けない、名君の中の名君。名将の中の名将なのです。
信長は、そんな「今川義元」を尊敬していました。
その証拠に、信長は「今川義元」を討った際に、義元が持っていた刀を奪い、自らの愛刀として、生涯肌身はなさず持っていました。
その刀の名前は「義元左文字(別名・宗三左文字)」。
この刀は、信長が亡くなった後「徳川家康」の手に渡りましたが、現在は信長を祀る神社「建勲(たけいさお)神社」に納められています。
「斎藤道三」
もうひとり、信長が尊敬していたのは、「斎藤道三」でしょう。
斎藤道三は、【1556年】に、「長良川の戦い」で、息子「斎藤義龍」に攻め滅ぼされています。
このとき信長は、道三を救出するため、援軍を差し向けて、「斎藤義龍」のひきいた大軍団を相手に、必死に戦っています。
信長と道三は、この「長良川の戦い」の3年前、「正徳寺(聖徳寺)」という場所で、初めて顔をあわせています。
当時、信長はそのバカなことを繰り返していたため、「尾張のうつけ(馬鹿者)」と呼ばれていました。
「信長とかいう若殿様。あいつかなりバカなことばっかりやっているけど、本当に大丈夫なのか?」
と国中で噂になるほど、信長のバカな行動は目立っていたのです。
誰もが「信長はバカだ」と思っていた中、道三だけは「信長」の才能を見抜いた、高く評価していたのでした。
もしかすると信長は、自分の才能を認めてくれた唯一の人物である「斎藤道三」のことが、好きだったのかもしれません。
道三が信長にのこした「3つの遺産」とは何か?
道三は、娘婿「織田信長」にたいして、「3つの遺産」を残しています。
託した・・・・と言ってもいいかもしれません。
「美濃の国」
道三は、息子「義龍」に殺害される前、「国譲(ゆず)り状」と呼ばれる遺書を、娘婿「信長」に託しているのです。
この「国譲り状」には、こう書かれていました。
「美濃一国を、娘婿の織田信長殿にゆずる」
道三は、生涯をかけて手に入れた「美濃」という豊かな国を、息子ではなく、娘婿の「織田信長」に託したのでした。
信長は、道三が亡くなった「11年後」に、美濃国を斎藤家から奪取。
豊かな「濃尾平野」と「尾張国の海運」から得た資金をもとにして、信長は「京都」を支配することに成功するのです。
ちなみに、国譲り状は「京都・妙覚寺」と「大阪城天守閣」に合計2通保管されています。
おそらくどちらかが「写し」で、もう一方が「原本」なのでしょう。
道三の2人の息子「斎藤利堯」「利治」
信長は、斎藤道三が「義龍」に殺害されたのち、道三の子「斎藤利堯(としたか)」と「利治」という兄弟を家来にしています。
2人は、信長の妻「帰蝶」の兄弟でもあるので、織田家で重く用いられます。
「斎藤利堯」も「利治」も、信長の期待に応えて手柄をたてつづけています。
兄「斎藤利堯」は、「本能寺の変」で信長が亡くなった後、信長の三男「織田信孝」につかえました。
しかし、【1583年】、「賤ヶ岳の戦い」で「織田信孝」が亡くなると、その後は誰にも仕えることなく、静かに生涯を終えています。
おそらく織田家を乗っ取った「豊臣秀吉」に仕える気になれなかったのでしょう。
弟「利治」は、「本能寺の変」が起こった際に、信長の子「信忠」とともに戦死。
道三がのこした「国譲り状」は、この「利治」が信長に渡した可能性が高いとのことです。
この2人の兄弟は、信長に忠誠を誓い続け、信長も2人を信頼し、生涯に渡って重要視していました。
名将「明智光秀」
道三がのこした最大の遺産といえば、「明智光秀」です。
名将「明智光秀」
織田信長が最も信頼した名将であり、「足利義昭」を信長に引き合わせるという、「織田信長・最大の飛躍」を後押しして支えた人物です。
光秀は、信長から最も信頼された部下であり、その関係の強さは、他の織田家家臣など、全く歯がたたないほどでした。
そんな「明智光秀」も、信長の信頼に応え、難攻不落の「丹波国」を攻略するなど、大活躍を見せます。
この「明智光秀」は、斎藤道三の妻「小見の方」の甥。
光秀は、若い頃、道三に仕えていた・・・という説もあります。
道三は、明智光秀という武将を育て上げ、光秀は、最終的に信長に仕えた・・・そんな可能性もあるのです。
まさか信長が最も尊敬した「斎藤道三」がのこした才能「明智光秀」によって、「織田信長」が滅ぼされるとは・・・・。
歴史の皮肉を感じずにはいられません。
『斎藤道三と織田信長』について「ひとこと」いいたい
斎藤道三と織田信長。
信長は、かなり本気で「斎藤道三」のことを尊敬していたのではないかと思います。
信長は、「道三の仇討ち」に、かなり執念を燃やしているからです。
- 「道三の敵討ち」
- 道三がのこしてくれた「美濃国」の奪取
信長は、この2つの目標を達成することを最重要課題としていました。
【1560年】、「今川義元」を「桶狭間の戦い」で破ったわけですが、弱体化した「今川家」の領地に、信長は見向きもしていません。
「徳川家康」と「清洲同盟」を締結して「今川家」の領地奪取を完全にまかせてしまい、自分は「美濃国」の攻略に集中するのです。
おそらく信長が本気になっていれば、「桶狭間の戦い」のあと、三河・遠江・駿河という豊かな3カ国は、信長のものとなっていたはず。
ところが信長は、それをせず、「道三がゆずってくれた美濃」を手に入れることに全力を注ぐのでした。
信長にとっては、「道三の遺言」は、それだけ大切なものだったのでしょう。
道三と信長、2人は互いを認めある戦友同士であるだけでなく、「友」と呼べる間柄であったように思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「斎藤道三」と「織田信長」は、「姑(しゅうと)」と「娘婿(むすめむこ)」という関係。それだけではなく、2人は「宿敵関係」にあった
2,信長は、生涯に渡って「今川義元」と「斎藤道三」の二人を尊敬していたと考えられる
3,斎藤道三は、死ぬ前に娘婿「信長」にたいして「美濃の国」「二人の息子・利堯と利治」「明智光秀」という高価な遺産をのこした
以上となります。
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