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「徳川家康」の名前を知っていても、どういう功績を残した人なのかを説明できる人は、意外に少ないかもしれませんね。
私も子供の頃は、「私のご先祖さまが仕えて徳川幕府をつくった偉い人」としか思っていませんでした。
徳川家康は、室町幕府末期から続いた長い戦乱の世を終わらせ、「天下静謐(てんかせいひつ・天下を平和にする)」を実現した人なのです。
この記事では、徳川家康についてあまり詳しくない方のために、わかりやすく解説していきます。
これを読んで「徳川家康ってそういう人だったのか!」と、スッキリしてくださいね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 「徳川家康」は「室町時代」「戦国時代」「江戸時代」に活躍した武将。【1543年】、現在の愛知県岡崎市「岡崎城」で誕生。【1616年】、現在の静岡県静岡市「駿府城」で亡くなった。
- 家康最大の功績は、「江戸幕府」を開いて、世界史上でもめずらしい【264年】という永い平和な時代をつくりあげたこと
- 家康は、「武術の達人」であり「勉強好き」。倹約家で「健康オタク」。自らの過ちを認める大きな器を持ち、腹の底を見せない「したたかさ」を持つ人物だった
『徳川家康』とは、いつの時代を生きた人?その生まれと育ち方を簡単解説
「徳川家康」は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
「誕生」~「元服」
【1543年】、三河の武将「松平広忠」の子して現在の「愛知県岡崎市」にある「岡崎城」で誕生
【1616年】、現在の「静岡県静岡市」にあった「駿府城」で亡くなりました。
家康の幼い頃の名前は「竹千代」と言います。
竹千代が3歳の頃、母方の伯父「水野信元」が今川氏を裏切り、尾張の織田氏と同盟を締結。
そのため今川氏の庇護を受けていた父「広忠」は、竹千代の母「於大(おだい)」と離縁し、竹千代は母と生別れとなったのです。
その後、竹千代は「6歳」で今川氏への人質として「駿府城」へ送られることになりました。
しかし駿府への移動の途中、現在の愛知県にあった「田原城」に立ち寄った竹千代は、父「松平広忠」の後妻の父親である「戸田康光」に裏切られます。それにより竹千代は、今川家の「駿府城」ではなく、尾張の「織田」氏のところへと送られました。
近年の研究では、尾張の織田氏に人質として送られたのは、広忠が織田氏への恭順を示すためと言われています。つまり、竹千代は初めから「今川」氏ではなく、「織田」氏へ人質として送られたのではないか・・・という指摘もされています。その証拠と言うべきか、竹千代が織田家へおくられた【1547年】にはすでに「岡崎城」が織田氏に攻略されています。
文献史料としては残されていませんが、「竹千代」は織田家の人質時代に「吉法師(織田信長の幼名)」と出会ったと言われています。
作家「山岡荘八」の小説『徳川家康』を、「横山光輝」が漫画化した作品『徳川家康』では、この伝承に基づき、人質時代の「竹千代」を「吉法師」がまるで弟のように可愛がっているシーンが描かれていますよ。
「お前は俺の弟ぞ」
と、信長が幼い家康を笑顔で抱きかかえるシーンが描かれています。
「竹千代」が織田家で人質生活を開始した2年後の【1549年】、父「松平広忠」は家臣の裏切りにより殺害されました。
この事件によって、織田氏で人質として生活していた「竹千代」は、今川氏に人質として捕らえられていた織田信長の兄「織田信広」との人質交換で、今川氏の元へと送られることになります。
【1555年】、今川氏の元で元服(成人)をむかえた竹千代は、「今川義元」の「元」の1字もらい、「松平元信」と名乗るようになりました。
なお「元信」という名は、後に祖父である名将「松平清康」から1字もらい、「元康」と改めています。
また「今川義元」の親戚(義元の叔母か妹の娘と言われています)の「築山殿」を正妻として迎えましたが、築山殿は後に悲劇的な最期を遂げることになります。(築山事件)
「桶狭間の戦い」~「三河統一」
【1560年】、「桶狭間の戦い」で今川方の先鋒を任されていた「元康」でしたが、前線基地の「大高城(名古屋市緑区)」 で休息中、「今川義元」は「織田信長」の奇襲で戦死。
急報を聞き、急いで「大高城」を出た元康は、松平家の菩提寺「大樹寺」で自害しようとしましたが、住職「登誉上人」に諭されて思いとどまります。その後、今川氏に支配されていた故郷「岡崎城」に入場。今川氏からの独立を図ったのです。
【翌1561年】、「室町幕府」に馬を献上し、岡崎城の城主として認めてもらうよう画策。
この元康の行動を「裏切り行為である」ととらえた今川家は、松平元康を激しく非難。しかし元康は三河国(愛知県東部)に存在する今川家の諸城を次々と攻め落とし、松平の勢力を広げていったのです。
【1562年】、伯父「水野信元」の仲介で、「松平元信」は「織田信長」と同盟関係(清洲同盟)を結び、今川氏と完全に絶縁。
【翌1563年】、今川義元からもらった「元」の字を返上して、祖父「松平清康」の一字をもらって「松平家康」と改名。
【1566年】頃までに、三河の今川勢力を排除することに成功。家康は祖父「清康」が成し遂げた「三河国統一」に成功するのです。
「朝廷」から「従五位下・三河守」に任命された家康は、「松平」から「徳川」へと改姓。
こうしておなじみの「徳川家康」という名前が歴史上に登場することとなるのです。
それまでに
「松平竹千代」→「松平元信」→「松平元康」→「松平家康」→「徳川家康」
と4度も改名をしています。
なんだか、ややこしいですね。
家康の功績とは?江戸幕府を開き、260年の平和の基礎をつくった
家康の功績「264年の平和」!信長の志を受け継いだ?
徳川家康の最大の功績はというと
『江戸幕府を開き、その後264年間の永きに渡り、戦乱のない平和な世の中を築き上げたこと』
です。
世界の歴史の中でも、264年間大きな戦乱のなかった世の中は、他に例がありません。
家康は、どうやって「江戸時代」という平和な時代を築き上げたのでしょう?
それには「織田信長の志」が関係しているのかもしれません。
「遠江侵攻」~「三方ヶ原の戦い」
清洲同盟により、織田信長と同盟関係を結んだ家康は、猛将「武田信玄」とも一時的な同盟を結び、遠江国(静岡県浜松市周辺)を徳川家の領地としました。
しかし家康と武田信玄との同盟は、武田家家臣「秋山虎繁」が遠江に攻めんだことで解消。
その後、居城を「三河・岡崎城」から対武田との前線基地に近い「遠江・浜松城」へと移した家康は、信長の軍略を助けることとなります。
【1570年】、北近江の大名「浅井長政」や「朝倉義景」の軍を相手にした「姉川の戦い」で、「徳川家康」軍は目覚ましい活躍をみせました。
その後、織田信長を疎ましく思うようになった室町幕府将軍「足利義昭」が、「浅井長政」や「朝倉義景」「本願寺顕如」と組み、信長打倒を画策し始めます。
義昭は家康にも、「信長包囲網」へ加わるように要請しますが、家康はこれを黙殺。信長との「清洲同盟」を維持。
【1572年】、武田氏が「遠江」「三河」に侵攻を開始。
家康は信長に援軍を要請しますが、信長も「浅井長政」「朝倉義景」との戦いを抱え、さらに武田氏に美濃(岐阜県)を攻められてしまい、家康に援軍を送ることができない状況にありました。
そのため家康は、単独で武田軍と交戦。しかし武田の軍勢に苦戦を強いられ、徳川家の重要拠点である「二俣城(静岡県浜松市天竜区)」を失います。
このとき偵察に出た家康は、二俣城近くの「一言坂」という場所で武田軍と遭遇。危うく命を落としかけてしまいました。
その後信長からの援軍が到着。織田・徳川連合軍は武田軍と戦いますが、援軍をひきいていた信長の重臣「佐久間信盛」の「籠城すべき」という助言を家康は聞き入れず、無理な戦闘を武田軍にしかけます。
これにより多くの犠牲者を出し、家康は命からがら「浜松城」へと逃げ帰ったのです。
このときの戦いを「三方原の戦い」と言います。

三方ヶ原の戦いで敗北し逃げ帰った徳川家康肖像:徳川美術館所蔵、wikipediaより、パブリックドメイン
逃げ帰った「浜松城」で、武田軍に包囲された家康。
徐々に冷静さを取り戻し、古代中国の兵法書「兵法三十六計」の1つである「空城の計(くうじょうのけい)」を用て、武田軍を追い払います。(「空城の計」とは、敵の目の前で城の城門を閉めるのではなく無防備に開け放ち、「城内に攻め込めば罠が待ち構えている」と敵に思わせることで、敵の攻撃を躊躇・思いとどまらせる作戦)
ところがその直後、武田信玄が病死。武田軍は三河・遠江から撤退を開始。
武田軍の動きで、信玄が亡くなったことを悟った家康は、武田氏に与した「三河の小領主」たちを再度取り込み、三河と遠江から武田家の勢力の排除に成功。
「長篠の戦い」~「本能寺の変」
【1575年】、武田信玄のあとを継いだ「武田勝頼」の軍と、「織田信長・徳川家康の連合軍」が、三河国「長篠」で激突します。
この戦いを「長篠の戦い」と言い、家康は信長に協力し、武田軍の主力部隊「騎馬隊」を撃破。
【1578年】、「越後の龍」と恐れられ、「織田信長」にとっても最大の強敵であった「上杉謙信」が急死。これにより信長に対抗できる武将が日本からいなくなっていきました。
同年、武田家に内通していたという疑いで、家康は正妻の「築山殿」を浜松市の佐鳴湖畔で殺害。嫡男の「松平信康」を二俣城で切腹させています。(築山事件)
【1582年2月】、信長は家康とともに「武田勝頼」を攻撃。ついに宿敵「武田家」を滅亡に追い込みます。(天目山の戦い)
こうして信長が目指した「天下静謐」に近い状態が訪れたのですが、武田家滅亡からわずか4ヶ月後、「本能寺の変」が勃発。織田信長は重臣「明智光秀」の裏切りにあい、京都「本能寺」で自害に追い込まれました。
このとき「堺(現在の大阪府・堺市)」に滞在していた家康は、狼狽して信長の後を追って自刃しようとしています。
しかし家臣の「本多忠勝」や「服部半蔵」に説得されておもいとどまり、信長の仇討ちを目指します。
家康は、伊賀国から伊勢国(ともに三重県)へ抜ける厳しい山越えを断行。伊勢・桑名の町から船に乗り、本拠地の「三河」へと帰還。
これを「神君伊賀越え」と言います。(家康は後年、この伊賀越えを「人生最大の苦難」だったと言っています)
ちなみに、美容外科医として有名な「高須クリニック」の「高須克弥」氏は、先祖代々医者の家に生まれていますが、先祖がこの時の神君伊賀越えを助けた縁で佩刀(刀を持つこと)を許された由緒正しい家系の出身ですよ。
「小牧・長久手の戦い」~「征夷大将軍・就任」
信長の死後、織田家家臣の中から羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭。遂には五摂家の1つ「近衛家」の養子となることで、天皇の臣下としては最高の位である「関白」にまで上りつめます。
【1584年】、「小牧・長久手の戦い」で、一度は秀吉軍を撃破した家康でしたが、圧倒的な戦力差によって屈服を余儀なくされます。
秀吉に降伏した家康は、その後「秀吉」に対して、非常に律儀に従うこととなるのです。
家康の実力を恐れた秀吉は、家康の三河、遠江の所領を召し上げ、代わりに「小田原征伐」で滅ぼした後北条氏の旧領地である「関東地方一帯」と、「江戸一帯」の土地を与えました。
書面上の石高は増加しましたが、当時の江戸(現在の東京都)は不毛地帯であり、家康の経済力を削る考えが秀吉にあったと考えられます。
家康は秀吉に心の底では反発しながらも、豊臣家の家臣として仕えました。表面的には恭順を示しながら、虎視眈々と機会をうかがっていたのです。
【1598年】、「豊臣秀吉」死去。
【1600年】、「関ヶ原の戦い」勃発。
「豊臣秀吉」の死のわずか2年後、「関ヶ原の戦い」が起こり、東軍の「徳川家康」は西軍の「石田三成」を敗北させ、家康が実質的な「天下人」となります。
【1601年】、「関ヶ原の戦い」の戦後処理を終えた家康は、「征夷大将軍」となって幕府を開く準備を、秀吉が亡くなった「伏見城(京都市)」で開始。
【1603年】、家康は京都「伏見城」に朝廷からの勅使をむかえ、武門の棟梁を意味する位「征夷大将軍」「源氏長者」を拝命。
「息子・秀忠へ将軍職継承」~「最期」
【1605年】、征夷大将軍の職を辞した家康は、朝廷に息子「徳川秀忠」を次の征夷大将軍に任命する「勅命」を出してもらいます。これにより「徳川家が将軍職を世襲して、日本を支配していく」ということを全国に宣言します。
家康は「関ヶ原の戦い」以後、秀吉の子「豊臣秀頼」とその母「淀君」を親子どもとして処罰することはせず、小さな「一大名家」としてあつかい、存続させるつもりでいたようです。
しかし当時は、東北の「伊達政宗」が天下取りをあきらめず、西国の大名には豊臣家を慕うものも数多くいるという不安定な状態でした。将軍職をゆずった息子「徳川秀忠」より、朝廷内での地位では「豊臣秀頼」のほうが高いことについても、家康は危機感を抱くようになります。
家康は豊臣家を滅ぼすことを決意。
【1614年】、「大坂冬の陣」で、「大坂城」攻撃を開始。
それに対して出城「真田丸」を築いて応戦した名将「真田信繁(幸村)」。
真田信繁に苦戦した家康でしたが、「大坂城の堀を埋める」ことを条件に一旦は豊臣家と和睦(停戦)。
そのあと豊臣側は、「埋め立てられた堀を掘り返す作業」を開始。
徳川幕府はこれをやめさせようとしましたが、豊臣側が応じなかったため「和睦の約束違反」とみなして、ふたたび畿内へ大軍団で出撃。
【1615年】、「大坂夏の陣」で家康は「真田信繁」に本陣へと突入され、自害を覚悟する状態にまで追い込まれます。
ところが、豊臣方の武将「大野治長」が、秀頼の「馬印」を持ったまま大坂城に引き上げるのを見た他の豊臣方の武将たちが、「豊臣秀頼が敗走した」と勘違い。豊臣軍に一斉に動揺が走ります。
このスキを突いて大勢を盛り返した家康軍は、一気に勝利。豊臣家は滅亡へと追い込まれます。
豊臣家を滅亡に追い込んだ家康は、調停に対して「禁中並公家諸法度」という法律を定め、「朝廷と幕府の関係」を明確に定めました。(朝廷は幕府が決めた法律をもって管理・支配する・・・ということ)
さらに「武家諸法度」と「一国一城令」を発令。
徳川幕府による、「264年にも及ぶ平和の時代」が、こうして始まったのです。
【1616年】、幼少期を過ごした思い出深い地「駿府城」に隠居した家康は、趣味だった「鷹狩」に出て倒れます。
【同年3月】、朝廷から最高位「太政大臣」に任じられたのですが、その1ヶ月後の1616年4月、家康は【75歳】で亡くなりました。
病状の記録から、死因は「胃がん」ではないかと考えられています。
家康の性格とは?「タヌキおやじ」「温厚」・・どれが本当?
徳川家康は、よく「タヌキおやじ」と呼ばれていますよね。
「ずる賢い」という意味ですが、実際の性格はどんなだったのでしょう?
残された史料から見ると、家康は「奥山神影流」という剣術を極めた「武術の達人」であり、勉学も好き。新しいモノも好きな好奇心旺盛な人であったようです。
「ケチ」と呼ばれるほどの倹約家でもありましたが、「織田信長」をもてなす時などは豪勢にやっています。倹約に努め、必要な時にはドカンと使う、というお金の使い方をする人でした。
政治家・武将として、隣国の宿敵『武田信玄』には何年も苦しめられ続けましたが、武将としての『信玄』を尊敬。政治や軍事などは武田家の施策を見習って行っています。
敵であっても、優れた点は素直に認める懐の広さがあったのでしょう。
また趣味も多く、今風に言うと「健康オタク」な人でもありました。
記録によれば、『本草綱目』という膨大な薬学の本を読破し、専門家も舌を巻くほど薬学知識があり、自分で薬の調合も行うほど。
新しいモノ好きな性格から、欧州の薬学にも興味を示し、「関ヶ原の戦い」で負傷した家臣に、「石鹸」で傷口を洗わせ、感染症の予防をさせています。
こうしてみると、ケチと言われるほど倹約家であるとともに、「政治家・軍略家として非常に優れた美点を持つ武将」だったと言えるでしょう。
では、なぜ「タヌキおやじ」と呼ばれるようになったのでしょう?
それには、幼くして母とは生別れ、父とは死別し、幼少時代に人質として何年も過ごしたことが、大きく影響していると考えられます。
誰かに腹の底をあっさり見抜かれていては生き残っていけない。そんな過酷な状況に、家康は置かれ続けたのです。
「織田信長」と同盟を結び、信長の天下統一を手伝っていた頃の家康は、もしかすると「精神的に穏やかな時代」だったのかもしれません。
その後、信長が本能寺の変で他界。しぶしぶ「豊臣秀吉」に従わざるを得ないこととなった頃には、本音を気取られない「タヌキおやじ」ぶりに、さらに磨きをかけたように見受けられます。
そうでなければ「家康に謀反の疑いあり」と、「石田三成」あたりに殺されていたかもしれませんからね。
生き延びるために複雑な幼少時代を過ごした家康は、「タヌキおやじ」と呼ばれるような老獪さを身に着けなければならなかったのではないでしょうか。
『徳川家康』について「ひとこと」言いたい!
史料では残っていませんが、子供の頃に織田家に人質として預けられた頃、家康は信長に弟のように可愛がられていたと考えられます。
イエズス会の宣教師である「ルイス・フロイス」は、「家康は信長の姉妹を娶っている」と書き残しています終始、家康を信長の義弟として書き記しているのです。
文献史料上、そのような女性の存在は証明されていません。
しかし「ルイス・フロイス」の目には、信長と家康が実の兄弟のように親しげに見えたのかもしれません。(あくまでも憶測だが、浅井長政の死後、未亡人となった信長の妹「お市の方」を家康と結婚させる計画があったのかもしれない。作家「安部龍太郎」氏の小説「家康」では、家康とお市の方が婚姻を約束していた間柄として描かれている)
家康と信長がまるで兄弟のように親しい間柄だったのだとしたら、「家康の行動の理由」が理解できるような気がするのです。
- 家康のこれらの行動は、信長にとって利益となる行動ばかりに思えます。今川氏を見限って独立を図り、織田信長と同盟関係を結んだこと。
- 将軍「足利義昭」からの「織田信長を討伐する軍に加勢せよ」という要請を黙殺したこと。
- 信長から「処分は家康に任せる」と言われたものの、武田家に内通した疑いで妻「築山殿」と嫡男「信康」を処分していること。
この行動は、家康が兄と慕った信長の夢「天下静謐を実現する」を達成に協力する、という考えに基づいたものだったのではないでしょうか。
「豊臣秀吉」の死後、「関ヶ原の戦い」が勃発。東軍の家康は、西軍の「石田三成」を撃破。実質的な「天下人」となります。
織田信長は後世「魔王」と恐れられ、「残虐非道な武将」というイメージがついていますが、近年の研究では、「室町幕府を再興」し「天下静謐」、つまり「平和な世の中」を実現しようと考えていたと指摘されています。
家康は、兄と慕った信長の「室町幕府を再興し、天下静謐、平和な世の中を実現する」という理想と遺志を継ぎ、自らが天下人となることで、264年間もの「戦乱のない平和な世」を作り上げた、と私には思えるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「徳川家康」とは、室町時代から江戸時代までを生きた武将。1543~1616年。享年75歳
- 家康が残した最大の功績は、「264年」もの平和な時代をつくりあげたこと。
- 家康は「腹の底を人に見せない秘密主義者」であった。武術・勉学を好む健康オタクな倹約家。
この記事を短くまとめると、以下のとおり
徳川家康は、【1543年】に愛知県の岡崎城で生まれ、厳しい戦国時代を生き抜いた武将です。
母親とは3歳で生別れ、6歳から人質として織田家や今川家に送られ、人質時代に父「松平広忠」を殺害されるなど、過酷な幼少期を過ごします。
「タヌキおやじ」と称される家康の性格は、この頃から培われ始めたのでしょう。
元服し「松平元信」と名乗るようになったのち、【1560年】「桶狭間の戦い」で「織田信長」が「今川義元」を滅ぼした後、先に今川家と袂をわかっていた伯父「水野信元」の仲介により、「織田信長」と「清洲同盟」を締結。
その後は、「織田信長の天下統一の戦い」に協力。
【1582年】、「天目山の戦い」で最大の強敵「武田勝頼」を滅ぼし、信長の理想が実現しかけますが、「本能寺の変」で信長は重臣「明智光秀」に裏切られて自害に追い込まれます。
信長の死後、織田家臣の中で頭角を現した「豊臣秀吉」が天下人となり、家康は渋々秀吉の家臣として過ごします。
【1598年】、秀吉が死去。
【1600年】、「関ヶ原の戦い」が勃発。この戦いで家康は「東軍」を率い、「西軍」を率いた敵将「石田三成」を撃破。実質的な天下人となったのです。
【1603年】、「征夷大将軍」に就任し、江戸幕府を開きます。
その後、豊臣家を滅ぼさなければならないと考えるようになった家康は、【1614年】に「大坂冬の陣」、【1615年】に「大坂夏の陣」を戦い、敵将「真田信繁(幸村)」に苦戦しましたが、豊臣家を滅ぼすことに成功。
こうして、264年間も戦乱が起きなかった平和な時代が始まり、「幕末」の【1868年】「西郷隆盛」と「勝海舟」による「江戸城無血開城」で徳川幕府が滅びるまで続くのでした。
家康が幕府を開き、天下を統一した最大の動機は、何だったのか?
それは「ルイス・フロイス」に「家康は信長の義弟」と書き残されたほどの、信長との親しい間柄によるものではないでしょうか。
兄と慕った信長の「室町幕府を再興し、平和な世の中をつくる」という「理想と遺志」を受け継ぎ、「平和な世の中」を実現させるためだったのだと思います。
平和な世の始まりを見届けた家康は、【1616年】、静岡の「駿府城」で他界。死因はおそらく「胃がん」。
享年75歳。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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