皆さんは「足利義昭(あしかが よしあき)」を、ご存知でしょうか?
実は「足利義昭」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「足利義昭の子孫、織田信長や明智光秀との関係」などを、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「足利義昭」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「足利義昭」に詳しくなれます。
この記事を読んで、「足利義昭」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「足利義昭(あしかが よしあき)」とは、今から【450年前】の戦国時代に活躍した武将。今から【約700年前】に「室町幕府」を開いた武将「足利尊氏」の末裔に当たる人物。室町幕府最後の将軍
2,足利義昭と織田信長は、最初は「協力関係」にあった。しかし徐々に関係が悪化し、「義昭」と「信長」は、最終的に戦うこととなる。結果、「義昭」は敗北し、「室町幕府」は滅亡した。
3,足利義昭に直系の子孫は、現在まで続いている。幕末の会津藩士「坂本義劉」氏は、足利義昭の末裔であると考えられる。
【足利義昭】とは何者なのか?何をした人かを解説
「足利義昭」とは、今から【450年前】の戦国時代に活躍した武将です。
義昭は、今から【約700年前】に「室町幕府」を開いた武将「足利尊氏」の末裔に当たる人物なのです。
「足利義昭」は、「室町幕府」の第15代征夷大将軍であり、室町幕府最後の将軍です。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」
【1568年】、「足利義昭」は「織田信長」とともに「京都」を支配していました。
ところが、徐々に「織田信長」と対立し、最期は信長と戦って敗北。
「京都」から追放されて、「室町幕府」は滅亡する事となるのです。
足利義昭と【織田信長の関係】
足利義昭と織田信長は、当初は「協力関係」にありました。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
しかし徐々に関係が悪化し、「義昭」と「信長」は敵対します。
そして最終的に、両者は戦うこととなります。
【1565年】、義昭の兄である13代将軍「足利義輝」が「三好三人衆」に暗殺されました。
「細川藤孝」たちは、このとき「奈良」で出家していた「足利義昭」を救出し越前へ逃亡。
足利義昭は、全国各地の大名に「京都へ進軍し、三好三人衆を倒してほしい(上洛)」と依頼します。
ほとんどの大名が、この義昭の要請を無視したのですが、「織田信長」だけは義昭の求めに応えます。
「明智光秀」の仲介によって、「織田信長」の上洛は成功。
「征夷大将軍」となった「足利義昭」と「織田信長」は、協力して京都を支配します。
しかし、時間が経過するにつれて二人の関係は悪化していきます。
最後は戦うこととなり、「織田信長」が勝利しました。
足利義昭の【子孫と家系図】
足利義昭に直系の子孫は、現在まで続いていると考えられます。
少なくとも幕末までは、足利義昭の子孫が続いている形跡があります。
同時代に生きた「一色義喬(いっしき よしたか)」という人物は、「足利義昭」の息子である可能性があるのだとか。
ただし、「一色義喬」が「足利義昭」の子であるという、確かな証拠はありません。
足利義昭の末裔であり、会津藩士でもあった「坂本義劉」は、明治維新の後、一族発祥の地であり「足利尊氏」の故郷「足利市」へ移っています。
この「坂本義劉」氏の末裔が、現在も続いていると考えられます。
「足利家」の血を引く人間は、「足利義昭」の他にも、現代までたくさん続いています。
例えば、足利義昭の兄「足利義輝」の子孫は、現代まで続いていると考えられます。
「足利義昭の子孫」について、以下のリンク記事で更に詳しく解説しております。
「足利義輝の子孫」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
足利義昭と【明智光秀の関係】
足利義昭と「明智光秀」は、もともと主君と家来の関係にありました。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
通説によると、「斎藤義龍」から逃れるために、「明智光秀」は美濃国(岐阜県南部)から越前国(福井県)へと移り住みます。
そこで、「三好三人衆」から逃れてきた「足利義昭」と「細川藤孝」に出会います。
「足利義昭」や「細川藤孝」に協力するようになった「明智光秀」は、いとこである「帰蝶」を通じて「織田信長」と接触。
「光秀」は「信長」に、「足利義昭」を連れて京都へ進軍し、「三好三人衆」を倒して「足利義輝」の仇討ちをしてほしいと要請します。
これに応えた「織田信長」は、京都を支配。
明智光秀も「織田信長」と「足利義昭」の両方につかえるようになります。
ところが、「明智光秀」は「足利義昭」に愛想をつかしたのか、のちに決別。
明智光秀は、織田信長の家来として、足利義昭と敵対しています。
足利義昭と【豊臣秀吉の関係】
足利義昭と豊臣秀吉は、織田信長の死後に「主従関係」となっています。
「豊臣秀吉」が主君で、足利義昭が家来という関係です。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」
「豊臣秀吉」は、「足利義昭」を取り立て、晩年は良い話し相手になっていたといいます。
1万石の領地を与えられた足利義昭は、【1597年】に、秀吉の要請にしたがい、200人の軍を率いて「朝鮮出兵」のため肥前「名護屋城」へ出陣しています。
足利義昭が【京都から追放された経緯】と【鞆の浦幕府】
足利義昭は、織田信長のチカラによって征夷大将軍に就任し、京都を支配します。
ところが、足利義昭の政治は、決して万民のためになるものでは有りませんでした。
そのため義昭は、激怒した織田信長によって、京都から追放されています。
「9枚の欠けた貝がら」
義昭の屋敷のまえに、ある日「9枚の貝がら」が並べられていました。
しかも貝がらは、全て欠けていたのです。
これは「足利義昭には政治力が欠けている」ということを意味していたものです。
そのため織田信長は、何度も何度も足利義昭に注意します。
それでも一向に政治を改めようとしない足利義昭。
挙句の果てには、恩人のはずの織田信長を殺そうとするのです。
仕方なく織田信長は、足利義昭を京都から追放。
義昭は、中国地方の実力者「毛利輝元」を頼ります。
そして当時、瀬戸内海の貿易拠点である「鞆の浦(とものうら)」に住み着くのでした。
「鞆の浦」で、「足利義昭」は「鞆の浦幕府」と呼ばれる「臨時政府」を機能させていたと考えられています。
「室町幕府」は滅亡したものの、「鞆の浦幕府」を開いて、のちに「室町幕府」を再興させるつもりだったのです。
足利義昭の【家紋】
足利義昭が使っていた家紋は、「足利家」の家紋である「二つ引き両紋」です

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」
この「二つ引両紋」は、足利尊氏も使用した由緒正しい家紋です。
中央に流れる日本の横線は、「龍」を表していると言われています。
足利義昭の他にも、足利家の分家「吉良家」の庶流にあたる「今川義元」が、この「二つ引両紋」を使用していたといいます。
足利義昭の【最期】
足利義昭は、【慶長2年(1597年)8月】に、大坂で亡くなっています。
死因は腫物(はれもの)によると考えられています。
義昭は、亡くなる直前に、「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」に参戦するため、九州の肥前国「名護屋城(なごやじょう)」へおもむいています。
老齢でしかも腫物に苦しんでいた足利義昭にとって、大坂から九州への長旅は、かなり苦しかったはず。
長旅が死因なのかもしれません。
足利義昭が【本能寺の変】の黒幕だった説について
足利義昭が「本能寺の変」の黒幕であったという説があります。
しかし最新の研究では、「足利義昭」が「本能寺の変」の黒幕である可能性は、低いと考えられています。
「足利義昭」は、「本能寺の変」の前に「明智光秀」と連絡を取った形跡がないのです。
それどころか、「本能寺の変」の直後から、明智光秀を利用して「上洛」、つまり「京都への帰還」をあわてて模索しています。
義昭は、鉄砲傭兵団「雑賀衆」のリーダー「土橋重治」という武将を通じて、信長を討ち果たした「明智光秀」と連絡を取ろうとしているのです。
- 「本能寺の変」の前に光秀と連絡を取った形跡がない。
- そして「本能寺の変」の直後に、良い機会だとして光秀と接触しようとしている。
このことは「足利義昭」が「本能寺の変」とは関わりがなかったことを示しています。
足利義昭が各地に送った【御内書】とは何か?
足利義昭は「織田信長」に京都から追放された後、各地に「御内書(ごないしょ)」と呼ばれる文書を発しています。
「御内書」とは、「室町幕府の征夷大将軍」が、私的に又は公的に送る文書のことです。
現在、足利義昭の「御内書」は、「大阪城天守閣」や「神奈川県立歴史博物館」などに所蔵されています。
義昭は、「征夷大将軍」つまり「武士たちのトップ」として、全国の武士に命令する権限を持っていました。
その権限を最大限に利用して、「上杉謙信」「武田信玄」「北条氏政」らに、次々と御内書を送って味方につけようとしたのです。
なぜ味方につけようとしたのかというと、もちろん「織田信長」を倒すためです。
しかし各地の大名は、この「御内書」を無視しています。
義昭のチカラでは、各地の戦国大名をまとめあげることなど、できなかったのです。
足利義昭の【木像】の画像
京都府京都市にある「等持院(とうじいん)」というお寺は、「足利家」の菩提寺です。
この「等持院」には、初代「足利尊氏」から始まる、「足利家・歴代将軍」の木像がおさめられています。
その中には、「足利義昭」の木像もあります。
5代将軍「足利義量(よしかず)」と、14代将軍「足利義栄(よしひで)」の木像はありません。
この「等持院」には、なぜか「徳川家康」の木像があります。
もしも『足利義昭』が「本能寺の変」の黒幕で、「明智光秀」が死ななかったら、歴史はどう変わっていたか?
もしも「足利義昭」が、「本能寺の変」の黒幕であったとして、「明智光秀」が「山崎の戦い」で勝利し、死ななかったとしたら、歴史はどのように変わっていたでしょうか?
おそらく一時的にではありますが、「室町幕府」が再興されていたでしょう。
しかしその後も「室町幕府」が継続していたとは思えません。
「足利義昭の政治力の無さ」が原因となって、おそらく義昭は明智光秀から、用済みされていたと考えられます。
その後は、明智光秀が政治の中心となって、幕府を開くなどしていたのではないでしょうか。
明智光秀は「源氏」の末裔。
ですので「光秀」が、「征夷大将軍」「源氏長者」という高い位に就任しても、おかしくありません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「足利義昭」とは、「足利尊氏」の末裔に当たる人物。室町幕府最後の将軍
2,足利義昭と織田信長は、最初は「協力関係」にあった。しかし「義昭」と「信長」は、最終的に戦うこととなる。「義昭」は「信長」に敗北し、「室町幕府」は滅亡した。
3,幕末の会津藩士「坂本義劉」氏は、足利義昭の末裔であると考えられる。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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