この記事では「織田信長の性格」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長がどのような性格・人柄だったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「残虐・残酷」だけれども「とても真面目な性格」だったのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の性格や人柄とは?
織田信長は「残酷さ」と「真面目さ」「優しさ」を併せ持つ性格だった
2,信長の性格を表す逸話・エピソードとは?
「障害者を助けた」、「領民の昼寝を喜んだ」、「真面目に働かない老臣を追放した」、「私腹を肥やす宗教勢力に鉄槌を下した」など、信長の「優しさ」「真面目さ」と「怖さ」を表すエピソードは数多くある
3,信長は「真面目な性格」だったのか?
「信長」は、真面目な性格だった可能性が高い。ただただ「天下静謐(てんかせいひつ・平和)」のために、愚直に仕事を続けた人物だった
「織田信長」の「性格や人柄」を簡単解説!
「冷酷」で「残忍」、虐殺を平気で行い、「魔王」とあだ名された戦国武将「織田信長」。
実はその性格や人柄は、「心優しい」ものであり、とてつもなく「真面目」でもありました。
しかし、自らが真面目であるためか、他人にも同じような「真面目さ」や「働きぶり」を求めるあまり、時には厳しすぎるほどの行為に及んでしまうこともありました。
- 「比叡山焼き討ち」
- 「長島一向一揆での虐殺」
- 「甲斐国・恵林寺での放火・虐殺」
- 「古くからの老臣・佐久間信盛の追放」
その非道な行いは、数多く、自ら「魔王」と名乗った程でした。
しかし、信長の逸話・エピソードには、心優しいものも多く、実は「真面目」であったという側面がみえてくるのです。
信長の性格をあらわす逸話・エピソードをご紹介
信長の性格を表す逸話・エピソードは、数多くあります。
- 尾張国のとある池に、龍が潜んでいるという噂をきいた信長は、池に潜って龍を捜索するも発見できず、「根も葉もない噂を広めるな」と命じていった
- 出陣の際に、農民は頭を下げて見送るべきところを、畑の横で昼寝している農夫がいた。それをみた家臣団は激怒したが、信長はそののどかな様子を喜んだ
- ある村に障害者がいた。信長はその障害者に衣服と食事を与え、周辺の住民に世話するようにと頼み込んでいった。
- 戦場で、裸足で戦っていた武士に対して、自らの草履を与えて、その働きをねぎらった。
- 家来の「羽柴秀吉」が、子宝に恵まれないことから、妻「おね」に当たり散らしていたことを聞いた信長は、「おね」にたいして「あなたのような良妻は、あのハゲネズミ・秀吉にはもったいない」と、その労を慰める手紙を送っている
- 娘を政略結婚に利用して、政争の具とするのが当然だった当時、信長は自らの娘を、家来の子弟へと嫁がせて、いつでも会えるようにしていた
- 自らの教育係「平手政秀」が、うつけのふりをしていた信長に騙されて切腹してしまったとき、信長はこれを悲しみ、自分の師である「沢彦宗恩」に命じて「平手政秀」の菩提寺を作らせ、その供養をした
- 仏法をおろそかにして私腹を肥やす僧侶には厳しかったが、真面目に仏道修行に励む僧侶は、庇護の対象とした
- 「天王寺砦の戦い」において、敵勢力に包囲され、瀕死の状態に追い込まれた重臣「明智光秀」を、信長は自ら先陣をきって、負傷しながらも救出した
- 「うつけ」とあだ名されるバカな行為を繰り返していた若い頃、実は信長は日夜「文武」のエリート修行に明け暮れ、「弓術」、「馬術」、「水泳」は達人級だった。
- 真面目に天下の平和のことを考えていたためか、「室町幕府」が崩壊しかけている様子を悲しみ、信長は当時ただ一人だけ、「足利義昭」からの「室町幕府再興への協力要請」に応じた
- 「足利義昭」が征夷大将軍に就任して、室町幕府を再興させたとき、信長は幕府の住職「副将軍」への就任を頼まれたが、辞退した。ちなみに「副将軍」とは「全ての武士たちのNo.2」に位置する地位であり、異例の出世だった
- 「足利義昭」が、真面目に政治を行わなかったため、信長はそれを注意して、真面目に政治を行うようにと諭した
- 「越前国」を支配した家来「柴田勝家」に対して、「俺に足を向けて眠らないように!それくらい俺を崇めろ」と言った
- 「安土城・総見寺」において、信長は自らを神として拝むように指示したというが、実は「豊臣秀吉」も「徳川家康」も、死後に「豊国大明神」「東照大権現」と、自らを神として祀らせていた。当時、神格化は、それほど珍しくはない。ちなみに「武田信玄」も「武田神社」で崇められている。
- 「武田信玄」や「上杉謙信」を極端に恐れており、尋常ではないほどへりくだっていた。「武田信玄」には「贈り物」を送りまくって「武田勝頼」と婚姻関係を結び、「上杉謙信」にも「贈り物」や「手紙」を送りまくって、敵対しないように最新の注意を払っていた
- とてつもない働き者で、朝から晩まで仕事していた
- 「武田勝頼」を「なかなかの武将」と恐れており、勝頼の首をとった時、緊張が解けたのか、その首を足蹴にしたという
- 相撲が大好きで、頻繁に大会を開いていた
- 熱中すると鼻をほじる癖があった
- 「であるか」という口癖があった
- 能力主義者で、新参者でも能力があれば出世させたという説があるが、実際には、尾張国の小大名の頃から従っていた武将「柴田勝家」「丹羽長秀」「滝川一益」「羽柴秀吉」などを重用し、妻「帰蝶」のいとこで、側室「つまき殿」の兄でもある「明智光秀」を特に重用した。逆に「松永久秀」や「荒木村重」などの外様は冷遇し、裏切られている
これらのエピソードから読み取れることは、「織田信長」という人は、決して「恐怖の独裁者」ではなく、真面目に公平に領主としての仕事をしていた人物である、ということではないでしょうか。
また、「信長」には数多くの「欠点」があったことも、これらの逸話・エピソードから読み取れるでしょう。
「俺を尊敬しろ」と言い、「武田勝頼の首を蹴る」など。
これらの失態は、たしかに褒められたことではありません。
しかしそれは「織田信長」という人が、確かに人間であったことを示しているのではないでしょうか。
信長はマジメな性格だった!
信長は、とてつもなく真面目な性格でした。
ただただ領主として、自らの領民の幸せと平和を守るために、敵対勢力の排除と領民の保護を徹底して行なっているのです。
「室町幕府」を再興して、褒美としての「副将軍」の地位を断り、本拠地の「岐阜」へ帰還してしまう・・。
なんとも欲のない話です。
「堺・草津・大津を直轄地とした」と言いますが、「副将軍」になってしまったとしても、何も問題ないはずなのです。
「副将軍」になったほうが、むしろ「織田家」の家格をあげることができたはずです。
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の性格」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長は、その真面目すぎる性格が災いしてなのか、「真面目に仕事しない人」には、とても厳しかったのです。
「真面目」に仕事しない「足利義昭」に対しては、いくら上司でも、直接手紙で注意をしています。
さらに、「本願寺顕如との戦い」で、真面目に仕事をしていなかった老臣「佐久間信盛」を、あっけなく追放処分としています。
ちなみに「佐久間信盛」とは、最初から最後まで信長に忠誠を尽した老臣です。「柴田勝家」も「林通勝」も、「信長」と敵対して弟「織田信勝」を支持していました。
しかし信長は、真面目に働いていない「佐久間信盛」を容赦なく追放したのです。
信長は、もともと「天下統一」を目指していなかったと、最近ではいわれています。
信長はただ、自分たちの領地と領民を守るために、敵対勢力を排除しようとしていたに過ぎないのです。
足利義昭は、織田信長を倒そうと、全国の武将たちに対して、決起を呼びかけていました。
信長は、この「義昭による包囲網」から、領地・領民を守ろうとしていただけ。気がついたら、日本最大の勢力になっていたというだけの話しなのです。
信長は、ただただ真面目に「領民を守る」という仕事に全力で取り組んだ人でした。
そのため、「真面目に仕事をしない味方」には、ことさらに厳しかったのです。
「信長は残酷」でもあった
信長は「真面目」だったと申しましたが、「残酷」な一面もありました。
歴史家の「磯田道史」さんは、「織田信長」の残虐行為を痛烈に批判していました。
「後世の人々よ、信長の残虐行為を忘れるな」
そのように記された「瓦」が出土したと言いますが、それほど信長の虐殺行為、非道行為は凄まじいものがあったのです。
たしかに信長は、非道な行為も行なっていました。
真面目と申しましたが、「非道な行為」を擁護するつもりはありません。
ただし、当時は「なで斬り」やら「根切り」と呼ばれる虐殺行為は、信長に限ったことではありません。
「武田信玄」も「上杉謙信」も「伊達政宗」も、虐殺行為や人身売買を行なっていたのです。
当時の風習として、「敵を残酷に殺害することで、自分に逆らうものを怯えさせ、結果として被害を最小限におさえる」というやり方が一般的だったのです。
信長は確かに数多くの人を死に至らしめました。
しかし、その圧倒的な虐殺行為が、「戦国時代という内戦を、素早く終わらせた」という一面もあるのではないでしょうか。
「織田信長がやったこと、功績」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は「残酷さ」と「真面目さ」「優しさ」を併せ持つ性格だった
2,信長の性格を表す逸話・エピソードは数多くある。「障害者を助けた」、「領民の昼寝を喜んだ」、「真面目に働かない老臣を追放した」、「私腹を肥やす宗教勢力に鉄槌を下した」など
3,「信長」は、真面目な性格だった可能性が高い。ただただ「天下静謐(てんかせいひつ・平和)」のために、愚直に仕事を続けた人物だった
以上となります。
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ありがとうございました。
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コメント
コメント一覧 (2件)
面白く拝見しました。
私は違う理由で信長が真面目な性格だったと仮定しています。
比叡山焼き討ちは信長の意思でなく当時の足利氏からの強引な要求だったという説があるようです。
仏教では仏道修行をさえぎる働きの事を「第六天の魔王」といいます。これは修行者自身の心の働きも含みます。内的要因も外的要因も含みます。
当時の僧侶達はそういう意味で信長軍をそのように呼んだと考えるのが妥当だと思います。
現代人が言う魔王とはだいぶニュアンスが違いますし、その言葉が間違って一人歩きしていると思っています。
信長が藤吉郎の妻に宛てた書簡などは、妻の立場に寄り添った心優しい内容ですし、魔王という間違ったイメージを先行して彼の性格を後々の人が構築した結果だと思っていました。
もちろん戦さ自体残逆なものだと思いますし武将ですから…
実際のことが簡単に検証できないのが歴史の面白いところです。こうあって欲しいという事を史実とする事が多いですし、現代とは道徳感が全く違う時代ですから現代人の感覚で善悪も論じられませんし。
この度は、当サイトをご訪問いただき、誠にありがとうございます。
また、素晴らしいコメントをいただきありがとうございます。
第六天の魔王について、とても詳しく解説いただき、心よりお礼を申し上げます。筆者が全く知らない情報でした。本当にありがとうございます。
おっしゃる通り、魔王という言葉の意味が、現代の我々と当時の考えではギャップがあると思います。
また、魔王という割には、秀吉の妻への文章は、とても優しさに溢れたものだという説もごもっともだと感じました。
もう一度申しますが、いただいたコメントに対し、心から感謝しております。それが私たちの励みとなり、さらに精進していく原動力となります。
今後もサイトを通じて素晴らしいコンテンツをお楽しみいただけるよう、努力し続けます。どうぞこれからもお付き合いいただけますと幸いです。
改めて、心からの感謝をお伝え申し上げます。ありがとうございました。