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室町幕府を開いた人と滅ぼした人は誰?わかりやすく簡単に解説

【1336年】に開かれた「室町幕府」。「開いた人」と「滅ぼした人」が誰なのかを、わかりやすく解説します。

「室町幕府」を開いたのは「足利尊氏(あしかがたかうじ)」。

そして滅ぼしたのは「織田信長(織田信長)」。

なぜ「室町幕府」は開かれたのか?

そしてなぜ滅びたのか。とても簡単にわかりやすく解説いたします。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 室町幕府を開いたのは「足利尊氏」。鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」の失敗により、「室町幕府」が成立した。
  2. 室町幕府を滅ぼしたのは「織田信長」。「武田信玄」が病死した直後、最期の将軍「足利義昭」が京都から追放されて滅亡した。
  3. 室町幕府が滅亡した理由は、「室町幕府はもともと弱く、しかも権威の失われた組織」であったため。

室町幕府を開いた人は誰?開いたのは「足利尊氏」

室町幕府を開いた人は、「足利尊氏(あしかがたかうじ)」です。

《足利尊氏》
「引用元ウィキペディアより」

なぜ足利尊氏は、「室町幕府」を開いたのか?

足利尊氏が生まれたとき、日本を支配していたのは「鎌倉幕府」でした。

鎌倉幕府は「源頼朝」が開いた、いわば「政府」です。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

しかしその「鎌倉幕府」も、モンゴル帝国の侵略「元寇」などで弱体化。

その「鎌倉幕府」は「後醍醐天皇」「足利尊氏」「楠木正成」らの活躍によって倒され、新しく「建武の新政」という「後醍醐天皇による政治」が始まったのです。



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ところがこの「建武の新政」が大失敗。

後醍醐天皇の「失政」によって、武士たちは一気に苦しい生活をさせられることとなります。

《後醍醐天皇》
「引用元ウィキペディアより」

そしてついに、武士たちの後醍醐天皇への不満が爆発。

1336年、後醍醐天皇へ戦いを挑んだ武士たちは、「足利尊氏」をリーダーにして、京都に「室町幕府」という「武士の政府」を誕生させたのです。

言うなれば「武士たちの、武士たちによる、武士たちのための政府」、それが「室町幕府」なのです。

「建武式目」・・・・足利尊氏が定めた「法律」のことです。

この「建武式目」が成立した「1336年」が、「室町幕府」が誕生した年であると考えられています。

「1338年」、足利尊氏が「征夷大将軍」に任命。

名実ともに「武士の棟梁」として君臨することとなったのです。

「室町幕府」は、「後醍醐天皇」がおこなった「建武の新政」に反発した武士たちが、自分たちにとって都合の良い政治をおこなうために創った「政府」なのです。



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滅ぼした人は誰?滅ぼしたのは「織田信長」

室町幕府を滅ぼしたのは、「織田信長」です。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

1573年、室町幕府15代将軍「足利義昭(あしかがよしあき)」が、織田信長のよって京都から追放。

これにより「237年」続いた室町幕府は、事実上滅亡したのです。

もともと「足利義昭」は、織田信長の力によって「征夷大将軍」に登りつめた人でした。

しかし、足利義昭には何の力もなく、実質的にその権力を支えていたのは「織田信長」の財力と軍事力。

何一つとして実権をもっていなかった足利義昭は、「織田信長」の操り人形となっていたのです。

これに怒った足利義昭は、「武田信玄」や「朝倉義景」「浅井長政」ら戦国大名をしたがえて、織田信長に対抗。

しかし「1573年」、頼りにしていた「武田信玄」が病死。

足利義昭も織田信長に敗北し、京都を追放されたのでした。

義昭が追放された1ヶ月後、「朝倉義景」「浅井長政」が織田信長の攻撃で戦死しています。

その後も足利義昭は「征夷大将軍」という役職についていたため、「室町幕府」の滅亡は「義昭が将軍職をやめた1588年」という説もあります。

しかし、「政府」としての機能を失った「1573年」が、滅亡の年と考えるのが打倒なのではないでしょうか。



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「室町幕府」は、なぜ滅びたの?もともと強くなかったから

室町幕府は、どうして滅びたのでしょうか?

理由は簡単で、「室町幕府は鎌倉幕府・江戸幕府に比べて、とても弱い組織だった」から。

室町幕府は、江戸幕府のような「強力な収入源」を持っていなかったため、それほど強くなかったのです。

さらに、その「権威」がとても弱かったことが「滅亡」の理由としてあげられます。

6代将軍「足利義教」は、白昼堂々と暗殺されて亡くなっています。

これ以降、「室町幕府」の権威は失われ、誰も「室町幕府の命令」に従わなくなったのです。

また、8代将軍「足利義政」の時代に、「応仁の乱」が勃発。

《足利義政》
「引用元ウィキペディアより」

「応仁の乱」でますます将軍の権威は失われ、室町幕府という政府は「機能不全」におちいっていくのです。

「応仁の乱」以降、日本は「戦国時代」に突入。

各地の「戦国大名」は、独自の軍を保有して、土地の奪い合いを繰り返します。

戦乱を勝ち残った織田信長のような「戦国大名」は、室町幕府を超える強い力を手に入れることとなります。

権威を失った室町幕府は、軍事力でも戦国大名に劣るようになっていました。

そのため、幕府は「力こそ正義」という理念をもつ戦国大名たちによって、崩壊させられてしまったのです。



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『室町幕府』について「ひとこと」言いたい!

なぜ「室町幕府」は「京都」にあったのでしょうか?

幕府とはもともと「臨時政府」のこと。

臨時政府なら、本来の政府である「朝廷」がある「京都」から離れた場所にあるべきではないでしょうか。

実際「鎌倉幕府」も「江戸幕府」も、京都から遠い「関東」に設置されていました。

なぜ「室町幕府」だけ「京都」なのかというと、当時の時代背景が理由です。

「後醍醐天皇」

「鎌倉幕府」を滅ぼし、南北朝時代という戦乱の時代をはじめた天皇です。

足利尊氏との戦いに敗北した「後醍醐天皇」は、天皇の位を「光明天皇」に譲って引退。

しかし、敗北を認めない後醍醐天皇は「奈良県吉野」へと逃れて、ここに「あたらしい朝廷(南朝)」をつくるのです。

北に位置した「京都の朝廷(北朝)」に対して、「吉野の朝廷」は「南朝」と呼ばれることとなります。

これが「南北朝時代」の始まり。



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「南北朝時代」とは、日本史のなかで、初めて「天皇が2人」存在していた時代です。(余談だが、元号も2つ、それぞれの朝廷が定めていた)。

後醍醐天皇は、京都の「北朝」を倒し、なんとしても故郷の「京都」を奪還しようとしたのです。

もしも「足利尊氏」が、関東に幕府を開いていたら、北朝の「光明天皇」は「後醍醐天皇」に倒されてしまっていたでしょう。

自らの主君である「光明天皇」を守るため、足利尊氏は京都を離れるわけにはいかなかったのです。

「京都を離れるわけにはいかないから、京都に幕府をつくった」

それが、日本史上3つ存在する幕府の中で、「室町幕府」のみが「京都」に設置された理由です。

もしも「足利尊氏」が関東に幕府をつくり、「光明天皇」が「後醍醐天皇」に倒されていたら、「足利尊氏」は「賊軍」として「後醍醐天皇」に敗北していたでしょう。

幕末の「鳥羽伏見の戦い」で、圧倒的に有利だった「旧幕府軍」が、「錦の御旗」をかかげた薩長軍に「賊軍」あつかいされてボロ負けしたように。

「賊軍」となることは、それほど恐ろしいことなのです。

 

というわけで、「室町幕府」は「南北朝の動乱」という「戦乱の中で作られた幕府」なのです。

安定させる暇もなかったわけで、弱いのは当然といえば当然。

世の中が安定するのは室町幕府が作られた約50年後、「足利義満」の時代まで待たなくてはいけません。

「南北朝の動乱」「観応の擾乱」など、室町幕府は戦乱を繰り返し、それほど強い力をもっていたわけではない組織だったのです。



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ちなみに「室町幕府」がおかれた、3代将軍「足利義満」の屋敷「花の御所(室町殿)」の跡地が、今も京都に残っています。

「平安京」の北東の端に「天皇」がおわす「京都御所」があったわけですが、その目の前に「花の御所」があったのです。

天皇をも超える力をもった「足利義満」・・・。

花の御所は、とても壮麗な建物だったと伝わっています。

「花の御所」
「引用元ウィキペディアより」

足利義満は、「天皇」の位を奪おうとした人物としても有名です。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「室町幕府」を開いたのは「足利尊氏」。鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の「建武の新政」を倒して「室町幕府」を開いた
  2. 「室町幕府」を滅ぼしたのは「織田信長」。最期の将軍「足利義昭」を京都から追放し、滅亡した
  3. もともと「室町幕府」は、弱い組織であり、権威も弱かった。そのため、あっけなく滅びてしまった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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