織田信長の性格や人柄をエピソードや逸話で検証!超マジメな人だった

この記事では「織田信長の性格」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長がどのような性格・人柄だったのか」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「残虐・残酷」だけれども「とても真面目な性格」だったのです。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」の性格や人柄とは?
織田信長は「残酷さ」と「真面目さ」「優しさ」を併せ持つ性格だった

 

2,信長の性格を表す逸話・エピソードとは?
「障害者を助けた」、「領民の昼寝を喜んだ」、「真面目に働かない老臣を追放した」、「私腹を肥やす宗教勢力に鉄槌を下した」など、信長の「優しさ」「真面目さ」と「怖さ」を表すエピソードは数多くある

 

3,信長は「真面目な性格」だったのか?
「信長」は、真面目な性格だった可能性が高い。ただただ「天下静謐(てんかせいひつ・平和)」のために、愚直に仕事を続けた人物だった

「織田信長」の「性格や人柄」を簡単解説!

「冷酷」で「残忍」、虐殺を平気で行い、「魔王」とあだ名された戦国武将「織田信長」。

 

実はその性格や人柄は、「心優しい」ものであり、とてつもなく「真面目」でもありました。

 

しかし、自らが真面目であるためか、他人にも同じような「真面目さ」や「働きぶり」を求めるあまり、時には厳しすぎるほどの行為に及んでしまうこともありました。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

  • 「比叡山焼き討ち」
  • 「長島一向一揆での虐殺」
  • 「甲斐国・恵林寺での放火・虐殺」
  • 「古くからの老臣・佐久間信盛の追放」

その非道な行いは、数多く、自ら「魔王」と名乗った程でした。

 

しかし、信長の逸話・エピソードには、心優しいものも多く、実は「真面目」であったという側面がみえてくるのです。


スポンサーリンク


信長の性格をあらわす逸話・エピソードをご紹介

信長の性格を表す逸話・エピソードは、数多くあります。

 

  1. 尾張国のとある池に、龍が潜んでいるという噂をきいた信長は、池に潜って龍を捜索するも発見できず、「根も葉もない噂を広めるな」と命じていった
  2. 出陣の際に、農民は頭を下げて見送るべきところを、畑の横で昼寝している農夫がいた。それをみた家臣団は激怒したが、信長はそののどかな様子を喜んだ
  3. ある村に障害者がいた。信長はその障害者に衣服と食事を与え、周辺の住民に世話するようにと頼み込んでいった。
  4. 戦場で、裸足で戦っていた武士に対して、自らの草履を与えて、その働きをねぎらった。
  5. 家来の「羽柴秀吉」が、子宝に恵まれないことから、妻「おね」に当たり散らしていたことを聞いた信長は、「おね」にたいして「あなたのような良妻は、あのハゲネズミ・秀吉にはもったいない」と、その労を慰める手紙を送っている
  6. 娘を政略結婚に利用して、政争の具とするのが当然だった当時、信長は自らの娘を、家来の子弟へと嫁がせて、いつでも会えるようにしていた
  7. 自らの教育係「平手政秀」が、うつけのふりをしていた信長に騙されて切腹してしまったとき、信長はこれを悲しみ、自分の師である「沢彦宗恩」に命じて「平手政秀」の菩提寺を作らせ、その供養をした
  8. 仏法をおろそかにして私腹を肥やす僧侶には厳しかったが、真面目に仏道修行に励む僧侶は、庇護の対象とした
  9. 「天王寺砦の戦い」において、敵勢力に包囲され、瀕死の状態に追い込まれた重臣「明智光秀」を、信長は自ら先陣をきって、負傷しながらも救出した
  10. 「うつけ」とあだ名されるバカな行為を繰り返していた若い頃、実は信長は日夜「文武」のエリート修行に明け暮れ、「弓術」、「馬術」、「水泳」は達人級だった。
  11. 真面目に天下の平和のことを考えていたためか、「室町幕府」が崩壊しかけている様子を悲しみ、信長は当時ただ一人だけ、「足利義昭」からの「室町幕府再興への協力要請」に応じた
  12. 「足利義昭」が征夷大将軍に就任して、室町幕府を再興させたとき、信長は幕府の住職「副将軍」への就任を頼まれたが、辞退した。ちなみに「副将軍」とは「全ての武士たちのNo.2」に位置する地位であり、異例の出世だった
  13. 「足利義昭」が、真面目に政治を行わなかったため、信長はそれを注意して、真面目に政治を行うようにと諭した
  14. 「越前国」を支配した家来「柴田勝家」に対して、「俺に足を向けて眠らないように!それくらい俺を崇めろ」と言った
  15. 「安土城・総見寺」において、信長は自らを神として拝むように指示したというが、実は「豊臣秀吉」も「徳川家康」も、死後に「豊国大明神」「東照大権現」と、自らを神として祀らせていた。当時、神格化は、それほど珍しくはない。ちなみに「武田信玄」も「武田神社」で崇められている。
  16. 「武田信玄」や「上杉謙信」を極端に恐れており、尋常ではないほどへりくだっていた。「武田信玄」には「贈り物」を送りまくって「武田勝頼」と婚姻関係を結び、「上杉謙信」にも「贈り物」や「手紙」を送りまくって、敵対しないように最新の注意を払っていた
  17. とてつもない働き者で、朝から晩まで仕事していた
  18. 「武田勝頼」を「なかなかの武将」と恐れており、勝頼の首をとった時、緊張が解けたのか、その首を足蹴にしたという
  19. 相撲が大好きで、頻繁に大会を開いていた
  20. 熱中すると鼻をほじる癖があった
  21. 「であるか」という口癖があった
  22. 能力主義者で、新参者でも能力があれば出世させたという説があるが、実際には、尾張国の小大名の頃から従っていた武将「柴田勝家」「丹羽長秀」「滝川一益」「羽柴秀吉」などを重用し、妻「帰蝶」のいとこで、側室「つまき殿」の兄でもある「明智光秀」を特に重用した。逆に「松永久秀」や「荒木村重」などの外様は冷遇し、裏切られている

スポンサーリンク


これらのエピソードから読み取れることは、「織田信長」という人は、決して「恐怖の独裁者」ではなく、真面目に公平に領主としての仕事をしていた人物である、ということではないでしょうか。

 

また、「信長」には数多くの「欠点」があったことも、これらの逸話・エピソードから読み取れるでしょう。

 

「俺を尊敬しろ」と言い、「武田勝頼の首を蹴る」など。

 

これらの失態は、たしかに褒められたことではありません。

 

しかしそれは「織田信長」という人が、確かに人間であったことを示しているのではないでしょうか。


スポンサーリンク


信長はマジメな性格だった!

信長は、とてつもなく真面目な性格でした。

 

ただただ領主として、自らの領民の幸せと平和を守るために、敵対勢力の排除と領民の保護を徹底して行なっているのです。

 

「室町幕府」を再興して、褒美としての「副将軍」の地位を断り、本拠地の「岐阜」へ帰還してしまう・・。

なんとも欲のない話です。

 

「堺・草津・大津を直轄地とした」と言いますが、「副将軍」になってしまったとしても、何も問題ないはずなのです。

 

「副将軍」になったほうが、むしろ「織田家」の家格をあげることができたはずです。

 

「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の性格」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説』の記事はコチラ

スポンサーリンク


信長は、その真面目すぎる性格が災いしてなのか、「真面目に仕事しない人」には、とても厳しかったのです。

 

「真面目」に仕事しない「足利義昭」に対しては、いくら上司でも、直接手紙で注意をしています。

 

さらに、「本願寺顕如との戦い」で、真面目に仕事をしていなかった老臣「佐久間信盛」を、あっけなく追放処分としています。

 

ちなみに「佐久間信盛」とは、最初から最後まで信長に忠誠を尽した老臣です。「柴田勝家」も「林通勝」も、「信長」と敵対して弟「織田信勝」を支持していました。

 

しかし信長は、真面目に働いていない「佐久間信盛」を容赦なく追放したのです。

 

信長は、もともと「天下統一」を目指していなかったと、最近ではいわれています。

 

信長はただ、自分たちの領地と領民を守るために、敵対勢力を排除しようとしていたに過ぎないのです。

 

足利義昭は、織田信長を倒そうと、全国の武将たちに対して、決起を呼びかけていました。

 

信長は、この「義昭による包囲網」から、領地・領民を守ろうとしていただけ。気がついたら、日本最大の勢力になっていたというだけの話しなのです。

 

信長は、ただただ真面目に「領民を守る」という仕事に全力で取り組んだ人でした。

 

そのため、「真面目に仕事をしない味方」には、ことさらに厳しかったのです。


スポンサーリンク


「信長は残酷」でもあった

信長は「真面目」だったと申しましたが、「残酷」な一面もありました。

 

歴史家の「磯田道史」さんは、「織田信長」の残虐行為を痛烈に批判していました。

「後世の人々よ、信長の残虐行為を忘れるな」

そのように記された「瓦」が出土したと言いますが、それほど信長の虐殺行為、非道行為は凄まじいものがあったのです。

 

たしかに信長は、非道な行為も行なっていました。

 

真面目と申しましたが、「非道な行為」を擁護するつもりはありません。


スポンサーリンク


ただし、当時は「なで斬り」やら「根切り」と呼ばれる虐殺行為は、信長に限ったことではありません。

 

「武田信玄」も「上杉謙信」も「伊達政宗」も、虐殺行為や人身売買を行なっていたのです。

 

当時の風習として、「敵を残酷に殺害することで、自分に逆らうものを怯えさせ、結果として被害を最小限におさえる」というやり方が一般的だったのです。

 

信長は確かに数多くの人を死に至らしめました。

 

しかし、その圧倒的な虐殺行為が、「戦国時代という内戦を、素早く終わらせた」という一面もあるのではないでしょうか。

 

「織田信長がやったこと、功績」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長がやったことや功績をカンタン解説!信長は何をした人なの?』の記事はコチラ

スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」は「残酷さ」と「真面目さ」「優しさ」を併せ持つ性格だった

 

2,信長の性格を表す逸話・エピソードは数多くある。「障害者を助けた」、「領民の昼寝を喜んだ」、「真面目に働かない老臣を追放した」、「私腹を肥やす宗教勢力に鉄槌を下した」など

 

3,「信長」は、真面目な性格だった可能性が高い。ただただ「天下静謐(てんかせいひつ・平和)」のために、愚直に仕事を続けた人物だった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


スポンサーリンク


『織田信長』関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


「織田信長の遺体の行方を調査!実は謎でも行方不明でもなかった」の記事はコチラ

「【織田信長】最後の言葉と辞世の歌は?亡くなる時の詳細な様子を紹介」の記事はコチラ

「織田信長の嫁の名前一覧表!正妻は「帰蝶」ではなく生駒吉乃?」の記事はコチラ

「【織田信長】家紋の意味や花の由来!読み方を画像付きで簡単解説!」の記事はコチラ

「織田信長の名言集と意味解説!ホトトギスや人生50年に潜む秘密とは」の記事はコチラ

「織田信長の居城と場所を紹介!安土・岐阜の名前の由来や城下町の政策」の記事はコチラ

「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説」の記事はコチラ

「織田信長と池田恒興(つねおき)の関係と最期を解説!子・輝政の逸話」の記事はコチラ

「織田信長の生い立ちから最期まで!3分でわかりやすく簡単に解説!」の記事はコチラ

「[織田信長]本能寺の変で死んでない?真実と黒幕を分かりやすく簡単に解説」の記事はコチラ

「織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?」の記事はコチラ

「織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます」の記事はコチラ

「織田信長はどんな人物だったの?意外にも優しいエピソードが多かった」の記事はコチラ

「明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ

「織田信長家臣・弥助(やすけ)の生涯!彼が持つ信長デスマスクは本物?」の記事はコチラ


【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ

明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』の記事はコチラ

斎藤道三の全てを徹底解説!年表やエピソードから子孫まで完全網羅』の記事はコチラ


スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

2020年12月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  
ページ上部へ戻る